レプリカント 退廃した世界で君と

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レプリカント After Story

06

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「先生、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 潮風と、波打ち際で砂浜の上に直立して。木の枝を携えたシャチに似た人。海洋型レプリカント種である、キァルくんは。僕が寄り合い所での仕事を片付けて。待ち合わせ場所に訪れると礼儀正しく。人間相手に頭を下げていた。立ったままでそうされても、彼の頭部が僕の目線より下がる事はないのだが。陸上ではちょっと猫背気味なのもあって。身長がちゃんと測れなくても。縦にも横にも巨体であり、足の太さなんて僕の胴体ぐらいあるのだから。彼と僕は大人と小さな子供だ。
 先生なんて柄ではないし。なんだかむず痒いので。その呼び方は止めさせるべきだなと考えつつ。どうして待ち合わせ場所がここなのか。そして、木の枝を持っているのか。そんな当然の疑問を口にすると。シャチであるのだから、その黒い指で持った木の枝を地面へと向けて。砂浜の表面を削ってみせた。そうやって、ミミズでも這ったかのように。何かの図形を描くと。それは文字だったから、読み辛いが。単語を一つ一つ、声に出してみる。すると隣に立つシャチの子に親が名付けた、名前であるとわかったのだった。
「キ、ア、ル。キァルくん!」
「はい。紙とペンなんてこの村にはない。ないので」
 顔の大きさに合わず、とても小さい目をこちらに向けて。シャチの顔が肯定にと縦に揺れながら。なるほど。つまりこの何もない、強いて言えば漂流物である流木とか。死んだ魚の骨とかなにがしかが流れ着いている。この砂浜は、天然のホワイトボードというわけだ。書いた後は、軽く手で撫でるように均せばまた使えるしとても理にかなっている。この漁村で、紙を贅沢に使おうとすると。商人から買わないといけないし、お金もかかるのだが。これだと自然を使うので無料である。時間が経ったり、波風に晒されると消えてしまうが。特に書き記して後世に伝える必要もないのだから。今回必要なのは、シャチくんの頭に。僕が覚えているのを伝え、学習させる事である。
 とりあえず。会話を続けながら。どの程度相手ができるかを探る。別にこれは、シャチくん。キァルくんを馬鹿にしているわけではなく、どこから教えてあげたらいいのか見極める為だ。計算できないと言っても、どの程度かわからないのでは。教えようがなかった。
 僕も教わったりしたわけではなく。記憶を脳に焼き付かせる過程で、一緒に最低限の義務教育で得られる学がたまたまあったわけであるから。自分の努力で身に着けた知識ではないので、それでマウントを取りたいわけでもないし。こうしてお願いされなければ、教えすらしなかっただろうから。
「俺、あっ。私は、最初から全部。教えて欲しい。欲しいです」
「慣れないなら、敬語。使わなくていいよ?」
 そう言いながら。先んじて自分の畏まった言葉遣いをやめる。僕は基本、誰であろうと。村の人に対しては敬語で話すようにしていたのだが。どうやらキァルくん、普段から荒くれ者どもである。漁師さん達に囲まれて育ったからか。敬語で話すのは不得意であるようで。別に年下だから、使えとか。そんなふうに思いはしないし、強要する気もなかったから。一番は円滑なコミュニケーションが取れたら、それでいいので。そうやって、先ず自分から敬語を使うのをやめたのだった。
 すると、どんって。彼の背後で音がして、どうやら大きく太い尻尾が砂埃と一緒に揺れている事から。砂浜もつい、叩いてしまったらしかった。怒らしてしまっただろうか。一応年下みたいな感覚で喋っているけれど。相手からすると、僕の方が小さいし。そう見えてしまうから、馴れ馴れしく思ってしまうかもしれない。対応を間違えたかなって、危うんでいると。キュルキュルと、喉を鳴らしながら。シャチの先にゆくにつれ細くなる。なだらかな円錐状の頭部が。ずいずい近づくし、口の端が笑みを作ってるのを辛うじて窺えて。そうではないのだと気づけた。
 最初。最初か。考えてみると。教えるとしてもどう教えたものか。そんな具体性に欠ける、教師としての心構えもない僕は。キァルくんに、数をかぞえてみて欲しいとお願いした。そうして、持っていた木の枝を一度床に置くと。一度すべての指を開き、自身に手のひらが見える状態にしながら。その水掻きがついた、指を一つずつ。指折り数えて。
「いち、にい、さん」
 シャチの口から放たれる数字のかずだけ。指が折りたたまれていく。それが続けられ、十と切りの良い数字になると。そこで暫し停止し、もう一度開き。十一、十二。と続いた後で。うんうん、唸りだして。尻尾がこんどこそ不機嫌そうに横薙ぎにぶんぶん振られ。もし背後に居て、あれに当たったらとても痛そうだなと。そんなどうでも良い感想を抱いていると。
