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二章
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「で、なんでこうなるんですか」
「んー、なんでだろうな」
楽し気に、尾を揺らし。組み付いた僕を見下ろす狼の顔がとても近い。木箱に二人して座ってた筈なのに、血が止まったのを確認したガカイドは。突如、僕をそのまま木箱の上に押し倒した。腕を縫い留めて、上半身だけ上に被さる形で。だから足だけは木箱に添うように、ただだらりと垂れているだけであったから。自由だ。蹴る事はできた。だがそれをするには迷ってしまった。行動の真意を知るまでは。問答無用で、抵抗してもいい筈なのに。早々絆されてしまったのだろうか。それをするのを躊躇するぐらいには。
「刻印を押された者は、番を得る資格を失うわけだけどさ。ルルシャ。でも雄同士なら別に問題ないわけよ、これ、どういう意味かわかるか」
上半身裸の狼に、真上からそう言われ。目の前に彼のネックレスが揺れていた。もう、雌の狼に渡す事の叶わない。本来の意味を見失ったそれが。この体勢はある意味、その証を見せつける事にも一役買っていた。彼が屈めば屈む程、近づいて装飾品である動物の牙部分が鼻先に触れる。
「俺様の物になれよ」
「嫌です」
「なんで、敬語なわけ? 収入の安定しない雄は嫌ってか。どうせ、ガルシェの気まぐれで飼われているお前が。いずれここに来る事になるのは、お前だってわかってるだろ。守ってやるぜ、ルルシャ」
「僕の事、嫌いって言ってたじゃないですか」
「そうだっけか」
飄々と答える狼の獲物を見る目が、細まる。ただ、優しい人に。優しくしたいだけであった。それが、なぜこうなるのか。本当に、悪い意味でこの狼は僕の予想を裏切ってくれる。少し前の自分に少し後悔させないで欲しい。こうなるとわかっていたら、しなかったのに。瘦せ細っていても、体格は向こうの方が大きいのだから。組み付かれたら、もうどうしようもない。あの時と全く一緒であった。ガルシェの家で、最初に押し倒された時と。あれは、ただ揶揄う為に。そうされただけであったが。今はそうではない雰囲気を纏っていて。遊んでいるようであり、楽しんでるようであり、でも本気で言っている気がした。でも屈する気も、素直に頷く事もしない。別にもう、ガカイド。彼自体を嫌いだとかは、そこまで思ってもいなかった。これは、僕の問題であったから。
「ガカイドが、じゃないよ。僕がただ、好きでもない人の。申し出には、応えられない」
はっきりと、もう一度断る。一字一句強調するように。野生の狼さながらの、強い瞳に。僕も負けじと、なにもできない癖に。睨み返す。勘違いさせないように。ああ、最初から。アドトパにもこうしていれば良かったのか。
変に期待を持たせる前に。ちゃんと向き合って、返事すれば。そうしたら、ずるずると。あのようには。そうしたら、ただの友達として。
睨み合いが続く。一種即発とも言えるけれど。肉体言語になれば、僕に勝ち目はない。というかこの体勢になった時点で、僕の意思を無視してガカイドは好きにできた。できてしまった。服を乱暴に脱がし、犯す事だって。できるだろう。ちょっと動かそうとしても、びくともしない両腕が。たとえ自由な足で蹴ろうとしても、有効打を与えれるとも思えない。だから僕は、また泣き叫んで。やめてくださいと。そう乞うのが正解な気もした。気もしたけれど、彼に対してそれをするのは間違いだと思った。ただ、真正面から正直に自分の意見をぶつける事。林檎を差し出した時と一緒であった。
彼が言っている事は正しいのかもしれない。ガルシェが、僕を膝元に置いているのも。利用価値があるからだ。彼も、優しいとは思うが。その優しさだけではないのは知っている。でも違うんだ。僕が彼を信じたいのだ。そして、無理やりに、僕をどうにかしようとは。本当は思っていないのじゃないかと。そう思うのだ。目の前の、もう一人の優しい狼は。
これは僕の勝手な推測であり。勘違いなのかもしれない。次の瞬間には。ズタズタに服を引き裂かれて。肌を爪と牙で脅され。いいようにされているのかも。
見下ろしている狼の表情が、無表情になったまま。口元が震えている。そうして、何か言おうとしたと思う。でも、ガカイドがそれを言う前に。別の方向からこの場を割って入る不埒者が居た。
「ガカイド、俺達も混ぜろよ」
声にいち早く反応した、目の前の狼は。素早く僕から離れ、声の方向へと向く。僕も遅れてそちらを向くと、僕とガカイド二人だけだった狭い路地に。さらに二人。大型のレプリカントの男が立っていた。
「……お前ら」
「なに、珍しい人間じゃんか。ズルいぜ一人だけ味わおうなんて」
反応から、知り合いのようであった。けれど、ガカイドは嫌なタイミングで会ったのを隠しもしない表情をしていて。一度、チラリとこちらを見て。そうして、僕よりも前へと庇う形で。彼らの間に出た。僕の横を通り抜けるさい、小声で合図をしたら逃げろとまで。彼らに聞こえないような声量で。でもガカイドが僕を庇ったから、それで彼らにどういう意味かは察してしまえたのだろう。
混ぜろと言った男と、黙ったまま様子を窺っているもう一人の男の雰囲気に剣呑さが混じる。空気が、ぴりついた。これは、ガルシェの時にも感じた。やっぱり、殺気と言われるものであるのだろうか。それを僕を隠すようにしたから、一身に受けている。赤茶色の狼。ぶるりと、目の前にある尻尾が震え。股に挟まりそうになるも、そうはならなかったのを。後ろに居る僕には見えてしまって。ガカイド、どうして。
「この子は俺が送っていく予定なんだよ、お前らが味わう余地はない。去れ」
「なに、なになになに。烙印押された奴が、俺達に指図すんの?」
ガカイドの背後から、そっと前の状況を顔だけ出して見てみると。確かに彼らは痩せていなくて、着ている服の下までは見えないが烙印はなさそうで。でも、傷だらけの顔をしているから。表通りの住人ではないのだなと、ひと目でわかった。片耳なんて、鋭い物か何かで削がれていたし。そうしていると、僕の胸を狼の手が押す。出て来るなと、前から視線を外さず。そう言っている気がした。
「いくら元候補生とはいえ、痩せ細った身体で、二人相手に敵うと思ってるのかよ」
少しだけ、姿勢を落とした相手に対し。ガカイドは片足を引き。腕を前へと。ファイティングポーズを取る事で答えとしていた。どんどん張り詰めて、いつ弾けるともわからない空気。お互いに武器は持っていなかったけれど。爪と牙がある、レプリカント同士の喧嘩が。只では済まないと思った。僕を守りながらでは不利だ。だから。
「行けっ!」
ガカイドが、火ぶたを切るように叫ぶ。それで僕は一目散に後ろを向き、道もわからないのに駆けだした。背中から男達が何か言うのと、それを遮るように硬い物を打ち付ける鈍い音と。そして、一人分の足音が遅れて追いかけてくる。
走る。走って、走って、転びそうになるのを堪え。走る。どれだけ走って、角を曲がり、ゴミ箱や木箱を避けながら走り続けても。後ろから迫る足音は消えない。何度目かの角を曲がり、そうして。通り過ぎようとした横道から素早く誰かの腕が伸びて来る。先回りされたと。焦る僕は止まる事も、避ける事もできず。呆気なく捕まって。そのまま暗がりに引きずり込まれる。
そして、口元を覆う。鱗を纏った大きな手。乱暴にではなく、包み込むように抱き込み。ただ、静かにと。耳元で、若い男の声がした。言う通りにしたわけではなく、びっくりして黙っていると。追いかけていた足音が迫る。
そこで、彼の大きくて太い尻尾が。僕を覆い隠す形で、前から被さり。そうして、先っぽを蜥蜴の頭が咥える。まるでリング状に、なった姿。その中央には抱き込まれた僕と。アルマジロトカゲの意味をなんとなくこの時察した。
僕達がいる横道にある暗い路地ではなく、一直線に通り過ぎていく。追いかけていた大男。目の前を通り過ぎるさいに、目で追ってしまって。冷や汗が出た。でも静かにしていると、足音がやがて聞こえなくなって。それで、自身の尻尾を咥えていた蜥蜴の顔をした男は。僕と一緒に解放する。咥えていたから、それで漸く喋れるようになって。見上げた相手、アドトパは。良かったと、笑いかけて来た。
「どうして、ここに」
「声を掛けようとしたら、裏道に入っていくのが見えたから。ルルシャみたいな子がこちらの方に来るのはあまり、オススメできないし。お節介かもしれないけれど、追いかけてきた。ただ、ここはいろいろな不快な臭いが混在していて、君を見つけるのに苦労した」
ああ、バレていたのか。どこに逃げたかまで。それで、僕が避けてしまった事実が。あったのだと、思い出した。
「逃げて、ごめんなさい」
「いや、ルルシャが私の事を苦手なのは気づいてたから。気にしなくていいよ」
え。気づいてて。今まで求婚まがいの事をしていたのかと。蜥蜴の顔を見上げながら絶句する。ニコニコと、笑顔を張り付けて。言ってのけるイケメンから、つい距離を取ってしまった。一応助けてくれたのに、お礼も言ってないけれど。怖い。
「いやはや、予定が押していて。明日にはここを発つ事になったのに、お別れを言いたかっただけなのにな。邪魔者は本当に、邪魔な時に訪れるものですね」
僕を見ていた蜥蜴の目線が、僕を超えて。その後ろへと向く。それで、僕も気配を感じて。後ろへと顔を向けると。目を血ばらせた、レプリカントの男が。こちらを睨んでいて。息を荒らげ、懐からナイフを取り出していた。
「意中の相手を口説くならもっと花とかにするべきだと思うのですが。本当にここは乱暴な人が多いですね」
「うるせえよ蜥蜴野郎。さっさと荒野に帰りやがれ、その人間は貰う」
離れた僕を追いかけて、自然な動作で。隣に立つアドトパ。僕に話しかける調子とは、また違った喋り方だった。また、庇う形で盾のように尻尾で僕を覆う。喋る為か、こんどは先を咥えていなかったけれど。もしかしてこの人、実は強いのだろうか。
「喧嘩は弱いので。刺されたら、私。死んでしまうのでやめて欲しいのですが……困ったな」
