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六章
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「お祭り?」
「ああ、そうだ。今年はやらないのかと思ったが。どうやら小規模ながら例年通りやるらしい」
ふーんって、気のない返事をしながら。上半身裸の男が、うつ伏せになった状態で寝転んでおり。その背中に、僕は跨がるように乗り。手に持った櫛を、銀色の毛の密集地に向かって突き刺して。毛の流れに添って手を動かしていた。毎年開催されるお祭り。イベント事って、この街では珍しい部類なのだけれど。重大な意味も含まれていて、その時に。今年の番を持てる雄も大々的に発表されるらしい。存在自体は知っていたけれど。噂話だけでは、もしかしたら中止とかそういったものも聞こえていて。原因はこの街に訪れた食糧問題。そして、難民問題であろうか。そんな浮ついた雰囲気でもなかったし、人々も皆。暗い顔ばかりしていたのだから。そこに、思いもよらぬ食料の供給があり。裕福とはいかないまでも。当面の見通しは立ったのだから。ガカイドが頑張ったおかげであった。それと、今僕にグルーミングされている。この銀狼と。僕だけは、あれから仕事にも復帰して。また市長さんと顔を合わせる日々だった。表面上はあまり変わっていないし、というか仕事上は直属の上司みたいな関係であるのだから。変えようがないとも言えたのだけれど、どこか。やはり仕事上の付き合いだけに成り下がったように感じるのは。あの一件のせいであるのだなって。後、これは気のせいではないと思うのだが。避けられている。本当に、今まで優しく接してくれていた分。ちょっと悲しくもあるが。立場的にはとても正しいのであろうか。クビにされないだけマシか。それだけ、事務仕事ができる者が貴重なのだろうけれど。もしかしたら、内心顔も見たくないとか思われていないだろうか。ありそう。あんな態度を取ってしまったし。結局のところ、置かれていた銃は受け取らなかったから。あの後どうなったかは知らないし。きっと市長さんの机の中に逆戻りだろうか。市民権も、せっかくくれようとしたのに。もう少し上手く交渉して、素直に貰えば良かったと。後になってちょっと思うけれど。自分の言動を振り返ると、やっぱり頭に来ていたのだろう。僕も冷静ではなかったという事だ。本当に、よくクビにされないな。不敬罪で首が飛んでてもおかしくはない。縛り首だって、そのまま街の良く見える場所に吊るされている可能性すらあったというのに。わりと感情的に、いろいろしそうに見えて。かなり腹黒いと思うし、ガルシェのお父さんって。怒りはしても、それで僕をどうこうしたら息子がこんどは逆上して対立関係をより悪化させないとも思えた。ある程度は、息子の手綱は握っていたい筈であろうし。ガルシェのお父さんが市長という立場だから、いろいろ困る事も多いけれど。こうして、その立ち位置のお陰で。僕の命が繋がっている場面もあるのだなって。
最大の味方と、最大の敵を両立できる存在はなかなか例がない。だからと、銀狼が幸せになってくれるというのなら。それが必ずしも僕が隣に居る必要はない。その考えは変わらないのだから。そういう意味でも、市長さんの考えには賛同していて。あの時は裏切られたように感じたけれど、こうして喉元過ぎれば。そんな怒りも今はもう感じない。邪魔者である僕に、本当に良くしてくれている。息子の婚姻を邪魔する、最たる存在であるだろうし。ああ、確かに。そういう意味では誑かしたと言えるのだろうか。そんなつもり、ないのだけれど。最近のガルシェの行動は、わりと自立心が芽生えて。家事も手伝うようになり、徐々にではあるが僕に対する執着心を薄れさせているように思う。露骨ににおいが消えたり、誰かに上書きされたりすると。嫌そうにはするけれど。誰だって、自分の大切な玩具を汚されたら嫌なものであろうか。それに近いのかなって。寝るお布団も別々を継続中である。実は日に日に僕専用の布団を床に敷く位置を、彼のベッドから数センチ単位で遠ざけているのだが。気づいているのかいないのか、布団を深く被って狼の頭だけ出したそれを。電気を消した後。ずっとこちらを向いている気配があるのだが、無視しているので定かではない。
話題に上がったそのガルシェは。相も変わらず。足の療養の為に家でお留守番を続けていた。靭帯が部分的に切断ないし、完全に千切れてしまったりと。中傷や重症で変わって来るみたいだけれど。だんだんと腫れが酷くなって痛そうにしているから。先生の見立てから。二週間から三週間は、お仕事への復帰は断念する以外になかった。無理して動こうとしたら、私に知らせてくれればすぐに意識を刈り取りますって。力こぶを作って言われたけれど。パワー系医師って、凄いんだなって。頼りにはなるけれど、もう少し別の。穏便な方法でお願いします。仕事の時は僕よりも出る時間が早いのはガルシェであるから、見送る事はあっても、毎日見送られるのは新鮮である。ただ、毎回悲しそうに、耳を倒していってらっしゃいするのは止めて欲しいな。なんて。もの凄く、後ろ髪引かれるし。行き辛くなってしまう。それに、僕が留守の間家事なんかして悪化させたら駄目って。きつく言ってあるからか。やる事がなくて退屈過ぎて、暇なのもあるのであろう。僕も市長さんの部屋に軟禁されていた時期があるから、気持ちはわかる。何もせず、ベッドの上でごろごろしたりする日が続くと。わりと苦痛だよね。でも我慢してもらわないと、彼は病人であるのだから。僕のせいで怪我させてしまったのだから、ここは心を鬼にしてでも。彼は絶対安静にさせないといけなかった。これもまた、僕の責任だった。だから、銀狼の行動範囲は。自分のベッドかソファーだけで。たまにトイレに行くぐらいに限られていて。家の中でも、その全域ではなかった。何かお水とか飲みたくて取ろうとすると、基本僕が冷蔵庫に取りに行くし。松葉杖があるから、家の中でもそれを使用すれば。わりと動けるのだけれど、歩き難いけれど外出だって別に禁じられてはいない。ただ、世話焼きな僕が許すかは別で。ううん。ガルシェの事を過保護だって思ってたけれど。これじゃ僕も過保護みたいだ。怪我人なのだからと、理由はちゃんとあるのだが。構い過ぎるのも度が過ぎたら、あまりよろしくはないだろうか。構われる銀狼は、わりと嬉しそうにする。だから、僕が仕事に行くと寂しいのだろうな。それで休みますってはならないのだけど。二人が食べる為には、働かないといけないのだった。一日、二日ぐらいなら。別に休んでも食料も蓄えがあるから問題ないが。それが彼の完治する期間中ずっととなると、無理があった。
ので。僕は今日も、ガルシェに行ってきますをして。悲しそうな銀狼を背にしながら玄関を開けて外を出る。十分ぐらい、なるべく早く帰ってくるからと言いながら頭を撫でているけれど。なんだか、生活自体は自立してきているように見えて。この男、どんどん駄目になってないだろうかとちょっと危ぶまれる。寂しさに対してあまりに耐性がなさすぎる。家には雌鶏のアーサーだっているのにだ。ずっと狭い人間関係のまま、突如人間と共同生活をして。当たり前が覆ってしまったのだから。それもしかたないのかな。僕から執着心をどうにかして無くさせたいのだけれど、それでもこうして寂しそうな彼を見ていると。嬉しいような、辛いような、せつないような。よくわからない気持ちにさせられる。僕の役割も、もう終わるとそう感じて。祭りが、間近に迫っているのだから。人が、元々一人暮らしをしていた銀狼に。もっと家事ができるように、それとなく促す意味を。ちゃんと理解しているのだと思う。別々に寝るようにしたのだって。気づかない方がどうかしている。ガルシェは、出て行くなとは。もう言わない。言って欲しいわけではない。今回の一件でとても身に染みて、僕が何か事をおこそうとすると。被害をこうむるのは別の誰かなのだから。食糧問題が表面上は解決の兆しを見せ、まだ正式な発表はされていないが。誰が動いて、食料を取って来たのか。噂というのはどこからか流れるものだ。あまり広いとは言えないこの街で、噂なんて端から端まで行き届くのに数日とかからない。だがしかし、その作戦に参加したメンバーの中に。いくら噂好きな市民といえど、人の名が名が挙がるような事例は今のところ報告されていない。市長さん直々の箝口令がしかれていた。市民権の辞退と一緒に、お願いしたもう一つがこれであった。
僕の頭の中で描いたシナリオはこうだ。ガカイドが主導の元、レリーベさんとガルシェを伴い。都市部へと行き、そこで未調査の倉庫から食糧持ち帰り。難民問題を先延ばしにする手助けをする。僕は最初からいなかった。別に、そもそも名声とかそういったものに興味はなく。市民権という話も、そこまで魅力に感じていなかった。一番は、街の治安の回復と。ガルシェが無事、祭りで資格を得て。そしてガカイドの烙印の抹消。この三点だけだった。それ以上は望んでおらず、僕の立場等の向上は交渉する際に最初から入っていない。だから、あの時。挑発する態度や利用されたと思って、怒りという感情が涌きはしても。それに完全に流されるような失態は演じなかった。不敬ではあったと思うが。
住宅区から抜け、大通りに出た後。学校に向かって歩いていると、いろいろな噂話を聞くけれど。市長さんの力をひしひしと感じる。裏通りという立地と、許可された一部の人しか入れないガードマンが目を光らしている場所というのも手助けしたのだろう。二、三日。獣の顔をした人々が暮らすこの街で僕が見かけないからと、わざわざ探すような物好きはおらず。また市長の息子の家に引きこもっているぐらいにしか住民は認識しない。人間という種族故、悪目立ちするからこそ。よくよく改めて、つぶさに見ていないものだった。こうして素知らぬ顔して歩きながら、人々の口々に耳を傾けると。
「どうやって、増えた住民を飢えさせないだけの食糧が」
「なんでも、あの腰抜けが調査隊に志願したらしい」
「なに。ガカイドがか? それは何かの間違いじゃないのか」
「あの七光りも同行したらしいし、揃って負傷して帰って来て。今は療養中らしいから、信憑性は高いぞ」
にわかには信じられないといったところみたいだが。嬉しい誤算、と言って良いのか。ガカイドも、ガルシェも、目に見えて負傷した事で。特にガカイドは片耳が無くなり、肩も碌に動かせないとあって。噂の裏付けに一役買っていた。レリーベさんも重症で、床に伏せているから。同僚であろうか、警備隊の人からは心配する声も。無表情ばかりであっても真面目な人故に、同僚や後輩からの親しみはそれなりにあったらしい。だというのに、どうして。僕に優しくしてくれたのも、弟さんを無意識に重ねていたのだろうか。身長、彼らの平均からすると低いから。どうしても年下に見られがちであるのだが。人間の肉体年齢でいえば、成人していそうなものなのだが。そんなに幼く見えるのかな。小さい時期って、彼らにとってあっという間に過ぎ去ってしまうから。人間の成長速度は遅く感じてしまうのだろうな。僕からすると、ちょっと数か月会わないだけで。自分より背が低い子が、次会ったと時には背を追い越していたりするのだから。そうやって、人間より後に産まれたのに、先に死んでしまうんだなって。彼らの成長する姿を見ていると、そんな感じている時間の感覚の違いに。寂しくなる。どうやっても、置いて行かれるんだなって。それは。銀狼も例に漏れずそうで。もう、六歳だっけ。ガルシェ。といっても、街の外に出たら僕は一月と持たない気もするが。
人々から赤茶狼の名前が挙がる度に、ちょっと誇らしくなる。一番間近で、僕は彼が頑張る姿を。再び立ち上がるその様を見たのだから。無理やりそうさせた感もあったが。それでも、きっかけになったのなら。やった事が無駄ではなかったと思えたら。僕の気持ちがちょっと軽くなるのに。その浮上しかけた気持ちも、傷だらけになった姿を思い浮かべると。より沈んでしまうのだけれど。まだ、正式発表はされていないけれど。たぶん、祭りの日に合わせて。ぶつける気なのかな、息子の後押しになると。そういった意味でも、成功してしまったからには。最大限有効活用する気なのだと思う。僕は後の事には関わらないとそう自ら言ったのだから、好きにするつもりなのだろう。利用され尽くした結果、それがガルシェの為になるのなら。僕に文句はなかった。ある筈がない。ただ、引っ掛かる事と言えば。あれからずっと、市長さんとは碌に会話らしい会話をしていないぐらいであろうか。
気に、しているのだろうな。立場上、僕は庇護下に置かれていて。そしてこの街のトップとの会話の中で発生した事柄であるのだから。喧嘩、とはいえないけれど。お互い、凄くばつが悪い。業務上、顔を合わさざるをえないのだけれど。前みたいに軽口だったり、世間話めいたものは消失していて。とても寒々しい職場となっていた。集中できるという利点はあったが。元々あったものが無くなるというのは、悲しいものだ。それも、いろいろ腹の中に抱えつつも。僕に笑いかけてくれていた灰狼が、ずっと気まずそうにしているのだから。それは、僕も同じで。
どうして、こうなってしまったのだろうな。僕はただ街の為に、赤茶狼と、銀狼の為になるならと。声を出してみただけであるのに。結果は、最大限とはいえないまでも。僕が望んだものになって。だというのにどうして。ああ、だからか。こうして噂話を聞くふりして、ちょっとでも歩みを遅くして。学校に到着する時間を引き延ばしているのだから。仲直りとは違うけれど、どうにかしたい。とは思う。思うのだけれど、きっかけがなかった。なんだか、ガルシェとも。同じような事があったなと思うと。不思議な感覚に陥る。あれはお互い悪くないけれど、ただ気持ちがすれ違って。立場的にどうしようもなかった。ちょっと根には持ってるけれど。
でも今回は違う。表面上仲良くしてくれていたのを、改めてお前という立場をわからせてやろうと。ただ認識を再度改めたに過ぎず。市長さんの立場からすると何も間違えてはいない。何もだ。だからこそ、ああなってしまったのだろうけれど。間違えたとしたら、最初にガルシェに連れてこられて。顔を合わせて、様子見を選択したあの時であろうか。
そしたら、銀狼も。人等に執着せず、こうも街の内情を、火種を抱える事もなく。いらぬ問題を、考える必要すらなく。心労が多いであろう、あの人も。まだ心安らかになれたのかなって。親子の仲を悪化させた自覚があったから。そんな自分がいない、かもしれないを考えて。でも。そうすると、いずれ起きたフォードの難民という。荒波に耐えられたかは、また別の話であったが。あの人なら、上手くやったのではないかなって。あの食わせ者の灰狼なら。そんな信頼感を抱くけれど、僕はあの日の。憔悴した彼の姿を知っているから。その考えに待ったをかける。とことんまで追い詰められたら、誰も、支える人のいない。いなくなってしまった彼が、どうなるのだろうなって。
足から伝わる感触が、土に変わったから。ふと思考から浮上すると、いつの間にかグラウンドに差し掛かっていて。学校の敷地を跨いで、もう校舎が目と鼻の先になっていた。いつの間にこんなに歩いたのだろうと思うけれど、何キロと距離はないのだから、当たり前であった。
番の人。亡くなったガルシェのお母さんが居てくれたら、市長さんを支え続けてくれていたら。この親子関係も全く別の道を辿っていて。あの、今は僕とガルシェとアーサーで住んでいる。家で、家族団欒を謳歌していたのだろうな。そしたら、僕との出会いもなかったのだろうけれど。もしもがあるのなら、それで良かったのに。与えてきた影響と、被った被害と。僕は消えてしまいたくなる。でも、もう少しだけ頑張らないといけない。わだかまりを残したままではすっきりしないのだから。少しの間だけでも、ガルシェの前を歩くと決めたのだから。ほんの刹那でもいい。それで、何かが変わるのなら。だから、来たくもない職場に出社して。会わせたくない顔を突き合わせ、今日も市長さんの部屋で仕事をする。食費を稼ぐという大義名分と、ここに来なければ。灰狼とは会えないのだから。
今日も、いっさいの無駄話はなく。恙なく業務を終え。淡々とお金を机に置いて、部屋から退散しようとする。そのくたびれたように感じる、毛先を跳ねさせた灰色の尾に呼び掛ける。ずっと冷戦状態であったのに、ここで僕が行動を起こしたのに不思議がりつつも。それでも、ゆっくりと振り返って。聞く耳は持ってくれる狼の耳。久しぶりに、ちゃんと市長さんの顔を見た気がする。毎日、会ってるのにだ。
それぐらい、僕もまた。彼の顔を見るのが気まずくて、態度に表していた証拠だった。彼は、こんなにもやつれていただろうか。彼は、こんなにも。僕を。種族的に見ても、あまりにもか弱く見えるであろう人を。恐れるような目で、見ていただろうか。彼はこんなにも寂しそうな男に見えただろうか。弱音を聞けたのはもしかしたら僕だけだとしたら。どういった数奇な運命か。弱音を吐いた相手もまた、一人だけであったのだろうか。心配そうにする虎の先生だって見かけた事もあるし、この灰狼を。街の皆が慕っていて。黒豹も、あの方と言っていたのに。皆が強い人だと、そう思い込んでいて。僕と虎の先生だけが、体調を心配して。本当に。独りぼっちになってしまったんだな、この人は。ガルシェもそうだったけれど、お父さんもまた、孤独だったのかな。苦しみも悲しみも、理解してあげられないし、背負えないけれど。いつだって、わかった気にはなれる。
「お話が、あります。これからの事について」
さあ。もう一勝負といこうじゃないか。生憎と、僕は力はないし吹いたら飛ぶような人間で、強い者には巻かれる主義ではあるけれど。時として、逃げる選択肢だって視野に入れながらも。諦めは、人一倍悪い人間だ。だって、頑固者だしね。
お祭り当日。日を追うごとにだんだんと街の人達がソワソワとしているなって、何となく感じていたけれど。実際に号外が撒かれ。大通りのど真ん中に、足場が組まれ出したら。それは顕著なものになっていった。商魂たくましい人は、あまり品がないながらも。隅の方に出店みたいなのを準備し始めているし。開催される時間は夜らしく、まだ昼は仕事がある人はだいたいは出払っているけれど。お休みの人や、学校で訓練をしている訓練生等は拒否権はなく祭りの準備に駆り出されていた。普段から激しい訓練で肉体を酷使し、筋肉を盛っているレプリカントの男性陣が。鉄のパイプを大量に持ち、それをロープ等でどんどん仮設の足場を組んでいくのだから。人海戦術で、みるみる出来上がっていくのは。なんだか建築ゲームで、よくある機能の早送りでもしているようで面白い。そうやって、道の端で邪魔にならないように僕は何もせず突っ立っているのだが。だって、力仕事とか。下手に手伝うと邪魔になるし、上の足場へ向けて、足場の資材を掛け声一つでぽいっと軽々しく投げて。空中でキャッチしてるあんな人達の真似なんてできるわけがなかった。チームプレイとか、僕には無理だ。元の職業を知らないと、本職がとび職か何かに見えてくる。軍服を着ているのだからそうは辛うじてならないけれど、仮設テントとかも組む訓練もしていそうではある。ガルシェも、テントをばらすのは手馴れていたし。
祭りの日、僕はお休みを貰っており。だからこうして昼間から、ぶらぶらと変わりつつある街を見て回っていた。銀狼は、置いてきた。というより、お父さんからお話があるだろうし。彼も主役の一人であるのだから、その打ち合わせもある。僕は関係ないので、こうして邪魔にならないように時間を潰している側面もあった。僕が居ると、どうしても普段から仲が悪いのに、余計拗れるのだから。そういえば、一応レリーベさんが人伝に退院したと教えてもらったのだけれど。あの仮設テントで、会ったきり。一度としてお見舞いにもいけてない。というより、いけないと言った方が正しかった。ルオネとも、ガカイドとも会っていない。ガルシェの家と、学校を往復するだけの日々であったから。そうなるのは必然であり、避けているわけではないと思う。どういう顔して会えばいいのかなって、まず考えてしまうぐらいには。会い辛いのだけれど。
「ルルシャちゃん、こっち手伝って」
「あ、はい。今行きます」
