72 / 84
2.Yellow star jasmine
乃東枯2
しおりを挟む
「じゃあ、止めましょうか?」
そう言って、目の前の女はニッコリと微笑んだ。
何がきっかけと言えば、ムカデだった。
夜中に何やら耳元でゴソゴソ動くものがあるな…と思いながら払った手に激痛が走った。
まさかの、ムカデ。
寝込みを襲われるとは思いもしなかった。
「ああ、ここからでしょうね…。」
昔からの友人が寄越してきたのは、パンツスーツを着てショートボブの、まぁ、いかにもな女だった。
「うちには勿体ない位の女性なんだけどね~。」
そう言った顔は“デレる”という表現がぴったりで、要は、あれか、気があるんだなと直ぐに分かった。
まぁ、お互い、仕事にかまけて逃げられた口だから、幸せなのが何よりだと思うけど、お前にはもっとこう、前の奥さんみたいに可愛らしいカンジのがいいんじゃねぇの?と、心の中で呟くほど、意外だった。
年齢は四十前後だろう。
白い肌が映えるさらりとした黒髪に、切れ長の奥二重で、不自然さが全く無い睫毛はやたらと長く、頰に影を落としている。
黒いパンツスーツに包まれたスラリとした体は、ほっそりと無駄な肉が無く、家庭的な要素がまるで無い―――要するにキャリアウーマンで独身だと、指輪の痕すら無い手を見ながら勝手に思ったのだが。
「多分、この下も割れてますね。ここから入ってきてるんでしょう。」
そう言って、目地が割れてあちこちタイルの浮いた浴室の床を指し示す。
気にしてなかったが、その間も、チョロチョロと小さい虫が割れた隙間から出入りしていた。
「こういう古い造りの浴室は、どうしてもこうなりますよね。」
大きなバッグから出したカメラで丁寧に写真を撮り、メジャーを使って寸法を測っている。
「土台は捲ってみないと何とも言えないんですけど、ひとまず見積もり出してきますので、こちらのカタログを見てご検討頂けますか?」
ユニットバスのカタログを何冊か差し出した女が、それぞれを説明しようと口を開いた所で、手を上げて制した。
「あー、その辺はお任せで頼むわ。金額も、アイツの事信用してるから大丈夫。正直俺は、ムカデさえ何とかなりゃいいんでね。」
…と、ここまで言った所で、冒頭に戻る訳だ。
「ムカデだけなら、家の周りに殺虫剤まきゃいいんですよ。ああ、建物の周りにあまり鉢植えを置くのも良くないですね。後はご自分でお調べになったらいいんじゃないですか。今はネットで何でも分かる時代ですから。」
暴言、と言っていいんじゃないだろうかと思う。少なくとも、客に対して言う台詞じゃねえよな?
「あんたな…」
「十万二十万で済む話じゃないんですよ。」
真っ直ぐに見つめ返されて言葉を呑んだ。
「お金を使ってする以上は、ちゃんと考えて下さい。このお風呂使うの、私じゃないんですから。」
思いの外真摯な眼差しだった。どちらかというと、クールな印象だっただけに。
「…お父さん?」
コトリ…と音がして、リビングの入り口から“母”が顔を覗かせた。
「あら、お客様?」
「あー、うん。茶ー頼んでいいか?」
はいはい、と言いながら扉の向こうへ引っ込んだ母から視線を戻すと、女がまじまじとこっちを見つめている。思わず首の後ろに手をやった。
「母親だよ、俺の。」
去年夫である親父を亡くした母は、普通にしていれば、どこもおかしな所は無い。俺の事を“お父さん”と呼ぶ以外は。
家事も普通にこなすし、認知では無いらしいんだが…という説明を、彼女は顎に手をやって考えているような顔で聞いていた。
「お身体の方も?」
「今のとこはな、昔ギックリ腰をやった位か。」
「…失礼ですけど、この先、施設などにご入居の予定は…」
突然の質問に面食らう。施設って…あれか、老人ホームって事か?!
「ねぇよ。」
剣呑な声を出したのはしょうが無いと思う。何なんだよ、コイツは?!
