レプリカント 退廃した世界で君と

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二章

06

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「あまり、こんなところに来ない方がいいぜ。人間」
 腰に片手を当て、姿勢を少し崩し。頭も傾げた男。背の高いその者の後ろで、光を身体だけでないものが遮るようにふわりと揺れていた。湧いて来た唾液を飲み込んで、少しだけ胃が落ちつく。
 たぶん、僕の青白い顔を見てか。それほど酷い表情をしていたのか。目が慣れて来て、逆光の中でも目の前の男が怪訝そうな顔をしているのが見えた。聞いた事がある、声。そして特徴的な赤茶色の毛並み。ガルシェと同じ、狼の頭をして。けれど、人をおちょくるような笑い方をさせた。
「ガカイド……」
「んだよ。不思議そうな顔して。俺がここに居ちゃ悪いかよ」
 返答ではなく。ただ名前を呼んで茫然と見上げている僕に気分を害したのか。傾げていた首の角度が変わり、少しだけ彼のマズルが上へ向いて。故意に見下すようにされる。僕がもたれかかってる壁に、肘を置き覗き込むようで。顔が近づいてくると。膝を少し曲げ、逃げようとしてしまう。そうすると、赤茶色の毛皮でできた片眉がぴくりと反応していた。また、ゆらりと彼の背後で大きな尾が揺れる。
「あ、うん。そうだね。なんで、ここにいるのかなって。そう思った」
 自分の考えを素直に口にして、つっかえながらも。ただそうすると、戻っていった吐き気が少しだけ燻ぶる。あんなに口内に溢れていた唾液が、こんどはカラカラに乾いていて。瞳を細め、無言で見下ろしてくる男の威圧感に。抱えるようにしていた袋がガサリと音を鳴らす。それで敏感に反応する狼の耳。
「……本当に、なにも教えられてないんだな。ガルシェに」
 目尻が少し緩み、どこか僕を嘲る口調で。そう言われてしまう。街で暮らし始めて、不思議であった。あの白狼と、ルオネとはすぐに再開したというのに。同じタイミングで出会った、彼とはずっと会わないどころか。遠くから見かけすらしないのだから。ラフな格好をしているからか。外なのに、ズボンだけ履いた男は。上半身が裸で。けれど僕みたいな人間と違い全身を毛皮で覆われているから、それで肌の露出が増えるわけではない。家の中だとガルシェもそうしているから。ある意味見慣れてもいた。けれど、決定的に違うのは。彼の片方の脇腹にある、毛皮が生えていない唯一地肌が露出した火傷の痕。まるで麦畑の中突如として現れたミステリーサークルのように、そこだけ毛皮がないのだから。特に目立つ。焼き印。
 最初会った時は服を着ていたから、隠していたのに。今は逆に強調する為なのか。隠しもせず。
「まあ、いいや。この前は悪かったな。見たところ、傷跡は残ってないみたいだし。安心した」
 急に話題が変わって、焼き印を見ていた僕は反応が遅れる。逆に彼が見つめる先。それが僕の顔、ではなく、前に絆創膏が貼られていた頬だと悟り。この前の謝罪をされているのだと。だから、返事をせずに。呆けてしまう。だって、とても意外だった。彼のような、人を馬鹿にしたり。嗤う者が、こうやって素直に謝罪すると予想していなかったから。彼の爪によって、与えられた傷。それは皮膚に痕跡として、いつまでも。幸いにも残っていなかったけれど、心にはずっと小さな傷として残っていたから。言ってはなんだが、ルオネにも。そしてそれ以上にガカイドにも、会いたくはないなとひっそりと思っていたから。
 意外そうに、思いっきり表情に出している僕。頬を見ていたのだから、表情の変化も見逃されるわけもなく。狼が眉間の皴を深くする。
