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2.Yellow star jasmine
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―――おかあさんっ
という声を聞いたような気がして顔を上げた。
ゴキブリでも出たのかな?と思いながら、ベランダの窓から隣家を伺った。
お隣のスミちゃんは、ゴキブリが苦手だ。
ベランダに上がり込んだコオロギを見て、大きな悲鳴を上げていた。いくらコオロギだよと言っても信用せずに、やだやだと首を振っていたのを、なんか可愛いな…と思ったことは内緒だ。
クラスの中でも背の高いスミちゃんは、みんなのお姉さん的存在で、3年生になって初めてクラス委員長を選出するときも、真っ先に推薦されていた。
そんなスミちゃんは、お父さんが死んだ時も、やっぱりスミちゃんで。
号泣する母と、魂の抜けたようなトーコさんの隣で、きっ、と前を睨み付けるようにしながらも、挨拶に来る人たちにしっかりお辞儀したりしていて、周りの大人達に感心されていた。
そんなスミちゃんが、今日はおかしかった。
ずっと俯いてるみたいに下ばっかり見ていて、話しかけても余り返事をしてくれなくて、クラスのみんなもびっくりしていた。引っ張るように家に連れて帰ると、母が微妙な顔で出迎えた…スミちゃんを。
昨日、スミちゃんが母と一緒に作ったカレー。
正直、ちょっと水っぽいな…とは思ったけど、口には出さなかった。あれがどうも原因だったらしい。
トーコさんと一緒に食べたよ、と母に言われたスミちゃんが、弾けるように飛び出していくのを見送って、母が床に突っ伏した。
「あ~っっ、もうっ、バカバカバカッ!!!」
と言って自分で自分の頭をポカポカ叩く。
「なーんでカレー勧めちゃったの、わたし~っ、バカーッッ」
いくらうちで月2のヘビロテ手抜きメニューだからって…と言うのを聞いて、生暖かい気分になった。そうだったんだ、僕の好物だからじゃなかったんだ…と。まあ、いいけど。
声がしたのはその母を置いて、リビングに入った時だった。
『~~~っっ…』
やっぱり、声がしている…気がする。
相当大きいゴキブリなんだろうか?スミちゃんちにも、あの強烈ジェットスプレーあるかな?と思いながら、サンダルを履いてベランダに出る。隙間を抜けると、ハッキリと声が聞こえた。
「おかあさんっ、おかあさんっ、やだーっっっ」
驚いて足を止めた。
ベランダから見える部屋には誰もいない。
スミちゃんの叫び声はその奥から―――そう思った瞬間、自分の脇をものすごい勢いで母が駆け抜けた。
「トーコさんっっっ!!!」
悲鳴のような声に、慌てて部屋に入る。
そこでは、青白い顔でベットで寝ているトーコさんを、スミちゃんがゆさゆさと揺さぶりながら大声で叫んでる。それを母が抱き締めながら、スマートフォンで電話をかけていた。
「救急車っ、救急車呼んで下さいっっ、早くっ、睡眠薬飲んでてっっ!!!」
スミちゃんは今まで見たこともない顔をしてた。
「いや―――っっ!! おかあさんっっっ!!!」
悲鳴みたいだった。
聞いている自分の胸が痛くなって、シャツの胸元を掴む。
更に揺さぶろうとするスミちゃんを抱きしめながら、母も泣いていた。
なのに、トーコさんだけが。
ただ、ただ、静かに眠っていた―――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「スミッッ!!」
網戸を蹴破る勢いで部屋に上がり、横たわるスミの肩を揺さぶった。
あの日の事を思い出して、胃がぎゅっ――と縮む。
恐怖で部屋に視線を走らせるが、とりあえずリビングのローテーブルの上には何も置かれてはいなかった。
「スミッ!おいっっ、スミッッ!!」
「ん…」
何度目かの呼び掛けに、スミが眉を顰めながら目を開ける。
「…ナオ?…どしたの?」
―――のん気な声だった。
明らかに寝てたというのがわかる声に、これ以上ないほど盛大に脱力する。
はーっっと大きなため息をつきながら、驚かすな、バカ…と内心で悪態をついた。
「え、何?」
手の平で顔を覆うのを見て、スミが体を起こす。意外と近くなった距離にぎょっとした。薄暗がりの中で、スミの鎖骨がむき出しなのがハッキリとわかる。息を呑んだのを気付かれたくなくて、顔を背けて離れた。
「こんなとこで寝っ転がって、何してんだよ。」
喉の引きつりを誤魔化すように乱暴に言った。
ぶっちゃけ、今ので間違いなく10年は寿命が縮んだと思う。
「何って…寝てた?」
「何で疑問系…」
「ん、うん…」
こっちの気も知らないで、スミが何か呟きながら、また寝転がった。
薄暗くて表情はわからないのに、スミが目を閉じたのがわかる。
「…痛くねぇの?」
「ないよ。」
床の上だぞ…。
「…何か、着たら?」
タンクトップにショートパンツなんて、そんな無防備なカッコで寝るか?自分がいるのに。
何だか面白くない…そう思って言ったのに。
ふふっと低い笑い声が薄闇の中に響いた。
「気持ちいいよ、ナオも、寝転んでみたら?」
一瞬息が止まった。何を言ってるんだ?