ぶらぶらしていたら、とても暇そうに。相手には見えたのだろう。実際に暇であったし。だから僕が、忙しそうにあくせく働くサモエドのおばちゃんに捕まるのは必然で。どうやら、お祭り中に大勢の人に食事を振る舞うらしい。最近よく炊き出しをしていたけれど、それ以上に街全員が来るのを想定されて用意される食材は。それはもう最近目にするものでも、一番であった。その中には、都市部で手に入れた物も混ざっており。パウチ容器に書かれた名称を見て、中身を出し。改めてそれを調理したり、そのまま温めて。お皿に盛り付けたり。具材そのままのもあれば、調理済みのもあり。わりと種類だけは豊富であった。それをトラックの荷台いっぱいに持って帰ったのだから。今並んでる箱二つも、その内の少しでしかない。茹った鍋に、そのまま加熱可能なパウチを投入してぐつぐつ煮るだけの作業。これ、ミートボールかな。これは、野菜スープ。調味料がふんだんに使われているし、このインスタントの調理方式も。何か初めてするのだけれど、記憶にだけはこびりついているから。どこか親しみを感じる。ただレトルトパックを煮るだけを料理と呼べるのかは別だが、袋から出して盛り付けてしまえば一緒である。祭りの最中、こうして食事が振る舞われるのも。厳しい冬を乗り越える為に、皆で頑張ろうって意気込み的な意味も込められていて。だからこそ、食料不足な為に今年は中止かなって皆残念がっていたのだった。贅沢はできないし、余分に祭り分の貯蔵できていないのだから。これでも例年より少ないらしい。年に一度だから、それはもう毎年気合が入るのであろうな。娯楽のない生活を送っているのだから、こういうイベント事は大事にしたいだろうし。きっと皆が楽しみにしている。あまり、物事に興味なさそうなガルシェでさえ。最近ちょっと楽しみなのか、外の景色を煙草を吸いながら窓から見たり。耳をそばだてて、しきりに外の声を拾っている様子が垣間見られたし。ガルシェ、浮かれている。珍しい銀狼の様子に、僕まで楽しみになるのだけれど。こうして、食糧問題が一応の鎮静化がなされてなお。僕の風当たり自体はあまり変わらなかった。今も、おばさんの傍で手伝っているけれど。難民の人かな、遠目からでもあまり良い顔をしていない。人間が触ったものを、祭りの中で振る舞われるのが嫌なのかな。その食べ物が手に入るきっかけが、僕にあると知らないのだから。わざわざ箝口令を行使してもらってのだし、その提案をした僕自ら名乗り出る気もなく。特に気にせず、手伝いに没頭していた。ただ、あまりに露骨に。こちらの近くまで来て、難癖付けてくる輩は。直ちにサモエドの鉄拳でもって、成敗されていたけれど。おばちゃんの元で働かせて貰っている時、私実は強いんだからって言っていたのは嘘ではなかった。ふくよかな身体からは考えられない、腰を落とした腹への一撃は。あまりにも壮絶で、せっかく朝に食べたものをゲロる哀れなレプリカントの男性を。何の同情もせず、わー痛そうと、見守る程度だった。
僕はあまり気にしていなくても、おばちゃんは逆に気にして、大丈夫かと。その豊満な胸に、人を抱いて。むぎゅむぎゅと、顔と一緒にいろいろ押し付けてくるのだけれど。相変わらずスキンシップが激しい。お人形さんのように、抱き上げて可愛い可愛いされるのは。残念ながら人間の男であるのだから、あまりやられて嬉しくはならない。柔らかい肉の感触と、ふわもこの毛のお陰で。ちょっと誘惑されるけれど。サモエドの顔をしていても、完全な動物ではなく、女性の方である。見栄えが悪い。よくおばちゃんのお店に来ていた、常連のお客さんもお手伝いに参加していて。そんな時、また抱っこされているよと揶揄われるのだけれど。この今準備している食事も、街の皆が食べたら。また質素ながらも。最低限の食事で、実りが少ない冬を乗り切る日々が待っている。だから、今こうして追い払いはしても。夜、祭りが始まれば。嫌味を言ってきた人にも、このサモエドは分け隔てなく差し出された器に、お玉で料理を掬い、注ぐのだろうな。容赦はないけれど、優しい人だった。
実際のところ、箝口令がなく。僕の名前が噂話に含まれていたからと、フォードの人達の人間に対する印象が変わったかというと。それはわからない。変に悪目立ちしたくなくて、ならリスクを負うより。市長さんが難民を掌握しやすいように。人が関わったなどと。存在は隠した方が良いだろうって、そう思ったから。それに、機械達に襲われた被害者である彼らが。機械達に襲われないらしい、人間の僕は。あまりに目障りであろう。少ないながらも、人間が手引きしたのではないかとか。そんな根も葉もない、憶測まで飛び交っているのだから。本当に、種族間での遺恨は根が深かった。これは、たった一人の人間がどうこう奮闘したところで。どうにもならないと感じるぐらいには。そもそも、会ったわけではないけれど。この街に人間の使節団が訪れた事もあり。その際に、市長さんは大層嫌味を言われたようであったし。人との関係を修復しようと尽力している、そんな相手に向けられるそのような言葉は。あまりにも鋭く、心を傷つけて。そんな時、僕が部屋に居て。本当に、不思議な巡りあわせであった。人々との関わりの中で。僕に笑いかけてくれる人。露骨に嫌そうな顔をする人。何の関心を示さず、それでもあまり近寄ってはくれるなと。そんな態度を取る者。親身に、接してくれる人。僕の大切な、僕なんかでも、どうにか守りたいと思える人達。どんな扱いをされようと、結局のところ。僕は市長さんを憎めないでいた。それは、銀狼の父親であるというのも。大きかったように思う。関係なければ、何だこの人って。好き好んで、自分から関わりに行きたい人ではなかった。気難しいし、何考えてるか読めないし。だというのに、目に見えて。心労にか、どんどん痩せ細っていくし。僕から見た市長さんって、そんなに怖い人でも。強い人でもなかった。
というより、皆。多かれ少なかれ、虚勢を張り。自分を強く見せているに過ぎないのだった。それは、赤茶狼も、灰狼も。僕も、銀狼も、変わらなかった。一人の人であるのだから。辛い事があれば辛いし、それを誰かに聞いて欲しくなる時だってあるだろう。どうしようもなくて、寄り添って欲しくなって、なっても。できる相手がいなくて。そんな時。身近な人がいなくて、たまたま僕が居合わせてしまったとしたら。聞いてあげる事ぐらいしかできないとしても。ただ、隣に立って。全てがわからないまでも、一緒に泣いてあげられるぐらいはできるだろうか。だって僕、皆に言われるけど。泣き虫だから。つい、一緒に。泣いちゃうから。悲しい人を見ると、僕もどうしようもなく悲しくなってしまうから。誰かの代わりでも良かった。それで、その人が救われるのなら。降って湧いた僕みたいな存在を、使ってくれるなら。ここに、居て良いよって言ってくれるのなら。それで良かったのに。それだけで良かったのにな。
慌ただしくしていると、時間も過ぎるのもそれ相応に早いものだった。粗方下拵えを済まして。後はもうやっておくから、ルルシャちゃんも祭りを楽しんでおいでって。そう背中を、おばちゃんの大きな手でぽんと押されて。暗くなり、ライトアップされるステージ。花火とかが打ち上げられるわけではないけれど。皆が持ち寄った、ランタンとか、提灯とか。蛍光灯とか、不揃いではあったけれど。ロープに吊るされて、大通りを昼間のようにとはいかないまでも。柔らかな夕焼けぐらいに明るく照らす。普段は商業区で露店をしてる人も、この日ばかりは夜店として。ちょっとしたつまめる物だったりを売っていたりするし。楽器、だろうか。小さな太鼓を取り出した人が、寄り集まって。聞いた事もない歌詞のない曲を演奏していた。打楽器に混じって。カスタネットみたいなのとか、わりと種類はあるらしい。楽器に詳しかったらいろいろわかったけれど、系統の違う音とテンポだとしても重なると。一つの曲になっていくのは、どこも同じなんだなって。緩やかに笛の音も混じりだす。どこかで発掘したのか、それともこの街で作ったものだろうか。こうして、がやがやと人が寄り集まり。出店の食べ物の匂い。楽器の音色。こういうのがお祭りという独特な雰囲気なのだろうか、それがこの街にも満たされつつあった。普段はあんなにも、生きるのに必死で。毎日皆あくせく休みなんてあまりなさそうに働いているのに。年に一度の今日だけは。やっぱり特別な日なんだと、明るい獣の表情が所狭しと並べばそれも窺い知れた。もう、お酒を飲んで出来上がっているレプリカントの人だってちらほら居たりする。水煙草だろうか。裏通りでも一度見たそれが設置されており。大きな機械から伸び、管に取り付けられた吸い口にマズルをくっつけた後。吸う人が代わる代わる空中に紫煙を漂わせたりしてるなんて光景も。そのようなものに目を奪われていると。目の前から肩を組んだ二人組が、楽しそうに歩いて来て。不意に足がもつれたのか、こちら側にたたらを踏む。先に気づいた僕はぶつからないようにそっと避けるが。酔っていて人間にあちらは気づいていないのか、楽しそうに何やってるんだよと笑い合ってはそのまま通り過ぎて行った。この空気感に当てられて、どこか僕も高揚してくるのだけれど。ただ、背の低い人間は背の高い彼らという人混みに瞬き一つで埋もれるから。大通りの中央から二度あってはいけないと、さっさと抜けようと試みる。浸っていたかったが、皆に混じって歩くのを諦めた故だ。道の端を歩けばまだ大丈夫であろうと。踏んづけられたら危ないし、怪我をしてからじゃ目も当てられない。彼らの体重で踏まれたら、最悪死にそう。
ドンッ。一つ、お腹に響くような大きな音。今日だけの為に組み立てられたステージの裏手から、それはしたようで。誰しもが、獣の耳を震わせ足を止める。ドンッ。二つ目に響いた音で、連れとの会話に夢中だった人までも。そのライトアップされたステージに目をやる。ドドンッ。場に流れていた空気を書き換えるかのように、また大きな太鼓の音がする。それは先んじて耳を楽しませていた楽器を持ち寄っていた集団すら。手を止め、吹くのを止め、注目しだす。一人がステージに登って来るのが見え、手元には拡声器が握られていた。ただその姿をよく見ようとして、誰かの後頭部が隠すように動き。僕はよく見ようにも、遠くの人影を追う事すらできず。意味もなく群衆の後ろでぴょんぴょんと跳ねてみた。それでちらりと見えたのは、灰色の中に多少の銀が混じる。白髪交じりの狼の顔。長いマズルを延長するように、口元へと拡声器を当て。雑音の中に、咳払いを交えてハウリングがキーンと響き。耳の良い獣達はちょっと嫌そうに、それぞれ首を振ったり、耳を押さえていた。ゴツゴツ。マイク部分を軽く叩く音まで拾ってしまっているのか、そんなものまで聞こえてきた後。よく知る、壮年だろうか。低く落ち着いた、けれど僅かばかり掠れているよく通る男性の声が。機械によって何倍にもなって、響いて来る。この街の市長さんの声だった。名も知らぬ誰かの肩と肩の隙間から見えた立ち姿は、背を逸らし胸を張り。拡声器を持っていない手は背に回したまま。腰から垂れる尾すら、力を入れているのか緩やかなカーブを描いたまま微動だにしない。着ているスーツは黒く、会場を照らす光を反射しているのか織り込まれた服の繊維に光沢があり。まるで暗闇に溶け込むのを拒否しているかのようで、自己主張し過ぎないながらも。それに合わせてか、中に着ている真っ白なワイシャツと空色のネクタイ。どこか、ガルシェの持つ毛皮の輝きか、それとも過去の自身にもあった。今は寄る年波によって損なわれた、シルバーのネクタイピンが。控えめながらも、視線を誘導するかのように目立っていた。三十代とも、四十代とも取れる。そんな雰囲気の中でも、目の眼光だけは若いまま鋭さを維持し。ステージを囲む、自身が統率する群れを眺め。長としての貫禄を帯びたまま口元が笑みを形作る。普段、部屋で僕と二人っきりでは見せない。というより、人前での仕事をしている姿は見る機会がなかったというのが正しいが。そんな誰の視線も奪う、男がそこに居た。きっと、若い時は銀毛も相まってどこか作り物のように。相手を畏怖すらさせたに違いないと、僕には思えた。群衆から抜け出し、こうして遠く大通りの端から見る僕ですら。あんな姿を先に見ていたら、きっと恐れ多くて声すら掛けられなかったかもしれない。出会うタイミングが違えば、もっとあの人を怖がって。萎縮し、市長さんの部屋で何もできず。何もしようとは思えず。そんな余裕すらなく。
「諸君。我々がここに根差すのを決意した日より世代を重ねながらこうして共に歩めた今を。心より嬉しく、そして誇り高く思う。諸君。我々には敵が多く、それは機械だけではなく。こうして自然すらも、我々に過酷な試練を与えるだろう。諸君。だがこうして、今日も。我々が屈することなくこの大地に立っていられるのは。諸君ら一人一人の献身が、この街を形作っている以外に他ならない!」
僕を揶揄い、弄んで、時として。まるで父親のように、はたまた、親身になってくれた。不思議な大人の男性。彼の声が聞こえだしてから、太鼓の音ですら遮れなかったぼそぼそとした小さな喋り声が消えうせる。皆、市長さんの立ち姿に。まるで見惚れたかのように。獣の顔が同じ方向に集中していた。たくさんの目に晒されながらも、たった一人。臆する事なく、自身の魅力を心得た長は。その姿も、声も、そして広いステージの上全部を使い。ツカツカと磨かれた革靴で床を踏み鳴らしながら。スゥ……。台詞の合間にある息継ぎすら。計算の内とばかりに、どこか引き込まれる演説を続ける。一頭の、灰狼のブレスに魅入られたのは僕だけではなかっただろうか。
「同胞であるフォードが陥落し、今集まってくれている諸君らの中にも。そこから逃げ延び、助けを求め、この街にやってきた者達もいよう。だが、我々も逃げ延びた全ての同胞を受け入れる事はできず。力及ばず、門を閉ざす道を選んだ事、街の皆を代表し、ここに謝罪しよう」
力強く喋っていた市長さんが、真っすぐに群衆の、おそらくフォードの難民に対して向き合い。腰を折り、軽く頭を下げる。まさか最高権力である市長さん自ら、この場で謝罪を口にするとは予想していなかったのか、顔を見合わせて何かを言って動揺しているのがフォードの人達だけで。元々この街で暮らしている住民は、静かに彼の話に聞き入っていた。
だがっ。そう溜めを作った後、頭を上げた灰狼の瞳に。強い何かを湛え、声を震わせ。拡声器を持っていない手が、ぐっと自身の胸の前で握られる。そうされて、一度は動揺に身内で内緒話をするようにしていたフォードの難民が。三度、市長さんの姿に釘付けになる。
「大切なものを失い、逃げ惑い、そうしてここへとやって来た者よ。不安がる事はない。ならば我らは共に立ち上がろう。ならば我らは共に爪を研ぎ、牙を鳴らし。立ち上がろう、その手助けをしよう。なぜならば、機械共に親を、兄弟を、子を殺されたのは。君達だけではなく、我らとて同じだからだ! ユートピアは、我らレプリカントの理想郷! そして理想郷とは、自らの手で作り上げるものだ!」
最初こそ、静かに語っていた灰狼の言葉に。どんどん熱がくべられていく。拡声器でそれはさらに肥大し、聞く人の胸に殴りつけるようにして。そうだ。そうだ。同調しつつある、群衆の声。市長さんが一言何かを発する度に、頷き。声を揃え、彼が拳を作ったのと同じように。人によっては、故郷を思い出しているのか。それとも、亡き身内を想い、そうしているのか。涙を湛え、俯く者もいた。
「共に歩もう、共に進もう。フォードの民よ! 一度は苦渋の決断に、愛する故郷を捨てる道を選ばざるをえなかったとしても。君達の牙が、爪が、それで折れたわけではない。今宵より正式に。君達は、いや、諸君らは。私が率いる列に並ぶ者だ。共に起き、共に狩りをし、共に巣を守る一つの群れだ。一度失ったものはもう二度と取り戻せはせぬだろう。だが、これ以上、奪わせまいと。一丸となり、群れとして、戦って欲しい。戦い、続けて欲しい。私と、共に!」
先程聞こえた、お腹に響く太鼓の音なんて比べられないぐらい。会場を、歓声が、そして怒号にも似たものが満たした。彼らよりも聴覚が優れていない、僕が耳を塞ぐ程に。拳を突き上げ、口々に市長さんの名を。そして街の名を叫んでいた。場の高まり過ぎた熱気に圧倒されて、獣達が叫ぶ姿に。部外者な僕は恐怖心が襲う。だからこそ、冷静に事の成り行きを見ているわけだけど。たぶん、この演説の意味合い的には。フォードの人心を掌握したい、灰狼のおべっかも含まれているのだろう。謝罪を口にする時、悲しげに。目元に一滴、ライトアップされた自身から頬を伝う物が見えたのも。過剰だなと感じるのも、演技が混じっているのだとは思う。それは皆、馬鹿ではないのだからわかってはいるのだろう。けれど。熱が入りだした演説に、信じてしまいたい、縋りたい、そんな者にはとても甘く聞こえるようにも思えた。帰る家も、街も、何もかも失くし。身一つだけでこの街に来た人にとって、共に、そう代表が言ってくれるだけでどれだけ心の支えになるか。僕自身、もしも同じ立場に。というよりは、身一つであるという境遇だけでいえば。フォードの難民とそう境遇は変わらず、どこか似ているとも言えた。
大切な物を失った記憶すらないという、決定的な違いはあれど。
会場に湧いた歓声を、頷きながら手を振り、答えていた市長さんが。機を見て、手で制すると。だんだんとまた静けさを取り戻していく。灰狼が自身を注目する住民をまた見回し、そうして。そのさらに後ろでぴょんぴょん頑張って演説を見ようとしている、人間と一瞬だけ目が合った気がするが。すぐに逸らされてしまう。それでも。ふるりと、固まっているようにも思えた灰色の尾が揺れたように見えた。
「だが今宵は、年に一度の祭りの日。今日だけは、傷心を抱えた諸君らには酷なお願いかもしれないが。どうか、私ではなく。今日の主役である、彼らに。私と共に、賞賛にと。温かい拍手でもって出迎えて欲しい。名誉ある、番を得る権利を獲得した、栄えある優秀な雄達を!」
ステージの脇に少し移動し、手のひらで中央を指しながら。市長さんが後ろへと振り返る。そうすると、スポットライトがステージ全体を照らしていたのから、登り階段を集中して照らし。暗闇に飲まれ、灰狼が視界から消える。一人、また一人と。登り階段の踏板を踏みしめ、ステージへと。レプリカントの男性が登場した。暗闇の中から、きっと一番最初に手を叩きだしたのは市長さんだったであろうか。それに釣られてか、場を満たしだす大勢の拍手の嵐。ステージに上がった人達、一人一人に。個別にスポットライト一個を贅沢に独占して。横並びに、堂々と立つ姿、そんな中に。市長の息子たる銀狼もまた、居たのだった。ガルシェが、他の今年選ばれたレプリカントの人達と一緒に立っていた。数は五人と、少なかったけれど。
同居している男のそんな姿を。僕も見たくて、頑張ってまだ跳ねていたけれど。いい加減身体がしんどくなってきて。跳躍する度に、その浮き上がる高さが落ちていく。背の低い人用に、何か足場が欲しいけれど。僕ぐらい、小ささの子供のレプリカントの子供は、親御さんに肩車されたり高い高いされて。視線の高さを確保していた。保護者にあたる、その銀狼は。今日はまさに主役の一人なので、残念ながら僕を見守る役目はしていないだ。でなければ、こうまでして必死に飛んで跳ねてまで見たいとは思わないのだが。僅かに見えた、銀狼の尾が緊張にか。いつもより膨らんでいるようにも感じた。今回は見栄えを気にしてか松葉杖は使用しておらず、ある程度は歩けるようになった彼の晴れ舞台とも言えるそんな場面。銀狼の雄姿。ああ、もう。住民が邪魔だな。ガルシェが見えないじゃないか。どこか、よじ登れる建物でも探すべきだろうか。
「なにしてんだよ」
そんな僕の奮闘を小馬鹿にするように、後ろから声が掛けられて。まさかこの人だかりの中、話しかけられるとは思わずとても驚くのだけれど。その驚いた姿すら、呆れ混じりに笑われて。
「だって見えないんだもん」
「あー、お前。背ちっこいもんなぁ……」
振り向いた先、赤茶狼が、自身の腰より低く。手を水平に翳して、誰かの背の高さを表現していた。貴方の胸ぐらいはあります、失礼な。というより、これが人間の平均身長です。貴方達がでっかいだけですと。ちょっと膨れっ面を作り、足でも踏んでやろうかと憎たらしい男の足の甲目掛け。軽く足を上げて踏んづけたが、ただ床を強めに踏んだだけであった。真正面から元軍人に対して僕程度の攻撃が当たるとも思えないが、避けられたら避けられたでちょっとムカッと来るものだ。
「そういえば、いいの。ガカイド。ここってその」
言いながら、言葉を濁しながらも周りを見まわして。誰もこちらに視線を送っていないのを確認する。そうする僕が、何に対して危惧しているのか察した赤茶狼が。腕を組みながら、夜であるのだし、皆余興に夢中だからこっちなんて見てやしないと。そう言ってのけたのだった。それでも、やっぱり。それで何か言われて嫌な気持ちになったりしたらと考えると、どうしても。だって彼はずっと裏通りに引きこもって、あまり表通りには姿を見せなかったのだから。改めて、そんな男の姿を暗がりの中でも確認すると。もう包帯は全部取れたのか、毛皮を隠しているのは衣服だけで。ただ、片耳だけが千切れてしまっており、包帯がなくなった事でその断面まで晒されているのだから。僕が手招きして、訝しみながらもガカイドがもう少しだけ近づき。更に屈んでもらうと。痛々しい耳の根本に軽く触れる。感触的にはコリコリとして、芯のあるそれは。毛が薄く、僕の耳にどこか近いものだった。
「痛む?」
「俺達は傷の治りだけは早いからな、もう痛くねぇよ。それより、今はこっちのがいてぇかな?」
僕が触っている耳ではなく、ガカイドが自身の脇腹を服の上から擦る。それで気になって。見たいか? そう含み笑いをしながら、聞いて来る男に対して。素直に頷くと、軽く服をたくし上げて。お腹の毛を露出させる。そしたら、見えると思っていた烙印の証として彼の右脇腹に存在している筈の焼きごてで押されただろう焼印。赤い毛皮の中、ミステリーサークルの如く存在していた筈の。その独特の模様が、今は変質していた。そこだけ地肌を焼かれた為に、毛生えていないのは同じだが。模様の上に、バツ印のように。更に印が押されており、それはまだ施されて日が浅いのか。ちょっと縁が爛れていた。
「それって」
「ああ、約束通り。今あそこに立って、今年選ばれた奴らを紹介している市長さんが。正式に消す手続きをしてくれたよ。烙印を押されはしても、それを消せる奴なんて前代未聞だとさ」
僕の立っている後方、群衆よりもまだ先。たぶんステージの方角を見て、そう赤茶狼の顎が呟くように言った。じゃあ、これで。ガカイドも表通りで憂いなく歩く事ができるんだって、つい一人盛り上がってしまうのだけれど。それをどこか冷めたようにも、哀れむようにも取れる瞳をさせて。僕を見つめる彼は。それとこれとは、また別だと言わんばかりに。僕だけが気持ちが先行し、あれって。だから、そうだ。そんなよくよく考えてみれば、当たり前な事を。考えが足りないが故に、そのような事を彼自身に言わせてしまうのだった。