違った。希望を抱いて見上げていた僕は、絶望感を抱く。そんな僕に対して、余裕の表情を崩さない。困ったなら、もっと困ったなりに慌ててくださいと。抗議の声を上げたかった。そんな時間、眼前に迫る男が許しはしなかったが。雄叫びを上げて、迫る刃。走りこんで来る、勢いのまま、刺されたら。痛そうなだなと思う。僕を庇うようにして、隣にアドトパがいるけれど。せっかくガカイドが逃がしてくれたのに。無事だろうか彼は。無事だといいな。僕はこれから捕まって、酷い目に遭わされるとしても。彼が無事ならそれでいい気がした。僕を逃がしてくれた彼には。
そして、今まさに僕を庇おうとしてくれている。蜥蜴の男も、怪我などして欲しくないのに。目の前の尻尾を、掴んで。退ける。それで余裕の表情が崩れて。蜥蜴の男が慌てたとしてもかまわなかった。前へと、庇われてばかりの僕が。ナイフへと、アドトパよりも先に出ようとして。劈く銃声。はじけ飛ぶ地面、それは刃物を持った男の足元。
「若、貴方弱いんですから。あまり離れないでくださいよ」
また、人が増えた。それは四方八方から。僕らを取り囲む形で。そして、全員が蜥蜴の顔をしていて。銃を構えていた。刃物を持った男に対して。刺そうとしていた男の動きが止まり、周りを見渡していた。状況を飲み込めていないようで。それは僕も同じで。そんな人間の肩を叩く、手。アドトパの。銃を持った男達の中に一人、見知った顔を見つけた。いつも、お店の少し離れたところから警護していた。護衛の人だった。
「よーし、毛むくじゃら。良い子だからそのナイフを置きな。でないとそのご自慢の毛が紅く染まるぜ」
部隊の一人が、そう声を掛ける。どこか、おままごとでもしてる感じに軽い調子で。でも、その視線は。銃口に負けていないぐらいで。相手をそれだけで殺せそうであった。覇気を纏った蜥蜴の顔は、とても怖いのだなと。隣に立つ細身のイケメン蜥蜴と違い。筋肉隆々の蜥蜴達は皆、身体のどこかに傷をこさえ。鱗が欠けてもいた。でもその鋭さは損なわれていない。
形勢は一瞬で逆転していた。だから、勢いを失い。逆に恐怖に震える男は。手から力が抜け、刃物を落とす。カランと地面にぶつかるナイフ。その音ですら、びくりと身を竦ませて。悲鳴を上げながら、どこかへと走り出す。その背が見えなくなるまで、誰も銃の構えを解く事はなく。銃口がずっと男の背を追いかけていた。統率の取れた動きだった。
アドトパが、合図に手を軽く叩くと。それで、場を満たしていた威圧感が消える。でも、全員が路地の各所へ目を配るのは忘れない。背をこちらに向け、囲まれる。完全警護体勢であった。狭い路地であるから、全員が立ったままだと射線を潰されるからと。邪魔にならないように、何人かは膝立ちになる用意周到さで。まるで、どこかの特殊部隊さながらの素早い動き。ただアドトパが合図一つしただけ、それでここまで声を掛けるでもなく人は動けるものなのか。一つの生命体のように。
「若。早めにここは立ち去りましょう。獣臭くてかないません」
「そうですね。ルルシャ、帰ろうか? それとも、このまま丁度いいので初夜としゃれこんで。近場の宿屋へ共にするのも手かな」
「若っ!」
移動しようとする蜥蜴の団体。それを率いるアドトパ。本当に、凄い人なんだなと思った。この人に、付き従う人皆が。誰もがアドトパよりも強そうなのに。忠誠心の高さが窺えた。軽口を叩くけれど、この人はその気はこれっぽっちもないんだなと。理解した。背中を押す手が、先導するポイントマンの方角だったから。きっとその先が、大通りへと帰る道なのだろう。
いや、少しぐらい。僕がまんざらでもない反応をすれば、連れ込まれそうな気がした。尻尾を地面に擦りつけ、嬉しそうにするイケメン蜥蜴が上から覗き込んで来るから。本当なら、このまま帰りたい。帰りたいけれど。先程まで一緒に居た彼の事を思うと。そうするにはとても。だから声を上げていた。助けられた身で、とても厚かましいとも思うが。それでも、彼らなら。
自分からアドトパに触れていた。彼の服を掴んで、お腹の部分。服が伸びてしまうと、そんな事も気にせず。どうしたのか不思議そうにする蜥蜴に、必死で。
「……その必要はないみたいだ」
僕がガカイドを助けて欲しいと。そう追いすがっていると、アドトパが別の方向を指差す。それは暴漢が消えて行った、僕が走って来た道。その暗がりから、歩いてくる影。その姿が明確に見えるようになると、僕が助けて欲しいと願った。その人物で。
頬を擦りながら、それでも大きな傷はないのか。赤茶色に鮮血は散っていなかった。良かった。本当に。無事で。それで、彼の元に走り寄ろうとして。僕の肩が固定されたように動かなくて、一歩を出そうとして止まる。どうして。横を見ると、しっかりと掴んで離さない蜥蜴の手。一斉に、下げていた銃を構える護衛の人達。そして、普段の少し高いと感じる。青年の声が。少しトーンを低くして。
「刻印付き、か……」
そう言っているのを、隣に居る僕は聞こえた。差別的な目線をさせた。アドトパの顔を見上げる事しかできなくて。待って、その人に。なんで銃を向けるの。止めてよ、アドトパ。やめて。
「ルルシャ、無事かぁ」
銃口を向けられているのに、呑気な声が場に響く。喋ると痛むのか、頬を押さえた狼の顔。殴られたのか、ちょっとだけ近づいてくれただけで唇の端に血の跡を見つけた。でも、これ以上はだめだと、場を満たす圧が膨らむ。無事か問われて、大袈裟なぐらい頷くと。痛むだろう口元が、綻んだ。本当に、僕以外見えていないかの如く。振舞う狼。
「止まれ」
でも、無視され続けた集団の長が。近づいてくる狼の足を、一声で止める。意識をそちらへと向ける意味でも。今まで聞いた事もない声音。冷たい、アドトパの声が場を満たす。
「その身で、私のフィアンセになんの用だ」
囲む形で、銃を構えていた蜥蜴の人達が一斉にこちらを見る。やめて。僕も、聞き捨てならない部分を耳にして。イケメン蜥蜴を見上げる。隊員全員が狼へ向けた銃口は、ブレていないのが凄かった。唯一、いつも店まで護衛していた一番背の高く筋肉も凄い部隊長らしき。片目に傷のある蜥蜴の人だけが、振り返らず。あちゃー、と。自身の顔を手で覆っていたが。
「いや、送り狼したいだけなんだけど。邪魔しないでくれる? 毛無し」
「毛玉がなにを。見ての通り、私の部下で間に合っている。お引き取りを」
見えない火花が散っていた。ガカイドもガカイドで、わざわざ送り迎えの事を。そのように言うから、余計にアドトパの尻尾が不機嫌そうに床を叩く。隊長が溜息を吐いていたから、隊員同士が顔を見合わせて。どうしたものかと、状況に困っていた。どうやら、隊長以外僕の事は知らされていなかったのか。そういえば、一度も護衛の顔ぶれが変わった事がなかった事に気づく。蜥蜴の顔が複数、キョロキョロする姿は。なんだか絵面としては面白いのだが。全員が戦闘能力があり、銃を構えているのだから。微笑ましく見てはいられない。それとガカイド、毛無しと言ってしまえば。僕もそうだからその蔑称はどうなのか。
もしかして獣型と爬虫類型のレプリカントでは、お互いに遺恨があるのだろうか。実際に、蜥蜴の人はこの集団以外見た事がないし。後、フィアンセではないです。
「……ルルシャ?」
状況は第三勢力の介入により。さらに混沌と化す。ガカイドが立ち竦んだ方角とは反対。ポイントマンの人が先導しようとした先。そこに夜間でも輝きを失わない、最近僕の手によっていっそう増した毛並みを持つ。男が立っていた。部隊の人達の全員が、後方へと銃を向ける。彼が声を発するまで、訓練された隊員達が気づかなかったと焦っていた。それでも、動き自体に乱れはない。
「ガルシェ」
僕の声に敏感に反応した、銀の狼の耳。白いTシャツと、その上に黒い革ジャンを羽織り、青い酷く破れたジーンズを履いた。いつものスタイルで。僕を見つめている銀狼。素早く琥珀に似た瞳が動き、状況を見て。毛を逆立てた、ガルシェ。隊員達が発していた以上の、圧が。たった一人によって場を覆った。
「若、あれは、マズい。こちらにも死人が出ます。あまり挑発しないようお願いします」
「それほどかい」
「はい」
部隊長である傷ありの蜥蜴が、アドトパにそっと耳打ちして。小声で話しているのを隣にいる僕にも、それは当然。街中だからか、ガルシェは武器を持っていなかった。なのに、警戒している蜥蜴の人達。銀狼の視線が、僕の肩を掴んでいるアドトパの手だと気づいたのか。そっと離される。緊張感を保ったまま。けれど、相手がガルシェだと知ると逆に僕はとても落ち着いていた。さっきみたいに、渦中の真っ只中にいるのに蚊帳の外であったのと違い。僕の明確な、保護者である人が現れた事によって。
大股で近寄って来る銀狼。それを警戒しながらも、道を譲る蜥蜴の隊員さん。銃を構えている相手に一瞥もくれる事なく、ただ真っすぐに。僕の元へと歩いてくる。ガカイドの時と違い、アドトパはそれを止めなかった。肩を掴まれていないから、僕もそれで前に出る事ができて。目の前に来た、銀狼。見上げていると、すっと膝を地に着ける。そうする事で漸く、目線が合う。だから、そこで彼の名前を呼ぼうとして。伸びて来た腕が、声を発する前に。僕を引き寄せて。今日は、なんだか。いろんな人に抱きしめられてばかりだな。と、余裕の戻った思考でそんなどうでも良い事を考えて。
頬へと、狼の柔らかい毛が当たる。目を瞑った彼が、僕へマズルを擦り付けていた。そんな行動に正直驚いた。本当の狼みたいな仕草に。それをガルシェが、ただの居候の身である僕にしているのが。だ。
「帰ったら家にいないから心配した」
「ごめん」
「なにも、されていないな?」
「うん」
短いやり取り。でも、それでガルシェには十分だったのか。僕の足が地面から離れる。僕一人で、まさかこんなおおごとに。たくさんの人を巻き込むとは思ってもいなかった。ただ逃げただけなのに。逃げたせいで。その逃げた相手に助けられて。本当、情けない。また抱えられてしまった。姿勢を保つ為に、狼の大きな頭を掴む。背の高い人ばかりに囲まれていたのに、今だけ、僕が一番誰よりも目線が高かった。そうすると、蜥蜴さん達よりも向こう側。赤茶色の狼が居た筈の場所は、もう誰もいなくなっていて。なにも言わずに、消えてしまったんだ。お礼も言えていないのに。ガカイド。