「んだよ。イライラさせんなよ、ただでさえ腹減ってるのに。俺様が謝るのがそんなに意外かよ、これでも謝りに行こうかと思ってたのに。ガルシェの野郎には暫く来るなと言われるし、お前が働いてるらしい表通りはあまり俺みたいな奴は近づけないし……」
 言いながら、男は僕がもたれかかってる壁を蹴る。ただ、その蹴る強さはあまり力が入っていないのか。それほど大きな音はせず。それに余計、苛立たしいと。毛を逆立てていた。それも長続きはせず、余計にお腹が空くと。項垂れていたが。
 姿勢を正すと、また抱えていた袋が鳴る。ああ、そういえば。林檎を買っていたのだった。中身を確認して。そして目の前のお腹が空いたと言う、赤茶色の狼を見る。上半身裸なのだから、服で誤魔化されていない彼のシルエットが把握できて。いつの間にか姿を消した、先程のやせ細ったレプリカントほどではないにしろ。彼もまた、少し瘦せているなと感じた。普段目にしているガルシェなどは、鍛えた筋肉が無駄に主張しているから。比較対象としてはどうなのかとも思うが。それでも、ちゃんとそれなりに食べているのに、痩せ気味な僕を除いても。レプリカントの、表通りに居る一般の人達に比べてしまうと。やはり、そうで。
 自分がしようと浮上した考え、それにちょっとだけ迷い。迷ったけれど。最初に会った時、そういえば彼は勝手に家に上がり込んで食べ物に手をつけていたから。日常的に、あまりご飯にありつけていないのかと。そこまで考えて。家に帰って食べようと思っていた林檎。それを袋から一つ取り出し、そして目の前へと差し出す。赤茶色の狼へと向かって。
 そうすると、それに気づいた鋭い獣の眼が、こちらを睨む。
「……なんだよ。人間ごときが、俺様に。なんのつもりだよ。ああ? 施しのつもりかよ、まじで犯すぞ」
 僕がとった行動、それが気に入らないのか。狼の表情が敵を目の前にしたみたいに変わる。牙を見せつけ、マズルに皴を深く刻み。威嚇する。手にある黒光りする爪が見えて、それにはちょっとだけ怯んだ。でもそれで僕が林檎を差し出した手を、引っ込める事はなかったが。
 勇気を出して、少しだけ胸を張り。自分自身を奮い立たせて。大丈夫。野生の狼ではない。彼は同じ人なのだと。異種族ではあるが、僕を傷つけた事を多少なりとも後悔し、そしてご飯がなければ飢える。言葉が通じる、だから。
「これで、ガルシェの家まで。案内して、ガカイド」
 言ってのけた。そうすると、鋭く睨んでいた狼の瞳が丸く、とても丸く変わる。瞳が零れ落ちてしまうんじゃないかと、そう思うぐらいに。逆立てていた毛が、元に戻り。僕と、ガカイド。人間と狼型のレプリカントの間で、沈黙が訪れる。狼が瞬きするのを、ただ見ていた。その視線が、僕と、林檎を行き来するのも。
 これは、施しではなく。交渉であった。道に迷った人間と、道を知り尽くしているであろう。ここの住人らしき、目の前の狼へと。幸い、彼が欲している物を。偶然にも僕は持っている。ならただ無償で差し出さず、対価を要求する。それは、ここで最近学んだ。彼らが日常的におこなっている姿を見て。僕が覚えた、生き方。実践するのは初めてで、まさか。相手が彼になるとは思いもよらなかったが。
 数秒、それとも、一分ぐらい。それくらいは、悩んでいただろうか。無言で伸びて来る、狼の手。僕を簡単に傷つける、爪が生えた。それだけで凶器になりうる。そんな手が、そっと僕の手のひらに乗せられた林檎を掴む。そうしたら、一歩間違えば。僕の首筋に突き立てられていた牙。それが、林檎を出迎えて。子気味良い、シャクリと音を立てて。歯形を残した。
 狼の顎が、咀嚼し。そして、ごくりと飲み干すところまで見届けて。齧った林檎を持った手の甲で、少し口元の毛が汚れたからか。ガカイドは拭いていた。その動作をする間も、一切僕からその視線が逸らされる事はなくて。だから、それに負けじと僕も見返す。目を逸らしたら、負けな気がして。
 不意に、狼の口元が。緩む。続いて、息を吐き出して。それは、笑いを堪えるかのようであった。男のお尻から生えている、垂れ下がっていた尾が。動きだして、楽し気にゆらゆらと揺れる。
「……気に入った。いいぜ、望み通り送り狼になってやるよ。迷子の人間さん」
 不敵に嗤う。彼に対して、額に少し汗が滲むのも構わず。僕も笑い返した。ただ、残りの林檎も全部取り上げられてしまったのだが。ここから無事帰れるなら、安い対価であろうか。暗くなってしまったのだから。きっともう、ガルシェは家に着いている頃だろうか。結局心配させたてしまったのだろうか。
 そう考えながら、目の前を先導する。男の赤茶色の尾を追う。今まで、銀色の。綺麗な尾だけを追ってきたから。少し新鮮だった。じっくり観察すると、お風呂に入れる前のガルシェ以上に。毛がぼさぼさしているなと。そんな事を思ってしまう。最近、彼の毛は僕の努力により。改善されてきてはいるが。ただ、一人で入ろうとしないのだけは。こちらも少しめんどくさい。洗うのも、乾かすのもめんどくさがり。入ろうとしないのだから、そこが僕と彼との妥協点と言えば、そうなのだが。
 そして追加されたもう一つのルーティン。ちゃんと乾くまで、冷えた身体を温める。湯たんぽ代わりにされる僕。一応布で隠しているとはいえ、裸の彼に暫く抱き着かれるというのは。あまりよろしくはない。それも僕が頭を悩ませる種であった。でも、洗剤の匂いをさせる毛皮の魅力を知ってしまったら。獣臭くない、毛皮は。それだけで魅力的であった。
 そして、初めて見た時。綺麗だと思った。彼の美しい毛並み。光を反射させる銀色。それが現れ、光沢を増し。いっそう、輝いて。やはり、ちゃんと手入れされているのとされていないのとでは雲泥の差だ。同僚に、最近良い匂いがするなと。揶揄われると。ガルシェは愚痴を零し、不満げではあったが。
「教えてやろうか、これの意味」
 ゆらゆら揺れている尾を目で追いかけていた僕は。ガルシェの事を考えていた思考を遮られる。その尾の持ち主によって。見上げると、歩きながら振り返った狼の。含みを持たせた、表情。そして、自身で晒された焼き印を触る手。それに対して、迷ったが。結局。僕は頷いていた。
 知らないのは。嫌だった。特に、烙印とまで言っていた。彼が、わざわざ教えてくれるこの機会を。機嫌が良さそうな、このタイミングを逃せば。もう二度と訪れない気がしたから。ガルシェに聞けば、教えてくれそうであったが。めんどくさがりの彼の事だ、かなり省いて説明される気がした。
 そこで、目についた木箱。彼が歩いてた細道を外れ。そこへと腰かける。僕が差し出した残りの林檎を取り出し、尾を振りながら美味しそうに食べ始めて。僕も、取り合えず隣へと腰かけた。歩きながらでも僕は良かったのだが。長い話になるのだろうか。あまり帰りが遅くなるのは、よろしくないのだけれど。
「これはな。番を持つ資格を剥奪された。落ちこぼれの証なんだよ」
 林檎の芯を豪快に噛み砕きながら、そう何てことのないように。告げられた内容に。穴が開くんじゃないかというぐらいに、僕はその狼の横顔を凝視してしまう。上を見上げ、飲み込み。そしてべろりと。舌なめずりし、親指を舐める。ちょっとお茶面な仕草をする。ガカイド。
 食べ終えると、隣に座った僕を見下ろし。そんな反応をする人間が、愉快だとばかりに。にひるに嗤う。また、馬鹿にした目で見てくる。その狼の視線が苦手だった。
「この街で、大きな失敗をした。優秀な雄を尊ぶ。掟を乱した、俺様みたいな奴の証だ。おかげで、ここにしか住めないし、与えられる仕事もそれなりだ。その日喰う物がないのもザラ。それが俺様だよ、人間。……嗤えよ」
「……笑えないよ」