「いっぱい!」
 元気よく、十三以降は言わず。全ての指を開いて。大きな物を空中にジェスチャーで示すようにして言うのだった。ああ、うん。そこからかって。そんな気持ちにもなった。
 漁師として、ダース単位として。十二までは小分けしたりする時に自然と覚えたようだが。それ以降の数、そしてそれが複数になると。まあ、いっぱいあるなって。倉庫とか見て思う程度であったから。というより、全員が共通認識でそれだったと聞いて。彼らの大雑把度合いに、驚く。よくこれまで生計が成り立っていたなと思う反面。自分が暮らすこの村が食うのに困らなければそれでよく。ちょっと欲しい物があれば、時折訪れる旅商人に言い値で払っていたらそれで上手く回っていたので。手付かずな領域であると言えた。本当に、もっと悪徳な商人だったならと思うと。ぞっとしないな。あの僕が言い負かした人、そんな事するわりに小心者であったのか。どこまでも法外な値段を提示するまでには至らなかったようであるが。それでも、ぼったくりはぼったくりである。僕だったら絶対買わない。値引きは、ある程度多めに買う時にちらりと言ってみたりはするが。運んで来てくれたその人の労力もあるから、正当な対価として支払いたい気持ちもちゃんとあるのだから。
 彼が握ると、ただの小枝だが。僕が持つと、木刀みたいになってしまうので。自分用に持ちやすい枝を適当に拾ってくると。シャチくんと僕の、短いながらの家庭教師モドキが始まった。もともと地頭は良いのだろう。ルーツにある、実際のシャチも賢いと言うし。キァルくんはとても呑み込みが早く。物覚えが良かった。後、一から十までの最低限の数字を覚えてるのもあって。足し算を教えて。二桁までのなら、砂浜に数式を書いてこなすのに。時間はかからなかった。これには、教える僕側が驚かされて。ただただ凄い凄いと感心してしまう。だから、隣でできたらすぐ褒めていると。照れた彼の尾ヒレがまたびったんばったん。砂を叩くのを繰り返してしまうのだが。ガルシェが、嬉しい時尻尾を振るのと同じだと思うと。可愛らしい仕草に思えた。あまり勢いがつき過ぎると、砂がこちらまで舞ってくるのだが。
「ルルシャ。教えるのが上手いな。それに優しい」
「キァルくんが、賢いだけだよ」
「先輩達、教える時。だいたい拳が飛んでくるから」
 あーって、口を開けながら目を逸らす。そういえば、お父さんによく拳骨を貰っていたなと。逸らした後で、彼の頭部をちらっと見て。お父さんだけではなく、それは漁師の先輩達皆からなんだと察した。ちょっと体育会系が過ぎるように感じるが。そういう生まれで育ったのだから。僕がわざわざ教育方針をいまさら捻じ曲げる必要もないし、暴力はよくないと。彼に言うのも、お父さん達のおこないを否定するようであって。息子であるキァルくんも良く思わないだろう。だから、浮かんだ言葉を言わずに吞み込んだ。必ずしも拳だけではなく、蹴られたりして。それが船体の上でなら、そのまま海に落とされたりするらしいが。日常を振り返っているのか。僕が正解だよって言った答えが埋められた数式の横に、ぐるぐると。木の棒で意味のない絵を描くキァルくん。
 たとえそれが日常で、普通だとしても。殴られて、気持ちよくは思わないよね。余計な言葉を言わないようにしながら、そっとシャチの頭に触れる。書く為に身を屈めているのもあって、体格差がある僕でも手が届いたから。その頬なのかな。アイパッチよりも背中側を。不思議な感触がする異種族の肌。人の手が触れ、撫でて。こちらを見るシャチの目が、細められる。拒絶されたりはしなかったけれど。ただ、その手触りがあまりよろしくないと感じた。
「キァルくん! 大変っ。肌、乾いてるよ!」
 僕の指摘に、ぼんやりと思考していたのか。腕を持ち上げて、あっ本当だって。自分の肌の状態を見たキァルくんが呑気に反応する。丁度この前、僕を庇ってくれた傷痕が残る。腕だったから。同じ場所に視線が釣られてしまう。肌が乾くと、皮膚が裂けて大怪我に繋がるというのにあまりに危機感がないのと。カピカピに乾いてるわけでもないから。一応僕が慌てる程でもなかったのかな。長時間陸にいると、やはり弊害があるようであったが。身体には悪いのであろうし。
「痛む?」
「漁で生傷は慣れてるし、今は塞がってるから。痛くはない」
 頬を撫でていた手をそのまま、彼の腕に這わして。傷に触れたら痛んだらいけないと、その周囲を撫でると。困惑したのか、キァルくんの頭が揺れるように動いた。僕が余計な事をして、場を搔き乱して。それで、僕ではなく、別の誰かが傷つく結果になったのだから。あの商人を言い負かして、それで村の人からは賞賛されようと。これだけは、褒められて欲しくもないし。キァルくん自身、気にしてないようであったが。僕のせいで付いたものだったから。
「ありがとう。庇ってくれて」