「毎回彼に付着していた獣のにおい。なるほど、私がさんざん口説いてもなびかないわけだ」
誰とも目線を合わせず、僕を回収したらさっさと立ち去ろうとするガルシェ。そこに、アドトパが意味深な発言をして。珍しく、背の高いイケメン蜥蜴を見下ろすと。肩を竦めていて、苦笑いしていた。振り向いた銀狼は横目に。推し量るように、暫く蜥蜴を見つめた後。
不機嫌なのを隠しもしないガルシェ。僕には意味のわからない内容であった。人間の感覚では馴染みのない、彼らレプリカント同士で交わされる。もう一つの言語とも言える。におい情報。犬は、嗅覚で物事を、見ると言う。僕には、そこまでの嗅覚はなくて。逆に人間は色彩の判別能力が高く。嗅ぐ事よりも、見る事に長けている。
だからといって、こうして。細かい表情の変化を見て物事を全部知る事などできないのだが。狼と蜥蜴の会話内容を理解するには、何かが足りなかった。狼の睨みつける視線を、受けながらも飄々とした蜥蜴。僕が見つめている事に気づいたら手まで振られる。
それで終わりであった。アドトパがそれ以上何かを言うわけではないと悟ったガルシェは。ならば立ち止まる理由はないと、歩きだしてしまう。遠ざかる蜥蜴の集団。薄暗い路地から、明るい表通りへ。
そうやって、暗くなっても活気ある人々がいる場所に出ると。そこで狼の頭を叩く。手のひらで軽くしたら無視されそうであったから。グーで。
「ガルシェ、降ろして」
「迎えに来た奴に対して叩くな、おい」
片目を瞑り、僕の手から逃げるように。狼の頭が遠ざかる。そうして、彼に抱きかかえられていた身体はゆっくりと降下して。地面へと自分の足で立つ。息をすれば、裏通りのどんよりした空気とは違う気がした。気分的な問題だとも思うが。やっと戻って来れたと、それで実感する。今の、僕の日常に。ガルシェがくれた、日常。いつ崩れるとも知れない危うい、それ。
「よく、僕の居場所がわかったね」
銀狼を見上げると、少し考えた後。狼の手が、自身の鼻を軽く人差し指で叩く。前にもされた仕草。それで僕も納得して。
「路地にお前の焦った汗のにおいが入っていくのと、その後に複数人の知らないにおいと。火薬の、銃のにおいが続いてたからな。何かあったんだと、急いで来た」
「……すごい」
そこまで、わかるのか。やはり、彼に見えている景色はまるで違うのだな。もやもやと、色が付いた煙が漂っている感じだろうか。それに近付けば、誰かの名前が浮き上がって。本当に、景色が違うんだな。ちょっとだけ、羨ましい。そうやって狼の、少し湿った黒い鼻を見つめる。
「お前の考えている事もにおいでなんとなくわかるぞ、嘘ついてたり。エロい事考えてる時は特に」
尊敬の眼差しで見つめていた僕の表情が固まる。そこまで、わかるの。まって、知らない内に頭の中を覗かれているに近い事をされていると知って。ちょっと慌てた。だって、他人に言えない事の方が多いのに。自分の記憶がないとはいえ、僕は結構失礼な事を考える事が多い。だから、もしも、それが知られているとなると。とても、嫌だった。
僕が慌てだすと、目の前の狼は反応を楽しんでるようで。尾を揺らす。
「まぁ、なんとなくだけどな。さすがに、詳細まではわからない。嫌そうだなとか、嬉しそうだなとか。ざっくりとだ」
そうなんだ。良かった。全て筒抜けなんじゃないかと思うと、とても恐ろしかった。バレていないと知ると、ホッとする。部屋汚いなとか、不潔だなとか。そのまま考えている事が伝わってなくて。良かった、バレないで。本当に良かった。
あまりの僕の慌てようから一変、良かったと落ち着いていると。訝しんだ銀狼が、顔を寄せてくる。眉間の皴が深く刻まれて。そこまで失礼な事は考えてないよと、弁明するけれど。信用ならないと、ジト目でずっと見下ろされる帰り道。久しぶりに、ガルシェと一緒に帰る。空を見れば、星がたくさん輝いていて。今何時だろうか、だいぶ遅くなってしまった。いつも暗くなる前に僕だけ先に仕事を切り上げ帰してくれるのに。二つのそれぞれ大きさの違うブーツが石床を踏みしめる音が、夜の市場に響く。暗くなってもしぶとく営業していた露店すら、店仕舞いをしてしまって、いつもは細い道がだいぶ広くなっていた。それを贅沢に、二人横に並んで歩く。昼間だと、もっと距離を詰めて歩かないと肩がぶつかりそうだし。
「ガカイドに会ったのか」
歩いてる途中で、そう問われる。彼の立ち位置だと蜥蜴の集団が壁となって、反対側は見えない筈で。僕の傍まで来た時には、その姿は消えていたのに。そこまで考えて、ついさっきの会話を思い出して。そうか、におい。赤茶色の狼に抱きしめられたりしていたのにだし、嗅覚の鋭い隣の狼にはお見通しなのだろうな。そう思ってにおいは見えないけれど、自身の服を見て。暗がりでもそこに、一本。赤茶色の抜け毛が見えて。においだけじゃ、ないのかもしれない。
そうか、失念していた。人みたいに喋って会話できるけれど、彼らの身体にはもっさもさの毛が生えているのだった。触れあえば、当然付着するんだな。換毛期とか、あるんだろうか。身体大きいし、凄そうだな。掃除、大変だろうな。掃除機も、粘着シートもないから。かなりの大敵になりそうだ。いけない、また余計な事を考えていた。
彼と裏通りで出会い、そして道案内してもらっていたけれど。知らない人に手を出されそうになって、助けてくれたとだけ。それだけをガルシェに伝えた。それ以外の事は、ぼかして。また泣いたなんて、恥ずかしくて言えなかったから。
「本当に、なにもされてないな?」
念を押すように、聞かれる。真剣な狼の表情。押し倒されて、少しそういう雰囲気になりました。なんて馬鹿正直には言えない。実際に彼も本気ではなかったと思うし。そう思いたい。だから、隣を歩く彼に。何もなかったよと。努めて普通を装い、言い返す。嘘もわかると言っていた彼だから、何か感づいている気がした。納得はしていない、そんなふうに。片方の耳が倒れて、見下ろされる。でも、僕がこれ以上は言いたくない雰囲気を察したのか。そこで彼の追及は終わった。前を向く狼。その横顔を少し眺めてから、僕も同じように前を向く。学校とメインゲートへと続く大通りまでいつの間にか来ていた。
「帰ったら、風呂な」
飛び込んで来た、台詞に。せっかく前へと向いた僕の顔は、まるで殴られたかのように横へと。ガルシェの方向へ。それを吐いたはずの狼の口は横一文字に閉じられており、実際は嫌なのか不機嫌そうで。お風呂嫌いの彼じゃなく、通りすがりの別の人が言ったのではないかと。それか幻聴を疑った。けれど、あの低い声は。聞き間違える筈がなく。そして、人間と銀狼二人しか今この場にはいなくて。ではやはり、それを言ったのは。彼で間違いなくて。
なら、今している表情はそのままの通りなのだろう。でも、どうして急に心変わりしたのだろうか。絶対に、僕が言わないと。入ろうとしないのに。そして毎回、手伝うのを条件に。
理由を答えてくれる事はなく。そのまま暫く歩き、家まで着いてしまった。率先して服を脱ぐガルシェ。だから、僕もいつものように。大きなタライを用意しようとして、その前に。僕の服を掴んだ狼の手。
えっ、なに。なんで。
「洗うのは俺じゃなく、お前な。ルルシャ」
目が据わった、狼の瞳。下着すら、一糸まとわぬ姿。遠慮なく、ぶらぶらと揺れている股間。隠せよと思うが。そこで、服を脱がそうと狼の腕が上へと持ち上がろうとして。すかさず人の手が押さえ、止める。違う、お風呂嫌いなガルシェを洗うなら一緒に入るのもわかる。でも僕は、自分一人で入れて。なんなら冷水とはいえ、お風呂自体は好きで。水が贅沢に使えないから毎日とはいかないけれど。銀狼よりは入る頻度は多い。だから一人で入る事の方が多い。よって、君の助けは必要ない。あと、服が伸びる。離して、ガルシェ。
「心配かけといて。さらに蜥蜴と、別の雄の臭いをつけたまま、俺の縄張りでそのままのつもりかよ」
あ。怒ってた。ガルシェ、帰りが遅くなった事に実はとっても怒ってた。でも、人間である僕にはそのにおい自体はわからないけれど。ある意味不可抗力であって。だから、一人で入るのは許して欲しい。心配かけた事については、指摘されると反論の余地はないのだけれど。発端が話しかけられるのが嫌で逃げたという、しょうもない理由であったのだし。家の中を縄張りと称するのは、ちょっと動物っぽくて可笑しいなと。微笑ましい気持ちにもなる。実際にそれを言っているのは狼の顔をした人なのだけれど。
本気になれば吹き飛ばせる膂力がある腕に対して、僕の細腕で抵抗する。これ以上服が持ち上がらないように、お臍が既に見えているとしても。だいぶ手加減はされていた。実際に本気でやれば、僕は吹き飛びながら、服はズタズタになりそうだし。それは当然で。
でも結局、彼に無理やり脱がされる形で。いつもは銀狼が精一杯身を縮こまらせて入っている大きなタライ。そこに体育座りして、頬を膨らませてながら入っている。人間。どうしてこうなったと、憤慨するけれど。後ろで鼻歌を奏でている、狼はとても楽しそう。嫌がる彼を、僕が普段洗っているのだから。逆となれば、新鮮なのだろうか。石鹸を手に取り、毛と肉球がある手でわしゃわしゃと泡立てていた。それを目で追い、そのまま近づけてくるから。ぎょっとする。洗う用の布がある筈なのに。確かに、彼には天然のブラシとも呼べる、毛皮があるけれど。背中に触れられた、狼の手のひらの感触。思わずびくりと身体を跳ねさせる。
「おい、動くな。洗い辛いだろ」
マッサージするみたいに、背中を擦りながら。抗議の声が後ろから届く。僕の身体に対して、彼の手は大きく。続いて腕を取られると簡単に指が一周し、そのまま動かせば満遍なく肉球が擦れて。何とも言えない刺激が襲う。そして、肩、首筋と。本当にただ洗われているだけであった。あったのだが。ただただ、手で弄られている感がいなめなくて。身じろぎしてしまう。擽ったかったり、言い表せられようのない。不思議な刺激。驚いたのが、それがそのまま脇から、前へと伸びた手が。僕の胸まで及んだ事で。