 笑えるわけもなかった。そんな話を聞いた上で、笑えるわけが。だからそう返す僕に対して、不愉快だとばかりに。目の前の男はフンっ、と鼻を鳴らす。一緒に住んでいる銀狼。彼が日々、手柄を上げようと。奮闘しているのを知っている。僕を連れて来た理由も、それであると。知っている。番を得ようと、それこそが幸せなのだろうと。けれど、それを。得る機会すらないのが。目の前の彼なのだと。そう言ったのだ。ガカイドは。
 彼が食べ物がなくて困っている理由を知った。知ったからこそ。初め、ガルシェの家に勝手に上がり込んで。あまつさえ冷蔵庫の中の物を勝手に取り出し、食べ始めて。なんだこいつと思ったのだけれど。でも、ガルシェ自体はそれを気にしていないのが不思議で。普通は、そうされると、自分の物を勝手にされるのは良い気持ちにはなるまい。そしてここで暮らして、物価をそれとなく把握した僕は。簡単に他人に分け与えれる余裕など、ないとも。わかってしまえて。それでも、だからこそ、銀狼がなぜ許しているのか。謎は深まるばかりで。
 彼が怒らないから、僕だけちょっと気にかかっていた。でも、ガルシェとは幼馴染であるのだし。もしかして、彼と、目の前の男とは過去に何かあったのであろうか。その刻印の意味を知ったら。なぜそれが、彼の身体に刻まれたのか。それは当然の疑問で。
「つまんねぇの。んだよその顔、哀れみとかいらないんだけど。食った分は働いてやるけど。本当に、腹が立つな。人間」
「ルルシャ」
 唐突に告げた。僕に対して、狼がゆっくりとこちらを向く。そうすると、彼の胸元でガルシェと同じ色をさせた。ガカイドの瞳とよく似た。動物の牙と、宝石を通したネックレスが揺れていた。
「人間じゃなく、ルルシャだよ。狼さん」
 真っすぐに、見上げて。狼のマズルにある、白く横に伸びた髭が小刻みに震えていた。ここで、与えられた僕の名を口にして。そうして、意趣返しに。狼さんと、そう呼んだ僕に対して。ガカイドが、怒るでもなく。そして、笑うでもなく。先程まで人を嗤ったり、拗ねたりしていた顔を。無表情に、させて。尾だけが、倍ぐらいに膨れていた。
「お前、見た目に反して。可愛くないよな」
 苦し紛れに、そう言い返してきた赤茶色の狼は。自身の頭を搔きながら、明後日の方向へと。向こうからこちらとの視線を切る。どうやら僕のせいで、興を削がれた様子であった。僕も、刻印の理由を聞こうと思っても。そんな雰囲気ではないなと、押し黙ってしまったから。隣にいる、ガカイドではなく。向かいの壁を見つめて。そうしていると、頬に触れる。柔らかい感触。
 それが何かなんて。ガカイドが、僕の頬に触れていた。自身で傷つけた。同じ個所を、親指を使い。撫でるみたいに、優しく。爪が触れそうで、触れない。意識すると、少し肩がびくついてしまう。また、裂かれそうで。防衛本能が騒ぐ。僕の中では、彼は僕を傷つける存在であったから。取り引きしたのだから、危害は加えてこない、と思いたい。けれど、怯えだけは隠せなかった。だから。
「……怖いか、ルルシャ」
 隣から、今までにない。優しい声音で。そう聞かれる。最初、ガカイドが喋ったと思えなかった。だって、彼は常に。他人を小馬鹿にして、おちょくった雰囲気をさせていたから。だから急に、こんな、落ち着いた。低い声で、そう囁かれると。誰だお前と、そう思ってしまう。
 怖いよ。皆。その爪も。僕にはない、牙と、爪と。そして皆、僕より大きいのだから。そりゃ、怖いよ。ガカイド。君も、正直、怖いよ。その感情は確かにあった。あってしまった。同じ言葉を話し、意思疎通ができる相手には。とうてい言えない本音だったけれど。実際に傷つけられた相手でもあったから。頬を撫でられながら。隠してきた本音を、自然と頷いていた。頷いてしまった。
「そうだよな。怖いよな。当然、か」
 それで、離れていく。狼の手。僕を傷つけた爪がある。その手が、ただ撫でて、それだけをして。離れて行った。それがとても不思議だった。