 あの時お礼を言いそびれたせいもあって。自然と彼の顔を見上げて言っていた。それと、ごめんねって気持ちもあって。僕のせいで怪我したのだがら。言わなければ駄目だと感じた。触れていたシャチの腕が、僕の手から逃げるようにして。離れていく。キァルくんが二歩程後退したからだった。傷痕を隠すようにして、枝を放り捨てながら。もう一つの彼の大きな手がそこに被さった。もしかして、僕が近くとはいえ不用意に触れて。痛んだのかと勘ぐったが。別にそうではないのか。ただ、無言で。こちらを見つめていて。
 こうして黙られてしまうと。シャチの顔って何を考えてるかよくわからなくなる。その点、ガルシェ達って表情豊かだ。最初に彼らと出会った頃は、人間よりは表情が少ないと感じていたのに。その分、耳や尻尾。鼻筋とか感情が顕著に出るけれど。表情でコミュニケーションをあまり取らない種族の特徴だからだろうか。
「う、海。入ってくるから。ルルシャはここで大人しくしててくれ。あんたに何かあると。俺が親父にどやされる!」
 終いには。一方的にそう捲し立てると。いまさら慌てるようにして、砂を一歩進むごとに足で巻き上げながら。バシャバシャと、波打ち際に入り。腰まで浸かると。手を身体の側面に添わせ、水の抵抗を軽減する独自の姿勢になりながら。キァルくんは頭から豪快に飛び込むようにして海の中に身を沈めた。すいすいと尾ビレを使い泳いで遠ざかっていく彼の姿。僕の視界では、海面から突き出た黒い背ビレしか見えないし。それもやがて、潜水していったのか。海面から消えてしまう。肺活量が違うから、一度の呼吸でかなり長い時間潜っていられるから。キァルくんが海から出てくるまで時間がかかるかなって。一人砂浜で座り、地平線を見ていた。肌の渇きを潤すのに、短時間では浸透しないであろうし。数分は待つ事になるかな、なんて。
 僕がそうしていると、少し離れた場所から陸に上がって来る人が居て。レプリカントの人が。こちらに気づいて。まさか居ると思わなかったのかぎょっとしたような様子で。でも次の瞬間には、向こうから会釈してくれた。失礼に当たらないように座りながら僕も、ぺこりと頭だけ軽く下げる。イルカの漁師さんはかなり人懐っこい性格をしているけれど。他のレプリカントの人にとって。特に男の人達の反応はこんなものである。普段からあまりかかわりがない、人間である僕に。それ以上を期待するのも酷であるし。距離を取っていたのはお互いであるので、それに対して取り立てて何か思うわけでもなく。びっくりさせたなって、ただそれだけであった。手に持った網の中に魚が入っているのが見て取れたから。素潜りでの漁を終え、陸にある家に帰るのか、こちらを気にしながらも話しかけてはこず。視線だけ感じたが、それもやがてなくなる。
 この距離感が丁度いい。踏み込み過ぎず。余所者であるのだから。頬杖をついて、そうして。だらだらと穏やかな波をさせる海を眺めていると。突如として、海面が盛り上がり。それはぐんぐん高くなると、限界を迎えたのか弾け。見慣れた白と黒のツートンカラーが飛び出して来る。軽く横回転しながら、身を翻すと。出て来た時と反対に、流線形の頭からあまり水飛沫を立てる事なく再び潜っていく。キァルくんが水中で勢いをつけて、ジャンプしたのだ。呆気に取られて。瞬きを数回。
 ざば、ざばっ。水を掻き分けながら、巨体がだんだんこちらに向かってくる。海水を浴びたシャチの肉体が、キラキラと輝いて。ただ素直に、綺麗だって。そう思えた。僕達が書いた数式すら踏みしめて。座ってる僕の目の前。見下ろしてくる顎先から、水が滴り。僕のつま先近くにぽたぽた垂れていた。みるみる、乾いていた白い砂浜が茶色にと色合いを変えていく。
「どうだった?」
 脈絡もなく、ただ感想を求められていた。えっと。そう言葉に詰まりながら。てらてら光っている体表と。筋肉が締まった肉体を見て。先程感じたものを。そのまま。
「あ、うん。綺麗だった、よ?」
 水から上がる姿が、どこか幻想的で。同じ言葉を喋るのにぜんぜん違う彼らを。怖がってもいいサイズ差に、恐れよりも。凄いなとか、格好いいなとか。そんな好意的なものばかりを浮かべる自分を俯瞰しつつ。そういう意味で、かなり図太くなっただろうか。最初は、ユートピアの街の人達。爪や牙を恐れていたのに。
 僕がどこを見て言ったか。詳細を語れば、意味は違うのであろう。でもキァルくんは僕の返答を聞いて満足そうにしていた。ちょっと得意げに。言葉尻が疑問符だったのは気づいていないらしい。
「疲れるから、あまりやらないんだけど。あんただけ、特別」
 ぶしゅう。シャチの頭頂部から蒸気のようにして息が噴き出る。よくよく見ると、ちょっと息が上がっているのか。頭頂部にある窪みがしきりに開閉を繰り返している。呼吸する為の呼吸孔だ。上についているのだから、泳いでいる時もそこだけ海面から出したら。息継ぎができる。人間でいう鼻に当たる部位。
 体重も重そうだし。本来のシャチより手足がある分、水の抵抗も生じるのであろう。あれだけ高くジャンプしようとすると、尾ヒレでかなり勢いをつけないといけないと思うから。確かに、全力疾走みたいなものであろうか。胴体と同じぐらい太いそこ。そのせいで綺麗な直立ではなく、陸上では少し前屈みなのだが。