これには声に出して、止めに入る。前はせめて自分で洗わせて欲しかった。僕が彼に対して洗っている時も、さすがに前は自分でさせているのだし。
「胸、ねぇな」
女の人の乳房をまるで揉むように、そうされながら。耳元にはとても呑気な声。横目に見ると、すぐ近くに狼の顔があった。意識しては駄目だ、駄目なのに。どうしても愛撫のように感じてしまって。肉球が、乳首を掠めた時。つい、鼻にかかった息を。そうすると、耳元で狼の鼻が鳴る。お風呂場に立ち込める洗剤の匂い、そこに混じる僕の感情のにおいを嗅ぎ取ろうとする動き。その仕草に、余計恥ずかしくて。呑気に尾を揺らしていた狼が、それで沈黙してしまって。洗っていた手も少しぎこちなくなる。
でも、暫くすると。動きの滑らかさが戻って。ただ何も言わなくなって。行動は続けられる。洗う為に擦れる音に時折混じる、狼のにおいを嗅ぐ音が若干頻度が多くなったような気がして。熱が、頬に集まって。胸を洗っていた手が、お腹を。そしてそれよりも下へ行くのかと、それだけはと。そこで漸く彼の手を僕が掴む。そして目を瞑った時には。
「水、かけるぞ」
平坦な声でそう言うと。素早く手の中から逃げていく狼の大きな手。そして数秒と間をおかず、頭から豪快に水を掛けられて。彼ほど泡立たない人の肌を覆う白が、流されていく。そうしたら、別の色白の肌が。水気を纏って。
「……終わったぞ」
目を開き、そして振り向いたら。ガルシェの、無表情な顔が出迎えて。タイルの上に膝立ちで、何も身に着けていない。男の裸体。片手にシャワーノズルを持っただけの。姿。
「う、うん」
それに、先程の一瞬見せた狼の手ぐらいぎこちない返事をして。前を向く。後ろで道具を片付ける気配に、君は洗わないのとか。そういう事を言う余裕はなくて。ただ、大きなタライの中で俯く。体育座りしているのだから、目に入るのは僕の膝。ぽたぽたと、そこに前髪から水滴が落ちていく。上がった心拍数が落ちつくのに任せて、ただその水滴を目で追っていた。そうしないと、冷水で洗われたのにのぼせそうであったから。
振り返った時に目に入った。彼の股間。普段は毛皮の鞘に隠れた生殖器。それが少しだけ、顔を出して。赤い先が、見えてしまったから。なんで、後ろの男が。その部位が興奮を表しているのか理由がわからなくて。生理的なものだと、自身を納得させようとして。でも、お風呂に一緒に何回も入っているのだから。当然なんども見た事のある彼のそこ。そして初めて実際に見た、変化。心臓の音が、うるさい。
性的な事はなにも、されていない。本当に洗われただけであった。片付けたら。そのままガルシェはなにも言わずお風呂場から立ち去ってしまって。混乱しているのは僕だけで。僕がお風呂場から出たのは、彼が出てから、だいぶ後になってしまった。
腕と足しか濡れていないから、手早く拭き終わったのか。ソファーで寛いでいる男の姿。もう普段通り、ジーンズだけ履いて、上半身は裸のままのとてもラフな格好。いつも通り、机を挟んで座ろうとして。銀狼が自身が座るソファー、そのすぐ隣を軽く叩いていた。それは隣に座れと、示していて。これまでに、彼にそこに座る事を促された事がなかった。たぶん、別に許可がなくても気にはしないのだろうが。真っ先に彼が座るから、指定席とばかりに。対して僕が対面に座るから、それが自然な形であった。だから、いつもと違うパターンに、戸惑う。戸惑うけれど、再度ソファーを叩かれ、急かされる事で。おずおずと、隣まで近寄り。そして、座った。思ったより、柔らかく僕を受け止めてくれる大きなソファー。銀狼がたまに、足だけ飛び出した状態で寝る事ができるサイズ。体格の大きなレプリカントの男と、人間の男の子が座っても。少しだけ余裕があった。ガルシェが二人座ったら窮屈だろうけれど。
そうして、肩を抱き寄せられて。彼の脇腹に僕の上半身が密着する。何をするのかと、見上げていると。黒い鼻が近づいて、しきりににおいを嗅いでいた。その嗅ぐ表情は、別にえっちな目的でもなんでもないのか。とても真剣な顔をしていたから。やめてよと、言う隙がなかった。額を嗅ぎ。髪を、そして耳を通り過ぎる時。鼻息が少しこそばゆい。首筋に辿り着くと、恥じ入ってしまう。他人にそのような場所をと。
「……ガルシェ」
声を掛けると、返答の代わりに。狼の耳が一度震えて。鼻先を首筋に突っ込んだまま、上目遣いで金色の瞳が僕を見た。それだけであった、行動を再開され。一つ、納得がいったのか。最後に、迎えに来た時と同じように。マズルを擦り付けて。その時の表情は、目を瞑っていたから何を考えているか。その瞳の中に湛えた感情を窺い知ることははできず。
それも終わると、抱き寄せられていた肩から手が離れて。身を起こした狼の顔が離れていく。
「俺がマーキングしているから、そうそう手を出されないとは思ったんだが。自分から裏通りの方へは今後行くなよ、意味がなくなる」
「あ、うん。ごめんなさい」
心配して、そうしてくれていたのか。普段は一緒に寝ているから、別にこうして擦り付けなくても自然とついていて。もしかして、普段から一緒に寝てくれる意味は、そういう事だったのかと。マーキングというと、動物が自身の縄張りを示す為に。尿や、木に爪痕を残したりするけれど。そうか、彼らはにおいで情報を交換する文化があるから。これも、れっきとした。咄嗟に謝った後に、これまでの彼のおこないを考えてみていた。守ると、言ってくれた彼だけれど。昼間は仕事でいないから。こうして、違う手段で。守ろうとしてくれていたのかと。
「もっと、強いマーキングの仕方もあるけど。それは、さすがにな……」
途中で言葉を濁した銀狼。マーキングの意味を丁度考えていた僕は、それで良からぬ事を想像してしまう。目の前で喋る狼の口を、正しくは少しだけ覗く舌を、牙を見て。そして、先程のお風呂場での出来事と。自身の唇が震えるのを感じる。隣に座って、とても近い距離に居るのだから。僕の表情の変化はよく見なくてもわかってしまったのだろう。わざとらしく、鼻先を寄せ。ひと嗅ぎ。
「今、エロい事考えただろ?」
意地悪な狼の顔がそこにあった。慌てて首を横に振るけれど、全てお見通しで、嗅ぎ通しの狼の鼻は誤魔化せなかった。ニシシと口の端を持ち上げて笑う姿に。揶揄われたと悟る。もう。両腕で、笑い続ける狼の頭をポカポカと叩こうとして。あえなく腕でガードされる。太い二の腕を崩す事は、僕の細腕では難しく。逆に伸びて来た狼の手が、脇腹に潜り込んで。擽られるハメになってしまった。ソファーの上でじゃれ合う人間と狼がそこに居て。僕が降参だと、声を上げて。それでやっと解放される。息切れする呼吸。ジタバタと足を振り動かしたのと、ガルシェがかなり悪ノリしたからか。空中に少し、銀の毛が舞っていた。それを吸い込んで、くしゃみをしてしまう。
そうすると、再び伸びて来る。狼の手。それは脇腹を目指していたから、追撃かと。身構えて。でもそうはならず、ただ優しく掴んで。持ち上げられる。そうすると、股を開いた彼のちょうど空いた空間。そこへと置かれて。そのまま後ろから、彼の腕がお腹へとまわる。最後に、頭頂部に狼の顎が乗せられて。生乾きの髪、頭皮に、顎骨の感触。
「ちゃんと拭かないと風邪ひくぞ」
そういえば、いつもより拭き方はおざなりになっていたかもしれない。でも、くしゃみをしたのは別に寒さを感じてではないのだけれど。なにかと、ガルシェは僕に過保護な気がした。子供扱いされていると、言えば。そうなのかもしれなかったが。背に、厚い胸板を感じる。そして、僕よりも高い体温と。こうして、人間の僕では密着しないとあまりわからないけれど。ガルシェのにおいを感じて。これを自分は、常に身に纏ってるのかと。再認識すると、少しだけ恥ずかしい。恥ずかしいけれど、僕を守る役目もあって。そして、それに今包まれていると。安心している自分を見つけた。
家族ってこういうものなのだろうか。親の記憶すらない僕には。よく、わからないのだけれど。一緒にご飯を食べて、同じベッドで眠る。兄弟とも、親子とも言えない。よくわからない、友達、ともなんか違う気がする。一番それが近い筈なのに。
頭の上に、狼の顔が乗っているから。若干重い。でもその重さが、ちょっとだけ、良いかもしれない。この温かさと、重みが。誰かが傍に居てくれると、強く実感できるから。
「ルルシャ」
彼が喋ると、その振動が直接僕に伝わる。顎を乗せているのだから、当然か。優しい声音。最近、二人っきりだと僕の名前を呼ぶ時の彼の言い方はとても優しい。もし、彼が番を得て。子供ができたら、こんなふうに、呼ぶのだろうか。
それを想像して、とても口が悪いし、掃除ができないけれど。なんやかんやいい父親をしそうな気がした。そして、隣に立つ、雌の狼の姿を想像して。その間にいる小さい狼と。ガルシェと。彼が求める、幸せが。そこにあるのかなって。
「腹減った」
あ。そんな羨ましいと感じる。光景を想像していると。ガルシェの唐突な要求で中断されて。そういえば、時間は遅くなってしまったけれど。まだ、僕も、そして待っていた彼も。晩御飯を食べていなかった。僕が家事をしているから、待っている間一人で食べもせず。そのまま探しに出てくれたのだろう。お腹を空かせた狼が、背後にある空腹の虫を鳴らしていた。
頭の上に乗っていた顎が退けられたから、振り向き。肩に彼の常に身に着けているネックレスが乗っているのに気づいた。その意味合いは、とても重いのだなと。そして、見上げると。空腹に困り果てた。元気をなくした耳と、こちらを見つめる狼の瞳。
大人の一面を見せたり、こうして子供っぽいところもあったり。体格は勇ましいのに。それがガルシェという男だった。自分で作るという選択肢はないのか、僕に作ってと訴える子狼のような仕草。正直、今日はいろいろあって疲れていたけれど。でも、それでも。そんな姿を見ていると、したくなるのだから。今日は僕がしょうがないなと、そう言いながら彼の腕の中から抜け出す。そうすると、期待の籠った眼で。ソファーの背もたれとに挟まれて大人しくしていた尾が、暴れていて。
