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第56話 「『明日の二次会は、』」
しおりを挟む先輩と「つきあっている」関係を、もう、やめよう。
それが泣いて泣いて、先輩からの連絡をぜんぶ無視して、数日ひとりで考えた結論だった。
たぶんもっと早くだすべき答えだった。きっと最初に「つきあって」と言われたその日に、いうべきことだった。やっぱり「なかったことにしてください」というべきだったんだ。
だけど。浅ましくて、欲をかいた心をおさえきれずに先輩の『恋人』という座の魅力に抗えなかった。
ぜんぶ、あの青空みたいな笑顔を独り占めにできる機会が増えるかもしれないなんておこがましくも願った自分が悪い。
ここのところほとんど眠れていなくて、ズキズキと頭が痛む。食事もろくにとってない。それでも食欲がわかないから仕方ない。
バイトを終えて帰ってきて、着替えもなにもかも放り出してソファに寝転ぶ。
部屋は散らかってて、適当に買って食べた栄養食品の箱とかが転がっている。片づけなきゃな、と思うけど、それをする気力もない。
バイトはなんとか出勤した。体調が悪いのを周りに誤魔化すのも、周りにあわせた笑顔をはりつけることも馴れていた。そんなのずっとずっと前から当たり前のことだったから。たぶん誰も気づかなかったと思う。
けど、ここ数日あった、同級生や映研の人の誘いは断った。
人に会いたくなかったし、こちらから連絡をたっている青葉先輩と間接的につながってしまうことを避けたかった。
それは先輩にピアスの穴をあけたあと、先輩と会わないようにしていたのとまるで同じで。
ぜんぜん成長していない自分に思わず笑ってしまう。
青葉先輩はそんな僕に毎日電話をかけてくれた。『毎日、一度は電話すること』という約束を守るように。僕がその電話を、あの日、食堂前でわかれて以来、とることはなかったけど。
先輩のことだからきっと心配してくれているだろう。それは申し訳ない。けれども、唯一、電話以外の連絡で送られたメッセージの内容は「いつでも合鍵使っていいから」という一文だった。
短い文章に、先輩らしい気づかいを感じて、嬉しくなって、喜んで、そのぶんそのあとで苦しくなった。
先輩はまだ合鍵を使う権利を、僕にくれている。
連絡をしなくても、電話にでなくても、それでも合鍵を使って先輩の部屋にいったなら、きっと迎え入れてくれる。
僕の気持ちが落ち着くのを待っていようとしてくれている、それがわかった。
たとえもし、今、合鍵を使って会いに行っても話すことが「つきあうのをやめよう」である自分には使う資格がなくても。純粋に素直に嬉しかった。
でも、だからこそ。
そんな優しい青葉先輩には、新品で、ピカピカの、傷一つない合鍵を渡すのにもっとふさわしい相手がいるに決まっている。
先輩がずっと誠実に僕とつきあってくれていたことはわかっている。
約束をきちんと守ってくれて、僕が勝手に不安になっていることは優しく解決してくれた。
それだけじゃなく、時折見せる、独占欲の表れみたいな執着や、指の動きひとつで心をざわつかされたり。
浮気はしないと、他のひとを見る気はないと、僕の、男の身体でも欲情すると言って。
触れて、抱きしめて、キスをされて。
シロップを煮詰めて、くるりと身体の周りを包み込む繭のような甘さに浸ることは、とても甘美だった。
大切に、大事にされている、と、それくらいはわかっている。
自分に不相応な贅沢すぎる『恋人』という立場に少しでも、一秒でも長くいたくて、その立場を自分から捨てられないくらいに。
だって。
二人きりのときに見たことのない顔で見つめられたり、とびっきりの声で「甘やかしたい」なんて言われて、他の人がいるときでも隠れてキスをされたり、気づかれないように肌に触れられたり、キスマークを嬉しそうにさわったり。
ただの後輩のままじゃ知らなかった、表情も、目も、声も息も熱も湿度も頭を撫でる大きな手も嬉しそうに笑う澄んだ青空みたいな笑顔もなにもかもいろんなものを与えられたのだ。
青葉先輩に。