 特別。そう言われ悪い気はしない。今は先生と教え子という形を取っているが。友達になれるかな、なんて。かかわり過ぎたら駄目という気もしていたが、もうかかわってしまっているし。手遅れだ。例外があっても良いかもしれないと思い直すと。こういうふうに接してくれているのだから、無下にはしたくない。せっかく見せてくれたのだから。
「うん。カッコよかったよ」
 こんどはちゃんと、彼のジャンプに対して。褒めていた。実際に水面からこの巨体が飛び出てくるのは圧巻で。僕一人の観客では勿体ないぐらい、高く飛んでみせたのだから。
「キァルが色気づいてるー」
 突如聞こえて来た声に。嬉しそうにしていたシャチがハっと身を起こし。辺りを見回していた。僕も遅れて、声のした方を振り返れば。クジラ型のレプリカントの人が数人。同年代なのだろうか。ちょっと大人達よりは少しだけ小さいその子らが。こちらを指差して。僕の隣に居るシャチくんを、なのであろう。キャアキャアと楽しそうにして揶揄う様子を見せていた。友達かなって、呑気に構えていると。怪物が吠えるように。
「う、うるせー! 勉強中なんだ、邪魔すんな!」
 大声で叫ばれて。思わず耳を塞ぐ。遠くに居る彼らに向けてなのだろうが、キァルくんの隣に居た僕はたまったものではなかった。叫ばれた子らは、おー怖い怖いと。笑いながら走っていったが。鼓膜、痛い。
「わ、悪い。ルルシャ、大丈夫か」
 僕を触ろうとして、自分が濡れているのに気づいたのか。触れる寸前で大きな手が二つ、空中で止まる。ちょっとキーンって耳鳴りがしたけれど、鼓膜は破れてはいない。仕事で叫んだりするし、肺活量からして違うのだから。本気で叫ぶと、拡声器とかいらないなって。彼の声がまだちゃんと聞こえるから。大丈夫だと手で示しながら。伏せていた顔を上げると。心配そうにしている、歳相応なのであろう幼さが残るシャチくんの顔。
「そういえば、キァルくんって。何歳なの?」
 聞くのを忘れていたわけではない。ただ聞く機会を見失っていたのだ。見た目や声で、異種族の人はあまり年齢がわからないから。いまさら聞くのも失礼な気がしたが。オロオロする姿に、ついそう聞いていた。足先から頭までの。身長では二メートル半ぐらいだが。頭の先から尾ヒレを図ると五メートルは超えていそうなその巨体。反応が幼いというのもあるが。年下扱いしていたが。実際彼は大人なのか。まだ成人していないのか。仕草から気になった。
「えっ、俺か? ……九歳、かな」
 指を折り曲げながら。暫く考え込むと。そう答えてくれたシャチくん。ガルシェより年上だった事に内心驚いていた。陸の生き物より寿命が長いのだから。その分成長速度も遅く。感覚的には、人間にそこら辺は近いのかもしれなかったが。なら、高校生か。下手したら中学生ぐらいの時期であろうか。答えがないので、微妙なところだった。成熟が早い種である銀狼は。もう七歳で。僕が出会った時点で六歳。試験の事故がなければ。順当に資格を得ていた場合。番がいてもおかしくない年齢と言っていたし。二十代から三十代の間であろうか。ざっくりとしか、わからないが。
 そういう僕は。目覚めた頃から換算すると。たぶん一歳だ。驚きの最年少である。柴犬のシュリくんより年下である。もしも年齢を聴き返されても正直に言えないのだが。その点、見た目でそうだとわからないのは彼らにとっても同じなのがありがたかった。ちょっと誤魔化しても、そうかってあんま追及されないのもある。
「一応。つ、番を持ってももう大丈夫だぞ!」
 聞いておいて。九歳と聞いた人間があまりに反応が薄かったからか。両手を握りしめて、顔を近づけてくる。露骨に子供扱いされていると感じたのだろうか。ただ彼らの生態とか、寿命の感覚について最近考察といわないまでも。考えてしまうから。今もそうだっただけなのだが。キァルくん。成人は、してるらしい。動作がお世辞にも落ち着きがないし、幼いので。僕の感覚で言うと、シュリくん達に近いのだが。比例対象というか。深くかかわった人が限られているから。咄嗟に思い浮かべたのがその子だけだったというのもあるが。銀狼は、僕の前では甘えん坊の大型犬みたいに振る舞うが。人が見ているとカッコつけたがるので、大人びて見える。後、目つきとか鋭いせいで。黙っていると老けて見えると言ったら、きっと怒られるのだが。笑うと、そんな部分がふわりと緩んでしまうから。僕はそこに弱いのだが。
 そんな銀狼も。殺る気スイッチが入ると、冷静に。兵士としての一面を見せる。お父さんの英才教育の賜物だが。切り替わりの落差は、きっとあの男が一番酷い。誰彼構わず、その殺意を向けたりはしないが。明確に、敵と、味方をしっかり区別している。軍人の価値観だった。あの街で一緒に暮らしているだけでは、彼にとっての明確な敵なんていなかったから。知る事も、知る必要もなかった部分だった。嫌がらせとか、政治的な敵は居たのかもしれないが。
 けど、もしも。銀狼の気持ちが。固まって、しっかりと僕に向いた後で。所長さんの時のような事が起きていたとしたら。血を見るような事件が起きていたりしたのだろうか。あの時はまだ、彼の中で僕は同居人で。寂しさを埋める都合の良い存在であったし。