住む場所を追いやられたのは、ただ単に彼が日々稼ぐ収入という要素だけではなく。率いていたチームが全滅した際に、その遺族の向けられる視線に。のうのうと前のように表通りを歩けなくなった、抱いた罪悪感の方が大半で。だからこそ、元々住んでいた家も引き払い。ああして、物置小屋のような。隙間風の酷い、小さなあばら家に住むに至ったのだから。烙印どうこうは、関係なかったのだった。たくし上げていた服を戻しながら、ガカイドが屈んでいた姿勢から。普通に立って、僕を見下ろして来る。あれだけしても、変わったのは書類上の事で。対面的な部分においては、何も変わっていないのだなと。彼のおかれた境遇に、僕程度が何かしたからと。変わるわけもないのに。驕っていたのだった。友達を助けたいと。だから、消えた烙印で喜んでいた表情は。あっという間に暗い顔へと変じて。それを見せて、慰めの言葉を欲しいと乞うているわけではないのに。それでも、目の前の男は、この時ばかりは人を馬鹿にした笑みではなく。優しいそれで。僕の頭の上に、ぽんぽんと。手を置いた。
「お前が頑張ってくれたから、こうして。焼き印は消せたんだ。それで俺様の罪が消えるわけじゃねーけどよ。ありがとうな、ルルシャ」
頭の上に置かれた手を、僕は両手で握り。それ以上ぽんぽんと、子供をあやすような動きをできないようにする。頑張った、そう言われてしまうと。違うと否定してしまう。結局のところ僕は何もしていないし、できていないのだから。実際に戦って、頑張ったのは。話だけ持って来た人なんかを慰めているガカイドだ。僕ではない。あるはずがない。
だから執拗に、伸びて来る男の手から逃れるようにしながら。それで目の前の男が悪ノリしだして。両手で人間を捕まえようと、襲い掛かってるくのだから。気落ちした気分も、そんなおふざけによって。落ち込んでいる時間など与えてくれないと。そうやって誰しもがステージの催しに夢中になっている中。僕とガカイドだけが、少し離れてお互いしか見ていなくて。遊んでいるように見えただろうか。
「ガカイドちゃん?」
温和な女性の声が、驚きを含んで。僕を捕まえ咬みつく真似をしている男の名を呼ぶ。僕だけではなく、その声を聞き間違える事はなかったのであろうか。ニヤケ面が一気に、目を見開き、口元を震わせ。その震えは僕を掴んでいる腕にまで及んだ。丁度、赤茶狼の背後に立っているのは。ふくよかな肉体に、さらにふわもこの真っ白な被毛でさらにボリューミーな印象を与え。その前部分は、いっそ窮屈に感じるぐらいに大きなエプロンが覆い。胸と腹、三つの山で押し上げられていた。自身のマズルに手を当て、まさかこんな所で会うなんて。そんな顔をさせた、サモエド犬と酷似した顔をさせた。お祭りで提供される料理を振る舞ってる筈の、おばちゃんだった。掴まれていたせいで、僅かに浮かんでいた踵が地に触れる。
真っすぐ姿勢を正したけれど、声を掛けられて。未だ振り向くでも、挨拶するでもなく。固まってしまったガカイド。おばちゃんに背を向けているせいで、彼女にはまだ男の表情は見えないが幸か不幸か。歯茎を露出し、ギチリと食いしばった牙同士。瞳は泣き出しそうにも取れたが、片方の頬が引き攣り。あまりに歪だ。もしかしたら、普段僕らに見せているように。飄々とした態度を取ろうとして、笑顔を作ろうとして失敗しているのだろうか。あまりに醜く、辛そうな狼の顔だった。
「あ、おば、さん。おれ、さ……」
あまりにぎこちなく、辛うじて聞き取れたのは僕だけだったと思う。ガカイドの後ろで、身体を左右に揺らしどうしたのかしらって。そんな感じで、こちらを窺うおばちゃんの姿と。歪な表情のまま、振り向こうとするのだから。そんなもの見せてはいけない、誤解されてしまう。だから僕が、自身の太腿あたりに力なく垂れているガカイドの手を咄嗟に握る。今すぐにでも逃げ出したいのだと、狼の尾は臆病にも震えていた。会うタイミングが悪い。まだ彼の心の準備ができていないのに。僕へと意識を向けさせ、そうしてガカイドの視線が僕の顔をちゃんと見たのを確認したら。そのまま男の陰から顔を出し、おばちゃんに挨拶しようとして。
「もー、やだー。ずいぶん見ない間にえらく痩せちゃって、ちゃんと食べてるの?」
大きな身体には似つかわしくない、パタパタと小走りで近寄り。ガカイドの二の腕をむんずっと掴み、揉むようにして肉付きを確かめるサモエドのおばちゃん。素っ頓狂な声を出しながらも、強引ながらも相手を逃がさないとばかりに。白い大きな手が問答無用で身体を触り。逃げられないガカイド。そんな姿に、既視感を覚える。これ。よく僕が可愛い可愛いと触られたり抱き上げられたり頬擦りされる時と一緒だって。でも一番そんな対応をされるとは思っていなかったのは、もみくちゃにされている男のようであった。いい加減やめろって、暴れ。おばちゃんの可愛がり攻撃から抜け出し。フー、フー、って息をさせながら。頭の毛がぼさぼさになり、上着もくしゃくしゃになっていた。対してサモエドの顔は温和に、何で逃げるのかしらって。そんな態度であって。息を整えると。改めて自分にされた行動と、言葉を反芻し。訝しむ赤茶狼。
「あんた。恨んで、ないのかよ」
「……恨む?」
問いに、まだわかっていなさそうで。苛立たし気に、ガカイドが唸ろうとして。自身の喉を押さえた。落ち着けと、自分自身に言い聞かせているのか。動揺したままではだめだと、しっかりと向き合う。狼と犬の顔。悲しそうな表情をさせて、自分から埋めたい過去を掘り返すのを躊躇しているのだろうか。でも、向き合う時だと。揺れていた瞳に、決意にと。確かな意思が宿ったと、僕の視点からでも。見えた、そんな時。呑気な、あまりに呑気な。女性の声が、あー! って、そんな声をさせて。周囲が騒がしくて良かったと思う。普段であれば、注目を集めていてただろう。おばちゃんがやっと納得がいったとばかりに。でもどこか、その態度はわざとらしいように感じる。
「そうね。あの一件は、私の旦那さん。番ともすごく、すごーく悲しんだわ。だって、大事な娘でしたもの。とっても悲しんで、辛くって。毎日欠かさず食べていたおやつも、喉を通らないぐらい。旦那さんには痩せろ痩せろって言われていたから。ダイエットにはなったかしら? なんてね。貴方を恨んだ日がなかったなんて、綺麗ごとも言わないわ。でもね、それでもね。ガルシェちゃんも、ルオネちゃんも。皆生きてて良かったて。それで良かったって。そう、思えたの」
自身の胸の前で、まるで祈るように。手を重ね、握り。耳を伏せた、おばちゃんの優しい笑顔。眉を下げ、曖昧に笑う。痛みを堪えた人がする、そんな笑顔。それを唖然と聞いている赤茶狼が、動揺に言葉を発しようとして。息しかでず、唾を飲み込み。祈るような相手に対し、ガカイドは胸を押さえていた。
「あの子はね。三人でよく私のお店に来てくれる、貴方達が好きだったもの。なのに、あの事件以来。来てくれるのはガルシェちゃんだけ。来れない理由も、わかるわ。けどね、私寂しかったの。もう三人が揃う事はないのかなって。そう考えると、寂しいって。そう思えたの。時間がそうさせたの」
おばちゃんの会話を聞きながら。そういえば、一度だけルオネが僕がおばちゃんのお店で働いている時。謝りに来て、それで僕は彼女に。また食べに来てくださいって、そう言って。それで、ルオネは。振り返って、目に涙を溜めながら。頷いてくれたのを思い出していた。随分前に感じるけれど、その表情がとても印象に残っていたから。そう僕が言っても、僕が働いている間。彼女がまた訪れたりはしなかったが。その時は。僕のとった行動に対して感極まって、そうなったのかなって。ただただ表面上だけ、彼女の姿をそのまま受け取っていたけれど。
「あの子が私のお店を手伝うのをやめて、軍医として志願した時。もちろん反対したわ。でもね、きっと。あの子は貴方達に混ざりたかったんだと思うの。だって、三人とも、とても仲が良かったもの。私ってお喋りなのに、夫に似て。あの子は無口で、何考えてるかわからなくて。ガカイドちゃん、よく揶揄ってたじゃない? でもね、決める時はいつも突然で、そして、絶対に曲げないの」
昔を懐かしむように、もう過去になってしまった。それを、大事に大事に。ずっと今まで胸に抱きながら、忘れまいとした愛する我が子の想いを。赤茶狼に対して、おばちゃんは吐露していた。恐らく、一歩間違えれば。自責の念で、男を殺してしまいそうなぐらいの。そんな言葉を、困り顔でも。年長者故か、話している男の顔色を窺いながら。暗くなり過ぎないように、わざと優しい口調で喋っているようであった。
「誰が悪い、誰がって。そうやって、責任を取らせようと。人を追いつめるのは簡単だわ。でも私。もうそんなつもり、ないの。だって、こうして。貴方が生きていてくれた事が、嬉しいもの」
「おばさん、なに、言って。あんた、自分がなに言ってるか」
「許すとか、許さないとか。もう、いいの。そう考え続けるの、とってもしんどいの。私、私達、疲れちゃったわ。だからね、ガカイドちゃん。また、私のお店によければ食べに来て欲しいの。もちろん、一人で来るのが辛いならルオネちゃんも、ガルシェちゃんも呼んで。あ、いけないわ! 今はルルシャちゃんもいるわねっ」
おばさんが、忘れてたとばかりに。ごめんなさいねって、こちらに顔を向けて。片目を瞑り、口を開けていた。もしや、過去の事で言いつのられ。責められ、虚勢を張っているが。とても不安定なガカイドの心が傷つけられるのを心配していた僕の考えとは裏腹に。とても、聞いててむずがゆいような。でも、胸が小さな紐で締められるような感覚を感じる。
恐らく、信じられない言葉の数々なのだろう。自身の胸を掻き毟りながら、膝を折り。嗚咽を零す男の姿。少しだけあった距離が、サモエドの歩みでまた埋められ。そうして、お腹に狼の頭を押し付けながら。緩やかな動きで、頭を撫でさすっていた。
「こんなに、なって。この街のために頑張ったのね。大事なお耳も片方欠けちゃって、まったくもう。おしめをしている時から知っているけれど。この子ったら、こんなに大きくなっても。やんちゃなのは変わらないのね。そういえば、あまりちゃん付けするのもダメだったかしら。ガルシェもちゃん付けされると嫌がるものね。本当に、皆、大きくなって」
エプロンに染みを作りながら。くぐもった声が、おばちゃんのお腹からしていて。ガカイドがそこに埋もれながら、何か言っているようであった。けれど。あまりよく聞き取れなかった。本人が、言葉がつっかえているのもあったのであろうか。それは、おばちゃんも同様である筈なのに。そうね。辛かったわね。もういいの。いいのよ。赤茶狼の頭を抱きながら、そうやって語り掛けていた。どこまでも慈愛の籠った人の声だった。
許されたのだろうか。そんな二人を見ていて。これも一つの結末なのかなって。良かったって。言っていいのだろうか。皆何かを失いながらも、無理やり納得して。それで前を向こうとしているのだから。だからこそ、良かったって、言えるのかな。本当に凄い人だった。常々、おばちゃんはこの街の人達に。何かできないかと、動き回る人であったけれど。博愛とも取れたが。本当に、彼女は、誰かに対して。見ず知らずの人でも。愛情深くなれる人なんだって。
対して、今撫で擦っている男の耳が欠けた原因も。そして、いつだって目の前の人。本当に近くの人だけでも、救いたいって。思い、思いあがっていた。僕自身がとても、恥ずかしい存在のように感じて。先程のガカイドのように、この場から逃げたくなった。あまりにも、自分という存在が。醜い生き物に感じて。惨めで。僕は、皆がね、ただ。笑ってて。欲しかった。ただそれだけの願いだったんだ。でもそれを叶えようとすると、誰かに頼るしかなく。頼った末に、何を成しえたのか。傍観者であるのに、あまりにも。自分という役割から逸脱してしまったのだろうか。おばちゃんに抱かれながら、謝罪の言葉を吐き出し続けているガカイドを見て。僕も、ああなりたいって。思った。縋って、泣きわめいて、謝りたかった。けど、今はまだ違う。
やり残した事を、一つ、一つ。消化している段階だ。その一つ目が、実際に目の前で起きて。感傷に浸っているのだから。罪を許してくれる存在がいたのが、羨ましかった。
この街では僕を叱っても、許してもくれる人なんていなかった。ずっとそうだった。だからこれほどまでに増長していったのだと思う。自分という人間が。彼らを見て。感じ入りながらも。だからこそ、恥ずかしいとも感じたんだ。
共に暮らしていた銀狼は、僕を甘やかし。いけない事をしても、嫌な顔とかはするけれど。それで叱ったりはなかった。それをして、僕に嫌われるのを恐れていたのかなって今なら思う。ずっと、大事にされていた中で。感じていたもの。僕を手放したくない、孤独を埋めてくれる、都合の良い存在。恋とはちょっと違う。なまじ性的接触もあって、勘違いしたんじゃないのかなって。だから、自分を。彼から見て、大事な玩具って。そう表現していたんだ。ずっと。大事に、大事にしてくれる。大切にしてくれる。
でも、僕が向ける愛情と。彼が返してくれるものは。ちょっと違っていた。好きの形が違うんだって自覚してから、お互い。離れたくないと思いながらも。僕だけが満たされない想いを抱きながら。だって、好きになったら。好きな人に。好きだって。言って欲しいのだから。抱きしめて、誰にも目移りなんてして欲しくなくて。僕だけを見ていて欲しくて。
そんな気持ちでいたのに、他の女の人と。デートなんてするんだから。お父さんに無理やりセッティングされたというのも、理解していて。でも感情がついていかないのだ。本当に、まいっちゃうよね。でも彼は彼なりに、追いつめられ苦悩していたんだって。わかってはいたから。だから、見守る姿勢を崩さなかった。彼の好きが見つかればいいなって。だから、その先に。僕が居られないとしても。良かったんだ。自暴自棄になっていなかったと言われたら、否定しきれないけれど。都市部へ行こうと、提案して。自分でも唐突で、でも前々から行く手段を模索はしていて。諦め。でもそれが叶い。今こうして、結果。街の食糧問題を解決し、ガカイドの烙印も消せて。後、残るのは。銀狼と、灰狼の顔を思い浮かべた。その考えのまま、ステージの方を見れば。もう、終わってしまったのか。市長さんが締めの挨拶に入っていて。今年選ばれたガルシェ達の姿は見えず、組まれた足場から退散した後だった。ここからは、各自が思い思いに祭りを楽しむ時間らしい。また、楽器を奏でる音がしだして。それに合わせて、誰かが歌っていた。誰だろうなって、人混みの中から。その音の発生源を探してみると、例の狼の女性だった。ガルシェと、デートしていた。人だった。音程に合わせ、身体全体を僅かに揺らしながら。静かに、それでもよく通る声で、歌い上げていく姿に。つい、歌い手が誰かも忘れて見惚れてしまう。踊りとはいえないまでも、軽く手や肩を揺らし。そうして、耳につけているアクセサリーが光っていた。初めて彼女を目にした時とは形状が違っていて。改めて綺麗な人だなって。身体のラインは、女性のそれであるけれど。顔は狼だから、ちょっと鋭さもあり。それがより、彼女という美を引き立てていた。こんな大勢の人が居るのに、平気な顔して。それもとても、すっと耳に入って来るような高音だった。一度は、ガルシェと一緒に食事をしている姿を見て。お似合いだなって。そう感じたけれど。彼の隣は、同じ狼の人が居るのが正しいんだって。誰かに言われるまでもなく、僕自身がよくわかっていて。それが自然で。当たり前であって。銀狼の心を歪めてしまった自覚があるから。僕なんかに執着なんてしなくて良かったのに。あっさりと、もういらないと言ってくれたら。どれだけ楽であっただろうか。
だからガルシェは、どこだろうなって。ちょっと歩きながら探し始める。おばちゃんとガカイドはそのまま、僕だけ少し席を外した方がいいだろうから。赤茶狼が、冷静になった後で。一部始終僕に見られていたと気づいたら、嫌であろうし。そう理由付けして、あてもなく歩いていたけれど。そう時間は要せず、ちょっとした人だかりができていた為に。それで足を止めると、そう苦労せず目的の男を見つけて。普段は服の下に隠している、肌身離さず着けている番のネックレスを。今日は服の上に出しているのか、胸元で揺れているのが先ず目に入って。そうして、銀狼を囲っているのが。犬科の。というより狼の顔ばかりであったから。どの顔も、動物のそれだから。ぱっと見では性別は判断が難しいのだけれど。着ている服装が女性物だったから、彼が今どういう状況になっているのか。だいたい察して。身綺麗にしだして、そして仕事にも熱心に取り組むようになって。女性にモテているって、ルオネから聞いていたけれど。実際にその場面に直面するとは思っておらず。まさか、それも今日だとは。
というより、機会としては丁度いいのかなと考え直す。見た目でいえば、背が高く筋骨隆々な雄ってそれだけで魅力的で。今までは内面がそれを駄目にしていたから。本当に、身嗜みに無頓着であったから。僕と暮らしだしてお風呂に定期的に入らせ、そして毛並みには丁寧に櫛でブラッシングして。そうやって、僕の努力が実を結び。元々綺麗な銀の毛は、今はその魅力を最大限発揮していると思う。他にも四人。今年選ばれたレプリカントの男性が居て、彼らも同じように同種の女性に囲まれているから。ある意味通過儀礼みたいなものなのだろうか。それでも、狼が一番囲みを作り。アピールしている印象を抱いたが。普段、あまり人付き合いに積極的ではないから。それは種族的なもので。学校の食堂で見かけた、狼の男の人も。一人で食事をしていたし。基本群れるのは本当に親しい、家族とか番とだけな印象を抱かせた。友達がいない、というわけでもないようであったけれど。だから、顔見せという意味もあったのかな。複数の女の人に囲まれるって経験がなく、それもルオネぐらいしか女性を知らないガルシェは。遠目から見てもわかるぐらいには、女性陣の勢いに押されていた。それでも、聞かれた事には素直に応対し。返事しているあたり。びっくりはしたけれど、嫌ではないのかなって。話題は主に、都市部に行った。英雄譚を聞きたがる、そんな気持ちと。意中の相手はいるのかってのと、最近お見合いした相手とはどうなのかとか。そんなところまでの探りも入っていて。服装の種類から、もしかしたらその中にフォード出身の女性も居たのかもしれない。
ガルシェの内面。美点も欠点も知っている僕としては、ただ活躍した話題の人であろう。そんな人だから余計に話しかけているだけに過ぎないように見えてしまって、ちょっと不快に感じる。でも、その当の本人が。あまり嫌がっていないのならば。いいのかなって。鼻の下を伸ばすようなタイプではないが。照れているのか、落ち着かないのか。後頭部や頬を搔いたり挙動不審に映る。食糧難であったこの街の人々にとって、ある意味。英雄的な扱いなのであろうか。ただでさえ危険な外で。それも、機械が多く徘徊している都市部に行ったとなると。結婚相手というより、憧れも混じっているのかなって。銀狼の目つきは悪いけど、顔付きは整っている部類なのだろうか。お喋りではないが、愛想が極端に悪いって程でもない。話しかけたら普通に返事してくれるし。僕に対してや、子供達に対しての喋り方は。低い男の声といえど、とても優しげだ。その優しい態度が、誰とも知れぬ。不特定多数の、狼の女性に向けられているのを。ただただ、僕は遠くから見ていた。近づく気も起きないで。邪魔してはいけないなってのもあった。あの輪に割って入って、何だこいつって。そんな不躾な視線に晒されるのも嫌なのもあって。
「おい、探したぞ。気づいたら居ないし、一人じゃ危ないだろ」
真横から駆け足で近づいて来る気配を感じて。そちらを見れば、おばさんと一緒に居た筈の赤茶狼が焦った顔してそこに居て。僕が見ていた方向に気づいたのか、一度そちらを見て。難しい顔をしていた。ただ、もう少しだけ身を寄せて来て。狼の尾が、慰めるように。僕の背後からぽすりと当たる。別に落ち込んでもないのに。
「いいのか、あれ」
同じ方向を二人で見ながら。ガカイドが小さな声で僕に聞く。何が。そう気丈に振る舞おうとして。どうせ、僕の感情の揺れ動きなんて。彼らの鼻にはお見通しであると思い直し。そう気を張らなくてもいいかって思い。それでも、やっぱり口にしたのは。別にって。そんな愛想のない返答であって。
「嘘つけ。店でデートしてるところを見た時、嫉妬してたくせに」
「別に、嫉妬なんて……」
してない。してないと思う。だって、嫉妬できる立場にない。最初から持っている人達と、最初から持っていない僕と。どう嫉妬しろというのか。今背に当たっている男の尻尾だってそうだ。僕の身体にはついていないもので。慰めるためにそうしたのだろうけれど、この寒空では。触れ合った部分は服越しといえどぽかぽかして。ちょっとだけ、楽になる。肩の力を抜くにはそれで十分で。硬く引き結んでいた唇を、自分で頬を揉み。解す。そうして、ちょっと横を向いて見上げれば。揶揄うでもなく、ただ穏やかに見つめる赤茶色の毛をさせた狼の男がいた。見つめ合うと、小首を傾けて。唯一残された片方の耳が、ぷるりと震える。
「そうだね、うん。嫉妬してた。どうして、なんの負い目もなく彼の隣に僕は立てないんだろうって」
そんな嫉妬する自分をずっと認められなかった。だって認めたら、より自分の事を嫌いになりそうで。ただでさえ、無力感に押しつぶされそうなのに。できないものばかりなのに、心まで醜く変質してしまったら。僕という存在は、どこに価値を見出せばいいのだろうか。
「にしても、あんなに狼の人って居たんだね。わりと長くこの街で暮らした気がするけれど。あんなに見かけた事なんてなかった」
「そりゃー、普段は同族とだけで暮らしてるからな。特に雌は。後はそうだな、今の季節とか発情期も絡むし。あまり出歩けないさ」