あの、三木青葉、というひとに。
ずっとずっと、見続けて、諦めていた、あのひとに。
まさか、と。何度いまが夢かと思っただろう。
こんなあふれるようなこうふくにつつまれてしまったら、溺死するんじゃないかと思うくらいに。
見ているだけの時じゃ、想像もつかなかった、できなかったことを、たくさん、たくさんいっぱいからだにおさえられないくらい、もらったのだ。
与えられたものをひとつひとつ数えれば、窒息してしまいそうなほどの、しあわせを。よろこびを。
だからぶざまにすがりついた。溺死してしまいたかった。窒息してしまいたかった。しあわせにあふれたまま終わってほしかった。いや、ウソだ。
心臓が破れても、破裂しても、死にかけても、もし本当に死んだとしても、僕は貪欲に、もっと、もっとと欲しがっていた。
いつかくる終わりにおびえてるくせに、青葉先輩が僕の名前を呼ぶ四文字の音だけで、死にそうになるのに、もう一度、と望んで、終わりを後回しにし続けていた。
でも、もう、いいかげん、いいだろう。
学食で見たあのときの光景のように、僕よりも、よっぽど青葉先輩から与えられる幸せを受け取るにふさわしい人がいるはずだ。
周りだって、それが自然だと思うだろう。実際、そうだったじゃないか。
過去そうであったようにこれから先、青葉先輩の横にいるのは、僕以外の誰かだろう。
だから、いいかげん先輩に『普通』を返してあげなきゃ。
青葉先輩にとって、本当にふさわしい人に、『恋人』という立場を返さなきゃ。
それが、いいに決まって、いて。
――ガツン、と鈍い音がした。
僕以外に誰もいないこの部屋で、なんだと思ったら。
自分の手が、ソファの横のテーブルの上にあって。
触れている部分がずきずきと痛む。
ああ、そうか。無意識に、テーブルを殴ってしまっていたのか、と、その痛みで気づく。
「……ははっ。なんでテーブルに八つ当たりなんかしてるんだろ」
ばかばかしくて、笑ってしまう。社交用ではない、とりつくろってない自分の声はかすれていた。
痛む手をひらひらとふって起き上がる。思ったより力をいれてしまってみたいだけど、まあ、骨にひびが入ったわけでもテーブルがわれたわけでもない。だからなんともない。
ふいに、起き上がったことで、テーブルの隅によけておいてあるものが目に入る。
そこだけが散らかったゴミから隔離されて、見えない壁で守られているようにキレイだから浮いて見える。
つけなくなったものや、買っておいたピアスをしまっておくだけのケース。
今はそこに、ピアスだけじゃなくて、銀色に輝く、でこぼこの穴があいた鍵もはいっている。
持ち歩くと常に意識してしまう。それに思い出してしまうのだ。合鍵をくれた人を。「いつでも使っていい」と言ってくれた言葉を。
といっても変なところに置いておけなくて。結局しまわれた先は、僕の醜い感情をこめたピアスたちと同じところ。
せっかくの新品の鍵が、つもりつもった僕の汚い感情に汚染されなければいいけど。
――その鍵は僕の手で使われないまま、他の誰かに渡るんだろうから。
ガリ、と耳元で音がした。それと一緒にズキリという痛み。
「――っつ! ……ああー、またやっちゃった」
無意識と習慣は恐ろしいもので、ごく自然とあふれ出る感情を抑え込もうとピアスに触れていた。
そして力をいれすぎて、耳たぶの穴がわずかに裂けて、軽く血が出ている。それとつい最近できた、同じように強く握り込み過ぎた時についた傷のかさぶたが剥がれる。
この数日、何回も同じことが起きていて、左耳は、ずっと血が生乾きのかさぶたのままで、赤い。
もしも先輩が生々しくも小さい傷を見たら、怒るだろうか。
「――はははっ、ははっ……あーあ」
血のついた指を眺めて、今度こそはっきりと笑った。
嘲笑だった。自分への。
ここまで来て、いろいんな言い訳をつけて本当に怖いことから逃げようとして。自分で自分を納得させようとしていることを並べ立てて、結局こんな無意味な傷を増やしていく愚かな僕。
建前と理屈で納納得しようとしても、無意識に拳を振り上げたり耳をちぎろうとしてまで反発する、嘲るにふさわしい愚か者。