「では、最後までこちらで面倒をみられるということですね?」
「だったらなんだ?!」
すると、不意に、彼女が微笑んだ。
さっきまでとはまるで違う、柔らかな笑みを浮かべて続ける。
「わかりました。では、浴室もその様に提案させて頂きますね。」
そう言って、カタログを捲った。
「ユニットバスというのは機密性もいいし、施工も早くて良いんですけど、後から手を加えるというのが出来ないんですよ。」
見せられたのは、浴室内の壁に手摺をつけた―――所謂高齢者向けの仕様になったものだ。どうやら手摺1つも、後から付けることが出来ないらしい。
「ご高齢の方は、浴室内で事故に遭われる事が本当に多いんです。ヒートショックなどの心配もありますから、浴室暖房をつけるのも、今は一般的なんですよ。」
それからまた、失礼ですけど、と言って、このまま同居を続けるのかと聞いてくる。
足腰が弱ってくると風呂掃除も大変だからと、自動洗浄機能が付いたものまであると言われ、言葉を無くした。
「考えて下さいって言うのは、こういう事です。」
彼女はそう言って、真っ直ぐに見つめ返す瞳を和ませた。
―――家は人が生活するための“器”なんですから、と。
「お母様がこのおうちで、最後まで快適にお住まいになれるよう、考えて差し上げて下さい。こちらもご相談頂ければ、最善を尽くさせて頂きますから。」
思わず、苦笑した。なんて女だ。
「あんた、営業向いてないって言われないか?」
そう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた後、どうでしょう?と言うように小首を傾げながら、ふ、と微笑んだ。
その、少し悪戯っぽい笑顔に、一瞬気を取られるのと、
ピンポーンと玄関チャイムが鳴るのと、
「こんにちわ~」
と言いながらドアが開けられるのが、同時だった。
「あ、すみません、お客さん…」
と言った頭が、後ろから叩かれる。
「バカかお前、玄関鳴らす意味ねーだろ?!」
「えー、いーじゃん、てか“すなおっち”、監督彼女…」
「は?」
続けて入ってきた人物が、こっちを見て目を見開いた。
彼女ってなんだ?―――という言葉は返せなかった。
そいつの、驚愕、というのが1番ぴったりとくる顔を見たのが初めてだったから。
進藤が、絞り出すように呟いた。
「トーコさん…」
そう言って、目の前の女はニッコリと微笑んだ。
何がきっかけと言えば、ムカデだった。
夜中に何やら耳元でゴソゴソ動くものがあるな…と思いながら払った手に激痛が走った。
まさかの、ムカデ。
寝込みを襲われるとは思いもしなかった。
「ああ、ここからでしょうね…。」
昔からの友人が寄越してきたのは、パンツスーツを着てショートボブの、まぁ、いかにもな女だった。
「うちには勿体ない位の女性なんだけどね~。」
そう言った顔は“デレる”という表現がぴったりで、要は、あれか、気があるんだなと直ぐに分かった。
まぁ、お互い、仕事にかまけて逃げられた口だから、幸せなのが何よりだと思うけど、お前にはもっとこう、前の奥さんみたいに可愛らしいカンジのがいいんじゃねぇの?と、心の中で呟くほど、意外だった。
年齢は四十前後だろう。
白い肌が映えるさらりとした黒髪に、切れ長の奥二重で、不自然さが全く無い睫毛はやたらと長く、頰に影を落としている。
黒いパンツスーツに包まれたスラリとした体は、ほっそりと無駄な肉が無く、家庭的な要素がまるで無い―――要するにキャリアウーマンで独身だと、指輪の痕すら無い手を見ながら勝手に思ったのだが。
「多分、この下も割れてますね。ここから入ってきてるんでしょう。」
そう言って、目地が割れてあちこちタイルの浮いた浴室の床を指し示す。
気にしてなかったが、その間も、チョロチョロと小さい虫が割れた隙間から出入りしていた。
「こういう古い造りの浴室は、どうしてもこうなりますよね。」
大きなバッグから出したカメラで丁寧に写真を撮り、メジャーを使って寸法を測っている。
「土台は捲ってみないと何とも言えないんですけど、ひとまず見積もり出してきますので、こちらのカタログを見てご検討頂けますか?」
ユニットバスのカタログを何冊か差し出した女が、それぞれを説明しようと口を開いた所で、手を上げて制した。
「あー、その辺はお任せで頼むわ。金額も、アイツの事信用してるから大丈夫。正直俺は、ムカデさえ何とかなりゃいいんでね。」
…と、ここまで言った所で、冒頭に戻る訳だ。
「ムカデだけなら、家の周りに殺虫剤まきゃいいんですよ。ああ、建物の周りにあまり鉢植えを置くのも良くないですね。後はご自分でお調べになったらいいんじゃないですか。今はネットで何でも分かる時代ですから。」
暴言、と言っていいんじゃないだろうかと思う。少なくとも、客に対して言う台詞じゃねえよな?