今日は何を作ろうかな。そう考えながら、僕は馴染んだ台所へと。自分の持ち場になりつつあるそこへと。立ったのだった。
「んー、なんでだろうな」
楽し気に、尾を揺らし。組み付いた僕を見下ろす狼の顔がとても近い。木箱に二人して座ってた筈なのに、血が止まったのを確認したガカイドは。突如、僕をそのまま木箱の上に押し倒した。腕を縫い留めて、上半身だけ上に被さる形で。だから足だけは木箱に添うように、ただだらりと垂れているだけであったから。自由だ。蹴る事はできた。だがそれをするには迷ってしまった。行動の真意を知るまでは。問答無用で、抵抗してもいい筈なのに。早々絆されてしまったのだろうか。それをするのを躊躇するぐらいには。
「刻印を押された者は、番を得る資格を失うわけだけどさ。ルルシャ。でも雄同士なら別に問題ないわけよ、これ、どういう意味かわかるか」
上半身裸の狼に、真上からそう言われ。目の前に彼のネックレスが揺れていた。もう、雌の狼に渡す事の叶わない。本来の意味を見失ったそれが。この体勢はある意味、その証を見せつける事にも一役買っていた。彼が屈めば屈む程、近づいて装飾品である動物の牙部分が鼻先に触れる。
「俺様の物になれよ」
「嫌です」
「なんで、敬語なわけ? 収入の安定しない雄は嫌ってか。どうせ、ガルシェの気まぐれで飼われているお前が。いずれここに来る事になるのは、お前だってわかってるだろ。守ってやるぜ、ルルシャ」
「僕の事、嫌いって言ってたじゃないですか」
「そうだっけか」
飄々と答える狼の獲物を見る目が、細まる。ただ、優しい人に。優しくしたいだけであった。それが、なぜこうなるのか。本当に、悪い意味でこの狼は僕の予想を裏切ってくれる。少し前の自分に少し後悔させないで欲しい。こうなるとわかっていたら、しなかったのに。瘦せ細っていても、体格は向こうの方が大きいのだから。組み付かれたら、もうどうしようもない。あの時と全く一緒であった。ガルシェの家で、最初に押し倒された時と。あれは、ただ揶揄う為に。そうされただけであったが。今はそうではない雰囲気を纏っていて。遊んでいるようであり、楽しんでるようであり、でも本気で言っている気がした。でも屈する気も、素直に頷く事もしない。別にもう、ガカイド。彼自体を嫌いだとかは、そこまで思ってもいなかった。これは、僕の問題であったから。
「ガカイドが、じゃないよ。僕がただ、好きでもない人の。申し出には、応えられない」
はっきりと、もう一度断る。一字一句強調するように。野生の狼さながらの、強い瞳に。僕も負けじと、なにもできない癖に。睨み返す。勘違いさせないように。ああ、最初から。アドトパにもこうしていれば良かったのか。
変に期待を持たせる前に。ちゃんと向き合って、返事すれば。そうしたら、ずるずると。あのようには。そうしたら、ただの友達として。
睨み合いが続く。一種即発とも言えるけれど。肉体言語になれば、僕に勝ち目はない。というかこの体勢になった時点で、僕の意思を無視してガカイドは好きにできた。できてしまった。服を乱暴に脱がし、犯す事だって。できるだろう。ちょっと動かそうとしても、びくともしない両腕が。たとえ自由な足で蹴ろうとしても、有効打を与えれるとも思えない。だから僕は、また泣き叫んで。やめてくださいと。そう乞うのが正解な気もした。気もしたけれど、彼に対してそれをするのは間違いだと思った。ただ、真正面から正直に自分の意見をぶつける事。林檎を差し出した時と一緒であった。
彼が言っている事は正しいのかもしれない。ガルシェが、僕を膝元に置いているのも。利用価値があるからだ。彼も、優しいとは思うが。その優しさだけではないのは知っている。でも違うんだ。僕が彼を信じたいのだ。そして、無理やりに、僕をどうにかしようとは。本当は思っていないのじゃないかと。そう思うのだ。目の前の、もう一人の優しい狼は。
これは僕の勝手な推測であり。勘違いなのかもしれない。次の瞬間には。ズタズタに服を引き裂かれて。肌を爪と牙で脅され。いいようにされているのかも。
見下ろしている狼の表情が、無表情になったまま。口元が震えている。そうして、何か言おうとしたと思う。でも、ガカイドがそれを言う前に。別の方向からこの場を割って入る不埒者が居た。
「ガカイド、俺達も混ぜろよ」
声にいち早く反応した、目の前の狼は。素早く僕から離れ、声の方向へと向く。僕も遅れてそちらを向くと、僕とガカイド二人だけだった狭い路地に。さらに二人。大型のレプリカントの男が立っていた。
「……お前ら」
「なに、珍しい人間じゃんか。ズルいぜ一人だけ味わおうなんて」
反応から、知り合いのようであった。けれど、ガカイドは嫌なタイミングで会ったのを隠しもしない表情をしていて。一度、チラリとこちらを見て。そうして、僕よりも前へと庇う形で。彼らの間に出た。僕の横を通り抜けるさい、小声で合図をしたら逃げろとまで。彼らに聞こえないような声量で。でもガカイドが僕を庇ったから、それで彼らにどういう意味かは察してしまえたのだろう。
混ぜろと言った男と、黙ったまま様子を窺っているもう一人の男の雰囲気に剣呑さが混じる。空気が、ぴりついた。これは、ガルシェの時にも感じた。やっぱり、殺気と言われるものであるのだろうか。それを僕を隠すようにしたから、一身に受けている。赤茶色の狼。ぶるりと、目の前にある尻尾が震え。股に挟まりそうになるも、そうはならなかったのを。後ろに居る僕には見えてしまって。ガカイド、どうして。
「この子は俺が送っていく予定なんだよ、お前らが味わう余地はない。去れ」
「なに、なになになに。烙印押された奴が、俺達に指図すんの?」
ガカイドの背後から、そっと前の状況を顔だけ出して見てみると。確かに彼らは痩せていなくて、着ている服の下までは見えないが烙印はなさそうで。でも、傷だらけの顔をしているから。表通りの住人ではないのだなと、ひと目でわかった。片耳なんて、鋭い物か何かで削がれていたし。そうしていると、僕の胸を狼の手が押す。出て来るなと、前から視線を外さず。そう言っている気がした。
「いくら元候補生とはいえ、痩せ細った身体で、二人相手に敵うと思ってるのかよ」
少しだけ、姿勢を落とした相手に対し。ガカイドは片足を引き。腕を前へと。ファイティングポーズを取る事で答えとしていた。どんどん張り詰めて、いつ弾けるともわからない空気。お互いに武器は持っていなかったけれど。爪と牙がある、レプリカント同士の喧嘩が。只では済まないと思った。僕を守りながらでは不利だ。だから。
「行けっ!」
ガカイドが、火ぶたを切るように叫ぶ。それで僕は一目散に後ろを向き、道もわからないのに駆けだした。背中から男達が何か言うのと、それを遮るように硬い物を打ち付ける鈍い音と。そして、一人分の足音が遅れて追いかけてくる。
走る。走って、走って、転びそうになるのを堪え。走る。どれだけ走って、角を曲がり、ゴミ箱や木箱を避けながら走り続けても。後ろから迫る足音は消えない。何度目かの角を曲がり、そうして。通り過ぎようとした横道から素早く誰かの腕が伸びて来る。先回りされたと。焦る僕は止まる事も、避ける事もできず。呆気なく捕まって。そのまま暗がりに引きずり込まれる。
そして、口元を覆う。鱗を纏った大きな手。乱暴にではなく、包み込むように抱き込み。ただ、静かにと。耳元で、若い男の声がした。言う通りにしたわけではなく、びっくりして黙っていると。追いかけていた足音が迫る。
そこで、彼の大きくて太い尻尾が。僕を覆い隠す形で、前から被さり。そうして、先っぽを蜥蜴の頭が咥える。まるでリング状に、なった姿。その中央には抱き込まれた僕と。アルマジロトカゲの意味をなんとなくこの時察した。
僕達がいる横道にある暗い路地ではなく、一直線に通り過ぎていく。追いかけていた大男。目の前を通り過ぎるさいに、目で追ってしまって。冷や汗が出た。でも静かにしていると、足音がやがて聞こえなくなって。それで、自身の尻尾を咥えていた蜥蜴の顔をした男は。僕と一緒に解放する。咥えていたから、それで漸く喋れるようになって。見上げた相手、アドトパは。良かったと、笑いかけて来た。
「どうして、ここに」
「声を掛けようとしたら、裏道に入っていくのが見えたから。ルルシャみたいな子がこちらの方に来るのはあまり、オススメできないし。お節介かもしれないけれど、追いかけてきた。ただ、ここはいろいろな不快な臭いが混在していて、君を見つけるのに苦労した」
ああ、バレていたのか。どこに逃げたかまで。それで、僕が避けてしまった事実が。あったのだと、思い出した。
「逃げて、ごめんなさい」
「いや、ルルシャが私の事を苦手なのは気づいてたから。気にしなくていいよ」
え。気づいてて。今まで求婚まがいの事をしていたのかと。蜥蜴の顔を見上げながら絶句する。ニコニコと、笑顔を張り付けて。言ってのけるイケメンから、つい距離を取ってしまった。一応助けてくれたのに、お礼も言ってないけれど。怖い。
「いやはや、予定が押していて。明日にはここを発つ事になったのに、お別れを言いたかっただけなのにな。邪魔者は本当に、邪魔な時に訪れるものですね」
僕を見ていた蜥蜴の目線が、僕を超えて。その後ろへと向く。それで、僕も気配を感じて。後ろへと顔を向けると。目を血ばらせた、レプリカントの男が。こちらを睨んでいて。息を荒らげ、懐からナイフを取り出していた。
「意中の相手を口説くならもっと花とかにするべきだと思うのですが。本当にここは乱暴な人が多いですね」
「うるせえよ蜥蜴野郎。さっさと荒野に帰りやがれ、その人間は貰う」
離れた僕を追いかけて、自然な動作で。隣に立つアドトパ。僕に話しかける調子とは、また違った喋り方だった。また、庇う形で盾のように尻尾で僕を覆う。喋る為か、こんどは先を咥えていなかったけれど。もしかしてこの人、実は強いのだろうか。
「喧嘩は弱いので。刺されたら、私。死んでしまうのでやめて欲しいのですが……困ったな」