もうほとんど見えないスミを見下ろした自分の耳に、すう…という寝息が届く。
何とも言えない気持ちが突き上げて、やるせない思いをため息で吐き出した。
スミは、何も考えてない。うん、間違いない。
自棄のように隣に寝転がった。
フローリングの床はひんやりとして、確かに気持ちいい。
ボンヤリと白い天井をしばらく見つめてから目を閉じる。
ザーッという車の通り過ぎる音が遠くから聞こえる。
それ以外に何も音が無い薄闇の中で、微かなスミの息遣いだけが響く。
何だかここだけ、別世界に切り離されたような、そんな曖昧な感覚を覚えて。
今まで感じた事がない程不安定な、空虚にも似た感情が押し寄せてくる事に、微かな恐怖を覚えた時だった。
「…手、繋いでいい?」
微かな、声だった。
こんな場所でなければ、聞こえなかったかもしれない程に。
はっと目を見開いて身動きすると腕にスミの手が当たって、考える間もなく、ぎゅっと握りこんでいた。
握り返してくる手が、微かに震えている。
一回手を離してから、スミの指の間に指を入れて握り直すと、手の平全体にスミの手の平が当たって、反射的に強く握りしめた。
スミの手は小さかった。
昔、何も考えずに繋いでいた時にはそう思わなかったのに。
自分の指は、スミの手の甲をすっぽりと覆うことが出来るけど、スミの指は関節の上までしか届いてない。
厚みもほとんどないから、これ以上きつく握ったら、折れてしまいそうだった。
その事に、今更ながら気が付いて。
ふう…と息をついた。
また、気付いてやれてなかった。
スミの声は、か細くて、―――泣きそうな声だった。
という声を聞いたような気がして顔を上げた。
ゴキブリでも出たのかな?と思いながら、ベランダの窓から隣家を伺った。
お隣のスミちゃんは、ゴキブリが苦手だ。
ベランダに上がり込んだコオロギを見て、大きな悲鳴を上げていた。いくらコオロギだよと言っても信用せずに、やだやだと首を振っていたのを、なんか可愛いな…と思ったことは内緒だ。
クラスの中でも背の高いスミちゃんは、みんなのお姉さん的存在で、3年生になって初めてクラス委員長を選出するときも、真っ先に推薦されていた。
そんなスミちゃんは、お父さんが死んだ時も、やっぱりスミちゃんで。
号泣する母と、魂の抜けたようなトーコさんの隣で、きっ、と前を睨み付けるようにしながらも、挨拶に来る人たちにしっかりお辞儀したりしていて、周りの大人達に感心されていた。
そんなスミちゃんが、今日はおかしかった。
ずっと俯いてるみたいに下ばっかり見ていて、話しかけても余り返事をしてくれなくて、クラスのみんなもびっくりしていた。引っ張るように家に連れて帰ると、母が微妙な顔で出迎えた…スミちゃんを。
昨日、スミちゃんが母と一緒に作ったカレー。
正直、ちょっと水っぽいな…とは思ったけど、口には出さなかった。あれがどうも原因だったらしい。
トーコさんと一緒に食べたよ、と母に言われたスミちゃんが、弾けるように飛び出していくのを見送って、母が床に突っ伏した。
「あ~っっ、もうっ、バカバカバカッ!!!」
と言って自分で自分の頭をポカポカ叩く。
「なーんでカレー勧めちゃったの、わたし~っ、バカーッッ」
いくらうちで月2のヘビロテ手抜きメニューだからって…と言うのを聞いて、生暖かい気分になった。そうだったんだ、僕の好物だからじゃなかったんだ…と。まあ、いいけど。
声がしたのはその母を置いて、リビングに入った時だった。
『~~~っっ…』
やっぱり、声がしている…気がする。
相当大きいゴキブリなんだろうか?スミちゃんちにも、あの強烈ジェットスプレーあるかな?と思いながら、サンダルを履いてベランダに出る。隙間を抜けると、ハッキリと声が聞こえた。
「おかあさんっ、おかあさんっ、やだーっっっ」
驚いて足を止めた。
ベランダから見える部屋には誰もいない。
スミちゃんの叫び声はその奥から―――そう思った瞬間、自分の脇をものすごい勢いで母が駆け抜けた。
「トーコさんっっっ!!!」
悲鳴のような声に、慌てて部屋に入る。
そこでは、青白い顔でベットで寝ているトーコさんを、スミちゃんがゆさゆさと揺さぶりながら大声で叫んでる。それを母が抱き締めながら、スマートフォンで電話をかけていた。
「救急車っ、救急車呼んで下さいっっ、早くっ、睡眠薬飲んでてっっ!!!」
スミちゃんは今まで見たこともない顔をしてた。
「いや―――っっ!! おかあさんっっっ!!!」
悲鳴みたいだった。
聞いている自分の胸が痛くなって、シャツの胸元を掴む。
更に揺さぶろうとするスミちゃんを抱きしめながら、母も泣いていた。
なのに、トーコさんだけが。
ただ、ただ、静かに眠っていた―――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「スミッッ!!」
網戸を蹴破る勢いで部屋に上がり、横たわるスミの肩を揺さぶった。
あの日の事を思い出して、胃がぎゅっ――と縮む。
恐怖で部屋に視線を走らせるが、とりあえずリビングのローテーブルの上には何も置かれてはいなかった。
「スミッ!おいっっ、スミッッ!!」
「ん…」
何度目かの呼び掛けに、スミが眉を顰めながら目を開ける。
「…ナオ?…どしたの?」
―――のん気な声だった。
明らかに寝てたというのがわかる声に、これ以上ないほど盛大に脱力する。
はーっっと大きなため息をつきながら、驚かすな、バカ…と内心で悪態をついた。
「え、何?」
手の平で顔を覆うのを見て、スミが体を起こす。意外と近くなった距離にぎょっとした。薄暗がりの中で、スミの鎖骨がむき出しなのがハッキリとわかる。息を呑んだのを気付かれたくなくて、顔を背けて離れた。
「こんなとこで寝っ転がって、何してんだよ。」
喉の引きつりを誤魔化すように乱暴に言った。
ぶっちゃけ、今ので間違いなく10年は寿命が縮んだと思う。
「何って…寝てた?」
「何で疑問系…」
「ん、うん…」
こっちの気も知らないで、スミが何か呟きながら、また寝転がった。
薄暗くて表情はわからないのに、スミが目を閉じたのがわかる。
「…痛くねぇの?」
「ないよ。」
床の上だぞ…。
「…何か、着たら?」
タンクトップにショートパンツなんて、そんな無防備なカッコで寝るか?自分がいるのに。
何だか面白くない…そう思って言ったのに。
ふふっと低い笑い声が薄闇の中に響いた。
「気持ちいいよ、ナオも、寝転んでみたら?」
一瞬息が止まった。何を言ってるんだ?
もうほとんど見えないスミを見下ろした自分の耳に、すう…という寝息が届く。
何とも言えない気持ちが突き上げて、やるせない思いをため息で吐き出した。
スミは、何も考えてない。うん、間違いない。
自棄のように隣に寝転がった。
フローリングの床はひんやりとして、確かに気持ちいい。
ボンヤリと白い天井をしばらく見つめてから目を閉じる。
ザーッという車の通り過ぎる音が遠くから聞こえる。
それ以外に何も音が無い薄闇の中で、微かなスミの息遣いだけが響く。
何だかここだけ、別世界に切り離されたような、そんな曖昧な感覚を覚えて。
今まで感じた事がない程不安定な、空虚にも似た感情が押し寄せてくる事に、微かな恐怖を覚えた時だった。
「…手、繋いでいい?」
微かな、声だった。
こんな場所でなければ、聞こえなかったかもしれない程に。
はっと目を見開いて身動きすると腕にスミの手が当たって、考える間もなく、ぎゅっと握りこんでいた。
握り返してくる手が、微かに震えている。
一回手を離してから、スミの指の間に指を入れて握り直すと、手の平全体にスミの手の平が当たって、反射的に強く握りしめた。
スミの手は小さかった。
昔、何も考えずに繋いでいた時にはそう思わなかったのに。
自分の指は、スミの手の甲をすっぽりと覆うことが出来るけど、スミの指は関節の上までしか届いてない。
厚みもほとんどないから、これ以上きつく握ったら、折れてしまいそうだった。
その事に、今更ながら気が付いて。
ふう…と息をついた。
また、気付いてやれてなかった。
スミの声は、か細くて、―――泣きそうな声だった。
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