「あんたな…」
「十万二十万で済む話じゃないんですよ。」
真っ直ぐに見つめ返されて言葉を呑んだ。
「お金を使ってする以上は、ちゃんと考えて下さい。このお風呂使うの、私じゃないんですから。」
思いの外真摯な眼差しだった。どちらかというと、クールな印象だっただけに。
「…お父さん?」
コトリ…と音がして、リビングの入り口から“母”が顔を覗かせた。
「あら、お客様?」
「あー、うん。茶ー頼んでいいか?」
はいはい、と言いながら扉の向こうへ引っ込んだ母から視線を戻すと、女がまじまじとこっちを見つめている。思わず首の後ろに手をやった。
「母親だよ、俺の。」
去年夫である親父を亡くした母は、普通にしていれば、どこもおかしな所は無い。俺の事を“お父さん”と呼ぶ以外は。
家事も普通にこなすし、認知では無いらしいんだが…という説明を、彼女は顎に手をやって考えているような顔で聞いていた。
「お身体の方も?」
「今のとこはな、昔ギックリ腰をやった位か。」
「…失礼ですけど、この先、施設などにご入居の予定は…」
突然の質問に面食らう。施設って…あれか、老人ホームって事か?!
「ねぇよ。」
剣呑な声を出したのはしょうが無いと思う。何なんだよ、コイツは?!
「では、最後までこちらで面倒をみられるということですね?」
「だったらなんだ?!」
すると、不意に、彼女が微笑んだ。
さっきまでとはまるで違う、柔らかな笑みを浮かべて続ける。
「わかりました。では、浴室もその様に提案させて頂きますね。」
そう言って、カタログを捲った。
「ユニットバスというのは機密性もいいし、施工も早くて良いんですけど、後から手を加えるというのが出来ないんですよ。」
見せられたのは、浴室内の壁に手摺をつけた―――所謂高齢者向けの仕様になったものだ。どうやら手摺1つも、後から付けることが出来ないらしい。
「ご高齢の方は、浴室内で事故に遭われる事が本当に多いんです。ヒートショックなどの心配もありますから、浴室暖房をつけるのも、今は一般的なんですよ。」
それからまた、失礼ですけど、と言って、このまま同居を続けるのかと聞いてくる。
足腰が弱ってくると風呂掃除も大変だからと、自動洗浄機能が付いたものまであると言われ、言葉を無くした。
「考えて下さいって言うのは、こういう事です。」
彼女はそう言って、真っ直ぐに見つめ返す瞳を和ませた。
―――家は人が生活するための“器”なんですから、と。
「お母様がこのおうちで、最後まで快適にお住まいになれるよう、考えて差し上げて下さい。こちらもご相談頂ければ、最善を尽くさせて頂きますから。」
思わず、苦笑した。なんて女だ。
「あんた、営業向いてないって言われないか?」
そう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた後、どうでしょう?と言うように小首を傾げながら、ふ、と微笑んだ。
その、少し悪戯っぽい笑顔に、一瞬気を取られるのと、
ピンポーンと玄関チャイムが鳴るのと、
「こんにちわ~」
と言いながらドアが開けられるのが、同時だった。
「あ、すみません、お客さん…」
と言った頭が、後ろから叩かれる。
「バカかお前、玄関鳴らす意味ねーだろ?!」
「えー、いーじゃん、てか“すなおっち”、監督彼女…」
「は?」
続けて入ってきた人物が、こっちを見て目を見開いた。
彼女ってなんだ?―――という言葉は返せなかった。
そいつの、驚愕、というのが1番ぴったりとくる顔を見たのが初めてだったから。
進藤が、絞り出すように呟いた。
「トーコさん…」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
友達婚~5年もあいつに片想い~
日下奈緒
恋愛
求人サイトの作成の仕事をしている梨衣は
同僚の大樹に5年も片想いしている
5年前にした
「お互い30歳になっても独身だったら結婚するか」
梨衣は今30歳
その約束を大樹は覚えているのか
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる