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2.Yellow star jasmine
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坂道の途中でマンションを見上げると、スミの家には明かりが点いていた。
あれからずっと、それこそ、昼間も点けてんじゃね?と思うほど、消えているのを見たことがなかった。
それはつまり、もう大丈夫だから気にするなって、そういう事かよ。
―――大丈夫、誰にも言わないから。
そう言って微笑んだ顔を思い出して、ぐしゃりと前髪を掴んだ。
あの日、スミの中に全てを吐き出した。嫌だと言う声すら許さずに、唇を塞いだまま、欲望のままに腰を振って。
くたりと力無く横たわる姿に、後悔よりも強く押し寄せた虚しさで、何も言えずに部屋を出たのに。
何で怒らないんだよ?
怖がるとか、嫌がるとか、あるだろ?
やり切れなさを振り切る様に、三段飛ばしで階段を駆け上がる。
階段室の扉を開けて、エレベーターホールに入るのと、エレベーターの扉が開くのが同時だった。
「―――あれ?」
少し低いその声に、身体が強張った。
「おかえり。塾行ってるんだっけ?遅くまで大変だね。」
そう言う言葉にも、柔らかな微笑みにも、酷い苛立ちを覚えて大股にボールを横切る。
「…素直君。」
プライベートポーチに入る為の門扉に手をかけた所で呼び掛けられた。ピクリ、と身体が硬直した事に、気付いたのか、気付かなかったのか。
「色々と、悪かったね。面倒かけちゃって。」
思わず振り向いた。
トーコさんが、微笑んでいる。
大丈夫、そう言ったスミと同じ、少し困った様な顔で。
「ごめんね、―――ありがとう。」
その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
ただ、それだけ言って踵を返したトーコさんが閉めた玄関の扉の、
ガシャン―――
という音が、やけに大きくホールに響き渡った。
それからの日々は虚ろだった。
だからと言って入試に失敗するということもなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていく。
「あー、もう。辛気臭いわねっっ!! 寮入るんだったら、部屋ん中のもの整理しなさいよ!」
母親がそう叫んだのは、卒業式が終わった次の週末だった。断捨離だとか訳のわからん事を言いながら急き立てられる様に要る物と要らない物を分けていく。
「ホントにもう、野球しないの?」
返事もせずに、段ボールの中へ愛用していたグラブを叩き込んだ時、母親のスマートフォンが鳴った。
「はい。あー、お義母さん…」
途端にテンションを下げた母親が、短いやり取りの後で部屋を出た。また呼び出されたんだろう。
玄関の閉まる音を聞きながら溜まっていた雑誌を取り出して括る。空になったカラーボックスを動かしたのは、もう古いし捨てるかと思ったからだが、その瞬間、パサリ―――と音がした。
ボックスを退かした裏から出てきた薄い冊子を取り上げる。
それは百人一首の解説本だった。―――おそらく、かずさんの。
中学2年の冬休み前、国語担任が、休み明けに百人一首のテストをすると言い出した。
上の句と下の句を選ぶ形式のテストで、どれが出るか分からないし、ひとまず全部覚えたらいいよ、とその時スミが貸してくれたのだ。―――殆ど読まなかったけれど。
「読むだけで意味分かるものも多いから、大まかに意味を覚えるといいかも。」
そう言って、スミが教えてくれる歌の意味は、ホントに大まかで。
田んぼの中の小屋で寝てたら、服が濡れちゃった、とか。
岩に当たって別れちゃっても、また会おうね、とか。
ホントに大丈夫なのかと突っ込みながらも、本を読むより断然面白かったし、意外と良い点が取れたのも事実だった。
その時の事を思い出したのがまずかったのかもしれない。
ほんの少しだけ、強張っていたものが緩んでしまったような。
だから机の上に置いていた、買ってもらったばかりのスマートフォンを手に取ったのは無意識だった。
電話アプリを立ち上げる。まだ殆ど履歴は無く、電話をしたのは桂馬ぐらいだ。電話帳をタップして、スクロールさせると、母が勝手に入れていた、その番号を呼び出してかけた。
出なくてもいい、と思っていた。
ただ、無意識に、もう一度だけ声が聞きたかったのかもしれない。
むしろ、出ないで欲しかった…のに、程なくして呼び出し音が途切れた。
『―――もしもし?』
鼓膜に直接響く声に、体が強張った。そういえば、電話をしたのは初めてだったと気付く。
『…ナオ?』
呼び掛けられて、息を呑む。
「―――何で…」
わかった?と聞く前に、『何でだろうね?』と、スミが微かに笑った。
『かなちゃが、入れてたのかな?』
―――アイツ…今はいない母親に対して心の中で舌打ちした。そもそも自分のスマートフォンにも入っているのがおかしい。ロックかけてなかった自分も悪いが。
『どうしたの?』
重ねて聞かれ、一瞬、躊躇ってから続けた。今更切ってもしょうがない。
「本が、出てきたんだ。」
『本?』
「百人一首の、だいぶ前に借りてたヤツ…」
『…ああ…あった、ね。』
スミの声は、普通に聞くよりも少し低い気がする。だからちょっとだけ、聞き取り辛いのかもしれない。
「どうする?返そうか?」
『…そうだね。今、家?』
「…スミは?外か?」
微かに車の通り過ぎる音が聞こえた気がした。
『ベランダだよ。洗濯物入れとこうと思って。』
鍵のかかっていない場所にいる。そう気付いただけで何だか酷く、胸がざわめいてくるのを感じて、こく、ともう一度息を呑んだ。
『ポスト、入るかな?』
「…玄関のか?」
『うん。無理なら、…かなちゃに預けてもらってもいいし、どっちでもいいよ?』
それが1番いいだろう。いや、そうすべきだ。
「わかった。」
絞り出すように、言った。その直ぐ後だった。
『…ゴメンね、ありがとう―――』
あれからずっと、それこそ、昼間も点けてんじゃね?と思うほど、消えているのを見たことがなかった。
それはつまり、もう大丈夫だから気にするなって、そういう事かよ。
―――大丈夫、誰にも言わないから。
そう言って微笑んだ顔を思い出して、ぐしゃりと前髪を掴んだ。
あの日、スミの中に全てを吐き出した。嫌だと言う声すら許さずに、唇を塞いだまま、欲望のままに腰を振って。
くたりと力無く横たわる姿に、後悔よりも強く押し寄せた虚しさで、何も言えずに部屋を出たのに。
何で怒らないんだよ?
怖がるとか、嫌がるとか、あるだろ?
やり切れなさを振り切る様に、三段飛ばしで階段を駆け上がる。
階段室の扉を開けて、エレベーターホールに入るのと、エレベーターの扉が開くのが同時だった。
「―――あれ?」
少し低いその声に、身体が強張った。
「おかえり。塾行ってるんだっけ?遅くまで大変だね。」
そう言う言葉にも、柔らかな微笑みにも、酷い苛立ちを覚えて大股にボールを横切る。
「…素直君。」
プライベートポーチに入る為の門扉に手をかけた所で呼び掛けられた。ピクリ、と身体が硬直した事に、気付いたのか、気付かなかったのか。
「色々と、悪かったね。面倒かけちゃって。」
思わず振り向いた。
トーコさんが、微笑んでいる。
大丈夫、そう言ったスミと同じ、少し困った様な顔で。
「ごめんね、―――ありがとう。」
その時、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
ただ、それだけ言って踵を返したトーコさんが閉めた玄関の扉の、
ガシャン―――
という音が、やけに大きくホールに響き渡った。
それからの日々は虚ろだった。
だからと言って入試に失敗するということもなく、ただ淡々と時間だけが過ぎていく。