違った。希望を抱いて見上げていた僕は、絶望感を抱く。そんな僕に対して、余裕の表情を崩さない。困ったなら、もっと困ったなりに慌ててくださいと。抗議の声を上げたかった。そんな時間、眼前に迫る男が許しはしなかったが。雄叫びを上げて、迫る刃。走りこんで来る、勢いのまま、刺されたら。痛そうなだなと思う。僕を庇うようにして、隣にアドトパがいるけれど。せっかくガカイドが逃がしてくれたのに。無事だろうか彼は。無事だといいな。僕はこれから捕まって、酷い目に遭わされるとしても。彼が無事ならそれでいい気がした。僕を逃がしてくれた彼には。
そして、今まさに僕を庇おうとしてくれている。蜥蜴の男も、怪我などして欲しくないのに。目の前の尻尾を、掴んで。退ける。それで余裕の表情が崩れて。蜥蜴の男が慌てたとしてもかまわなかった。前へと、庇われてばかりの僕が。ナイフへと、アドトパよりも先に出ようとして。劈く銃声。はじけ飛ぶ地面、それは刃物を持った男の足元。
「若、貴方弱いんですから。あまり離れないでくださいよ」
また、人が増えた。それは四方八方から。僕らを取り囲む形で。そして、全員が蜥蜴の顔をしていて。銃を構えていた。刃物を持った男に対して。刺そうとしていた男の動きが止まり、周りを見渡していた。状況を飲み込めていないようで。それは僕も同じで。そんな人間の肩を叩く、手。アドトパの。銃を持った男達の中に一人、見知った顔を見つけた。いつも、お店の少し離れたところから警護していた。護衛の人だった。
「よーし、毛むくじゃら。良い子だからそのナイフを置きな。でないとそのご自慢の毛が紅く染まるぜ」
部隊の一人が、そう声を掛ける。どこか、おままごとでもしてる感じに軽い調子で。でも、その視線は。銃口に負けていないぐらいで。相手をそれだけで殺せそうであった。覇気を纏った蜥蜴の顔は、とても怖いのだなと。隣に立つ細身のイケメン蜥蜴と違い。筋肉隆々の蜥蜴達は皆、身体のどこかに傷をこさえ。鱗が欠けてもいた。でもその鋭さは損なわれていない。
形勢は一瞬で逆転していた。だから、勢いを失い。逆に恐怖に震える男は。手から力が抜け、刃物を落とす。カランと地面にぶつかるナイフ。その音ですら、びくりと身を竦ませて。悲鳴を上げながら、どこかへと走り出す。その背が見えなくなるまで、誰も銃の構えを解く事はなく。銃口がずっと男の背を追いかけていた。統率の取れた動きだった。
アドトパが、合図に手を軽く叩くと。それで、場を満たしていた威圧感が消える。でも、全員が路地の各所へ目を配るのは忘れない。背をこちらに向け、囲まれる。完全警護体勢であった。狭い路地であるから、全員が立ったままだと射線を潰されるからと。邪魔にならないように、何人かは膝立ちになる用意周到さで。まるで、どこかの特殊部隊さながらの素早い動き。ただアドトパが合図一つしただけ、それでここまで声を掛けるでもなく人は動けるものなのか。一つの生命体のように。
「若。早めにここは立ち去りましょう。獣臭くてかないません」
「そうですね。ルルシャ、帰ろうか? それとも、このまま丁度いいので初夜としゃれこんで。近場の宿屋へ共にするのも手かな」
「若っ!」
移動しようとする蜥蜴の団体。それを率いるアドトパ。本当に、凄い人なんだなと思った。この人に、付き従う人皆が。誰もがアドトパよりも強そうなのに。忠誠心の高さが窺えた。軽口を叩くけれど、この人はその気はこれっぽっちもないんだなと。理解した。背中を押す手が、先導するポイントマンの方角だったから。きっとその先が、大通りへと帰る道なのだろう。
いや、少しぐらい。僕がまんざらでもない反応をすれば、連れ込まれそうな気がした。尻尾を地面に擦りつけ、嬉しそうにするイケメン蜥蜴が上から覗き込んで来るから。本当なら、このまま帰りたい。帰りたいけれど。先程まで一緒に居た彼の事を思うと。そうするにはとても。だから声を上げていた。助けられた身で、とても厚かましいとも思うが。それでも、彼らなら。
自分からアドトパに触れていた。彼の服を掴んで、お腹の部分。服が伸びてしまうと、そんな事も気にせず。どうしたのか不思議そうにする蜥蜴に、必死で。
「……その必要はないみたいだ」
僕がガカイドを助けて欲しいと。そう追いすがっていると、アドトパが別の方向を指差す。それは暴漢が消えて行った、僕が走って来た道。その暗がりから、歩いてくる影。その姿が明確に見えるようになると、僕が助けて欲しいと願った。その人物で。
頬を擦りながら、それでも大きな傷はないのか。赤茶色に鮮血は散っていなかった。良かった。本当に。無事で。それで、彼の元に走り寄ろうとして。僕の肩が固定されたように動かなくて、一歩を出そうとして止まる。どうして。横を見ると、しっかりと掴んで離さない蜥蜴の手。一斉に、下げていた銃を構える護衛の人達。そして、普段の少し高いと感じる。青年の声が。少しトーンを低くして。
「刻印付き、か……」
そう言っているのを、隣に居る僕は聞こえた。差別的な目線をさせた。アドトパの顔を見上げる事しかできなくて。待って、その人に。なんで銃を向けるの。止めてよ、アドトパ。やめて。
「ルルシャ、無事かぁ」
銃口を向けられているのに、呑気な声が場に響く。喋ると痛むのか、頬を押さえた狼の顔。殴られたのか、ちょっとだけ近づいてくれただけで唇の端に血の跡を見つけた。でも、これ以上はだめだと、場を満たす圧が膨らむ。無事か問われて、大袈裟なぐらい頷くと。痛むだろう口元が、綻んだ。本当に、僕以外見えていないかの如く。振舞う狼。
「止まれ」
でも、無視され続けた集団の長が。近づいてくる狼の足を、一声で止める。意識をそちらへと向ける意味でも。今まで聞いた事もない声音。冷たい、アドトパの声が場を満たす。
「その身で、私のフィアンセになんの用だ」
囲む形で、銃を構えていた蜥蜴の人達が一斉にこちらを見る。やめて。僕も、聞き捨てならない部分を耳にして。イケメン蜥蜴を見上げる。隊員全員が狼へ向けた銃口は、ブレていないのが凄かった。唯一、いつも店まで護衛していた一番背の高く筋肉も凄い部隊長らしき。片目に傷のある蜥蜴の人だけが、振り返らず。あちゃー、と。自身の顔を手で覆っていたが。
「いや、送り狼したいだけなんだけど。邪魔しないでくれる? 毛無し」
「毛玉がなにを。見ての通り、私の部下で間に合っている。お引き取りを」
見えない火花が散っていた。ガカイドもガカイドで、わざわざ送り迎えの事を。そのように言うから、余計にアドトパの尻尾が不機嫌そうに床を叩く。隊長が溜息を吐いていたから、隊員同士が顔を見合わせて。どうしたものかと、状況に困っていた。どうやら、隊長以外僕の事は知らされていなかったのか。そういえば、一度も護衛の顔ぶれが変わった事がなかった事に気づく。蜥蜴の顔が複数、キョロキョロする姿は。なんだか絵面としては面白いのだが。全員が戦闘能力があり、銃を構えているのだから。微笑ましく見てはいられない。それとガカイド、毛無しと言ってしまえば。僕もそうだからその蔑称はどうなのか。
もしかして獣型と爬虫類型のレプリカントでは、お互いに遺恨があるのだろうか。実際に、蜥蜴の人はこの集団以外見た事がないし。後、フィアンセではないです。
「……ルルシャ?」
状況は第三勢力の介入により。さらに混沌と化す。ガカイドが立ち竦んだ方角とは反対。ポイントマンの人が先導しようとした先。そこに夜間でも輝きを失わない、最近僕の手によっていっそう増した毛並みを持つ。男が立っていた。部隊の人達の全員が、後方へと銃を向ける。彼が声を発するまで、訓練された隊員達が気づかなかったと焦っていた。それでも、動き自体に乱れはない。
「ガルシェ」
僕の声に敏感に反応した、銀の狼の耳。白いTシャツと、その上に黒い革ジャンを羽織り、青い酷く破れたジーンズを履いた。いつものスタイルで。僕を見つめている銀狼。素早く琥珀に似た瞳が動き、状況を見て。毛を逆立てた、ガルシェ。隊員達が発していた以上の、圧が。たった一人によって場を覆った。
「若、あれは、マズい。こちらにも死人が出ます。あまり挑発しないようお願いします」
「それほどかい」
「はい」
部隊長である傷ありの蜥蜴が、アドトパにそっと耳打ちして。小声で話しているのを隣にいる僕にも、それは当然。街中だからか、ガルシェは武器を持っていなかった。なのに、警戒している蜥蜴の人達。銀狼の視線が、僕の肩を掴んでいるアドトパの手だと気づいたのか。そっと離される。緊張感を保ったまま。けれど、相手がガルシェだと知ると逆に僕はとても落ち着いていた。さっきみたいに、渦中の真っ只中にいるのに蚊帳の外であったのと違い。僕の明確な、保護者である人が現れた事によって。
大股で近寄って来る銀狼。それを警戒しながらも、道を譲る蜥蜴の隊員さん。銃を構えている相手に一瞥もくれる事なく、ただ真っすぐに。僕の元へと歩いてくる。ガカイドの時と違い、アドトパはそれを止めなかった。肩を掴まれていないから、僕もそれで前に出る事ができて。目の前に来た、銀狼。見上げていると、すっと膝を地に着ける。そうする事で漸く、目線が合う。だから、そこで彼の名前を呼ぼうとして。伸びて来た腕が、声を発する前に。僕を引き寄せて。今日は、なんだか。いろんな人に抱きしめられてばかりだな。と、余裕の戻った思考でそんなどうでも良い事を考えて。
頬へと、狼の柔らかい毛が当たる。目を瞑った彼が、僕へマズルを擦り付けていた。そんな行動に正直驚いた。本当の狼みたいな仕草に。それをガルシェが、ただの居候の身である僕にしているのが。だ。
「帰ったら家にいないから心配した」
「ごめん」
「なにも、されていないな?」
「うん」
短いやり取り。でも、それでガルシェには十分だったのか。僕の足が地面から離れる。僕一人で、まさかこんなおおごとに。たくさんの人を巻き込むとは思ってもいなかった。ただ逃げただけなのに。逃げたせいで。その逃げた相手に助けられて。本当、情けない。また抱えられてしまった。姿勢を保つ為に、狼の大きな頭を掴む。背の高い人ばかりに囲まれていたのに、今だけ、僕が一番誰よりも目線が高かった。そうすると、蜥蜴さん達よりも向こう側。赤茶色の狼が居た筈の場所は、もう誰もいなくなっていて。なにも言わずに、消えてしまったんだ。お礼も言えていないのに。ガカイド。