 成人してますアピールをしても。まだ反応が薄い僕に。わかってるのかって、頬にぶつかってくる彼の頭。わかってるよって、窘めても。上辺だけと見抜かれてるからか。溜息のように、頭頂部にある呼吸孔からむふっーて息を吐き出していた。そういうところが、子供っぽいのだけどな。海から出て、じゃれ合いをしていると。残りの勉強時間が浪費され。僕が帰る時間が迫って来ていた。これ以上は、ガルシェに怒られると。今日はここまでって、そうぽんぽんと彼の額を叩く。するとシャチの顔は、途端に残念そうにしながら。足元を見て。今頃自分が書いていた数式を踏んでしまっている事に気づいたらしい。予習したかったのか。落胆の声を上げていた。この分だと、掛け算と割り算も。近い内にマスターしそうだなって。この関係があまり長続きしない予感を感じていた。後はユートピアの物価とか、そこら辺を教えたらお役御免である。臨時の家庭教師みたいなものであるし、安くはないお給料も発生しているので。その金額も、一時的だからこそだろう。ずっと雇うなら、きっと負担になると思う。それぐらいの額を提示されていた。臨時収入としては、満足いくものだ。だから手を抜くつもりもない。ちゃんと教えてあげたい。存外、僕はこの子が気に入っている。本当に素直な子だなって。庇ってくれたのもあるし、算数を覚えたいというのも村の為であるのだから。性根はとても優しいのだと思う。それと、レプリカントの人は彼含めあまり裏表が激しい人がいないというのもあったから。一部の例外を除いて。一度心の壁を越えたら、親しみやすい人が多い。
 また次回があるよって、笑いかけながら。ただ、心の奥底で。それでもまだ少し、本当に少しだけ警戒を解いてはいなかった。一番初めの、彼の家で見せた。ちょっと纏わりつくような視線がそうさせていた。今のところ、同じ視線を向けてくる事はなく。僕に向けるそれは尊敬と親しみを込めたものでしかないから。僕の気のせいだったのかなって思いはしても。
 帰り道も歩いて途中まで送ろうとする申し出を、また肌が乾いちゃ大変だからと断りながら。砂浜を後にする。石段を登り防波堤に止めといた自転車に跨ると。まだこちらを波打ち際で見ている黒い物体。キァルくん。随分離れても、その特徴的なアイパッチはわかるのに。巨体に対して、目が小さいから。数十メートル離れてしまうと、今の彼の視線がどういったものかわからなくなる。僕が見つめている事に気づいている彼は、ただバイバイって手を振ってくれるから。またねって、至って普通に振り返して。視界から消えるまで、いつまでもこっちを見ているから。まだ門限まで時間はあるのに、急いでペダルを回した。夫が風邪で、早く様子を見たいからだ。こうして外に一人で長く出ているのは、お願いがなければ僕も本意ではない。
 ぞくり。また背筋を得体の知れない何かが這う。ねっとりと。それで振り返っても、ただシャチの子が見ているだけで。何もない。何も。何もされてもないのに。過剰になり過ぎだ。まだ、何もされていないだけとも言えたが。
 遠くで。ミーって。まるで猫が鳴くみたいな声がした。たまにここら辺を飛んでいるウミネコかとも思ったが、ちょっと違っていて。その鳴き声の正体は。シャチの子が、僕に向けて鳴いていたからだ。シャチ語なんてわからないし。それが水中でも聞こえる。彼らの会話文だとしても。人間の僕にはただの意味を持たない鳴き声にしか聞こえない。姿が見えなくなっても、ミーって。声だけ聞こえる。遠方に呼び掛ける部類の鳴き声なのか。どんどん離れても、まだ聞こえるそれに。意味がわからないのもあって、ぞわぞわとした。恐怖と定義するには、そこまでではない。けれど不快感はあったのだった。人は自分が理解できないものに、本能的に恐怖を覚えるものだから。これもそうかなって。あまり怖がるのも悪いし。でもそうだな。とても、その鳴き声は耳に残った。聞こえなくなっても。
 家へと帰り。ばたばたと慌ただしくさせながら。ただいまと声を発すれば。今日はおかえりって返事が。廊下の奥からガルシェが姿を現して。帰宅した僕を出迎えてくれた。嬉しい反面、病人であるのだから寝てなきゃだめだよと言いながら。その狼の顔色を窺う。見つめ返して来る男の容態はそうでもないのか。ただコホコホと、軽く咳をしていた。鼻水を啜らないから、だんだん治ってきてるのかな。身を寄せて来た銀狼が、腰に手を回しながら。マズルを僕の首筋に突っ込もうとしてくる。番のにおいレスだったせいか。ちょっと抵抗しようとも、強引に鼻を押し当ててくる。深呼吸していた男の眉間に、皴が寄る。
「磯臭い」
 不純物を嗅ぎ取って、不機嫌そうに舌打ちしていた。それでも放す気はないのか。腰に回された手はそのままだし。密着する身体は、彼の体温を伝えてきていて。
「ガルシェ、ご飯は?」
「まだだ」