「そういえば、ルオネは?」
「あいつは、今は家にひきこもってるよ。俺様達が都市部に行ったのでだいぶ荒れてたからな、精神的に不安定な時期だったから。それで早まったらしい。様子見に行きたいが、俺様は立場的にも、性別的に障りがあるし、な」
ああ、そうか。以前からなんどもそういった話があったんだって思い出した。一応は人であるからあまり意識していなかったけれど、彼らにはそういった身体の変化が起きるのだった。ガルシェも事故で一時的になったのを目の当たりにして。それを治療して。なら、早ければ。もう数日後には、勢いのまま。あの今は雌の狼達に囲まれている銀狼が。そのまま、その一人と寝床を共にして。燃え上がったりするのだろうか。人間の僕にはわからないけれど、そういうフェロモンとかで。感情すら吹き飛ばして。昔はそれで性犯罪とか多かったらしいし。その予防策として、裏通りと、同性同士や、自分自身での性処理が推奨されているのだから。実際ガルシェも、そう日を空けず。僕に隠れてお風呂場で処理しているのは知っているし。我慢するとすぐ夢精するぐらいには、性欲が強いみたいなのだから。見て見ぬふりして、ただこっそりタオルとかを準備してあげるぐらいで。そんな同棲生活を送っていた僕は。異種族って大変だなってぐらいの認識で。僕のせいで発情期に陥ってしまい、それで手伝いはしても。その病気みたいな性衝動から抜け出せば、もうその性処理を手伝うのを嫌がれば。ガルシェも僕が手伝うのを求めては来なかった。たまに、人の指をじっと見つめて。しばらくしたらムラムラしたのか、お風呂場に行く時があるから。誰かにされる感触を忘れているわけではないみたいだが。好きな人と、番とだけしたいと、同性同士の誘いを断り続けた彼であったから。僕から与えられる刺激は、かなり忘れようにも、忘れられないものだったらしい。だからこそ、また僕が手淫をするのは避けていたのだけど。実際のところ、僕自身。他人のペニスを直接触る感触を、あの生々しい手触りを。忘れるのは難しい。本当に、治療とはいえ。大胆な事をしてしまったと思う。あの頃は、追い出されない為に気に入られようと必死だったのもあるけれど。今なら、余計な事だったようにも思う。
「そっか。謝りたいけど、そんな状態じゃ。会いに行ったらかえって迷惑かな」
嫌われたと思ってるから。それでも、幼馴染二人を危険に晒したのは事実であって。だからこそ謝罪をまだ直接は伝えていないから、顔を合わせて謝りたいのだけれど。だって、ルオネは。僕の頬を怪我させた時、ちゃんとわざわざ謝りに来てくれたのだから。僕がそれをしないのは、義理を欠く行動だ。だが、一応は僕も男性であるから。フェロモンが作用しないとしても、会うのは聞こえが悪いかもしれない。それで、さらに彼女の婚活に響いたら問題だ。時期的に、悪かった。
「せめて、謝りたかったんだけどな」
「心配しなくても、ルオネがお前を嫌ったりはしねーよ。一度、ぶん殴ってやるっ! ては思ってるかもしれないが、それでチャラにはしてくれるさ」
そうかな。そうだといいな。でもその一度で僕死にかけたりしないかな。できれば体格差と種族差を考慮して、手加減して欲しいのだけれど。一応女性といえど、ルオネも僕より背が高く、それも鍛えている軍人であるのだから。その一撃は、痛いどころで済まないと思う。
僕とガカイドが見つめる先は、ガルシェで。そしてガルシェは、女性達の相手で精一杯であり。こちらには気づいていない。僕達が立っている場所が暗がりであるのもあったかもしれない。まだステージ近くに居る、今年の主役達は。ライトアップされているステージの反射光もあり、夜であっても表情すらよく見える。
大胆にも、女性が身を寄せて。銀狼の腕に腕を絡めると、ぎゅむって自身の胸を押し当てており。それで、毛を逆立てて初心な反応を示す男を。皆して、可愛いところもあるのねって。笑いかけていた。何となくそんな光景を見た後で、目線を下げると。とても平たい、鍛えてもない。男の胸板があって。つい触ってみるけれど。それで膨らみは変わらない。
――胸、ねぇな。
一緒にお風呂に入った際に、何故か僕を洗いたがった銀狼が。ついでに人の胸を背後から揉んで来た際に。発した台詞を思い出していた。あれから、僕以外と性的な接触をしたとは聞いた事もないし。実際ないと思うが。それはガルシェが言わないだけなのかもしれなかったが。恐らく、異性愛者であるのだろうから。だからこそ、何かと、誰かと比べて。そう言ったのかなって。あの時は驚きが勝って。意味を考えすらしなかったが。胸、好きなのかな。女性の外見的な好みとして、胸の大きさやお尻のラインを上げる男性は多い。だからこそ、銀狼もそうなのかなって思った。なんだ。最初から、ガルシェは僕と女性を比べてたんだ。ちょっとだけ、それで腑に落ちた。もしも、人間なら。そうやって胸を押し付けられたりしたら、顔を赤くしているのだろう。この距離ではわからないが、耳の裏を赤くしてそうではある銀狼の姿。
恋の対象に、初めからないのなら。そりゃ、都合の良い存在としてしか見れないよねって。僕が、最初。ガルシェの裸体を見た時、動物の要素が多くて。あまり卑猥に感じたり、嫌悪感を抱かなかったように。ガルシェもまた、僕という人間相手だからこそ。同性同士の性的行動を嫌悪しつつも、それに近い事を僕とできてしまった理由が。でも、キスされたのは。どうしてだろうか。それだけひっかかったけれど。どうしても、僕をあの家に引きとどめたい、苦肉の策として。わりと切羽詰まると、考えるより先に身体が動くタイプであったから。そうしたのかなって。無理やり納得した。家族に憧れを抱いていた男が。僕を家族みたいなものだと称し、それに浮かれて。いい気になって。僕をどうするのか迷ってるんだと、思い込んでいた。でもそうか。それは僕の視点であって。ガルシェの視点からすると、手放したくないからであって。でも僕とそこまでどうこうなりたいとか、そこまでは考えていなくて。だって、現状維持を望んでいたじゃないか。それなのに、周りが、そして僕自身が。急かして。あの時、好きと告げたのを。今更後悔していた。言わなきゃ良かった。これじゃ、一人相撲だ。笑えちゃう。
「お前って、悲しい時も。無理して笑うよな」
自分があまりに馬鹿馬鹿しくて、それで面白くて。つい笑っていると。隣でよくよく僕の所作を見ていた赤茶狼がそう指摘する。だから、僕の笑顔が固まって。やがてぎこちなくなって。笑うのを止めてしまうのは当然で。その間、ずっとこちらを見つめる男の表情もまた。男が僕を見て言うように、悲しげであって。
「最初。俺様は。お前を甘い言葉をくれる。自分にとって都合の良い奴だと思ってた」
一度目を瞑り、何かを決心したのか。もう一度その瞳が僕の姿を映した時。これまでにない程、強い意思で。僕を捉えていた。
「君は悪くないって。そう言ってくれる。存在に」
「……起きてたんだ」
てっきり、寝ていて。悪夢に魘されていると思い。彼の腕を取り、そうして。語り掛けた言葉だった。あまりに無責任な。それでも見ていられなくて。
「そりゃ、起きるだろ。耳元で言われたら。だから俺様は、あわよくばお前をものにして。毎日、慰めてもらって、そして俺の慰み者にしてやろうって思ってた。俺様は、稼げない時身体を売った事もあるからな。愛とか、恋とか。正直、金の為に他の雄に抱かれて、抱いて。よく、わからなくなった。だから、犯して、犯して。俺だけしか考えられないようにしてやろうって。かってな事ばかり抜かしやがる人間を。内心、嘲笑ってた」
そんな事を考えていたのかと。今まで、ただの悪友みたいな距離感で。僕はそうやって、友達だと思っていた相手に。初めて恐怖心を僅かに抱いた。別に実際にされたわけではなく、彼の言い方も過去形であったから。表情には出る事はなかったけれど。それでも、驚いていた。今、どうしてそれを言うのかなって。僕に嫌われるかもしれない。そんな事を。言う必要なんてないと思うのに。
「言ったろ。俺様、お前が嫌いって。別に嘘じゃなかったんだぜ。お前に俺様の感情が嗅げたら、気づけただろうに。だからガルシェは、あまり俺様がお前に近づくのにいい顔をしなかったんだよ。でもそうだな、嫌いだった。嫌いだったのに、いつの間にか、違ってた」
過去の自分を思い返して、自嘲気味に。赤茶狼が笑う。目の前の僕に対してではなくて、どちらかというと。
「最初は取り入ろうとしてたのにな。いつの間にか、ずっと頭お花畑のお前に。俺様は悪くないと言い続けるお前に。俺様の方が絆されてやんの。マジで笑えるだろ」
ああ可笑しいと、わざとらしくも見える。ガカイドが自身のお腹を抱えて、笑い声を上げる。面白いだろ、笑えよって。促されても、一つも笑えやしなかった。だから、ただ静かに相手の言葉を聞いていた。頷きも、返事もせずに。
笑い過ぎて、目尻に涙が出て来たのか。目元を人差し指で拭いながら。それでもまだ、ガカイドが笑う。
「なぁ、ルルシャ。俺様は、俺は。お前に多くを貰った。この感情も。烙印を消してくれた事も。だから俺は、お前になら全部くれてやれる。あそこにいる雄よりもずっと、迷いなく。今ならはっきりわかる。愛してやれる。それなのに、お前は酷いな。今、お前に好きだって言ったら。ずっと諦めていた。せっかく貰った番を得るチャンスを、無下にしちまう。お前の気持ちを蔑ろにしてしまうんだからさ」
笑うのを止めて。しっかりとこちらに向き直ると、ガカイドが。酷いよお前って。そう糾弾してくるのだった。その表情は、泣きそうにも見えて、まだ笑いそうでもあって。そして悲痛でもあって。最初、俺の物になれって。ガカイドに迫られた時、番の証であるネックレスをやるって言われて。それは、彼の境遇から。形骸化してしまったから、持っていても意味がないから。だからこそ、同性同士だと。形だけでもそうやって。妥協めいた提案であって。たまに、僕を冗談めいて口説く際にも。俺様で妥協しろよって言ったりもしていて。でもそれは、どちらかというと。彼の方が何もかもから妥協して、諦めている節があったから。だから。その誘いには乗らなかったのだった。わかりきっていたから。でも徐々に、その好意が。違ってきているのにも気づいてもいた。冗談の裏の、さらに裏。繰り返し見た裏表。それでもわからなかったけれど。今こうして、僕には嗅げない気持ちの揺らぎを。言葉にしてくれている彼のおかげで。
「俺は、お前に何を返したらいい。何をしたら、いいんだ。教えてくれよ、ルルシャ。そりゃ、稼ぎはあいつに比べたら少ないかもしれないけどよ。住んでるところだって、あまり良いとは言えねぇ。かわりに何を差し出したらいいんだ、教えてくれよ」
ちょっとだけ、考えてみた。こうして、真剣に向き合ってくれている相手に対して。僕も、それなりに。いや、それ相応の対応をしようと。ガカイドの事は嫌いではない。というより、わりと好いてはいた。何かとおちょくって来るし。はぐらかすし、性的な事もすぐ誘ってくるし。それでも、優しい人だとは思っていたから。まさか、最初。僕をそういうふうに見ていたとは思いもしなかったが。それは、僕が気づけなかっただけであって。今は違うと、だからこそ正直に全部言ってくれているのだろうし。
でも、僕は。彼に対価を貰いたくてそうしたわけじゃなくて。ただ、もう既に。貰っていたから、それを返したに過ぎない。裏路地で救ってくれたから、友達で居てくれたから。それとなく、いろいろサポートしてくれたから。さっきだって、危ないだろってわざわざ探してくれて。貰ってばかりに感じているのかもしれない。烙印を消したのは、それ程までに。彼にとっては大きくて。でもそれは、彼自身が頑張った結果であって。僕が少しだけ関与したとしても、後押ししただけで。
緩く、首を振ると。期待した眼差しでこちらを見つめる狼が。傷ついたように、苦悶の表情に変わる。
「いらないよ、なにも」
ちゃんと考えた上で、それでもなお。やっぱり僕は。何も求めていなかった。求めているものは別にあったというのもあるが。それは残念ながら、彼には満たせない。僕は、誰かを代用品にするつもりはなかった。そんな惨い事。大切な友達に、できるわけもない。
何かそれでも言おうとして、それでも。僕の表情を見て、だんだんと肩を落としていく。目の前の男。狼の頭が俯いてしまって。それで、欠けた耳が。余計に良く見えた。彼からはたくさん、貰って。奪った。
「俺には、そんな価値すらないってことかよ……」
「それは違うよ。既に十分、僕は貰ったからだよ」
「した方はそれでいいかもしれねぇけどよ、された方は。されたままで、気が済まない事だってあんだよ。人間っ」
再び顔を上げたガカイドに怒鳴られる。咬みつくように。久しぶりに、そんな呼び方をされたなって。冷静にそんな事を思っていた。もっと怒鳴りたいのを我慢するように、握り拳を作ってもいた。僕は、彼から少なくとも貴重な職を一つ奪い。いらぬ怪我を負わせ、そして必要のない心配をかけ。あまつさえ、二度と元に戻らぬ傷を。たくさん、彼から奪ってしまった。僕のおこないでだ。救いたいなんて気持ちを抱くのも、厚かましいぐらいには。僕はガカイドにいろいろやらかしていた。だからして欲しいと言われても、思いつくものがなくて。
こうやって、少し騒いだ程度では。祭りの喧騒に簡単に包み込まれてしまう。ちょっとだけ、気づかれてしまったかなって。耳のよさを懸念して、銀狼の方を一瞥するけれど。お姉さん方の相手に忙しいらしく。というより、お酒を飲まされたりと。わりともみくちゃになっていた。はっきり断ったりできず、押しに弱いからな、あの男。英雄色を好むと言うからか、本当にぐいぐい攻勢に出ているお姉さん方の勢いが凄い。ガルシェは別に、えっちな事が嫌いではないし。ただ表沙汰に下ネタとか言ったりとかは、嫌がる。普通に性欲のある健康男児なだけだ。このまま放っておいたら、身の危険を感じそうだが。一応はこの街の法律として、男女間での性的接触は厳しく取り決められているから。迂闊な事はしないであろう。そのギリギリまではしてもいいという事ではあるが。
「ほんと、あんな雄のどこがいいんだよ」
ガカイドまでも、ガルシェの方を見て。雌の狼達に囲まれているのを羨む素振りもなく、どちらかというと嫌悪感を醸し出していた。別に僕と銀狼は付き合ってる間柄でもなく、だから今の状況を浮気だなんだと。そう言い募って責め立てるわけもなく。立場的に、居候でしかない僕は。ただモテてるなって、それぐらいの感情でしか。この場に居る事を許されていないだけであって。あんな。と言われてしまうと。仕事はできて。でも家では基本ぐうたらして。お風呂嫌いで、寝る時は寂しがり屋であるから一緒に寝たがって。最近は一緒に寝てないけど。図体はでかい癖にわりと甘えん坊で。撫でられるのが好きで。食べ物は好き嫌いがなく、強いて言えばお肉が好きで。言葉遣いはあまり良くないし、癖で舌打ちとかするし、すぐ感情が態度や表情や尻尾とかに出てわかりやすいし。体臭は若干獣臭いし、煙草の臭いだってついている。
それでも、そうだな。いざという時は、なりふり構わず助けてくれて。辛い時必ず何かを察して、言葉少なくも傍に居てくれて。こんな異種族で、元々関係性に溝があっただろうに。そんなものも関係がなく、初めから対等な相手として見てくれていた。そんな人だった。やることなすこと、放っておけなくて。
「可愛いからかな」
ちょっと、普段目の前の男がするように。茶化すように言うが。それでこの場の雰囲気が和んだりはしない。ロッジと同じ答えを出していたけれど、結局は。良い所も嫌な所も全部ひっくるめて、可愛いと称せるのだった。理解できないのだと思う。ありありと、赤茶狼の表情がそう告げているのだから。別に理解されようとか思ってもいないし。この好きは、僕だけの特別だ。僕の答えを、わかりきったそれを改めて聞いた男は。嘆息して、空を仰ぎ見る。
「ルルシャ、これだけは。覚えておいて欲しいんだけどよ。俺様に、君のせいじゃないって言って、そして何かしようと行動に移してくれたのは。他の誰でもない、幼馴染のあいつらでもない。お前だけだった。だけだったんだよ……」
絞り出すような声で。ガカイドが言う。ここで僕が、どう言おうと。ただただ彼を傷つけるとわかりきっていたから。ありがとうとも。そっか、とも。ごめんねとも、逡巡する中で、思い浮かんだそんな言葉達を。喉を使って音にするのは止めておいた。どうせ、僕の感情なんて。筒抜けであろうし。
「僕は、ガルシェも、そうだけど。ガカイドにも、幸せになって欲しい。その権利は誰にでも、平等にあると思っているだけだよ」
それだけだった。本当にそれだけ。僕のとても独善的な施しのようでいて、押しつけがましい善意。きっと、あのサモエドの顔をさせた。おばちゃんの方が。優しくて、ずっと善意に溢れていて。慈愛を持つ人っていうのは、きっとああいう人を言うんだなって思った。僕のこれは、比べてしまうと醜く感じてしまうぐらいには。
いらない、かまわない、別にいいよって。そう言いながら、欲がないように振る舞って。実際に、何もされなくなると。嫉妬して、欲しがって、欲張って。辛い悲しいと嘆いて、さも自分が不幸だと思いたがる。そんな自分自身に甘い存在だった。そりゃ、この異種族の街で。人間がたった一人であるのだから、それなりに環境自体は甘くはなく。どちらかというと厳しいのかもしれなかったが。常に、自分の命が脅かされかねないリスクを負いながら。生きて来て。でも、必ず。誰かしら助けてくれる存在が、僕には居て。それがとても幸福な事なんだって。わかっていたから。なら、そんな存在が。ガカイドにも、居ても良いんじゃないかって。思ったんだ。
僕を見つめる男の顔が、諦めという感情に染まる。こんなにも、数歩で掴める距離にあるのに。手を伸ばそうとも、手に入らない物だと。理解した、雄の狼の顔だった。これまで生きる為に手段として、同性相手に身体を売って、それでだんだんと感覚が麻痺して。性別がどうこう考える暇すらなくて。だから厳密には、彼もまた同性愛者とは言えない内の一人なのかもしれなかった。だというのに、どうしてそんな顔をするのかなって。戻れるなら、戻れた方がいいのに。きっと。男と女が愛し合う、自然体でいられるのなら。その方がきっといい。生物として子孫を残そうと、躍起になれるのなら。
「んじゃ、俺様。後何年かかるかわからねぇけどよ。資格を得て、めっちゃ可愛い年下の雌を。番にしてさ。うんとうんと、そいつデレデレに愛して。笑顔にして、いっぱい子供産んでもらって。あの時。僕が選んでいたら! ガルシェよりも、あの素敵な雄をって後悔するぐらい。お前の言う、幸せってやつになってやるよ!」
違和感を抱くぐらいに、さも明るく。笑顔で一息に言い切られてしまう。そう、僕がやれたのは。彼の烙印を消せたまで。それだけであって、彼の過去は消せず。一度できた偏見はまだまだ残っていて、臆病者のガカイドと謗る輩はたくさん居るのであろう。どうしても、参加したメンバーの内。銀狼が居て、市長の息子であり、見た目も目立つ毛色をしていて。そして今期の資格を得た雄となれば。いくらガカイドが指揮して、都市部に行って、食料を持ち帰ったと報道されていても。ある程度、民衆の注目がガルシェに移ってしまうのは避けられなかった。それはしかたない事で、別に悪い事ではなかったけれど。もう少し、皆が彼の評価を変える良いきっかけになったら良かったのになって。
ここから、どん底の人生だったこれまでに別れを告げて。新たなスタートをきる。目の前の男は、いずれ。どれだけ時間がかかろうとも。身に着けている、番の証たるネックレスの意味を。ちゃんと得て、そして、愛している雌に贈るのだろう。その宣言とも、僕に対する宣戦布告とも言えた。その時後悔したって、いまさら遅いんだって。ざまあみろと笑い飛ばしてやるって。ようはそう言う事だった。
「……なれっかな」
気丈に振る舞っていた男の表情が陰る。僕から視線を外し、見ているのは今日の為にだけ作られたステージだった。そのいつかの日、この赤茶狼が堂々と皆の前に立つ日が。来るのだろうか。そう考え、空想して。でも恐らく自信は、ないのであろうな。今までが今までで、自分を強く見せようとしながら。何もかも諦めて、生きて来たのだから。急に、道ができてしまって。戸惑いもあるのであろう。これからが、これから、頑張らないといけないのだから。幼い頃の、当然皆と一緒で得られると思っていた。普通の日常を。取り戻せるのかは。これからの彼しだいだった。
「なれるよ」
だから。そう問われたのなら。僕は迷うことなく、そう言えるのだった。根拠はない。ないけれど、僕は。僕だけは、そう信じているから。引き金を引けたのだから。もう過去を忘れる必要はなく、それでも。それを背負ったまま、歩き出してもいいだろうに。僕はガカイドを全肯定する。友達を応援するぐらい、誰に咎められるいわれはないであろうから。だから信じたいものを、信じるのだ。
「お前って、甘い奴だって思ってたけど。わりと厳しいよな」
気の抜けたように、乾いた笑いをさせて。独り言ちるように、赤茶狼が。誰にともなく言う。
「そうだ。一つだけ、聞かせてくれないか。ルルシャ」
改まって、向き合い。そうして、困った顔をしながらも。僕の真意を推し量ろうとしている眼差しを向けて。ゆらゆらと、狼の尾が。揺れていた。
「お前は皆の幸せ、幸せって、そう言うけどよ。じゃあ、逆に聞くけど。お前の幸せって、いったいなんだ?」
問われ。思わず思考が停止する。それぐらい、問われた意味を咀嚼するのに時間を要して。ガカイドが何を聞いているのかわからなくて。そして、言葉の意味がわからなくて。一分ぐらい固まっていて。僕の反応を見て。ガカイドが、馬鹿にしたように嘲る。やっぱりなって。そんなふうに。