「あー、もう。辛気臭いわねっっ!! 寮入るんだったら、部屋ん中のもの整理しなさいよ!」
母親がそう叫んだのは、卒業式が終わった次の週末だった。断捨離だとか訳のわからん事を言いながら急き立てられる様に要る物と要らない物を分けていく。
「ホントにもう、野球しないの?」
返事もせずに、段ボールの中へ愛用していたグラブを叩き込んだ時、母親のスマートフォンが鳴った。
「はい。あー、お義母さん…」
途端にテンションを下げた母親が、短いやり取りの後で部屋を出た。また呼び出されたんだろう。
玄関の閉まる音を聞きながら溜まっていた雑誌を取り出して括る。空になったカラーボックスを動かしたのは、もう古いし捨てるかと思ったからだが、その瞬間、パサリ―――と音がした。
ボックスを退かした裏から出てきた薄い冊子を取り上げる。
それは百人一首の解説本だった。―――おそらく、かずさんの。
中学2年の冬休み前、国語担任が、休み明けに百人一首のテストをすると言い出した。
上の句と下の句を選ぶ形式のテストで、どれが出るか分からないし、ひとまず全部覚えたらいいよ、とその時スミが貸してくれたのだ。―――殆ど読まなかったけれど。
「読むだけで意味分かるものも多いから、大まかに意味を覚えるといいかも。」
そう言って、スミが教えてくれる歌の意味は、ホントに大まかで。
田んぼの中の小屋で寝てたら、服が濡れちゃった、とか。
岩に当たって別れちゃっても、また会おうね、とか。
ホントに大丈夫なのかと突っ込みながらも、本を読むより断然面白かったし、意外と良い点が取れたのも事実だった。
その時の事を思い出したのがまずかったのかもしれない。
ほんの少しだけ、強張っていたものが緩んでしまったような。
だから机の上に置いていた、買ってもらったばかりのスマートフォンを手に取ったのは無意識だった。
電話アプリを立ち上げる。まだ殆ど履歴は無く、電話をしたのは桂馬ぐらいだ。電話帳をタップして、スクロールさせると、母が勝手に入れていた、その番号を呼び出してかけた。
出なくてもいい、と思っていた。
ただ、無意識に、もう一度だけ声が聞きたかったのかもしれない。
むしろ、出ないで欲しかった…のに、程なくして呼び出し音が途切れた。
『―――もしもし?』
鼓膜に直接響く声に、体が強張った。そういえば、電話をしたのは初めてだったと気付く。
『…ナオ?』
呼び掛けられて、息を呑む。
「―――何で…」
わかった?と聞く前に、『何でだろうね?』と、スミが微かに笑った。
『かなちゃが、入れてたのかな?』
―――アイツ…今はいない母親に対して心の中で舌打ちした。そもそも自分のスマートフォンにも入っているのがおかしい。ロックかけてなかった自分も悪いが。
『どうしたの?』
重ねて聞かれ、一瞬、躊躇ってから続けた。今更切ってもしょうがない。
「本が、出てきたんだ。」
『本?』
「百人一首の、だいぶ前に借りてたヤツ…」
『…ああ…あった、ね。』
スミの声は、普通に聞くよりも少し低い気がする。だからちょっとだけ、聞き取り辛いのかもしれない。
「どうする?返そうか?」
『…そうだね。今、家?』
「…スミは?外か?」
微かに車の通り過ぎる音が聞こえた気がした。
『ベランダだよ。洗濯物入れとこうと思って。』
鍵のかかっていない場所にいる。そう気付いただけで何だか酷く、胸がざわめいてくるのを感じて、こく、ともう一度息を呑んだ。
『ポスト、入るかな?』
「…玄関のか?」
『うん。無理なら、…かなちゃに預けてもらってもいいし、どっちでもいいよ?』
それが1番いいだろう。いや、そうすべきだ。
「わかった。」
絞り出すように、言った。その直ぐ後だった。
『…ゴメンね、ありがとう―――』
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