 短くやりとりしながら。大きな狼という引っ付き虫をくっつけたまま。廊下から台所にやって来る。僕が何があったっけと。冷気のない冷蔵庫の中身を見たりしていると、漸く身体を離してくれて。銀狼がフライパンや、まな板を出しながら。暗くなってきた外を見て、蝋燭を灯す。料理している途中で暗くて手を切ったりしたら大変だ。
「手伝う」
 もういい加減、ベッドの中でじっとしているのに飽きたのか。僕の隣でお手伝いに何をすればいいか指示待ち待機する夫。あまり動いて欲しくはないけれど、こういう時。調子もよさそうだし、ある程度は任せた方が僕の手間がかからなくて楽というのもあった。下手に寝てろと言うと、寂しそうにいつまでも動かないし。それをわざと放置するとやがて怒り出す。
 とりあえず、野菜スープでも作ろうかと。一度脱衣所に行き、発電機の電源を入れてきてくれるよういお願いすると。嬉しそうに、軽やかな足取りで向かうガルシェ。かなり、鬱憤が溜まっていたようだ。風邪が完全に治ったら。リハビリ、は大袈裟だが。二人で外を散歩に行くのもいいかもしれない。ついでに商人を見つけたら欲しい物があるし。
 この季節。冬ではどうしても獲れる物が限られてくるので。冬支度をしなければならない。食糧や、薪の確保。やる事はいっぱいだ。常に食べ物は消費され続けるのだから。あればあるほど良い、腐らない程度に。干した魚とかはあの漁村でも積極的にこの時期作られていて。家では、夫が獲って来る肉を干し肉にしたり。ベーコンに加工したり。漁村では塩が簡単に手に入るから、その点とても便利だ。作ったベーコンと海産物で作られた乾物とかと物々交換だってできる。農場の方ではチーズとか、チョルソーを分けて貰って。ガルシェは、農作業も時折手伝いに行っており。力仕事は、老夫婦にとってとても助かるらしい。飼育している家畜は、とても懐いていて。よく言う事を聞いてはくれるが。掃除に飼い葉と、それなりに重労働である。
 そういう意味で言うと。この時期に銀狼がダウンするというのは。かなり家計にとって、冬支度も込みで大打撃であった。一週間程の遅れといっても、その一週間で彼がやれる事はとても多い。僕なんかよりも全然、皆の役に立っている。狩猟の知識。若い肉体から繰り出されるパワー。陸上での可能な活動範囲。農場にとっても、漁村にとっても、銀狼は正直喉から手が出る程に欲しい人材であろう。ただ。僕がこの家に住むのに固執したから。どちらにも、必要以上に。ただ通う程度でおさまっていたが。農場の老夫婦にも、空き部屋があるから。住まないかと言われた事もあった。ただ、僕と銀狼が流れの定住先を求める旅人ではなく。新婚夫婦と知ると、ちょっと余計なお世話だったかしらって。農場の夫人が口に手を当てていたけれど。それで、誰も住んでいない手付かずの此処を教えて貰ったのだが。
 流れのレプリカントが定住していてもおかしくはなかったが。立地が、やはり辺鄙な場所であり。漁村とも、農場とも。コンタクトを取るには、距離がある。でもだからこそ。僕にとっては丁度良いと思えたのだが。ガルシェと二人っきりで住むなら。ここが、俺達の愛の巣だって。夫も張り切って家を直してくれたし。実際に住んでみて。住み心地も悪くない。
 僕が調理する傍ら、ガルシェは何かしたそうにしているので。お皿とか食器を並べて貰ったり。それ取ってと、軽い指示だけしていた。調理させるなんてもっての外であるし。本当のところ、お気に入りのソファーで待っていて欲しいのだが。鼻を鳴らして、再びにおいを感じ取れるのに感動すら覚えているらしい。しきりに嗅ぐ仕草をしていた。
 彼らにとって。目を潰されるのと同義だったのであろうから。久しぶりに目隠しを取られて、食べ物の匂いも。僕のも。嗅げて、尻尾が大乱舞している。においがないと、食べ物の味ってあんまり感じないし。とても今まで味気なかった事であろう。それに、僕がちょっと普段より薄味に仕上げていたし。胃に悪いと思って。
 この前貰った魚は。煮込んで、身を解して。野菜と一緒に食べさせた。お椀を持って、鼻を啜りながらにおいを嗅いで。わからず。でも見た目から、何が入ってるかはわかるので。ぼそりと、小さい声でお肉って。ベッドの中で言っていた。別にないわけではないのだが。一度の食事に、そこまで贅沢にいろいろ具沢山に入れるのも。後々家計に響くし、保存している干し肉は硬く。煮て柔らかくするのに時間がかかるから。空腹な銀狼をあまり待たせるのもなって。そう判断して入れなかったのだが。露骨に残念そうにされると。ちょっと後悔する。
 だが今日は入れても良いかなって。乾燥して、身が硬く締まった干し肉を取り出すと。苦労しながら一口サイズに切り分け。ぐつぐつ煮えている鍋の中に落としていく。その後で野菜を入れたら。ふやけ具合的に丁度良いであろうか。野菜の甘味と肉汁が滲みだしたスープはそれだけで美味しい。後は塩と、ちょっとだけ胡椒で味を整えたら完成。付け合わせにバゲットを添えたら。品は少ないが腹は膨れる。バゲットは少々表面が硬いが。小麦粉、塩、水、イースト。それだけで簡単に作れて。常温で数日は持つ。材料が揃えば僕でも作れてしまう。最初、失敗はしたけど。外に煉瓦で簡易的な釜をガルシェに作ってもらったら。後は薪の火を調節して、オーブンの代わりだ。実際の所、オーブンレンジがキッチンには搭載されているのだが。残念ながら壊れているのでただの飾りだ。銀狼は、そこも直せそうなものだが。なにぶん、電化製品は直すのに部品が基本不足している。発電機だから電気も潤沢に使えないとなれば。結局は後回しであった。