「ガカイド?」
 見上げると。僕を見ていない。狼の横顔。なにを考えているのか、察する事ができない僕は。だから彼の名を呼んで。けれどそれに返事をする事はなく。無視される。さっきの僕みたいに、壁を見つめているようで。もっと遠くを、見ているようで。なにを考えているの。今、なにを。ガカイド、君は。暗く淀んだ、ガルシェと似た瞳。琥珀のような。その目が。
「長話してないで、帰るか」
 木箱から、立ち上がり。そう言いながら振り返った狼は。また、こちらへと。どこか嫌味ったらしい、笑顔をさせて。腰に手を当てていた。それも、僕の表情を見て。途端に無表情へと戻ってしまったが。
「お前、本当に腹立つ顔するよな」
 こんどは、怒りに染まった。狼がそこにいた。そう言われても、しかたないじゃないか。僕だって別に。君を哀れんでいるわけではない。ただ、話しを聞いて。そして、問われ、頷いてしまって。ただただ。悲しくなったのだ。
 自分の心の動きを、自分で止められなかったんだ。裏通りに来て、見て、起きた出来事に。また、なぜか頬を伝う。先程、彼に触れられた箇所を。熱い水滴が、流れる。それを見て、威嚇するみたいに。唸る目の前の男。違う、君の境遇を聞いてこうなったんじゃない。違う。どれだけ優しくされても。サモエドのおばちゃんにも。僕を口説いてくる、あの蜥蜴。アドトパにも。訪れるお客さんにも。どこか、恐怖感を拭えない自分に対してだ。
 優しくされればされるほど、申し訳がなかった。どれだけ、彼らが僕を傷つけないと思っても。それでも、埋めようのない体格差に。身体の違いに。常に見下ろされる、その視線に。恐れを抱いてしまうのだから。だから、ガカイドに聞かれ。頷いてしまったから。本音を暴かれてしまったから。その申し訳なさと恐怖の狭間で、ただ首を垂れるしかない僕が。情けなくて。
 うじうじしてしまう僕を見て、腹が立つと。そう言ったのだろう。それとも、急に泣き出したから。同情でそうなったとでも思ったのか。威嚇を続ける狼の恐ろしい顔が見れなかった。見たくなかった。レプリカントの。人間とは違う、獣の顔など。今は、見ると余計怖がってしまいそうで。逃げ出したかった、心だけは。身体は、ここから、この街から逃げても。野垂れ死ぬしかないのに。どうしようもない無力感。先程、彼に立ち向かった仮初の勇気など。今はなかった。あるわけがなかった。付け焼刃の、それが。持続する事など。
 足音が、近づいてくる。彼が、気配で。視界に、木箱に座ったままの僕の下半身と。そして彼の足元が見える。俯いた僕の後頭部に、狼の鋭い視線が突き刺さってるのを感じる。ガカイドの。
 だから上半身の影が動いて、それで、手が伸びて来るのがわかって。大袈裟なぐらい身体が震えた。それで、余計見下ろしてくる気配が恐ろしく感じて。もっと怒らせた気がして。でも、僕の額に当たる毛皮と、背を前へと押す感触とで。
「あー、泣くなよ。泣かれたら、どうしていいかわからなくなるじゃねぇか。卑怯だぞお前、卑怯だ。本当に腹が立つ。ああ、もう、餓鬼かよ。お前、嫌い」
 嫌い。そう言いながらも。僕の背に回った彼の腕はただ温かさを伝えていて。彼の胸元から見上げてみると、本当に困ったと。先程まで威嚇していた狼が、そんな顔をさせていて。なんで、ガカイドの胸の中にいるんだ。なんで。彼の首から下げられたネックレスが。僕の頬に当たるんだ。それは、ただ。彼が泣いた人間を抱きしめているからで。ただそれだけで。
 混乱した。彼の行動、取る一つ一つがまるで予想が付かなくて。そして、理解できなくて。とても。彼という人間はわからない。わからないのに。僕が以前泣いていた時、ガルシェに抱きしめられて。あやされたみたいに。彼に抱きしめられていると、僕の意思と関係なく乱れた心が落ち着いてくる。その、変わらぬ温かさだけはわかってしまえて。