「ああ」
つぶやいた声は、空気に溶けて消える溜息になった。
考える。思い浮かべる。想像する。
いつもの大学。いつも通りの学食。いつもの日常。
僕はいつもと同じように大学へいって、授業をうけて。
それから学食にいって。映研のメンバーが集まるテーブルにいって。
そこに座っている青葉先輩。
その横にいる、可愛らしい女性。手にはピカピカの銀色の合鍵を持って。
それは、僕以外の誰か。
ギリ、とまた耳元で軋んだ音がする。
「そんなの」
耳たぶに爪を立てる。血が出る。耳朶と指先がきっと赤く染まっている。
先輩がくれたピアスとは違う、赤色。
「――そんなの、イヤに決まってる、だ、ろッ」
先輩にふさわしい人だとか先輩に元通りの日常を返さなきゃいけないなんて、自分のための建前だ。
ホントは、僕以外の人の存在に怯えて過ごすのが怖いだけだ。
元恋人がいる飲み会に、今の恋人の自分が行くのと行かないの、どっちがいいのか。
いまだに結論は出ていない。
だって――そんなのどっちもイヤだから。
僕にくれた笑顔で他のひとを見ないでください。
僕にくれた約束を他のひとにあげないでください。
僕にくれた幸福を他のひとに与えないでください。
僕にくれた声も目も手も熱もなにもかも、僕以外の誰かに渡しちゃイヤです。
強欲で身勝手で自分勝手な願い。
願いなんて綺麗な言葉ですまない。先輩をしばりつけて、束縛しようとする狭量な我儘。
あんなに恥ずかしいのに、バレたら困ると言って、それでも乞うてつけた赤いしるし――キスマークを他の誰かの肌につけて、つけられたりするなんて。その肌の色を考えただけで口からヘドロが吐き出されて、それがあちこちに向けて爆発しそうだ。
もしも口にしたら、青葉先輩なら何個かは叶えてくれるかもしれない。
それでも。
深くて広い、夏の青空みたいな青葉先輩を、そんな自分の身勝手で、損なうことはしたくなかった。
だから、もう、これしかないんだ。
僕はきっとこのままじゃ、エミさんのことだけじゃなく、いつだっていつ今の立場がなくなるのか怖くて、怯えて、醜く泣いて縋る。そんなことを繰り返していく。
そんな面倒なことでいちいち青葉先輩を煩わせるのか。
それなら、もういいかげん、たくさんもらったよろこびとしあわせを大切にしまい込んで、もう十分だと満足すべきだろう。
だってこの先、なにがあっても、どんな人が現れても大丈夫だと信じられるほど、僕は自惚れることはできない。
そしてなにより、一番怖いのは。
青葉先輩の横に並ぶ人を見ることよりも。
何度も縋って泣いてまとわりついて、面倒な恋人と成り下がったときに、先輩に蔑まれること、だ。
ゆっくりと息を吸って吐き出す。
ふと左手を見れば赤黒い血のあとが掠れていた。
明日のことをシミュレーションしよう、と頭を動かそうとしたとき、スマートフォンの通知が鳴る。
青葉先輩からのメッセージだった。
『明日の二次会は、行くつもりないから』
簡単で簡潔な内容。
ただおそらく、一次会だけ義務で付き合うだけで、それ以上は関わらないということ、だろうか。
それとも、一次会のあと、二次会を抜け出して、青葉先輩は僕と話す時間を作ってくれる、という意味だろうか。
――先輩は、僕が話そうと、伝えようとしていることを、予想しているんだろうか。
心臓が早鐘をうつ。おまえ、まだ機能していたのか。自分の心臓なのに驚いてしまう。
――つきあうのをやめましょう、そう告げることを。
すこし悩んで、夜寝る前に「わかりました」とだけ返事をしよう、と決めた。
――「別れてください」という言葉を選べるほど、図太くはなれなかった。
――そんな堂々と、『恋人』らしい言葉をつかえたら、きっとこんなに悩まなかった。
汚れた指でスマートフォンに触ったせいで、液晶画面に薄く赤色が色移りする。
そのまま明日の行くべきところの時間と場所を確認する。
明日は、青葉先輩の元恋人、エミさんのいる飲み会だ。
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