 できた食事を囲みながら。対面に座った夫の様子を見る。硬い、ぼそぼそとしたパンを。スープに浸して柔らかくし。はぐはぐと、舌を火傷しそうになりながら狼が食べている。ちゃんと味がするから、久しぶりに食べた気がするのだろうか。一口食べたら、舌なめずりして。味を噛み締めていた。でも空腹がせっつくから。また慌てて食べようとして、スープの温度が熱そうに。息を吐き出していたが。
 スープ自体は、ふーふー。そうやって息を吹きかけて、冷ましながらちょっとずつ飲んでいた。ガルシェの食べる姿はいつだって美味しそうで、全部綺麗に平らげてくれるから。見ているこっちまで、気持ちが良い。僕は彼よりは食べるペースが遅いので。パンを半分も食べる頃には。自然とスープの粗熱も取れていたが。
「その、キァルって子に。変な事はされていないか?」
 器の中をお互いに空にして、食休みしながら。食器を片付けないとなって。そんな考えをしていると。心配そうに、銀狼が聞いて来た。まだ勉強を始めて一日目なのに。その一日目が、恐ろしいのかもしれなかったが。
「良い子だよ。キァルくん。物覚えもいいし」
「その子。雄なんだよな。あまり気を許すなよ、ルルシャ。漁村で何かあっても。俺はだいたい別の場所に居るから、助けられない。本当なら。ずっと家に居て欲しいんだ」
 考え過ぎだよって。反論しようとして。あの妙な視線を思い出し。うん。そうだねって。素直に頷いていた。実際。寄り合い所で網を直す手伝いをするお仕事、その許可をガルシェから貰う時もひと悶着あったのだ。僕が誰かと、特に他の雄と居ると気が気でないらしいし。一応気をつけるようにしていた。だから、これまで漁村では女性の人としかかかわっていないのだから。今回は本当に特例。ガルシェにも、決める前に相談したから許可を貰えたに過ぎず。一番彼の心労を減らすなら。専業主婦みたいに、家に居るべきなのだろう。それで家に居たからと、やる事なんてあまりないが。家の掃除をしたら、ただ外を眺めながら夫の帰りを待つだけの日々になるのだろうか。
 その妥協案として。暗くならない内に。三時や、四時。遅くても五時までには家に帰るように門限があって。ガルシェは六時までには、森等での狩猟や廃墟での探索を終えると帰宅するようにしているから。もしも、彼が帰って僕が家に居なければ。武装したまま漁村に乗り込む気みたいだし。過保護だなって、笑ってられたら良いのだろうけれど。彼はする。本当に。どうしようもない自身の独占欲と折り合いをつけながらも、たまに発露してしまうようであるし。だから。時折彼が甘えてきたら、そのまま撫でて、身体を好きに嗅がせて。その独占欲をちょっとでも満たしてあげているのだが。でもある程度は自制させないと、僕が本当に身動きできなく。何もできずに。軟禁状態になるので。お互いの気持ちを擦り合わせしながら。丁度いい距離感を探っていた。
 わかっている。彼の独占欲の根源。それが、僕がユートピアから何も言わず消えて。それでそのまま、死のうとしていたのだから。あのまま彼が運よく見つけられなかったら。遅かったなら。物言わぬ、骸に成り果てて。そんな魂が消え去った肉を、ガルシェは抱え。立ち竦んでいたのだろうから。そんなだったかもしれない恐怖が、じわじわと。彼の胸の内で後から生じて。トラウマになっているのも。でなければ、あの寝坊助だった狼が。朝。先に起きた僕がベッドから抜け出そうとしただけで、血相を変えて。飛び起きて腕を掴んで来たりはしまい。風邪で弱った今では、一緒に寝て。起きれないのか。悪いと思いつつも、目覚めた時に隣に僕が居なくてパニックになってしまってはいけないと。ベッドから出る前に身体を揺さぶって起こしてはいた。
 あってはならない事だが。もし僕の身に何か。身体が欠損するような事故とか、起きようものなら。銀狼の感情が爆発して。監禁生活が始まりそうだななんて、そんなふうに考えていた。ガルシェは別に。僕を誰の目にも触れないように、周囲の関係を断ち切って。孤独にさせたいわけではない。でも、番を大事に大事に。心配する気持ちがそうさせているのだ。理性と本能は違う。囲いたいと思うのが本能なら。好きにさせて支えてやりたいというのが、彼の理性。どちらも限りない本心だった。この男を観察していると。こんな状態で番を喪った場合。お父さんのように。確かに心は壊れてしまうのかもしれない。何が何でも添い遂げようとする狼の習性。美談に語られそうだが。人間として、その対象にされて。冷静に物事を見れば。良い事ばかりではあるまい。そう感じる。愛されて嬉しくないわけがないが。程度の問題はある。