「毎回彼に付着していた獣のにおい。なるほど、私がさんざん口説いてもなびかないわけだ」
誰とも目線を合わせず、僕を回収したらさっさと立ち去ろうとするガルシェ。そこに、アドトパが意味深な発言をして。珍しく、背の高いイケメン蜥蜴を見下ろすと。肩を竦めていて、苦笑いしていた。振り向いた銀狼は横目に。推し量るように、暫く蜥蜴を見つめた後。
不機嫌なのを隠しもしないガルシェ。僕には意味のわからない内容であった。人間の感覚では馴染みのない、彼らレプリカント同士で交わされる。もう一つの言語とも言える。におい情報。犬は、嗅覚で物事を、見ると言う。僕には、そこまでの嗅覚はなくて。逆に人間は色彩の判別能力が高く。嗅ぐ事よりも、見る事に長けている。
だからといって、こうして。細かい表情の変化を見て物事を全部知る事などできないのだが。狼と蜥蜴の会話内容を理解するには、何かが足りなかった。狼の睨みつける視線を、受けながらも飄々とした蜥蜴。僕が見つめている事に気づいたら手まで振られる。
それで終わりであった。アドトパがそれ以上何かを言うわけではないと悟ったガルシェは。ならば立ち止まる理由はないと、歩きだしてしまう。遠ざかる蜥蜴の集団。薄暗い路地から、明るい表通りへ。
そうやって、暗くなっても活気ある人々がいる場所に出ると。そこで狼の頭を叩く。手のひらで軽くしたら無視されそうであったから。グーで。
「ガルシェ、降ろして」
「迎えに来た奴に対して叩くな、おい」
片目を瞑り、僕の手から逃げるように。狼の頭が遠ざかる。そうして、彼に抱きかかえられていた身体はゆっくりと降下して。地面へと自分の足で立つ。息をすれば、裏通りのどんよりした空気とは違う気がした。気分的な問題だとも思うが。やっと戻って来れたと、それで実感する。今の、僕の日常に。ガルシェがくれた、日常。いつ崩れるとも知れない危うい、それ。
「よく、僕の居場所がわかったね」
銀狼を見上げると、少し考えた後。狼の手が、自身の鼻を軽く人差し指で叩く。前にもされた仕草。それで僕も納得して。
「路地にお前の焦った汗のにおいが入っていくのと、その後に複数人の知らないにおいと。火薬の、銃のにおいが続いてたからな。何かあったんだと、急いで来た」
「……すごい」
そこまで、わかるのか。やはり、彼に見えている景色はまるで違うのだな。もやもやと、色が付いた煙が漂っている感じだろうか。それに近付けば、誰かの名前が浮き上がって。本当に、景色が違うんだな。ちょっとだけ、羨ましい。そうやって狼の、少し湿った黒い鼻を見つめる。
「お前の考えている事もにおいでなんとなくわかるぞ、嘘ついてたり。エロい事考えてる時は特に」
尊敬の眼差しで見つめていた僕の表情が固まる。そこまで、わかるの。まって、知らない内に頭の中を覗かれているに近い事をされていると知って。ちょっと慌てた。だって、他人に言えない事の方が多いのに。自分の記憶がないとはいえ、僕は結構失礼な事を考える事が多い。だから、もしも、それが知られているとなると。とても、嫌だった。
僕が慌てだすと、目の前の狼は反応を楽しんでるようで。尾を揺らす。
「まぁ、なんとなくだけどな。さすがに、詳細まではわからない。嫌そうだなとか、嬉しそうだなとか。ざっくりとだ」
そうなんだ。良かった。全て筒抜けなんじゃないかと思うと、とても恐ろしかった。バレていないと知ると、ホッとする。部屋汚いなとか、不潔だなとか。そのまま考えている事が伝わってなくて。良かった、バレないで。本当に良かった。
あまりの僕の慌てようから一変、良かったと落ち着いていると。訝しんだ銀狼が、顔を寄せてくる。眉間の皴が深く刻まれて。そこまで失礼な事は考えてないよと、弁明するけれど。信用ならないと、ジト目でずっと見下ろされる帰り道。久しぶりに、ガルシェと一緒に帰る。空を見れば、星がたくさん輝いていて。今何時だろうか、だいぶ遅くなってしまった。いつも暗くなる前に僕だけ先に仕事を切り上げ帰してくれるのに。二つのそれぞれ大きさの違うブーツが石床を踏みしめる音が、夜の市場に響く。暗くなってもしぶとく営業していた露店すら、店仕舞いをしてしまって、いつもは細い道がだいぶ広くなっていた。それを贅沢に、二人横に並んで歩く。昼間だと、もっと距離を詰めて歩かないと肩がぶつかりそうだし。
「ガカイドに会ったのか」
歩いてる途中で、そう問われる。彼の立ち位置だと蜥蜴の集団が壁となって、反対側は見えない筈で。僕の傍まで来た時には、その姿は消えていたのに。そこまで考えて、ついさっきの会話を思い出して。そうか、におい。赤茶色の狼に抱きしめられたりしていたのにだし、嗅覚の鋭い隣の狼にはお見通しなのだろうな。そう思ってにおいは見えないけれど、自身の服を見て。暗がりでもそこに、一本。赤茶色の抜け毛が見えて。においだけじゃ、ないのかもしれない。
そうか、失念していた。人みたいに喋って会話できるけれど、彼らの身体にはもっさもさの毛が生えているのだった。触れあえば、当然付着するんだな。換毛期とか、あるんだろうか。身体大きいし、凄そうだな。掃除、大変だろうな。掃除機も、粘着シートもないから。かなりの大敵になりそうだ。いけない、また余計な事を考えていた。
彼と裏通りで出会い、そして道案内してもらっていたけれど。知らない人に手を出されそうになって、助けてくれたとだけ。それだけをガルシェに伝えた。それ以外の事は、ぼかして。また泣いたなんて、恥ずかしくて言えなかったから。
「本当に、なにもされてないな?」
念を押すように、聞かれる。真剣な狼の表情。押し倒されて、少しそういう雰囲気になりました。なんて馬鹿正直には言えない。実際に彼も本気ではなかったと思うし。そう思いたい。だから、隣を歩く彼に。何もなかったよと。努めて普通を装い、言い返す。嘘もわかると言っていた彼だから、何か感づいている気がした。納得はしていない、そんなふうに。片方の耳が倒れて、見下ろされる。でも、僕がこれ以上は言いたくない雰囲気を察したのか。そこで彼の追及は終わった。前を向く狼。その横顔を少し眺めてから、僕も同じように前を向く。学校とメインゲートへと続く大通りまでいつの間にか来ていた。
「帰ったら、風呂な」
飛び込んで来た、台詞に。せっかく前へと向いた僕の顔は、まるで殴られたかのように横へと。ガルシェの方向へ。それを吐いたはずの狼の口は横一文字に閉じられており、実際は嫌なのか不機嫌そうで。お風呂嫌いの彼じゃなく、通りすがりの別の人が言ったのではないかと。それか幻聴を疑った。けれど、あの低い声は。聞き間違える筈がなく。そして、人間と銀狼二人しか今この場にはいなくて。ではやはり、それを言ったのは。彼で間違いなくて。
なら、今している表情はそのままの通りなのだろう。でも、どうして急に心変わりしたのだろうか。絶対に、僕が言わないと。入ろうとしないのに。そして毎回、手伝うのを条件に。
理由を答えてくれる事はなく。そのまま暫く歩き、家まで着いてしまった。率先して服を脱ぐガルシェ。だから、僕もいつものように。大きなタライを用意しようとして、その前に。僕の服を掴んだ狼の手。
えっ、なに。なんで。
「洗うのは俺じゃなく、お前な。ルルシャ」
目が据わった、狼の瞳。下着すら、一糸まとわぬ姿。遠慮なく、ぶらぶらと揺れている股間。隠せよと思うが。そこで、服を脱がそうと狼の腕が上へと持ち上がろうとして。すかさず人の手が押さえ、止める。違う、お風呂嫌いなガルシェを洗うなら一緒に入るのもわかる。でも僕は、自分一人で入れて。なんなら冷水とはいえ、お風呂自体は好きで。水が贅沢に使えないから毎日とはいかないけれど。銀狼よりは入る頻度は多い。だから一人で入る事の方が多い。よって、君の助けは必要ない。あと、服が伸びる。離して、ガルシェ。
「心配かけといて。さらに蜥蜴と、別の雄の臭いをつけたまま、俺の縄張りでそのままのつもりかよ」
あ。怒ってた。ガルシェ、帰りが遅くなった事に実はとっても怒ってた。でも、人間である僕にはそのにおい自体はわからないけれど。ある意味不可抗力であって。だから、一人で入るのは許して欲しい。心配かけた事については、指摘されると反論の余地はないのだけれど。発端が話しかけられるのが嫌で逃げたという、しょうもない理由であったのだし。家の中を縄張りと称するのは、ちょっと動物っぽくて可笑しいなと。微笑ましい気持ちにもなる。実際にそれを言っているのは狼の顔をした人なのだけれど。
本気になれば吹き飛ばせる膂力がある腕に対して、僕の細腕で抵抗する。これ以上服が持ち上がらないように、お臍が既に見えているとしても。だいぶ手加減はされていた。実際に本気でやれば、僕は吹き飛びながら、服はズタズタになりそうだし。それは当然で。
でも結局、彼に無理やり脱がされる形で。いつもは銀狼が精一杯身を縮こまらせて入っている大きなタライ。そこに体育座りして、頬を膨らませてながら入っている。人間。どうしてこうなったと、憤慨するけれど。後ろで鼻歌を奏でている、狼はとても楽しそう。嫌がる彼を、僕が普段洗っているのだから。逆となれば、新鮮なのだろうか。石鹸を手に取り、毛と肉球がある手でわしゃわしゃと泡立てていた。それを目で追い、そのまま近づけてくるから。ぎょっとする。洗う用の布がある筈なのに。確かに、彼には天然のブラシとも呼べる、毛皮があるけれど。背中に触れられた、狼の手のひらの感触。思わずびくりと身体を跳ねさせる。
「おい、動くな。洗い辛いだろ」
マッサージするみたいに、背中を擦りながら。抗議の声が後ろから届く。僕の身体に対して、彼の手は大きく。続いて腕を取られると簡単に指が一周し、そのまま動かせば満遍なく肉球が擦れて。何とも言えない刺激が襲う。そして、肩、首筋と。本当にただ洗われているだけであった。あったのだが。ただただ、手で弄られている感がいなめなくて。身じろぎしてしまう。擽ったかったり、言い表せられようのない。不思議な刺激。驚いたのが、それがそのまま脇から、前へと伸びた手が。僕の胸まで及んだ事で。