ぼく、の、しあわせ。
「ああ、そうだ。今年はやらないのかと思ったが。どうやら小規模ながら例年通りやるらしい」
ふーんって、気のない返事をしながら。上半身裸の男が、うつ伏せになった状態で寝転んでおり。その背中に、僕は跨がるように乗り。手に持った櫛を、銀色の毛の密集地に向かって突き刺して。毛の流れに添って手を動かしていた。毎年開催されるお祭り。イベント事って、この街では珍しい部類なのだけれど。重大な意味も含まれていて、その時に。今年の番を持てる雄も大々的に発表されるらしい。存在自体は知っていたけれど。噂話だけでは、もしかしたら中止とかそういったものも聞こえていて。原因はこの街に訪れた食糧問題。そして、難民問題であろうか。そんな浮ついた雰囲気でもなかったし、人々も皆。暗い顔ばかりしていたのだから。そこに、思いもよらぬ食料の供給があり。裕福とはいかないまでも。当面の見通しは立ったのだから。ガカイドが頑張ったおかげであった。それと、今僕にグルーミングされている。この銀狼と。僕だけは、あれから仕事にも復帰して。また市長さんと顔を合わせる日々だった。表面上はあまり変わっていないし、というか仕事上は直属の上司みたいな関係であるのだから。変えようがないとも言えたのだけれど、どこか。やはり仕事上の付き合いだけに成り下がったように感じるのは。あの一件のせいであるのだなって。後、これは気のせいではないと思うのだが。避けられている。本当に、今まで優しく接してくれていた分。ちょっと悲しくもあるが。立場的にはとても正しいのであろうか。クビにされないだけマシか。それだけ、事務仕事ができる者が貴重なのだろうけれど。もしかしたら、内心顔も見たくないとか思われていないだろうか。ありそう。あんな態度を取ってしまったし。結局のところ、置かれていた銃は受け取らなかったから。あの後どうなったかは知らないし。きっと市長さんの机の中に逆戻りだろうか。市民権も、せっかくくれようとしたのに。もう少し上手く交渉して、素直に貰えば良かったと。後になってちょっと思うけれど。自分の言動を振り返ると、やっぱり頭に来ていたのだろう。僕も冷静ではなかったという事だ。本当に、よくクビにされないな。不敬罪で首が飛んでてもおかしくはない。縛り首だって、そのまま街の良く見える場所に吊るされている可能性すらあったというのに。わりと感情的に、いろいろしそうに見えて。かなり腹黒いと思うし、ガルシェのお父さんって。怒りはしても、それで僕をどうこうしたら息子がこんどは逆上して対立関係をより悪化させないとも思えた。ある程度は、息子の手綱は握っていたい筈であろうし。ガルシェのお父さんが市長という立場だから、いろいろ困る事も多いけれど。こうして、その立ち位置のお陰で。僕の命が繋がっている場面もあるのだなって。
最大の味方と、最大の敵を両立できる存在はなかなか例がない。だからと、銀狼が幸せになってくれるというのなら。それが必ずしも僕が隣に居る必要はない。その考えは変わらないのだから。そういう意味でも、市長さんの考えには賛同していて。あの時は裏切られたように感じたけれど、こうして喉元過ぎれば。そんな怒りも今はもう感じない。邪魔者である僕に、本当に良くしてくれている。息子の婚姻を邪魔する、最たる存在であるだろうし。ああ、確かに。そういう意味では誑かしたと言えるのだろうか。そんなつもり、ないのだけれど。最近のガルシェの行動は、わりと自立心が芽生えて。家事も手伝うようになり、徐々にではあるが僕に対する執着心を薄れさせているように思う。露骨ににおいが消えたり、誰かに上書きされたりすると。嫌そうにはするけれど。誰だって、自分の大切な玩具を汚されたら嫌なものであろうか。それに近いのかなって。寝るお布団も別々を継続中である。実は日に日に僕専用の布団を床に敷く位置を、彼のベッドから数センチ単位で遠ざけているのだが。気づいているのかいないのか、布団を深く被って狼の頭だけ出したそれを。電気を消した後。ずっとこちらを向いている気配があるのだが、無視しているので定かではない。
話題に上がったそのガルシェは。相も変わらず。足の療養の為に家でお留守番を続けていた。靭帯が部分的に切断ないし、完全に千切れてしまったりと。中傷や重症で変わって来るみたいだけれど。だんだんと腫れが酷くなって痛そうにしているから。先生の見立てから。二週間から三週間は、お仕事への復帰は断念する以外になかった。無理して動こうとしたら、私に知らせてくれればすぐに意識を刈り取りますって。力こぶを作って言われたけれど。パワー系医師って、凄いんだなって。頼りにはなるけれど、もう少し別の。穏便な方法でお願いします。仕事の時は僕よりも出る時間が早いのはガルシェであるから、見送る事はあっても、毎日見送られるのは新鮮である。ただ、毎回悲しそうに、耳を倒していってらっしゃいするのは止めて欲しいな。なんて。もの凄く、後ろ髪引かれるし。行き辛くなってしまう。それに、僕が留守の間家事なんかして悪化させたら駄目って。きつく言ってあるからか。やる事がなくて退屈過ぎて、暇なのもあるのであろう。僕も市長さんの部屋に軟禁されていた時期があるから、気持ちはわかる。何もせず、ベッドの上でごろごろしたりする日が続くと。わりと苦痛だよね。でも我慢してもらわないと、彼は病人であるのだから。僕のせいで怪我させてしまったのだから、ここは心を鬼にしてでも。彼は絶対安静にさせないといけなかった。これもまた、僕の責任だった。だから、銀狼の行動範囲は。自分のベッドかソファーだけで。たまにトイレに行くぐらいに限られていて。家の中でも、その全域ではなかった。何かお水とか飲みたくて取ろうとすると、基本僕が冷蔵庫に取りに行くし。松葉杖があるから、家の中でもそれを使用すれば。わりと動けるのだけれど、歩き難いけれど外出だって別に禁じられてはいない。ただ、世話焼きな僕が許すかは別で。ううん。ガルシェの事を過保護だって思ってたけれど。これじゃ僕も過保護みたいだ。怪我人なのだからと、理由はちゃんとあるのだが。構い過ぎるのも度が過ぎたら、あまりよろしくはないだろうか。構われる銀狼は、わりと嬉しそうにする。だから、僕が仕事に行くと寂しいのだろうな。それで休みますってはならないのだけど。二人が食べる為には、働かないといけないのだった。一日、二日ぐらいなら。別に休んでも食料も蓄えがあるから問題ないが。それが彼の完治する期間中ずっととなると、無理があった。
ので。僕は今日も、ガルシェに行ってきますをして。悲しそうな銀狼を背にしながら玄関を開けて外を出る。十分ぐらい、なるべく早く帰ってくるからと言いながら頭を撫でているけれど。なんだか、生活自体は自立してきているように見えて。この男、どんどん駄目になってないだろうかとちょっと危ぶまれる。寂しさに対してあまりに耐性がなさすぎる。家には雌鶏のアーサーだっているのにだ。ずっと狭い人間関係のまま、突如人間と共同生活をして。当たり前が覆ってしまったのだから。それもしかたないのかな。僕から執着心をどうにかして無くさせたいのだけれど、それでもこうして寂しそうな彼を見ていると。嬉しいような、辛いような、せつないような。よくわからない気持ちにさせられる。僕の役割も、もう終わるとそう感じて。祭りが、間近に迫っているのだから。人が、元々一人暮らしをしていた銀狼に。もっと家事ができるように、それとなく促す意味を。ちゃんと理解しているのだと思う。別々に寝るようにしたのだって。気づかない方がどうかしている。ガルシェは、出て行くなとは。もう言わない。言って欲しいわけではない。今回の一件でとても身に染みて、僕が何か事をおこそうとすると。被害をこうむるのは別の誰かなのだから。食糧問題が表面上は解決の兆しを見せ、まだ正式な発表はされていないが。誰が動いて、食料を取って来たのか。噂というのはどこからか流れるものだ。あまり広いとは言えないこの街で、噂なんて端から端まで行き届くのに数日とかからない。だがしかし、その作戦に参加したメンバーの中に。いくら噂好きな市民といえど、人の名が名が挙がるような事例は今のところ報告されていない。市長さん直々の箝口令がしかれていた。市民権の辞退と一緒に、お願いしたもう一つがこれであった。
僕の頭の中で描いたシナリオはこうだ。ガカイドが主導の元、レリーベさんとガルシェを伴い。都市部へと行き、そこで未調査の倉庫から食糧持ち帰り。難民問題を先延ばしにする手助けをする。僕は最初からいなかった。別に、そもそも名声とかそういったものに興味はなく。市民権という話も、そこまで魅力に感じていなかった。一番は、街の治安の回復と。ガルシェが無事、祭りで資格を得て。そしてガカイドの烙印の抹消。この三点だけだった。それ以上は望んでおらず、僕の立場等の向上は交渉する際に最初から入っていない。だから、あの時。挑発する態度や利用されたと思って、怒りという感情が涌きはしても。それに完全に流されるような失態は演じなかった。不敬ではあったと思うが。
住宅区から抜け、大通りに出た後。学校に向かって歩いていると、いろいろな噂話を聞くけれど。市長さんの力をひしひしと感じる。裏通りという立地と、許可された一部の人しか入れないガードマンが目を光らしている場所というのも手助けしたのだろう。二、三日。獣の顔をした人々が暮らすこの街で僕が見かけないからと、わざわざ探すような物好きはおらず。また市長の息子の家に引きこもっているぐらいにしか住民は認識しない。人間という種族故、悪目立ちするからこそ。よくよく改めて、つぶさに見ていないものだった。こうして素知らぬ顔して歩きながら、人々の口々に耳を傾けると。
「どうやって、増えた住民を飢えさせないだけの食糧が」
「なんでも、あの腰抜けが調査隊に志願したらしい」
「なに。ガカイドがか? それは何かの間違いじゃないのか」
「あの七光りも同行したらしいし、揃って負傷して帰って来て。今は療養中らしいから、信憑性は高いぞ」
にわかには信じられないといったところみたいだが。嬉しい誤算、と言って良いのか。ガカイドも、ガルシェも、目に見えて負傷した事で。特にガカイドは片耳が無くなり、肩も碌に動かせないとあって。噂の裏付けに一役買っていた。レリーベさんも重症で、床に伏せているから。同僚であろうか、警備隊の人からは心配する声も。無表情ばかりであっても真面目な人故に、同僚や後輩からの親しみはそれなりにあったらしい。だというのに、どうして。僕に優しくしてくれたのも、弟さんを無意識に重ねていたのだろうか。身長、彼らの平均からすると低いから。どうしても年下に見られがちであるのだが。人間の肉体年齢でいえば、成人していそうなものなのだが。そんなに幼く見えるのかな。小さい時期って、彼らにとってあっという間に過ぎ去ってしまうから。人間の成長速度は遅く感じてしまうのだろうな。僕からすると、ちょっと数か月会わないだけで。自分より背が低い子が、次会ったと時には背を追い越していたりするのだから。そうやって、人間より後に産まれたのに、先に死んでしまうんだなって。彼らの成長する姿を見ていると、そんな感じている時間の感覚の違いに。寂しくなる。どうやっても、置いて行かれるんだなって。それは。銀狼も例に漏れずそうで。もう、六歳だっけ。ガルシェ。といっても、街の外に出たら僕は一月と持たない気もするが。
人々から赤茶狼の名前が挙がる度に、ちょっと誇らしくなる。一番間近で、僕は彼が頑張る姿を。再び立ち上がるその様を見たのだから。無理やりそうさせた感もあったが。それでも、きっかけになったのなら。やった事が無駄ではなかったと思えたら。僕の気持ちがちょっと軽くなるのに。その浮上しかけた気持ちも、傷だらけになった姿を思い浮かべると。より沈んでしまうのだけれど。まだ、正式発表はされていないけれど。たぶん、祭りの日に合わせて。ぶつける気なのかな、息子の後押しになると。そういった意味でも、成功してしまったからには。最大限有効活用する気なのだと思う。僕は後の事には関わらないとそう自ら言ったのだから、好きにするつもりなのだろう。利用され尽くした結果、それがガルシェの為になるのなら。僕に文句はなかった。ある筈がない。ただ、引っ掛かる事と言えば。あれからずっと、市長さんとは碌に会話らしい会話をしていないぐらいであろうか。
気に、しているのだろうな。立場上、僕は庇護下に置かれていて。そしてこの街のトップとの会話の中で発生した事柄であるのだから。喧嘩、とはいえないけれど。お互い、凄くばつが悪い。業務上、顔を合わさざるをえないのだけれど。前みたいに軽口だったり、世間話めいたものは消失していて。とても寒々しい職場となっていた。集中できるという利点はあったが。元々あったものが無くなるというのは、悲しいものだ。それも、いろいろ腹の中に抱えつつも。僕に笑いかけてくれていた灰狼が、ずっと気まずそうにしているのだから。それは、僕も同じで。
どうして、こうなってしまったのだろうな。僕はただ街の為に、赤茶狼と、銀狼の為になるならと。声を出してみただけであるのに。結果は、最大限とはいえないまでも。僕が望んだものになって。だというのにどうして。ああ、だからか。こうして噂話を聞くふりして、ちょっとでも歩みを遅くして。学校に到着する時間を引き延ばしているのだから。仲直りとは違うけれど、どうにかしたい。とは思う。思うのだけれど、きっかけがなかった。なんだか、ガルシェとも。同じような事があったなと思うと。不思議な感覚に陥る。あれはお互い悪くないけれど、ただ気持ちがすれ違って。立場的にどうしようもなかった。ちょっと根には持ってるけれど。
でも今回は違う。表面上仲良くしてくれていたのを、改めてお前という立場をわからせてやろうと。ただ認識を再度改めたに過ぎず。市長さんの立場からすると何も間違えてはいない。何もだ。だからこそ、ああなってしまったのだろうけれど。間違えたとしたら、最初にガルシェに連れてこられて。顔を合わせて、様子見を選択したあの時であろうか。
そしたら、銀狼も。人等に執着せず、こうも街の内情を、火種を抱える事もなく。いらぬ問題を、考える必要すらなく。心労が多いであろう、あの人も。まだ心安らかになれたのかなって。親子の仲を悪化させた自覚があったから。そんな自分がいない、かもしれないを考えて。でも。そうすると、いずれ起きたフォードの難民という。荒波に耐えられたかは、また別の話であったが。あの人なら、上手くやったのではないかなって。あの食わせ者の灰狼なら。そんな信頼感を抱くけれど、僕はあの日の。憔悴した彼の姿を知っているから。その考えに待ったをかける。とことんまで追い詰められたら、誰も、支える人のいない。いなくなってしまった彼が、どうなるのだろうなって。
足から伝わる感触が、土に変わったから。ふと思考から浮上すると、いつの間にかグラウンドに差し掛かっていて。学校の敷地を跨いで、もう校舎が目と鼻の先になっていた。いつの間にこんなに歩いたのだろうと思うけれど、何キロと距離はないのだから、当たり前であった。
番の人。亡くなったガルシェのお母さんが居てくれたら、市長さんを支え続けてくれていたら。この親子関係も全く別の道を辿っていて。あの、今は僕とガルシェとアーサーで住んでいる。家で、家族団欒を謳歌していたのだろうな。そしたら、僕との出会いもなかったのだろうけれど。もしもがあるのなら、それで良かったのに。与えてきた影響と、被った被害と。僕は消えてしまいたくなる。でも、もう少しだけ頑張らないといけない。わだかまりを残したままではすっきりしないのだから。少しの間だけでも、ガルシェの前を歩くと決めたのだから。ほんの刹那でもいい。それで、何かが変わるのなら。だから、来たくもない職場に出社して。会わせたくない顔を突き合わせ、今日も市長さんの部屋で仕事をする。食費を稼ぐという大義名分と、ここに来なければ。灰狼とは会えないのだから。
今日も、いっさいの無駄話はなく。恙なく業務を終え。淡々とお金を机に置いて、部屋から退散しようとする。そのくたびれたように感じる、毛先を跳ねさせた灰色の尾に呼び掛ける。ずっと冷戦状態であったのに、ここで僕が行動を起こしたのに不思議がりつつも。それでも、ゆっくりと振り返って。聞く耳は持ってくれる狼の耳。久しぶりに、ちゃんと市長さんの顔を見た気がする。毎日、会ってるのにだ。
それぐらい、僕もまた。彼の顔を見るのが気まずくて、態度に表していた証拠だった。彼は、こんなにもやつれていただろうか。彼は、こんなにも。僕を。種族的に見ても、あまりにもか弱く見えるであろう人を。恐れるような目で、見ていただろうか。彼はこんなにも寂しそうな男に見えただろうか。弱音を聞けたのはもしかしたら僕だけだとしたら。どういった数奇な運命か。弱音を吐いた相手もまた、一人だけであったのだろうか。心配そうにする虎の先生だって見かけた事もあるし、この灰狼を。街の皆が慕っていて。黒豹も、あの方と言っていたのに。皆が強い人だと、そう思い込んでいて。僕と虎の先生だけが、体調を心配して。本当に。独りぼっちになってしまったんだな、この人は。ガルシェもそうだったけれど、お父さんもまた、孤独だったのかな。苦しみも悲しみも、理解してあげられないし、背負えないけれど。いつだって、わかった気にはなれる。
「お話が、あります。これからの事について」
さあ。もう一勝負といこうじゃないか。生憎と、僕は力はないし吹いたら飛ぶような人間で、強い者には巻かれる主義ではあるけれど。時として、逃げる選択肢だって視野に入れながらも。諦めは、人一倍悪い人間だ。だって、頑固者だしね。
お祭り当日。日を追うごとにだんだんと街の人達がソワソワとしているなって、何となく感じていたけれど。実際に号外が撒かれ。大通りのど真ん中に、足場が組まれ出したら。それは顕著なものになっていった。商魂たくましい人は、あまり品がないながらも。隅の方に出店みたいなのを準備し始めているし。開催される時間は夜らしく、まだ昼は仕事がある人はだいたいは出払っているけれど。お休みの人や、学校で訓練をしている訓練生等は拒否権はなく祭りの準備に駆り出されていた。普段から激しい訓練で肉体を酷使し、筋肉を盛っているレプリカントの男性陣が。鉄のパイプを大量に持ち、それをロープ等でどんどん仮設の足場を組んでいくのだから。人海戦術で、みるみる出来上がっていくのは。なんだか建築ゲームで、よくある機能の早送りでもしているようで面白い。そうやって、道の端で邪魔にならないように僕は何もせず突っ立っているのだが。だって、力仕事とか。下手に手伝うと邪魔になるし、上の足場へ向けて、足場の資材を掛け声一つでぽいっと軽々しく投げて。空中でキャッチしてるあんな人達の真似なんてできるわけがなかった。チームプレイとか、僕には無理だ。元の職業を知らないと、本職がとび職か何かに見えてくる。軍服を着ているのだからそうは辛うじてならないけれど、仮設テントとかも組む訓練もしていそうではある。ガルシェも、テントをばらすのは手馴れていたし。
祭りの日、僕はお休みを貰っており。だからこうして昼間から、ぶらぶらと変わりつつある街を見て回っていた。銀狼は、置いてきた。というより、お父さんからお話があるだろうし。彼も主役の一人であるのだから、その打ち合わせもある。僕は関係ないので、こうして邪魔にならないように時間を潰している側面もあった。僕が居ると、どうしても普段から仲が悪いのに、余計拗れるのだから。そういえば、一応レリーベさんが人伝に退院したと教えてもらったのだけれど。あの仮設テントで、会ったきり。一度としてお見舞いにもいけてない。というより、いけないと言った方が正しかった。ルオネとも、ガカイドとも会っていない。ガルシェの家と、学校を往復するだけの日々であったから。そうなるのは必然であり、避けているわけではないと思う。どういう顔して会えばいいのかなって、まず考えてしまうぐらいには。会い辛いのだけれど。
「ルルシャちゃん、こっち手伝って」
「あ、はい。今行きます」
ぶらぶらしていたら、とても暇そうに。相手には見えたのだろう。実際に暇であったし。だから僕が、忙しそうにあくせく働くサモエドのおばちゃんに捕まるのは必然で。どうやら、お祭り中に大勢の人に食事を振る舞うらしい。最近よく炊き出しをしていたけれど、それ以上に街全員が来るのを想定されて用意される食材は。それはもう最近目にするものでも、一番であった。その中には、都市部で手に入れた物も混ざっており。パウチ容器に書かれた名称を見て、中身を出し。改めてそれを調理したり、そのまま温めて。お皿に盛り付けたり。具材そのままのもあれば、調理済みのもあり。わりと種類だけは豊富であった。それをトラックの荷台いっぱいに持って帰ったのだから。今並んでる箱二つも、その内の少しでしかない。茹った鍋に、そのまま加熱可能なパウチを投入してぐつぐつ煮るだけの作業。これ、ミートボールかな。これは、野菜スープ。調味料がふんだんに使われているし、このインスタントの調理方式も。何か初めてするのだけれど、記憶にだけはこびりついているから。どこか親しみを感じる。ただレトルトパックを煮るだけを料理と呼べるのかは別だが、袋から出して盛り付けてしまえば一緒である。祭りの最中、こうして食事が振る舞われるのも。厳しい冬を乗り越える為に、皆で頑張ろうって意気込み的な意味も込められていて。だからこそ、食料不足な為に今年は中止かなって皆残念がっていたのだった。贅沢はできないし、余分に祭り分の貯蔵できていないのだから。これでも例年より少ないらしい。年に一度だから、それはもう毎年気合が入るのであろうな。娯楽のない生活を送っているのだから、こういうイベント事は大事にしたいだろうし。きっと皆が楽しみにしている。あまり、物事に興味なさそうなガルシェでさえ。最近ちょっと楽しみなのか、外の景色を煙草を吸いながら窓から見たり。耳をそばだてて、しきりに外の声を拾っている様子が垣間見られたし。ガルシェ、浮かれている。珍しい銀狼の様子に、僕まで楽しみになるのだけれど。こうして、食糧問題が一応の鎮静化がなされてなお。僕の風当たり自体はあまり変わらなかった。今も、おばさんの傍で手伝っているけれど。難民の人かな、遠目からでもあまり良い顔をしていない。人間が触ったものを、祭りの中で振る舞われるのが嫌なのかな。その食べ物が手に入るきっかけが、僕にあると知らないのだから。わざわざ箝口令を行使してもらってのだし、その提案をした僕自ら名乗り出る気もなく。特に気にせず、手伝いに没頭していた。ただ、あまりに露骨に。こちらの近くまで来て、難癖付けてくる輩は。直ちにサモエドの鉄拳でもって、成敗されていたけれど。おばちゃんの元で働かせて貰っている時、私実は強いんだからって言っていたのは嘘ではなかった。ふくよかな身体からは考えられない、腰を落とした腹への一撃は。あまりにも壮絶で、せっかく朝に食べたものをゲロる哀れなレプリカントの男性を。何の同情もせず、わー痛そうと、見守る程度だった。