「泣いてないよ」
 だからつい。あの時ガルシェにも、言った台詞を吐いていた。自分でも、あの時みたいに電気が消えた。暗がりではなく。ここは裏通りとはいえ、少ないながらも街灯があって。僕の涙は、隠しようがないのに。
「いや、それはさすがに無理があるだろう。お前」
 だから当たり前の事を言われる。見下ろしながら、笑われる。そこに嘲りはなくて。ただ面白い奴だと、純粋に。肩を揺らしていた。自分の泣いた顔なんて、他人に見られたくなくて。隠そうとして、丁度いいとばかりに。赤茶色の海に沈む。硬い、毛。チクチクと刺してくるその感触は。嘘をつくなと僕を責めているようで。胸骨の感触もあって、毛のボリュームのおかげで鎖骨が見えてないけれど。彼もそれなりに痩せているのだなと。実際に触れて。感じた。獣臭い。

「それじゃ、ガカイドは。ガルシェやルオネと同じアカデミー出身なんだ」
「そうだ。幼馴染で、同期だな。あの学校では一定の大きさに成長したレプリカントを教育して。才能に見合った、部門に選別するんだ。俺達は、そこで兵として訓練された。いわばエリートだった」
 再び、木箱に座った赤茶色の狼と。そして僕は。最初の邂逅が嘘のように、打ち解けていた。隣同士、座った距離はとても近い。恐怖心がなくなったといえば、嘘になる。けれど、薄れてしまったのは確かで。泣き出した僕を見かねて、困り果てた狼が。ここに留まり、落ち着くまでもっと話そうと。そう選択したのだ。
 狼さんと。僕が拗ねて言うと。ガカイドだと、訂正されて。そして、人間、人間と僕を呼んでいた彼は。ルルシャと。ちゃんと呼んでくれたのであった。
「そんな中でも、あいつは。ガルシェは、飛びぬけて優秀だった。昔から。でも、普段はとてもぐうたらしていて。あいつ、授業をサボる事も多かった。でもテストは毎回満点だから、腹が立つんだよな。そうやって、俺が難癖付けて絡んで、それをルオネが窘めて。そうして、なんやかんや仲良くやってたんだ。やれてたんだ……」
 他人から、銀狼の昔を聞いて。やっぱりなって気持ちと。それでも、やはり、彼はいろいろそつなくこなせるのだなと。部屋の片付け、以外。昔を懐かしんで、語って聞かせてくれるガカイド。でもその声音が、少し沈む。
「卒業試験の時だった。俺達は若くて、バカで、天狗になってた。ガルシェと同じ班だったし、皆余裕だと浮ついていた。でも、いや、だから事件は起きた。もっと最初から、警戒してれば。もっと違った結果になっただろうが。でもそうはならなかった」
「なにか、あったの?」
「ああ。護衛任務を想定した。団体行動だった。一人を、あの時はルオネを護衛対象として。そして俺とガルシェ。そして同じ同期の仲間が、その周囲を囲み。指定された地点へと移動するっていう、任務としては単調な、簡単なものだった。あの時、眠そうにしているガルシェと。リーター役に任された俺は、無駄に張り切っていたからな。口うるさくしていたのを覚えている。でも、そこで想定していない。いや護衛任務なんだから襲撃はあっても当然だな。機械達に、襲われた」
 狼の手が、何かを強く握りしめるみたいに。太腿の上で、自身の爪が当たるのも気にせず。握りこまれる。悲痛に、歪む、狼の横顔。
「突然だった。あっという間だった。応戦したけれど、数が多かった。だから皆、本来の力を発揮する前に。どんどん、目の前で殺された。リーダー役なのに、なにも指示が出せず、固まる俺を待ってもくれなくて。皆、死んでいった。ガルシェだけ、大声を出して。撤退と吠えるまで、俺はなにもできなかった。街に、戻れたのは。たった三人だけだった。今でも、訓練中に起きた不幸な事件として、後輩に教えられているだろうさ」
「でも、それで。なんでガカイドが刻印を」