これには声に出して、止めに入る。前はせめて自分で洗わせて欲しかった。僕が彼に対して洗っている時も、さすがに前は自分でさせているのだし。
「胸、ねぇな」
女の人の乳房をまるで揉むように、そうされながら。耳元にはとても呑気な声。横目に見ると、すぐ近くに狼の顔があった。意識しては駄目だ、駄目なのに。どうしても愛撫のように感じてしまって。肉球が、乳首を掠めた時。つい、鼻にかかった息を。そうすると、耳元で狼の鼻が鳴る。お風呂場に立ち込める洗剤の匂い、そこに混じる僕の感情のにおいを嗅ぎ取ろうとする動き。その仕草に、余計恥ずかしくて。呑気に尾を揺らしていた狼が、それで沈黙してしまって。洗っていた手も少しぎこちなくなる。
でも、暫くすると。動きの滑らかさが戻って。ただ何も言わなくなって。行動は続けられる。洗う為に擦れる音に時折混じる、狼のにおいを嗅ぐ音が若干頻度が多くなったような気がして。熱が、頬に集まって。胸を洗っていた手が、お腹を。そしてそれよりも下へ行くのかと、それだけはと。そこで漸く彼の手を僕が掴む。そして目を瞑った時には。
「水、かけるぞ」
平坦な声でそう言うと。素早く手の中から逃げていく狼の大きな手。そして数秒と間をおかず、頭から豪快に水を掛けられて。彼ほど泡立たない人の肌を覆う白が、流されていく。そうしたら、別の色白の肌が。水気を纏って。
「……終わったぞ」
目を開き、そして振り向いたら。ガルシェの、無表情な顔が出迎えて。タイルの上に膝立ちで、何も身に着けていない。男の裸体。片手にシャワーノズルを持っただけの。姿。
「う、うん」
それに、先程の一瞬見せた狼の手ぐらいぎこちない返事をして。前を向く。後ろで道具を片付ける気配に、君は洗わないのとか。そういう事を言う余裕はなくて。ただ、大きなタライの中で俯く。体育座りしているのだから、目に入るのは僕の膝。ぽたぽたと、そこに前髪から水滴が落ちていく。上がった心拍数が落ちつくのに任せて、ただその水滴を目で追っていた。そうしないと、冷水で洗われたのにのぼせそうであったから。
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性的な事はなにも、されていない。本当に洗われただけであった。片付けたら。そのままガルシェはなにも言わずお風呂場から立ち去ってしまって。混乱しているのは僕だけで。僕がお風呂場から出たのは、彼が出てから、だいぶ後になってしまった。
腕と足しか濡れていないから、手早く拭き終わったのか。ソファーで寛いでいる男の姿。もう普段通り、ジーンズだけ履いて、上半身は裸のままのとてもラフな格好。いつも通り、机を挟んで座ろうとして。銀狼が自身が座るソファー、そのすぐ隣を軽く叩いていた。それは隣に座れと、示していて。これまでに、彼にそこに座る事を促された事がなかった。たぶん、別に許可がなくても気にはしないのだろうが。真っ先に彼が座るから、指定席とばかりに。対して僕が対面に座るから、それが自然な形であった。だから、いつもと違うパターンに、戸惑う。戸惑うけれど、再度ソファーを叩かれ、急かされる事で。おずおずと、隣まで近寄り。そして、座った。思ったより、柔らかく僕を受け止めてくれる大きなソファー。銀狼がたまに、足だけ飛び出した状態で寝る事ができるサイズ。体格の大きなレプリカントの男と、人間の男の子が座っても。少しだけ余裕があった。ガルシェが二人座ったら窮屈だろうけれど。
そうして、肩を抱き寄せられて。彼の脇腹に僕の上半身が密着する。何をするのかと、見上げていると。黒い鼻が近づいて、しきりににおいを嗅いでいた。その嗅ぐ表情は、別にえっちな目的でもなんでもないのか。とても真剣な顔をしていたから。やめてよと、言う隙がなかった。額を嗅ぎ。髪を、そして耳を通り過ぎる時。鼻息が少しこそばゆい。首筋に辿り着くと、恥じ入ってしまう。他人にそのような場所をと。
「……ガルシェ」
声を掛けると、返答の代わりに。狼の耳が一度震えて。鼻先を首筋に突っ込んだまま、上目遣いで金色の瞳が僕を見た。それだけであった、行動を再開され。一つ、納得がいったのか。最後に、迎えに来た時と同じように。マズルを擦り付けて。その時の表情は、目を瞑っていたから何を考えているか。その瞳の中に湛えた感情を窺い知ることははできず。
それも終わると、抱き寄せられていた肩から手が離れて。身を起こした狼の顔が離れていく。
「俺がマーキングしているから、そうそう手を出されないとは思ったんだが。自分から裏通りの方へは今後行くなよ、意味がなくなる」
「あ、うん。ごめんなさい」
心配して、そうしてくれていたのか。普段は一緒に寝ているから、別にこうして擦り付けなくても自然とついていて。もしかして、普段から一緒に寝てくれる意味は、そういう事だったのかと。マーキングというと、動物が自身の縄張りを示す為に。尿や、木に爪痕を残したりするけれど。そうか、彼らはにおいで情報を交換する文化があるから。これも、れっきとした。咄嗟に謝った後に、これまでの彼のおこないを考えてみていた。守ると、言ってくれた彼だけれど。昼間は仕事でいないから。こうして、違う手段で。守ろうとしてくれていたのかと。
「もっと、強いマーキングの仕方もあるけど。それは、さすがにな……」
途中で言葉を濁した銀狼。マーキングの意味を丁度考えていた僕は、それで良からぬ事を想像してしまう。目の前で喋る狼の口を、正しくは少しだけ覗く舌を、牙を見て。そして、先程のお風呂場での出来事と。自身の唇が震えるのを感じる。隣に座って、とても近い距離に居るのだから。僕の表情の変化はよく見なくてもわかってしまったのだろう。わざとらしく、鼻先を寄せ。ひと嗅ぎ。
「今、エロい事考えただろ?」
意地悪な狼の顔がそこにあった。慌てて首を横に振るけれど、全てお見通しで、嗅ぎ通しの狼の鼻は誤魔化せなかった。ニシシと口の端を持ち上げて笑う姿に。揶揄われたと悟る。もう。両腕で、笑い続ける狼の頭をポカポカと叩こうとして。あえなく腕でガードされる。太い二の腕を崩す事は、僕の細腕では難しく。逆に伸びて来た狼の手が、脇腹に潜り込んで。擽られるハメになってしまった。ソファーの上でじゃれ合う人間と狼がそこに居て。僕が降参だと、声を上げて。それでやっと解放される。息切れする呼吸。ジタバタと足を振り動かしたのと、ガルシェがかなり悪ノリしたからか。空中に少し、銀の毛が舞っていた。それを吸い込んで、くしゃみをしてしまう。
そうすると、再び伸びて来る。狼の手。それは脇腹を目指していたから、追撃かと。身構えて。でもそうはならず、ただ優しく掴んで。持ち上げられる。そうすると、股を開いた彼のちょうど空いた空間。そこへと置かれて。そのまま後ろから、彼の腕がお腹へとまわる。最後に、頭頂部に狼の顎が乗せられて。生乾きの髪、頭皮に、顎骨の感触。
「ちゃんと拭かないと風邪ひくぞ」
そういえば、いつもより拭き方はおざなりになっていたかもしれない。でも、くしゃみをしたのは別に寒さを感じてではないのだけれど。なにかと、ガルシェは僕に過保護な気がした。子供扱いされていると、言えば。そうなのかもしれなかったが。背に、厚い胸板を感じる。そして、僕よりも高い体温と。こうして、人間の僕では密着しないとあまりわからないけれど。ガルシェのにおいを感じて。これを自分は、常に身に纏ってるのかと。再認識すると、少しだけ恥ずかしい。恥ずかしいけれど、僕を守る役目もあって。そして、それに今包まれていると。安心している自分を見つけた。
家族ってこういうものなのだろうか。親の記憶すらない僕には。よく、わからないのだけれど。一緒にご飯を食べて、同じベッドで眠る。兄弟とも、親子とも言えない。よくわからない、友達、ともなんか違う気がする。一番それが近い筈なのに。
頭の上に、狼の顔が乗っているから。若干重い。でもその重さが、ちょっとだけ、良いかもしれない。この温かさと、重みが。誰かが傍に居てくれると、強く実感できるから。
「ルルシャ」
彼が喋ると、その振動が直接僕に伝わる。顎を乗せているのだから、当然か。優しい声音。最近、二人っきりだと僕の名前を呼ぶ時の彼の言い方はとても優しい。もし、彼が番を得て。子供ができたら、こんなふうに、呼ぶのだろうか。
それを想像して、とても口が悪いし、掃除ができないけれど。なんやかんやいい父親をしそうな気がした。そして、隣に立つ、雌の狼の姿を想像して。その間にいる小さい狼と。ガルシェと。彼が求める、幸せが。そこにあるのかなって。
「腹減った」
あ。そんな羨ましいと感じる。光景を想像していると。ガルシェの唐突な要求で中断されて。そういえば、時間は遅くなってしまったけれど。まだ、僕も、そして待っていた彼も。晩御飯を食べていなかった。僕が家事をしているから、待っている間一人で食べもせず。そのまま探しに出てくれたのだろう。お腹を空かせた狼が、背後にある空腹の虫を鳴らしていた。
頭の上に乗っていた顎が退けられたから、振り向き。肩に彼の常に身に着けているネックレスが乗っているのに気づいた。その意味合いは、とても重いのだなと。そして、見上げると。空腹に困り果てた。元気をなくした耳と、こちらを見つめる狼の瞳。
大人の一面を見せたり、こうして子供っぽいところもあったり。体格は勇ましいのに。それがガルシェという男だった。自分で作るという選択肢はないのか、僕に作ってと訴える子狼のような仕草。正直、今日はいろいろあって疲れていたけれど。でも、それでも。そんな姿を見ていると、したくなるのだから。今日は僕がしょうがないなと、そう言いながら彼の腕の中から抜け出す。そうすると、期待の籠った眼で。ソファーの背もたれとに挟まれて大人しくしていた尾が、暴れていて。
今日は何を作ろうかな。そう考えながら、僕は馴染んだ台所へと。自分の持ち場になりつつあるそこへと。立ったのだった。
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