僕はあまり気にしていなくても、おばちゃんは逆に気にして、大丈夫かと。その豊満な胸に、人を抱いて。むぎゅむぎゅと、顔と一緒にいろいろ押し付けてくるのだけれど。相変わらずスキンシップが激しい。お人形さんのように、抱き上げて可愛い可愛いされるのは。残念ながら人間の男であるのだから、あまりやられて嬉しくはならない。柔らかい肉の感触と、ふわもこの毛のお陰で。ちょっと誘惑されるけれど。サモエドの顔をしていても、完全な動物ではなく、女性の方である。見栄えが悪い。よくおばちゃんのお店に来ていた、常連のお客さんもお手伝いに参加していて。そんな時、また抱っこされているよと揶揄われるのだけれど。この今準備している食事も、街の皆が食べたら。また質素ながらも。最低限の食事で、実りが少ない冬を乗り切る日々が待っている。だから、今こうして追い払いはしても。夜、祭りが始まれば。嫌味を言ってきた人にも、このサモエドは分け隔てなく差し出された器に、お玉で料理を掬い、注ぐのだろうな。容赦はないけれど、優しい人だった。
実際のところ、箝口令がなく。僕の名前が噂話に含まれていたからと、フォードの人達の人間に対する印象が変わったかというと。それはわからない。変に悪目立ちしたくなくて、ならリスクを負うより。市長さんが難民を掌握しやすいように。人が関わったなどと。存在は隠した方が良いだろうって、そう思ったから。それに、機械達に襲われた被害者である彼らが。機械達に襲われないらしい、人間の僕は。あまりに目障りであろう。少ないながらも、人間が手引きしたのではないかとか。そんな根も葉もない、憶測まで飛び交っているのだから。本当に、種族間での遺恨は根が深かった。これは、たった一人の人間がどうこう奮闘したところで。どうにもならないと感じるぐらいには。そもそも、会ったわけではないけれど。この街に人間の使節団が訪れた事もあり。その際に、市長さんは大層嫌味を言われたようであったし。人との関係を修復しようと尽力している、そんな相手に向けられるそのような言葉は。あまりにも鋭く、心を傷つけて。そんな時、僕が部屋に居て。本当に、不思議な巡りあわせであった。人々との関わりの中で。僕に笑いかけてくれる人。露骨に嫌そうな顔をする人。何の関心を示さず、それでもあまり近寄ってはくれるなと。そんな態度を取る者。親身に、接してくれる人。僕の大切な、僕なんかでも、どうにか守りたいと思える人達。どんな扱いをされようと、結局のところ。僕は市長さんを憎めないでいた。それは、銀狼の父親であるというのも。大きかったように思う。関係なければ、何だこの人って。好き好んで、自分から関わりに行きたい人ではなかった。気難しいし、何考えてるか読めないし。だというのに、目に見えて。心労にか、どんどん痩せ細っていくし。僕から見た市長さんって、そんなに怖い人でも。強い人でもなかった。
というより、皆。多かれ少なかれ、虚勢を張り。自分を強く見せているに過ぎないのだった。それは、赤茶狼も、灰狼も。僕も、銀狼も、変わらなかった。一人の人であるのだから。辛い事があれば辛いし、それを誰かに聞いて欲しくなる時だってあるだろう。どうしようもなくて、寄り添って欲しくなって、なっても。できる相手がいなくて。そんな時。身近な人がいなくて、たまたま僕が居合わせてしまったとしたら。聞いてあげる事ぐらいしかできないとしても。ただ、隣に立って。全てがわからないまでも、一緒に泣いてあげられるぐらいはできるだろうか。だって僕、皆に言われるけど。泣き虫だから。つい、一緒に。泣いちゃうから。悲しい人を見ると、僕もどうしようもなく悲しくなってしまうから。誰かの代わりでも良かった。それで、その人が救われるのなら。降って湧いた僕みたいな存在を、使ってくれるなら。ここに、居て良いよって言ってくれるのなら。それで良かったのに。それだけで良かったのにな。
慌ただしくしていると、時間も過ぎるのもそれ相応に早いものだった。粗方下拵えを済まして。後はもうやっておくから、ルルシャちゃんも祭りを楽しんでおいでって。そう背中を、おばちゃんの大きな手でぽんと押されて。暗くなり、ライトアップされるステージ。花火とかが打ち上げられるわけではないけれど。皆が持ち寄った、ランタンとか、提灯とか。蛍光灯とか、不揃いではあったけれど。ロープに吊るされて、大通りを昼間のようにとはいかないまでも。柔らかな夕焼けぐらいに明るく照らす。普段は商業区で露店をしてる人も、この日ばかりは夜店として。ちょっとしたつまめる物だったりを売っていたりするし。楽器、だろうか。小さな太鼓を取り出した人が、寄り集まって。聞いた事もない歌詞のない曲を演奏していた。打楽器に混じって。カスタネットみたいなのとか、わりと種類はあるらしい。楽器に詳しかったらいろいろわかったけれど、系統の違う音とテンポだとしても重なると。一つの曲になっていくのは、どこも同じなんだなって。緩やかに笛の音も混じりだす。どこかで発掘したのか、それともこの街で作ったものだろうか。こうして、がやがやと人が寄り集まり。出店の食べ物の匂い。楽器の音色。こういうのがお祭りという独特な雰囲気なのだろうか、それがこの街にも満たされつつあった。普段はあんなにも、生きるのに必死で。毎日皆あくせく休みなんてあまりなさそうに働いているのに。年に一度の今日だけは。やっぱり特別な日なんだと、明るい獣の表情が所狭しと並べばそれも窺い知れた。もう、お酒を飲んで出来上がっているレプリカントの人だってちらほら居たりする。水煙草だろうか。裏通りでも一度見たそれが設置されており。大きな機械から伸び、管に取り付けられた吸い口にマズルをくっつけた後。吸う人が代わる代わる空中に紫煙を漂わせたりしてるなんて光景も。そのようなものに目を奪われていると。目の前から肩を組んだ二人組が、楽しそうに歩いて来て。不意に足がもつれたのか、こちら側にたたらを踏む。先に気づいた僕はぶつからないようにそっと避けるが。酔っていて人間にあちらは気づいていないのか、楽しそうに何やってるんだよと笑い合ってはそのまま通り過ぎて行った。この空気感に当てられて、どこか僕も高揚してくるのだけれど。ただ、背の低い人間は背の高い彼らという人混みに瞬き一つで埋もれるから。大通りの中央から二度あってはいけないと、さっさと抜けようと試みる。浸っていたかったが、皆に混じって歩くのを諦めた故だ。道の端を歩けばまだ大丈夫であろうと。踏んづけられたら危ないし、怪我をしてからじゃ目も当てられない。彼らの体重で踏まれたら、最悪死にそう。
ドンッ。一つ、お腹に響くような大きな音。今日だけの為に組み立てられたステージの裏手から、それはしたようで。誰しもが、獣の耳を震わせ足を止める。ドンッ。二つ目に響いた音で、連れとの会話に夢中だった人までも。そのライトアップされたステージに目をやる。ドドンッ。場に流れていた空気を書き換えるかのように、また大きな太鼓の音がする。それは先んじて耳を楽しませていた楽器を持ち寄っていた集団すら。手を止め、吹くのを止め、注目しだす。一人がステージに登って来るのが見え、手元には拡声器が握られていた。ただその姿をよく見ようとして、誰かの後頭部が隠すように動き。僕はよく見ようにも、遠くの人影を追う事すらできず。意味もなく群衆の後ろでぴょんぴょんと跳ねてみた。それでちらりと見えたのは、灰色の中に多少の銀が混じる。白髪交じりの狼の顔。長いマズルを延長するように、口元へと拡声器を当て。雑音の中に、咳払いを交えてハウリングがキーンと響き。耳の良い獣達はちょっと嫌そうに、それぞれ首を振ったり、耳を押さえていた。ゴツゴツ。マイク部分を軽く叩く音まで拾ってしまっているのか、そんなものまで聞こえてきた後。よく知る、壮年だろうか。低く落ち着いた、けれど僅かばかり掠れているよく通る男性の声が。機械によって何倍にもなって、響いて来る。この街の市長さんの声だった。名も知らぬ誰かの肩と肩の隙間から見えた立ち姿は、背を逸らし胸を張り。拡声器を持っていない手は背に回したまま。腰から垂れる尾すら、力を入れているのか緩やかなカーブを描いたまま微動だにしない。着ているスーツは黒く、会場を照らす光を反射しているのか織り込まれた服の繊維に光沢があり。まるで暗闇に溶け込むのを拒否しているかのようで、自己主張し過ぎないながらも。それに合わせてか、中に着ている真っ白なワイシャツと空色のネクタイ。どこか、ガルシェの持つ毛皮の輝きか、それとも過去の自身にもあった。今は寄る年波によって損なわれた、シルバーのネクタイピンが。控えめながらも、視線を誘導するかのように目立っていた。三十代とも、四十代とも取れる。そんな雰囲気の中でも、目の眼光だけは若いまま鋭さを維持し。ステージを囲む、自身が統率する群れを眺め。長としての貫禄を帯びたまま口元が笑みを形作る。普段、部屋で僕と二人っきりでは見せない。というより、人前での仕事をしている姿は見る機会がなかったというのが正しいが。そんな誰の視線も奪う、男がそこに居た。きっと、若い時は銀毛も相まってどこか作り物のように。相手を畏怖すらさせたに違いないと、僕には思えた。群衆から抜け出し、こうして遠く大通りの端から見る僕ですら。あんな姿を先に見ていたら、きっと恐れ多くて声すら掛けられなかったかもしれない。出会うタイミングが違えば、もっとあの人を怖がって。萎縮し、市長さんの部屋で何もできず。何もしようとは思えず。そんな余裕すらなく。
「諸君。我々がここに根差すのを決意した日より世代を重ねながらこうして共に歩めた今を。心より嬉しく、そして誇り高く思う。諸君。我々には敵が多く、それは機械だけではなく。こうして自然すらも、我々に過酷な試練を与えるだろう。諸君。だがこうして、今日も。我々が屈することなくこの大地に立っていられるのは。諸君ら一人一人の献身が、この街を形作っている以外に他ならない!」
僕を揶揄い、弄んで、時として。まるで父親のように、はたまた、親身になってくれた。不思議な大人の男性。彼の声が聞こえだしてから、太鼓の音ですら遮れなかったぼそぼそとした小さな喋り声が消えうせる。皆、市長さんの立ち姿に。まるで見惚れたかのように。獣の顔が同じ方向に集中していた。たくさんの目に晒されながらも、たった一人。臆する事なく、自身の魅力を心得た長は。その姿も、声も、そして広いステージの上全部を使い。ツカツカと磨かれた革靴で床を踏み鳴らしながら。スゥ……。台詞の合間にある息継ぎすら。計算の内とばかりに、どこか引き込まれる演説を続ける。一頭の、灰狼のブレスに魅入られたのは僕だけではなかっただろうか。
「同胞であるフォードが陥落し、今集まってくれている諸君らの中にも。そこから逃げ延び、助けを求め、この街にやってきた者達もいよう。だが、我々も逃げ延びた全ての同胞を受け入れる事はできず。力及ばず、門を閉ざす道を選んだ事、街の皆を代表し、ここに謝罪しよう」
力強く喋っていた市長さんが、真っすぐに群衆の、おそらくフォードの難民に対して向き合い。腰を折り、軽く頭を下げる。まさか最高権力である市長さん自ら、この場で謝罪を口にするとは予想していなかったのか、顔を見合わせて何かを言って動揺しているのがフォードの人達だけで。元々この街で暮らしている住民は、静かに彼の話に聞き入っていた。
だがっ。そう溜めを作った後、頭を上げた灰狼の瞳に。強い何かを湛え、声を震わせ。拡声器を持っていない手が、ぐっと自身の胸の前で握られる。そうされて、一度は動揺に身内で内緒話をするようにしていたフォードの難民が。三度、市長さんの姿に釘付けになる。
「大切なものを失い、逃げ惑い、そうしてここへとやって来た者よ。不安がる事はない。ならば我らは共に立ち上がろう。ならば我らは共に爪を研ぎ、牙を鳴らし。立ち上がろう、その手助けをしよう。なぜならば、機械共に親を、兄弟を、子を殺されたのは。君達だけではなく、我らとて同じだからだ! ユートピアは、我らレプリカントの理想郷! そして理想郷とは、自らの手で作り上げるものだ!」
最初こそ、静かに語っていた灰狼の言葉に。どんどん熱がくべられていく。拡声器でそれはさらに肥大し、聞く人の胸に殴りつけるようにして。そうだ。そうだ。同調しつつある、群衆の声。市長さんが一言何かを発する度に、頷き。声を揃え、彼が拳を作ったのと同じように。人によっては、故郷を思い出しているのか。それとも、亡き身内を想い、そうしているのか。涙を湛え、俯く者もいた。
「共に歩もう、共に進もう。フォードの民よ! 一度は苦渋の決断に、愛する故郷を捨てる道を選ばざるをえなかったとしても。君達の牙が、爪が、それで折れたわけではない。今宵より正式に。君達は、いや、諸君らは。私が率いる列に並ぶ者だ。共に起き、共に狩りをし、共に巣を守る一つの群れだ。一度失ったものはもう二度と取り戻せはせぬだろう。だが、これ以上、奪わせまいと。一丸となり、群れとして、戦って欲しい。戦い、続けて欲しい。私と、共に!」
先程聞こえた、お腹に響く太鼓の音なんて比べられないぐらい。会場を、歓声が、そして怒号にも似たものが満たした。彼らよりも聴覚が優れていない、僕が耳を塞ぐ程に。拳を突き上げ、口々に市長さんの名を。そして街の名を叫んでいた。場の高まり過ぎた熱気に圧倒されて、獣達が叫ぶ姿に。部外者な僕は恐怖心が襲う。だからこそ、冷静に事の成り行きを見ているわけだけど。たぶん、この演説の意味合い的には。フォードの人心を掌握したい、灰狼のおべっかも含まれているのだろう。謝罪を口にする時、悲しげに。目元に一滴、ライトアップされた自身から頬を伝う物が見えたのも。過剰だなと感じるのも、演技が混じっているのだとは思う。それは皆、馬鹿ではないのだからわかってはいるのだろう。けれど。熱が入りだした演説に、信じてしまいたい、縋りたい、そんな者にはとても甘く聞こえるようにも思えた。帰る家も、街も、何もかも失くし。身一つだけでこの街に来た人にとって、共に、そう代表が言ってくれるだけでどれだけ心の支えになるか。僕自身、もしも同じ立場に。というよりは、身一つであるという境遇だけでいえば。フォードの難民とそう境遇は変わらず、どこか似ているとも言えた。
大切な物を失った記憶すらないという、決定的な違いはあれど。
会場に湧いた歓声を、頷きながら手を振り、答えていた市長さんが。機を見て、手で制すると。だんだんとまた静けさを取り戻していく。灰狼が自身を注目する住民をまた見回し、そうして。そのさらに後ろでぴょんぴょん頑張って演説を見ようとしている、人間と一瞬だけ目が合った気がするが。すぐに逸らされてしまう。それでも。ふるりと、固まっているようにも思えた灰色の尾が揺れたように見えた。
「だが今宵は、年に一度の祭りの日。今日だけは、傷心を抱えた諸君らには酷なお願いかもしれないが。どうか、私ではなく。今日の主役である、彼らに。私と共に、賞賛にと。温かい拍手でもって出迎えて欲しい。名誉ある、番を得る権利を獲得した、栄えある優秀な雄達を!」
ステージの脇に少し移動し、手のひらで中央を指しながら。市長さんが後ろへと振り返る。そうすると、スポットライトがステージ全体を照らしていたのから、登り階段を集中して照らし。暗闇に飲まれ、灰狼が視界から消える。一人、また一人と。登り階段の踏板を踏みしめ、ステージへと。レプリカントの男性が登場した。暗闇の中から、きっと一番最初に手を叩きだしたのは市長さんだったであろうか。それに釣られてか、場を満たしだす大勢の拍手の嵐。ステージに上がった人達、一人一人に。個別にスポットライト一個を贅沢に独占して。横並びに、堂々と立つ姿、そんな中に。市長の息子たる銀狼もまた、居たのだった。ガルシェが、他の今年選ばれたレプリカントの人達と一緒に立っていた。数は五人と、少なかったけれど。
同居している男のそんな姿を。僕も見たくて、頑張ってまだ跳ねていたけれど。いい加減身体がしんどくなってきて。跳躍する度に、その浮き上がる高さが落ちていく。背の低い人用に、何か足場が欲しいけれど。僕ぐらい、小ささの子供のレプリカントの子供は、親御さんに肩車されたり高い高いされて。視線の高さを確保していた。保護者にあたる、その銀狼は。今日はまさに主役の一人なので、残念ながら僕を見守る役目はしていないだ。でなければ、こうまでして必死に飛んで跳ねてまで見たいとは思わないのだが。僅かに見えた、銀狼の尾が緊張にか。いつもより膨らんでいるようにも感じた。今回は見栄えを気にしてか松葉杖は使用しておらず、ある程度は歩けるようになった彼の晴れ舞台とも言えるそんな場面。銀狼の雄姿。ああ、もう。住民が邪魔だな。ガルシェが見えないじゃないか。どこか、よじ登れる建物でも探すべきだろうか。
「なにしてんだよ」
そんな僕の奮闘を小馬鹿にするように、後ろから声が掛けられて。まさかこの人だかりの中、話しかけられるとは思わずとても驚くのだけれど。その驚いた姿すら、呆れ混じりに笑われて。
「だって見えないんだもん」
「あー、お前。背ちっこいもんなぁ……」
振り向いた先、赤茶狼が、自身の腰より低く。手を水平に翳して、誰かの背の高さを表現していた。貴方の胸ぐらいはあります、失礼な。というより、これが人間の平均身長です。貴方達がでっかいだけですと。ちょっと膨れっ面を作り、足でも踏んでやろうかと憎たらしい男の足の甲目掛け。軽く足を上げて踏んづけたが、ただ床を強めに踏んだだけであった。真正面から元軍人に対して僕程度の攻撃が当たるとも思えないが、避けられたら避けられたでちょっとムカッと来るものだ。
「そういえば、いいの。ガカイド。ここってその」
言いながら、言葉を濁しながらも周りを見まわして。誰もこちらに視線を送っていないのを確認する。そうする僕が、何に対して危惧しているのか察した赤茶狼が。腕を組みながら、夜であるのだし、皆余興に夢中だからこっちなんて見てやしないと。そう言ってのけたのだった。それでも、やっぱり。それで何か言われて嫌な気持ちになったりしたらと考えると、どうしても。だって彼はずっと裏通りに引きこもって、あまり表通りには姿を見せなかったのだから。改めて、そんな男の姿を暗がりの中でも確認すると。もう包帯は全部取れたのか、毛皮を隠しているのは衣服だけで。ただ、片耳だけが千切れてしまっており、包帯がなくなった事でその断面まで晒されているのだから。僕が手招きして、訝しみながらもガカイドがもう少しだけ近づき。更に屈んでもらうと。痛々しい耳の根本に軽く触れる。感触的にはコリコリとして、芯のあるそれは。毛が薄く、僕の耳にどこか近いものだった。
「痛む?」
「俺達は傷の治りだけは早いからな、もう痛くねぇよ。それより、今はこっちのがいてぇかな?」
僕が触っている耳ではなく、ガカイドが自身の脇腹を服の上から擦る。それで気になって。見たいか? そう含み笑いをしながら、聞いて来る男に対して。素直に頷くと、軽く服をたくし上げて。お腹の毛を露出させる。そしたら、見えると思っていた烙印の証として彼の右脇腹に存在している筈の焼きごてで押されただろう焼印。赤い毛皮の中、ミステリーサークルの如く存在していた筈の。その独特の模様が、今は変質していた。そこだけ地肌を焼かれた為に、毛生えていないのは同じだが。模様の上に、バツ印のように。更に印が押されており、それはまだ施されて日が浅いのか。ちょっと縁が爛れていた。
「それって」
「ああ、約束通り。今あそこに立って、今年選ばれた奴らを紹介している市長さんが。正式に消す手続きをしてくれたよ。烙印を押されはしても、それを消せる奴なんて前代未聞だとさ」
僕の立っている後方、群衆よりもまだ先。たぶんステージの方角を見て、そう赤茶狼の顎が呟くように言った。じゃあ、これで。ガカイドも表通りで憂いなく歩く事ができるんだって、つい一人盛り上がってしまうのだけれど。それをどこか冷めたようにも、哀れむようにも取れる瞳をさせて。僕を見つめる彼は。それとこれとは、また別だと言わんばかりに。僕だけが気持ちが先行し、あれって。だから、そうだ。そんなよくよく考えてみれば、当たり前な事を。考えが足りないが故に、そのような事を彼自身に言わせてしまうのだった。