 思い出すだけでも、辛そうな過去。それを語る彼の表情は、とても。見ていられないのに。僕が、そうやって素直に聞いたら。そんな表情を引っ込めて、子供に言って聞かせるみたいに。優しい顔つきに変わった。彼の前で泣いたのだから、そういうふうにされるのは仕方ないのかもしれない。けれど、それだけでないと感じた。
「なんで、か。お前、本当に嫌い」
 そう言ったら、伸びて来た赤茶色。彼の大きな手が頭の上に乗せられ、狼の顔が見えなくなる。頭を揺らされて、髪を乱される。咄嗟に掴んで止めようとするけれど、力強いそれは止まらなくて。
「俺が、リーダーじゃなくて。それか、ちゃんと指示を出せてれば違ったろうな。そして、誰も犠牲者が出なければ。けれど、俺は兵士なのに。戦えなかった。アカデミーで成績を残せても、実戦では、足が竦んだんだ。それが全てだった。そして、それは当然ガルシェにも及んだ。同じ班ってだけで俺のせいで。あいつは市長の息子だからな、評価は厳しく見られた。でも幸い、烙印は押されなかったが。俺だけが責任を取れば、それで済んだ。終わった話だ。でも死んだ者達。息子を亡くした親達はそうじゃない。刻印だけなら、表通りに顔ぐらい出せたけれど。俺は、かなり恨まれてるからな。ここでは、子を残すのにも権利がいるのに。やっと授かった大切な我が子を、死に追いやった、無能は。さぞ憎いだろうさ」
 穏やかな声音ではあったけれど。でもそんなふうにしながら、とても辛い事を言っている彼に対して。僕は、そのずっと握りこまれた手を。上から自身の手で包んだ。血が滲んだ。肉球を自分の爪で傷つける、その手を見ていられなくて。かける言葉は、生憎となかった。外から来た僕が。人間である僕が。レプリカントの事情に、彼の過去に。とやかく言う資格などなかった。だから、今、目の前で起きている。見過ごせない事に、手を差し伸べたかった。なんてことのないふうに、装う。彼に対して。隠せていない、力んだ拳に。別に彼も、慰めの言葉を求めていないのはわかっていた。
 再開した時。俺様と言い、同情すれば、牙を向く。その姿勢から、それだけはしてはいけないと思った。けれど、この血に濡れた手だけは。ほっとけない。
 狼の手を開かせ、その手のひらを撫でる。僕の手には当然、狼の赤い血が付着してしまうが。別にそれはどうでも良かった。これ以上、彼が自分を傷つけないのであれば。それで。今握れば、僕の指も折れるぐらい握りこんでしまうからと。ガカイドは、再び強く握りこむ事はなかった。
「……お前、やっぱり俺様。嫌いだわ」
 頭上から降って来る、そんな声を聞き流しながら。撫で続けた。痛みが和らぐように。それぐらいしか、先程僕を抱きしめてくれた彼にお返しができなかったから。市長の息子、か。ガルシェに抱えられながら、会いに行ったこの街の市長さん。灰色の毛をした狼。煙草を吹かす姿と、そしてガルシェと同じ銘柄の物を吸っているのは臭いでわかっていたけれど。近視間は、それだけじゃなかった。狼の顔だから、動物の顔だから。並べて見比べないと、違いは毛の色と目つきぐらいしかわからないけれど。そういえば、あの人はガルシェと。似ているのだ。親子だから、それは当然で。あの銀狼を叱りながらも、案じる。言葉に、親心が混じっているのだなと。今になって気づいたのであった。それに反発してばかりの、息子に手を焼いているのだろうなと。
 嫌い嫌いと、言いながら。こうして、僕が触っているのに。好きにさせているガカイド。本当に、この街には。優しい人ばかりだな。本当に。そうこうしていると、本格的に暗くなってしまったのだから。早く帰ろう帰ろうと思っていたのに。僕は。ガルシェに心配をかけてしまうのに。
「ガカイドのせいじゃないよ」