住む場所を追いやられたのは、ただ単に彼が日々稼ぐ収入という要素だけではなく。率いていたチームが全滅した際に、その遺族の向けられる視線に。のうのうと前のように表通りを歩けなくなった、抱いた罪悪感の方が大半で。だからこそ、元々住んでいた家も引き払い。ああして、物置小屋のような。隙間風の酷い、小さなあばら家に住むに至ったのだから。烙印どうこうは、関係なかったのだった。たくし上げていた服を戻しながら、ガカイドが屈んでいた姿勢から。普通に立って、僕を見下ろして来る。あれだけしても、変わったのは書類上の事で。対面的な部分においては、何も変わっていないのだなと。彼のおかれた境遇に、僕程度が何かしたからと。変わるわけもないのに。驕っていたのだった。友達を助けたいと。だから、消えた烙印で喜んでいた表情は。あっという間に暗い顔へと変じて。それを見せて、慰めの言葉を欲しいと乞うているわけではないのに。それでも、目の前の男は、この時ばかりは人を馬鹿にした笑みではなく。優しいそれで。僕の頭の上に、ぽんぽんと。手を置いた。
「お前が頑張ってくれたから、こうして。焼き印は消せたんだ。それで俺様の罪が消えるわけじゃねーけどよ。ありがとうな、ルルシャ」
頭の上に置かれた手を、僕は両手で握り。それ以上ぽんぽんと、子供をあやすような動きをできないようにする。頑張った、そう言われてしまうと。違うと否定してしまう。結局のところ僕は何もしていないし、できていないのだから。実際に戦って、頑張ったのは。話だけ持って来た人なんかを慰めているガカイドだ。僕ではない。あるはずがない。
だから執拗に、伸びて来る男の手から逃れるようにしながら。それで目の前の男が悪ノリしだして。両手で人間を捕まえようと、襲い掛かってるくのだから。気落ちした気分も、そんなおふざけによって。落ち込んでいる時間など与えてくれないと。そうやって誰しもがステージの催しに夢中になっている中。僕とガカイドだけが、少し離れてお互いしか見ていなくて。遊んでいるように見えただろうか。
「ガカイドちゃん?」
温和な女性の声が、驚きを含んで。僕を捕まえ咬みつく真似をしている男の名を呼ぶ。僕だけではなく、その声を聞き間違える事はなかったのであろうか。ニヤケ面が一気に、目を見開き、口元を震わせ。その震えは僕を掴んでいる腕にまで及んだ。丁度、赤茶狼の背後に立っているのは。ふくよかな肉体に、さらにふわもこの真っ白な被毛でさらにボリューミーな印象を与え。その前部分は、いっそ窮屈に感じるぐらいに大きなエプロンが覆い。胸と腹、三つの山で押し上げられていた。自身のマズルに手を当て、まさかこんな所で会うなんて。そんな顔をさせた、サモエド犬と酷似した顔をさせた。お祭りで提供される料理を振る舞ってる筈の、おばちゃんだった。掴まれていたせいで、僅かに浮かんでいた踵が地に触れる。
真っすぐ姿勢を正したけれど、声を掛けられて。未だ振り向くでも、挨拶するでもなく。固まってしまったガカイド。おばちゃんに背を向けているせいで、彼女にはまだ男の表情は見えないが幸か不幸か。歯茎を露出し、ギチリと食いしばった牙同士。瞳は泣き出しそうにも取れたが、片方の頬が引き攣り。あまりに歪だ。もしかしたら、普段僕らに見せているように。飄々とした態度を取ろうとして、笑顔を作ろうとして失敗しているのだろうか。あまりに醜く、辛そうな狼の顔だった。
「あ、おば、さん。おれ、さ……」
あまりにぎこちなく、辛うじて聞き取れたのは僕だけだったと思う。ガカイドの後ろで、身体を左右に揺らしどうしたのかしらって。そんな感じで、こちらを窺うおばちゃんの姿と。歪な表情のまま、振り向こうとするのだから。そんなもの見せてはいけない、誤解されてしまう。だから僕が、自身の太腿あたりに力なく垂れているガカイドの手を咄嗟に握る。今すぐにでも逃げ出したいのだと、狼の尾は臆病にも震えていた。会うタイミングが悪い。まだ彼の心の準備ができていないのに。僕へと意識を向けさせ、そうしてガカイドの視線が僕の顔をちゃんと見たのを確認したら。そのまま男の陰から顔を出し、おばちゃんに挨拶しようとして。
「もー、やだー。ずいぶん見ない間にえらく痩せちゃって、ちゃんと食べてるの?」
大きな身体には似つかわしくない、パタパタと小走りで近寄り。ガカイドの二の腕をむんずっと掴み、揉むようにして肉付きを確かめるサモエドのおばちゃん。素っ頓狂な声を出しながらも、強引ながらも相手を逃がさないとばかりに。白い大きな手が問答無用で身体を触り。逃げられないガカイド。そんな姿に、既視感を覚える。これ。よく僕が可愛い可愛いと触られたり抱き上げられたり頬擦りされる時と一緒だって。でも一番そんな対応をされるとは思っていなかったのは、もみくちゃにされている男のようであった。いい加減やめろって、暴れ。おばちゃんの可愛がり攻撃から抜け出し。フー、フー、って息をさせながら。頭の毛がぼさぼさになり、上着もくしゃくしゃになっていた。対してサモエドの顔は温和に、何で逃げるのかしらって。そんな態度であって。息を整えると。改めて自分にされた行動と、言葉を反芻し。訝しむ赤茶狼。
「あんた。恨んで、ないのかよ」
「……恨む?」
問いに、まだわかっていなさそうで。苛立たし気に、ガカイドが唸ろうとして。自身の喉を押さえた。落ち着けと、自分自身に言い聞かせているのか。動揺したままではだめだと、しっかりと向き合う。狼と犬の顔。悲しそうな表情をさせて、自分から埋めたい過去を掘り返すのを躊躇しているのだろうか。でも、向き合う時だと。揺れていた瞳に、決意にと。確かな意思が宿ったと、僕の視点からでも。見えた、そんな時。呑気な、あまりに呑気な。女性の声が、あー! って、そんな声をさせて。周囲が騒がしくて良かったと思う。普段であれば、注目を集めていてただろう。おばちゃんがやっと納得がいったとばかりに。でもどこか、その態度はわざとらしいように感じる。
「そうね。あの一件は、私の旦那さん。番ともすごく、すごーく悲しんだわ。だって、大事な娘でしたもの。とっても悲しんで、辛くって。毎日欠かさず食べていたおやつも、喉を通らないぐらい。旦那さんには痩せろ痩せろって言われていたから。ダイエットにはなったかしら? なんてね。貴方を恨んだ日がなかったなんて、綺麗ごとも言わないわ。でもね、それでもね。ガルシェちゃんも、ルオネちゃんも。皆生きてて良かったて。それで良かったって。そう、思えたの」
自身の胸の前で、まるで祈るように。手を重ね、握り。耳を伏せた、おばちゃんの優しい笑顔。眉を下げ、曖昧に笑う。痛みを堪えた人がする、そんな笑顔。それを唖然と聞いている赤茶狼が、動揺に言葉を発しようとして。息しかでず、唾を飲み込み。祈るような相手に対し、ガカイドは胸を押さえていた。
「あの子はね。三人でよく私のお店に来てくれる、貴方達が好きだったもの。なのに、あの事件以来。来てくれるのはガルシェちゃんだけ。来れない理由も、わかるわ。けどね、私寂しかったの。もう三人が揃う事はないのかなって。そう考えると、寂しいって。そう思えたの。時間がそうさせたの」
おばちゃんの会話を聞きながら。そういえば、一度だけルオネが僕がおばちゃんのお店で働いている時。謝りに来て、それで僕は彼女に。また食べに来てくださいって、そう言って。それで、ルオネは。振り返って、目に涙を溜めながら。頷いてくれたのを思い出していた。随分前に感じるけれど、その表情がとても印象に残っていたから。そう僕が言っても、僕が働いている間。彼女がまた訪れたりはしなかったが。その時は。僕のとった行動に対して感極まって、そうなったのかなって。ただただ表面上だけ、彼女の姿をそのまま受け取っていたけれど。
「あの子が私のお店を手伝うのをやめて、軍医として志願した時。もちろん反対したわ。でもね、きっと。あの子は貴方達に混ざりたかったんだと思うの。だって、三人とも、とても仲が良かったもの。私ってお喋りなのに、夫に似て。あの子は無口で、何考えてるかわからなくて。ガカイドちゃん、よく揶揄ってたじゃない? でもね、決める時はいつも突然で、そして、絶対に曲げないの」
昔を懐かしむように、もう過去になってしまった。それを、大事に大事に。ずっと今まで胸に抱きながら、忘れまいとした愛する我が子の想いを。赤茶狼に対して、おばちゃんは吐露していた。恐らく、一歩間違えれば。自責の念で、男を殺してしまいそうなぐらいの。そんな言葉を、困り顔でも。年長者故か、話している男の顔色を窺いながら。暗くなり過ぎないように、わざと優しい口調で喋っているようであった。
「誰が悪い、誰がって。そうやって、責任を取らせようと。人を追いつめるのは簡単だわ。でも私。もうそんなつもり、ないの。だって、こうして。貴方が生きていてくれた事が、嬉しいもの」
「おばさん、なに、言って。あんた、自分がなに言ってるか」
「許すとか、許さないとか。もう、いいの。そう考え続けるの、とってもしんどいの。私、私達、疲れちゃったわ。だからね、ガカイドちゃん。また、私のお店によければ食べに来て欲しいの。もちろん、一人で来るのが辛いならルオネちゃんも、ガルシェちゃんも呼んで。あ、いけないわ! 今はルルシャちゃんもいるわねっ」
おばさんが、忘れてたとばかりに。ごめんなさいねって、こちらに顔を向けて。片目を瞑り、口を開けていた。もしや、過去の事で言いつのられ。責められ、虚勢を張っているが。とても不安定なガカイドの心が傷つけられるのを心配していた僕の考えとは裏腹に。とても、聞いててむずがゆいような。でも、胸が小さな紐で締められるような感覚を感じる。
恐らく、信じられない言葉の数々なのだろう。自身の胸を掻き毟りながら、膝を折り。嗚咽を零す男の姿。少しだけあった距離が、サモエドの歩みでまた埋められ。そうして、お腹に狼の頭を押し付けながら。緩やかな動きで、頭を撫でさすっていた。
「こんなに、なって。この街のために頑張ったのね。大事なお耳も片方欠けちゃって、まったくもう。おしめをしている時から知っているけれど。この子ったら、こんなに大きくなっても。やんちゃなのは変わらないのね。そういえば、あまりちゃん付けするのもダメだったかしら。ガルシェもちゃん付けされると嫌がるものね。本当に、皆、大きくなって」
エプロンに染みを作りながら。くぐもった声が、おばちゃんのお腹からしていて。ガカイドがそこに埋もれながら、何か言っているようであった。けれど。あまりよく聞き取れなかった。本人が、言葉がつっかえているのもあったのであろうか。それは、おばちゃんも同様である筈なのに。そうね。辛かったわね。もういいの。いいのよ。赤茶狼の頭を抱きながら、そうやって語り掛けていた。どこまでも慈愛の籠った人の声だった。
許されたのだろうか。そんな二人を見ていて。これも一つの結末なのかなって。良かったって。言っていいのだろうか。皆何かを失いながらも、無理やり納得して。それで前を向こうとしているのだから。だからこそ、良かったって、言えるのかな。本当に凄い人だった。常々、おばちゃんはこの街の人達に。何かできないかと、動き回る人であったけれど。博愛とも取れたが。本当に、彼女は、誰かに対して。見ず知らずの人でも。愛情深くなれる人なんだって。
対して、今撫で擦っている男の耳が欠けた原因も。そして、いつだって目の前の人。本当に近くの人だけでも、救いたいって。思い、思いあがっていた。僕自身がとても、恥ずかしい存在のように感じて。先程のガカイドのように、この場から逃げたくなった。あまりにも、自分という存在が。醜い生き物に感じて。惨めで。僕は、皆がね、ただ。笑ってて。欲しかった。ただそれだけの願いだったんだ。でもそれを叶えようとすると、誰かに頼るしかなく。頼った末に、何を成しえたのか。傍観者であるのに、あまりにも。自分という役割から逸脱してしまったのだろうか。おばちゃんに抱かれながら、謝罪の言葉を吐き出し続けているガカイドを見て。僕も、ああなりたいって。思った。縋って、泣きわめいて、謝りたかった。けど、今はまだ違う。
やり残した事を、一つ、一つ。消化している段階だ。その一つ目が、実際に目の前で起きて。感傷に浸っているのだから。罪を許してくれる存在がいたのが、羨ましかった。
この街では僕を叱っても、許してもくれる人なんていなかった。ずっとそうだった。だからこれほどまでに増長していったのだと思う。自分という人間が。彼らを見て。感じ入りながらも。だからこそ、恥ずかしいとも感じたんだ。
共に暮らしていた銀狼は、僕を甘やかし。いけない事をしても、嫌な顔とかはするけれど。それで叱ったりはなかった。それをして、僕に嫌われるのを恐れていたのかなって今なら思う。ずっと、大事にされていた中で。感じていたもの。僕を手放したくない、孤独を埋めてくれる、都合の良い存在。恋とはちょっと違う。なまじ性的接触もあって、勘違いしたんじゃないのかなって。だから、自分を。彼から見て、大事な玩具って。そう表現していたんだ。ずっと。大事に、大事にしてくれる。大切にしてくれる。
でも、僕が向ける愛情と。彼が返してくれるものは。ちょっと違っていた。好きの形が違うんだって自覚してから、お互い。離れたくないと思いながらも。僕だけが満たされない想いを抱きながら。だって、好きになったら。好きな人に。好きだって。言って欲しいのだから。抱きしめて、誰にも目移りなんてして欲しくなくて。僕だけを見ていて欲しくて。
そんな気持ちでいたのに、他の女の人と。デートなんてするんだから。お父さんに無理やりセッティングされたというのも、理解していて。でも感情がついていかないのだ。本当に、まいっちゃうよね。でも彼は彼なりに、追いつめられ苦悩していたんだって。わかってはいたから。だから、見守る姿勢を崩さなかった。彼の好きが見つかればいいなって。だから、その先に。僕が居られないとしても。良かったんだ。自暴自棄になっていなかったと言われたら、否定しきれないけれど。都市部へ行こうと、提案して。自分でも唐突で、でも前々から行く手段を模索はしていて。諦め。でもそれが叶い。今こうして、結果。街の食糧問題を解決し、ガカイドの烙印も消せて。後、残るのは。銀狼と、灰狼の顔を思い浮かべた。その考えのまま、ステージの方を見れば。もう、終わってしまったのか。市長さんが締めの挨拶に入っていて。今年選ばれたガルシェ達の姿は見えず、組まれた足場から退散した後だった。ここからは、各自が思い思いに祭りを楽しむ時間らしい。また、楽器を奏でる音がしだして。それに合わせて、誰かが歌っていた。誰だろうなって、人混みの中から。その音の発生源を探してみると、例の狼の女性だった。ガルシェと、デートしていた。人だった。音程に合わせ、身体全体を僅かに揺らしながら。静かに、それでもよく通る声で、歌い上げていく姿に。つい、歌い手が誰かも忘れて見惚れてしまう。踊りとはいえないまでも、軽く手や肩を揺らし。そうして、耳につけているアクセサリーが光っていた。初めて彼女を目にした時とは形状が違っていて。改めて綺麗な人だなって。身体のラインは、女性のそれであるけれど。顔は狼だから、ちょっと鋭さもあり。それがより、彼女という美を引き立てていた。こんな大勢の人が居るのに、平気な顔して。それもとても、すっと耳に入って来るような高音だった。一度は、ガルシェと一緒に食事をしている姿を見て。お似合いだなって。そう感じたけれど。彼の隣は、同じ狼の人が居るのが正しいんだって。誰かに言われるまでもなく、僕自身がよくわかっていて。それが自然で。当たり前であって。銀狼の心を歪めてしまった自覚があるから。僕なんかに執着なんてしなくて良かったのに。あっさりと、もういらないと言ってくれたら。どれだけ楽であっただろうか。
だからガルシェは、どこだろうなって。ちょっと歩きながら探し始める。おばちゃんとガカイドはそのまま、僕だけ少し席を外した方がいいだろうから。赤茶狼が、冷静になった後で。一部始終僕に見られていたと気づいたら、嫌であろうし。そう理由付けして、あてもなく歩いていたけれど。そう時間は要せず、ちょっとした人だかりができていた為に。それで足を止めると、そう苦労せず目的の男を見つけて。普段は服の下に隠している、肌身離さず着けている番のネックレスを。今日は服の上に出しているのか、胸元で揺れているのが先ず目に入って。そうして、銀狼を囲っているのが。犬科の。というより狼の顔ばかりであったから。どの顔も、動物のそれだから。ぱっと見では性別は判断が難しいのだけれど。着ている服装が女性物だったから、彼が今どういう状況になっているのか。だいたい察して。身綺麗にしだして、そして仕事にも熱心に取り組むようになって。女性にモテているって、ルオネから聞いていたけれど。実際にその場面に直面するとは思っておらず。まさか、それも今日だとは。
というより、機会としては丁度いいのかなと考え直す。見た目でいえば、背が高く筋骨隆々な雄ってそれだけで魅力的で。今までは内面がそれを駄目にしていたから。本当に、身嗜みに無頓着であったから。僕と暮らしだしてお風呂に定期的に入らせ、そして毛並みには丁寧に櫛でブラッシングして。そうやって、僕の努力が実を結び。元々綺麗な銀の毛は、今はその魅力を最大限発揮していると思う。他にも四人。今年選ばれたレプリカントの男性が居て、彼らも同じように同種の女性に囲まれているから。ある意味通過儀礼みたいなものなのだろうか。それでも、狼が一番囲みを作り。アピールしている印象を抱いたが。普段、あまり人付き合いに積極的ではないから。それは種族的なもので。学校の食堂で見かけた、狼の男の人も。一人で食事をしていたし。基本群れるのは本当に親しい、家族とか番とだけな印象を抱かせた。友達がいない、というわけでもないようであったけれど。だから、顔見せという意味もあったのかな。複数の女の人に囲まれるって経験がなく、それもルオネぐらいしか女性を知らないガルシェは。遠目から見てもわかるぐらいには、女性陣の勢いに押されていた。それでも、聞かれた事には素直に応対し。返事しているあたり。びっくりはしたけれど、嫌ではないのかなって。話題は主に、都市部に行った。英雄譚を聞きたがる、そんな気持ちと。意中の相手はいるのかってのと、最近お見合いした相手とはどうなのかとか。そんなところまでの探りも入っていて。服装の種類から、もしかしたらその中にフォード出身の女性も居たのかもしれない。
ガルシェの内面。美点も欠点も知っている僕としては、ただ活躍した話題の人であろう。そんな人だから余計に話しかけているだけに過ぎないように見えてしまって、ちょっと不快に感じる。でも、その当の本人が。あまり嫌がっていないのならば。いいのかなって。鼻の下を伸ばすようなタイプではないが。照れているのか、落ち着かないのか。後頭部や頬を搔いたり挙動不審に映る。食糧難であったこの街の人々にとって、ある意味。英雄的な扱いなのであろうか。ただでさえ危険な外で。それも、機械が多く徘徊している都市部に行ったとなると。結婚相手というより、憧れも混じっているのかなって。銀狼の目つきは悪いけど、顔付きは整っている部類なのだろうか。お喋りではないが、愛想が極端に悪いって程でもない。話しかけたら普通に返事してくれるし。僕に対してや、子供達に対しての喋り方は。低い男の声といえど、とても優しげだ。その優しい態度が、誰とも知れぬ。不特定多数の、狼の女性に向けられているのを。ただただ、僕は遠くから見ていた。近づく気も起きないで。邪魔してはいけないなってのもあった。あの輪に割って入って、何だこいつって。そんな不躾な視線に晒されるのも嫌なのもあって。
「おい、探したぞ。気づいたら居ないし、一人じゃ危ないだろ」
真横から駆け足で近づいて来る気配を感じて。そちらを見れば、おばさんと一緒に居た筈の赤茶狼が焦った顔してそこに居て。僕が見ていた方向に気づいたのか、一度そちらを見て。難しい顔をしていた。ただ、もう少しだけ身を寄せて来て。狼の尾が、慰めるように。僕の背後からぽすりと当たる。別に落ち込んでもないのに。
「いいのか、あれ」
同じ方向を二人で見ながら。ガカイドが小さな声で僕に聞く。何が。そう気丈に振る舞おうとして。どうせ、僕の感情の揺れ動きなんて。彼らの鼻にはお見通しであると思い直し。そう気を張らなくてもいいかって思い。それでも、やっぱり口にしたのは。別にって。そんな愛想のない返答であって。
「嘘つけ。店でデートしてるところを見た時、嫉妬してたくせに」
「別に、嫉妬なんて……」
してない。してないと思う。だって、嫉妬できる立場にない。最初から持っている人達と、最初から持っていない僕と。どう嫉妬しろというのか。今背に当たっている男の尻尾だってそうだ。僕の身体にはついていないもので。慰めるためにそうしたのだろうけれど、この寒空では。触れ合った部分は服越しといえどぽかぽかして。ちょっとだけ、楽になる。肩の力を抜くにはそれで十分で。硬く引き結んでいた唇を、自分で頬を揉み。解す。そうして、ちょっと横を向いて見上げれば。揶揄うでもなく、ただ穏やかに見つめる赤茶色の毛をさせた狼の男がいた。見つめ合うと、小首を傾けて。唯一残された片方の耳が、ぷるりと震える。
「そうだね、うん。嫉妬してた。どうして、なんの負い目もなく彼の隣に僕は立てないんだろうって」
そんな嫉妬する自分をずっと認められなかった。だって認めたら、より自分の事を嫌いになりそうで。ただでさえ、無力感に押しつぶされそうなのに。できないものばかりなのに、心まで醜く変質してしまったら。僕という存在は、どこに価値を見出せばいいのだろうか。
「にしても、あんなに狼の人って居たんだね。わりと長くこの街で暮らした気がするけれど。あんなに見かけた事なんてなかった」
「そりゃー、普段は同族とだけで暮らしてるからな。特に雌は。後はそうだな、今の季節とか発情期も絡むし。あまり出歩けないさ」
「そういえば、ルオネは?」
「あいつは、今は家にひきこもってるよ。俺様達が都市部に行ったのでだいぶ荒れてたからな、精神的に不安定な時期だったから。それで早まったらしい。様子見に行きたいが、俺様は立場的にも、性別的に障りがあるし、な」
ああ、そうか。以前からなんどもそういった話があったんだって思い出した。一応は人であるからあまり意識していなかったけれど、彼らにはそういった身体の変化が起きるのだった。ガルシェも事故で一時的になったのを目の当たりにして。それを治療して。なら、早ければ。もう数日後には、勢いのまま。あの今は雌の狼達に囲まれている銀狼が。そのまま、その一人と寝床を共にして。燃え上がったりするのだろうか。人間の僕にはわからないけれど、そういうフェロモンとかで。感情すら吹き飛ばして。昔はそれで性犯罪とか多かったらしいし。その予防策として、裏通りと、同性同士や、自分自身での性処理が推奨されているのだから。実際ガルシェも、そう日を空けず。僕に隠れてお風呂場で処理しているのは知っているし。我慢するとすぐ夢精するぐらいには、性欲が強いみたいなのだから。見て見ぬふりして、ただこっそりタオルとかを準備してあげるぐらいで。そんな同棲生活を送っていた僕は。異種族って大変だなってぐらいの認識で。僕のせいで発情期に陥ってしまい、それで手伝いはしても。その病気みたいな性衝動から抜け出せば、もうその性処理を手伝うのを嫌がれば。ガルシェも僕が手伝うのを求めては来なかった。たまに、人の指をじっと見つめて。しばらくしたらムラムラしたのか、お風呂場に行く時があるから。誰かにされる感触を忘れているわけではないみたいだが。好きな人と、番とだけしたいと、同性同士の誘いを断り続けた彼であったから。僕から与えられる刺激は、かなり忘れようにも、忘れられないものだったらしい。だからこそ、また僕が手淫をするのは避けていたのだけど。実際のところ、僕自身。他人のペニスを直接触る感触を、あの生々しい手触りを。忘れるのは難しい。本当に、治療とはいえ。大胆な事をしてしまったと思う。あの頃は、追い出されない為に気に入られようと必死だったのもあるけれど。今なら、余計な事だったようにも思う。
「そっか。謝りたいけど、そんな状態じゃ。会いに行ったらかえって迷惑かな」
嫌われたと思ってるから。それでも、幼馴染二人を危険に晒したのは事実であって。だからこそ謝罪をまだ直接は伝えていないから、顔を合わせて謝りたいのだけれど。だって、ルオネは。僕の頬を怪我させた時、ちゃんとわざわざ謝りに来てくれたのだから。僕がそれをしないのは、義理を欠く行動だ。だが、一応は僕も男性であるから。フェロモンが作用しないとしても、会うのは聞こえが悪いかもしれない。それで、さらに彼女の婚活に響いたら問題だ。時期的に、悪かった。
「せめて、謝りたかったんだけどな」
「心配しなくても、ルオネがお前を嫌ったりはしねーよ。一度、ぶん殴ってやるっ! ては思ってるかもしれないが、それでチャラにはしてくれるさ」
そうかな。そうだといいな。でもその一度で僕死にかけたりしないかな。できれば体格差と種族差を考慮して、手加減して欲しいのだけれど。一応女性といえど、ルオネも僕より背が高く、それも鍛えている軍人であるのだから。その一撃は、痛いどころで済まないと思う。
僕とガカイドが見つめる先は、ガルシェで。そしてガルシェは、女性達の相手で精一杯であり。こちらには気づいていない。僕達が立っている場所が暗がりであるのもあったかもしれない。まだステージ近くに居る、今年の主役達は。ライトアップされているステージの反射光もあり、夜であっても表情すらよく見える。
大胆にも、女性が身を寄せて。銀狼の腕に腕を絡めると、ぎゅむって自身の胸を押し当てており。それで、毛を逆立てて初心な反応を示す男を。皆して、可愛いところもあるのねって。笑いかけていた。何となくそんな光景を見た後で、目線を下げると。とても平たい、鍛えてもない。男の胸板があって。つい触ってみるけれど。それで膨らみは変わらない。
――胸、ねぇな。
一緒にお風呂に入った際に、何故か僕を洗いたがった銀狼が。ついでに人の胸を背後から揉んで来た際に。発した台詞を思い出していた。あれから、僕以外と性的な接触をしたとは聞いた事もないし。実際ないと思うが。それはガルシェが言わないだけなのかもしれなかったが。恐らく、異性愛者であるのだろうから。だからこそ、何かと、誰かと比べて。そう言ったのかなって。あの時は驚きが勝って。意味を考えすらしなかったが。胸、好きなのかな。女性の外見的な好みとして、胸の大きさやお尻のラインを上げる男性は多い。だからこそ、銀狼もそうなのかなって思った。なんだ。最初から、ガルシェは僕と女性を比べてたんだ。ちょっとだけ、それで腑に落ちた。もしも、人間なら。そうやって胸を押し付けられたりしたら、顔を赤くしているのだろう。この距離ではわからないが、耳の裏を赤くしてそうではある銀狼の姿。
恋の対象に、初めからないのなら。そりゃ、都合の良い存在としてしか見れないよねって。僕が、最初。ガルシェの裸体を見た時、動物の要素が多くて。あまり卑猥に感じたり、嫌悪感を抱かなかったように。ガルシェもまた、僕という人間相手だからこそ。同性同士の性的行動を嫌悪しつつも、それに近い事を僕とできてしまった理由が。でも、キスされたのは。どうしてだろうか。それだけひっかかったけれど。どうしても、僕をあの家に引きとどめたい、苦肉の策として。わりと切羽詰まると、考えるより先に身体が動くタイプであったから。そうしたのかなって。無理やり納得した。家族に憧れを抱いていた男が。僕を家族みたいなものだと称し、それに浮かれて。いい気になって。僕をどうするのか迷ってるんだと、思い込んでいた。でもそうか。それは僕の視点であって。ガルシェの視点からすると、手放したくないからであって。でも僕とそこまでどうこうなりたいとか、そこまでは考えていなくて。だって、現状維持を望んでいたじゃないか。それなのに、周りが、そして僕自身が。急かして。あの時、好きと告げたのを。今更後悔していた。言わなきゃ良かった。これじゃ、一人相撲だ。笑えちゃう。
「お前って、悲しい時も。無理して笑うよな」
自分があまりに馬鹿馬鹿しくて、それで面白くて。つい笑っていると。隣でよくよく僕の所作を見ていた赤茶狼がそう指摘する。だから、僕の笑顔が固まって。やがてぎこちなくなって。笑うのを止めてしまうのは当然で。その間、ずっとこちらを見つめる男の表情もまた。男が僕を見て言うように、悲しげであって。
「最初。俺様は。お前を甘い言葉をくれる。自分にとって都合の良い奴だと思ってた」
一度目を瞑り、何かを決心したのか。もう一度その瞳が僕の姿を映した時。これまでにない程、強い意思で。僕を捉えていた。
「君は悪くないって。そう言ってくれる。存在に」
「……起きてたんだ」
てっきり、寝ていて。悪夢に魘されていると思い。彼の腕を取り、そうして。語り掛けた言葉だった。あまりに無責任な。それでも見ていられなくて。
「そりゃ、起きるだろ。耳元で言われたら。だから俺様は、あわよくばお前をものにして。毎日、慰めてもらって、そして俺の慰み者にしてやろうって思ってた。俺様は、稼げない時身体を売った事もあるからな。愛とか、恋とか。正直、金の為に他の雄に抱かれて、抱いて。よく、わからなくなった。だから、犯して、犯して。俺だけしか考えられないようにしてやろうって。かってな事ばかり抜かしやがる人間を。内心、嘲笑ってた」
そんな事を考えていたのかと。今まで、ただの悪友みたいな距離感で。僕はそうやって、友達だと思っていた相手に。初めて恐怖心を僅かに抱いた。別に実際にされたわけではなく、彼の言い方も過去形であったから。表情には出る事はなかったけれど。それでも、驚いていた。今、どうしてそれを言うのかなって。僕に嫌われるかもしれない。そんな事を。言う必要なんてないと思うのに。
「言ったろ。俺様、お前が嫌いって。別に嘘じゃなかったんだぜ。お前に俺様の感情が嗅げたら、気づけただろうに。だからガルシェは、あまり俺様がお前に近づくのにいい顔をしなかったんだよ。でもそうだな、嫌いだった。嫌いだったのに、いつの間にか、違ってた」
過去の自分を思い返して、自嘲気味に。赤茶狼が笑う。目の前の僕に対してではなくて、どちらかというと。
「最初は取り入ろうとしてたのにな。いつの間にか、ずっと頭お花畑のお前に。俺様は悪くないと言い続けるお前に。俺様の方が絆されてやんの。マジで笑えるだろ」
ああ可笑しいと、わざとらしくも見える。ガカイドが自身のお腹を抱えて、笑い声を上げる。面白いだろ、笑えよって。促されても、一つも笑えやしなかった。だから、ただ静かに相手の言葉を聞いていた。頷きも、返事もせずに。
笑い過ぎて、目尻に涙が出て来たのか。目元を人差し指で拭いながら。それでもまだ、ガカイドが笑う。
「なぁ、ルルシャ。俺様は、俺は。お前に多くを貰った。この感情も。烙印を消してくれた事も。だから俺は、お前になら全部くれてやれる。あそこにいる雄よりもずっと、迷いなく。今ならはっきりわかる。愛してやれる。それなのに、お前は酷いな。今、お前に好きだって言ったら。ずっと諦めていた。せっかく貰った番を得るチャンスを、無下にしちまう。お前の気持ちを蔑ろにしてしまうんだからさ」
笑うのを止めて。しっかりとこちらに向き直ると、ガカイドが。酷いよお前って。そう糾弾してくるのだった。その表情は、泣きそうにも見えて、まだ笑いそうでもあって。そして悲痛でもあって。最初、俺の物になれって。ガカイドに迫られた時、番の証であるネックレスをやるって言われて。それは、彼の境遇から。形骸化してしまったから、持っていても意味がないから。だからこそ、同性同士だと。形だけでもそうやって。妥協めいた提案であって。たまに、僕を冗談めいて口説く際にも。俺様で妥協しろよって言ったりもしていて。でもそれは、どちらかというと。彼の方が何もかもから妥協して、諦めている節があったから。だから。その誘いには乗らなかったのだった。わかりきっていたから。でも徐々に、その好意が。違ってきているのにも気づいてもいた。冗談の裏の、さらに裏。繰り返し見た裏表。それでもわからなかったけれど。今こうして、僕には嗅げない気持ちの揺らぎを。言葉にしてくれている彼のおかげで。
「俺は、お前に何を返したらいい。何をしたら、いいんだ。教えてくれよ、ルルシャ。そりゃ、稼ぎはあいつに比べたら少ないかもしれないけどよ。住んでるところだって、あまり良いとは言えねぇ。かわりに何を差し出したらいいんだ、教えてくれよ」
ちょっとだけ、考えてみた。こうして、真剣に向き合ってくれている相手に対して。僕も、それなりに。いや、それ相応の対応をしようと。ガカイドの事は嫌いではない。というより、わりと好いてはいた。何かとおちょくって来るし。はぐらかすし、性的な事もすぐ誘ってくるし。それでも、優しい人だとは思っていたから。まさか、最初。僕をそういうふうに見ていたとは思いもしなかったが。それは、僕が気づけなかっただけであって。今は違うと、だからこそ正直に全部言ってくれているのだろうし。
でも、僕は。彼に対価を貰いたくてそうしたわけじゃなくて。ただ、もう既に。貰っていたから、それを返したに過ぎない。裏路地で救ってくれたから、友達で居てくれたから。それとなく、いろいろサポートしてくれたから。さっきだって、危ないだろってわざわざ探してくれて。貰ってばかりに感じているのかもしれない。烙印を消したのは、それ程までに。彼にとっては大きくて。でもそれは、彼自身が頑張った結果であって。僕が少しだけ関与したとしても、後押ししただけで。
緩く、首を振ると。期待した眼差しでこちらを見つめる狼が。傷ついたように、苦悶の表情に変わる。
「いらないよ、なにも」
ちゃんと考えた上で、それでもなお。やっぱり僕は。何も求めていなかった。求めているものは別にあったというのもあるが。それは残念ながら、彼には満たせない。僕は、誰かを代用品にするつもりはなかった。そんな惨い事。大切な友達に、できるわけもない。
何かそれでも言おうとして、それでも。僕の表情を見て、だんだんと肩を落としていく。目の前の男。狼の頭が俯いてしまって。それで、欠けた耳が。余計に良く見えた。彼からはたくさん、貰って。奪った。
「俺には、そんな価値すらないってことかよ……」
「それは違うよ。既に十分、僕は貰ったからだよ」
「した方はそれでいいかもしれねぇけどよ、された方は。されたままで、気が済まない事だってあんだよ。人間っ」
再び顔を上げたガカイドに怒鳴られる。咬みつくように。久しぶりに、そんな呼び方をされたなって。冷静にそんな事を思っていた。もっと怒鳴りたいのを我慢するように、握り拳を作ってもいた。僕は、彼から少なくとも貴重な職を一つ奪い。いらぬ怪我を負わせ、そして必要のない心配をかけ。あまつさえ、二度と元に戻らぬ傷を。たくさん、彼から奪ってしまった。僕のおこないでだ。救いたいなんて気持ちを抱くのも、厚かましいぐらいには。僕はガカイドにいろいろやらかしていた。だからして欲しいと言われても、思いつくものがなくて。
こうやって、少し騒いだ程度では。祭りの喧騒に簡単に包み込まれてしまう。ちょっとだけ、気づかれてしまったかなって。耳のよさを懸念して、銀狼の方を一瞥するけれど。お姉さん方の相手に忙しいらしく。というより、お酒を飲まされたりと。わりともみくちゃになっていた。はっきり断ったりできず、押しに弱いからな、あの男。英雄色を好むと言うからか、本当にぐいぐい攻勢に出ているお姉さん方の勢いが凄い。ガルシェは別に、えっちな事が嫌いではないし。ただ表沙汰に下ネタとか言ったりとかは、嫌がる。普通に性欲のある健康男児なだけだ。このまま放っておいたら、身の危険を感じそうだが。一応はこの街の法律として、男女間での性的接触は厳しく取り決められているから。迂闊な事はしないであろう。そのギリギリまではしてもいいという事ではあるが。
「ほんと、あんな雄のどこがいいんだよ」
ガカイドまでも、ガルシェの方を見て。雌の狼達に囲まれているのを羨む素振りもなく、どちらかというと嫌悪感を醸し出していた。別に僕と銀狼は付き合ってる間柄でもなく、だから今の状況を浮気だなんだと。そう言い募って責め立てるわけもなく。立場的に、居候でしかない僕は。ただモテてるなって、それぐらいの感情でしか。この場に居る事を許されていないだけであって。あんな。と言われてしまうと。仕事はできて。でも家では基本ぐうたらして。お風呂嫌いで、寝る時は寂しがり屋であるから一緒に寝たがって。最近は一緒に寝てないけど。図体はでかい癖にわりと甘えん坊で。撫でられるのが好きで。食べ物は好き嫌いがなく、強いて言えばお肉が好きで。言葉遣いはあまり良くないし、癖で舌打ちとかするし、すぐ感情が態度や表情や尻尾とかに出てわかりやすいし。体臭は若干獣臭いし、煙草の臭いだってついている。
それでも、そうだな。いざという時は、なりふり構わず助けてくれて。辛い時必ず何かを察して、言葉少なくも傍に居てくれて。こんな異種族で、元々関係性に溝があっただろうに。そんなものも関係がなく、初めから対等な相手として見てくれていた。そんな人だった。やることなすこと、放っておけなくて。
「可愛いからかな」
ちょっと、普段目の前の男がするように。茶化すように言うが。それでこの場の雰囲気が和んだりはしない。ロッジと同じ答えを出していたけれど、結局は。良い所も嫌な所も全部ひっくるめて、可愛いと称せるのだった。理解できないのだと思う。ありありと、赤茶狼の表情がそう告げているのだから。別に理解されようとか思ってもいないし。この好きは、僕だけの特別だ。僕の答えを、わかりきったそれを改めて聞いた男は。嘆息して、空を仰ぎ見る。
「ルルシャ、これだけは。覚えておいて欲しいんだけどよ。俺様に、君のせいじゃないって言って、そして何かしようと行動に移してくれたのは。他の誰でもない、幼馴染のあいつらでもない。お前だけだった。だけだったんだよ……」
絞り出すような声で。ガカイドが言う。ここで僕が、どう言おうと。ただただ彼を傷つけるとわかりきっていたから。ありがとうとも。そっか、とも。ごめんねとも、逡巡する中で、思い浮かんだそんな言葉達を。喉を使って音にするのは止めておいた。どうせ、僕の感情なんて。筒抜けであろうし。
「僕は、ガルシェも、そうだけど。ガカイドにも、幸せになって欲しい。その権利は誰にでも、平等にあると思っているだけだよ」
それだけだった。本当にそれだけ。僕のとても独善的な施しのようでいて、押しつけがましい善意。きっと、あのサモエドの顔をさせた。おばちゃんの方が。優しくて、ずっと善意に溢れていて。慈愛を持つ人っていうのは、きっとああいう人を言うんだなって思った。僕のこれは、比べてしまうと醜く感じてしまうぐらいには。
いらない、かまわない、別にいいよって。そう言いながら、欲がないように振る舞って。実際に、何もされなくなると。嫉妬して、欲しがって、欲張って。辛い悲しいと嘆いて、さも自分が不幸だと思いたがる。そんな自分自身に甘い存在だった。そりゃ、この異種族の街で。人間がたった一人であるのだから、それなりに環境自体は甘くはなく。どちらかというと厳しいのかもしれなかったが。常に、自分の命が脅かされかねないリスクを負いながら。生きて来て。でも、必ず。誰かしら助けてくれる存在が、僕には居て。それがとても幸福な事なんだって。わかっていたから。なら、そんな存在が。ガカイドにも、居ても良いんじゃないかって。思ったんだ。
僕を見つめる男の顔が、諦めという感情に染まる。こんなにも、数歩で掴める距離にあるのに。手を伸ばそうとも、手に入らない物だと。理解した、雄の狼の顔だった。これまで生きる為に手段として、同性相手に身体を売って、それでだんだんと感覚が麻痺して。性別がどうこう考える暇すらなくて。だから厳密には、彼もまた同性愛者とは言えない内の一人なのかもしれなかった。だというのに、どうしてそんな顔をするのかなって。戻れるなら、戻れた方がいいのに。きっと。男と女が愛し合う、自然体でいられるのなら。その方がきっといい。生物として子孫を残そうと、躍起になれるのなら。
「んじゃ、俺様。後何年かかるかわからねぇけどよ。資格を得て、めっちゃ可愛い年下の雌を。番にしてさ。うんとうんと、そいつデレデレに愛して。笑顔にして、いっぱい子供産んでもらって。あの時。僕が選んでいたら! ガルシェよりも、あの素敵な雄をって後悔するぐらい。お前の言う、幸せってやつになってやるよ!」
違和感を抱くぐらいに、さも明るく。笑顔で一息に言い切られてしまう。そう、僕がやれたのは。彼の烙印を消せたまで。それだけであって、彼の過去は消せず。一度できた偏見はまだまだ残っていて、臆病者のガカイドと謗る輩はたくさん居るのであろう。どうしても、参加したメンバーの内。銀狼が居て、市長の息子であり、見た目も目立つ毛色をしていて。そして今期の資格を得た雄となれば。いくらガカイドが指揮して、都市部に行って、食料を持ち帰ったと報道されていても。ある程度、民衆の注目がガルシェに移ってしまうのは避けられなかった。それはしかたない事で、別に悪い事ではなかったけれど。もう少し、皆が彼の評価を変える良いきっかけになったら良かったのになって。
ここから、どん底の人生だったこれまでに別れを告げて。新たなスタートをきる。目の前の男は、いずれ。どれだけ時間がかかろうとも。身に着けている、番の証たるネックレスの意味を。ちゃんと得て、そして、愛している雌に贈るのだろう。その宣言とも、僕に対する宣戦布告とも言えた。その時後悔したって、いまさら遅いんだって。ざまあみろと笑い飛ばしてやるって。ようはそう言う事だった。
「……なれっかな」
気丈に振る舞っていた男の表情が陰る。僕から視線を外し、見ているのは今日の為にだけ作られたステージだった。そのいつかの日、この赤茶狼が堂々と皆の前に立つ日が。来るのだろうか。そう考え、空想して。でも恐らく自信は、ないのであろうな。今までが今までで、自分を強く見せようとしながら。何もかも諦めて、生きて来たのだから。急に、道ができてしまって。戸惑いもあるのであろう。これからが、これから、頑張らないといけないのだから。幼い頃の、当然皆と一緒で得られると思っていた。普通の日常を。取り戻せるのかは。これからの彼しだいだった。
「なれるよ」
だから。そう問われたのなら。僕は迷うことなく、そう言えるのだった。根拠はない。ないけれど、僕は。僕だけは、そう信じているから。引き金を引けたのだから。もう過去を忘れる必要はなく、それでも。それを背負ったまま、歩き出してもいいだろうに。僕はガカイドを全肯定する。友達を応援するぐらい、誰に咎められるいわれはないであろうから。だから信じたいものを、信じるのだ。
「お前って、甘い奴だって思ってたけど。わりと厳しいよな」
気の抜けたように、乾いた笑いをさせて。独り言ちるように、赤茶狼が。誰にともなく言う。
「そうだ。一つだけ、聞かせてくれないか。ルルシャ」
改まって、向き合い。そうして、困った顔をしながらも。僕の真意を推し量ろうとしている眼差しを向けて。ゆらゆらと、狼の尾が。揺れていた。
「お前は皆の幸せ、幸せって、そう言うけどよ。じゃあ、逆に聞くけど。お前の幸せって、いったいなんだ?」
問われ。思わず思考が停止する。それぐらい、問われた意味を咀嚼するのに時間を要して。ガカイドが何を聞いているのかわからなくて。そして、言葉の意味がわからなくて。一分ぐらい固まっていて。僕の反応を見て。ガカイドが、馬鹿にしたように嘲る。やっぱりなって。そんなふうに。
ぼく、の、しあわせ。
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