 触れている手が、震えた。それはとても小さな動きであったけれど、目ではわからないレベルで。でも僕はその手に触れているから、わかった。慰めの言葉は求めていないとわかっていても、つい口にしてしまっていた。頭上で息を飲む狼の気配も感じた。それでも言いたかった。関係ない僕だけれど。それだけは。話を聞いただけで、なにを勝手な事をと思われるかもしれない。知ったような事をと罵られてしまっても仕方がないと思う。もしくは、また嫌いと。そう言われるかもと。
 でも、そうはならなかった。ただ、なにも言わず。黙ったまま、僕に手を揉まれているガカイドは。なにも言わなかった。見上げて、その表情を確かめたい気もしたが。それはしなかった。なんとなく、見てはいけない気がした。それは僕の勘であったけれど。だから狼の、僕にはない肉球を揉みながら。感触を確かめて。栄養が足りていないのもあるのか、水荒れした人の手と、カサついた肉球同士が擦れ合うと。乾いた音をさせるのだけれど、滲んだ血でヌルりと少し滑った。だから爪で窪んだ跡がある部分を、軽く圧迫して。血を止める。こうしていたら、溢れた血も止まるだろうから。溢れたなにもかも、止められたらいいのに。僕には、こんな小さな傷を抑える事しかできなかった。自分自身で傷つけた、それしか。他人から与えられた傷を取り除ける程、僕はなにも知らないし、場に合った言葉を言えるぐらい賢くないのが。少し歯痒い。できる事を、もっと増やしたいな。少しずつでもいいから。
 前へと進めないのなら。せめて、どうか、止まって。
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 公爵令息のウォルターは、第一王子アリスターの婚約者。  ふたりの婚約は、ウォルターが生まれた際、3歳だったアリスターが『うぉるがぼくのはんりょだ』と望んだことに起因している。  そうして生まれてすぐアリスターの婚約者となったウォルターも、やがて18歳。  初めての発情期を迎えようかという年齢になった。  これまで、大切にウォルターを慈しみ、その身体を拓いて来たアリスターは、やがて来るその日を心待ちにしている。  しかし、そんな幸せな日々に一石を投じるかのように、アリスターの運命の番を名乗る男爵令息が現れる。  男性しか存在しない、オメガバースの世界です。     改定前のものが、小説家になろうに掲載してあります。 ※蔑視する内容を含みます。

昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する

子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき 「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。 そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。 背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。 結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。 「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」 誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。 叶わない恋だってわかってる。 それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。 君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。

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