 今回。ガルシェに相談して。シャチの男の子と接触するのを許されるのは本当に意外だったのだ。寄り合い所とは違う。狼としても、人としても愛してくれている。彼の進歩であった。折れてくれたとも言える。支えたいって、そう言っていたのだし。算数とある程度の街の常識を教え終わったら。網を直すお手伝いもお休みして。この家にちょっとだけ引きこもろうかな。とも考えていた。ガルシェとゆっくり、家の中でだらだらするのも良いかもしれない。そんな時間を作るのすら忘れていたのかも。
 僕ばかり。人間の都合を押し付けてはいけなかった。だから狼としての、彼の側面も満たして上げたかった。彼は中身は人だが、やはり本能的な部分がある。狼だから。そこも尊重してあげたい。僕は彼の番として。だから、セックスも。前向きに考えてるのに。この前の、アレ、だしなと頭を抱えたくなる。あの場面で怖くない、セックスしようと言えたら良かったのに。彼の言う通り。怖かったのも事実だ。獣のように、わざとそうしていたとわかっていても。正直気持ち悪い、内臓みたいな生殖器を押し付けられて。これがお前の中に入るんだぞって。面と向かって言われて。怖気づいたのは、人間だ。あそこまでして、狼である彼は。かなり理性を削られただろうに。我慢して。
 それで風邪をひいてしまったのだが。無理をするなって言うけれど。心だけでなく。身体も繋がりたい。そうしてみたい。そう思ったのに。まだ僕の覚悟が足りないと。気遣って夫はそう言うのだった。他の男性。ガカイドや、アドトパなら。申し出た段階であれよこれよと。言質は取ったぞとばかりにベッドに運ばれそうな気もした。あの二人。下心隠さないし。
「ルルシャ」
 声を掛けられて。ガルシェを見ると。あんなに嗅げて嬉しそうにしていた狼の顔が。今は嫌がっていて。なんなら鼻を手で覆っていた。その仕草にどこか見覚えがあったから。何を今まで考えていたか、そう思い。
「ご、ごめん」
「悪気がないのはわかっているが。最近のもそうだが、あまり俺の理性を試すような事はしないでくれ。正直、辛い……」
 申し訳なく思い。俯くが。別にガルシェは怒っているわけではなかった。僕が嘘を吐いたりすると、汗とかそういったにおいで。そして、いやらしい事を考えると。発情臭で、だいたいは銀狼に筒抜けになってしまうので。彼の傍では特に、あまりエッチな事は考えないようにしていたのに。ついやってしまって。それで、ガルシェは窘めるようにそう言っているのだ。そこに怒りの感情はなく。ただ素直に、言葉として。僕に伝えていた。辛いなら。なんで我慢するの。自分の内面的な気持ちを、かってに知られるのは正直良い気持ちはしない。彼の事を考えて、どうしたらいいかなって思っているのに。別に銀狼は、それを考えるなって言っているわけではなかったが。タイミング的に、そう言われているようで。そうじゃないとわかっていても、重なって。憤った。
「ガルシェ。僕の為に我慢してくれているのはわかる。だけど。どうして、あの時は発情期だけだったけど。番になった今。僕が手でするって言っても、断るの?」
 彼のを手淫。夫婦なのだから、そうやって性処理。僕に対してムラムラする気持ちがあるなら。番に対して繁殖欲求を抱いてしまうなら。その願いは叶えてやれないまでも。なら、ちょっとでも性的に触れ合って。お尻を使わせる勇気はなくても。手でなら以前したのだから。精神的に満足感を一人でするのより、得られるのではないかと。それで申し出ても。彼は断るのだ。目を逸らしながら自分でするって。ずっと疑問だったのは本当。でも、問いかけがちょっと語気を強めてしまって。僕が急に怒ったふうに映ったのか。それで夫は、質問した内容もあったのだろうか。露骨に狼狽えた。彼の方から。机の下。ガタリと、座っている椅子が音を立てる。
「る、ルルシャ!? いや、その……そのな」
 あまり、ガルシェに対して。眉間に皴を寄せて。怒ってますよアピールはしないから。それをした今。珍しい僕の態度に、ますます動揺する銀狼。自分よりも小さく、力もない。人間の男なんて怖くもなんともない筈なのに。面白いぐらい目を左右に動かして。慌てるから。灯った怒りは、この時点では既に鎮火していた。
 こんどは、銀狼が俯く。手遊びしているのか、机の下に隠れた彼の両手。でも腕が小さく動いてるから。そうだとわかった。ぼそぼそと。か細い声で。何かを言う。机を挟んでいるとはいえ、この距離ですら聞き逃すくらい。だから、何って。はっきり言ってと。表面上は怒ると。肩をびくりと震わせて。まるで、悪い事をして母親に怒られる子供みたいな態度をする相手。忘れてはいけないが結婚して一年近くが経とうとしている、成人男性である。
「えっと。手で、されて。そのまま、それで我慢できずに。襲い、そうで。ルルシャの心が準備できてないのに、それをしたら。嫌われると思って。本能とか、動物的な面。特に俺達の性欲って人間にとって気持ち悪く感じる場合もあるって。噂で知っていたから」
 まるで大罪を自白するかのように。耳を倒し。目を瞑り。精一杯身体を縮こまらせて。それで。彼のこれまでの行動を顧みて。納得しながら。それでも、ガルシェって。嬉しくなると顔舐めてくるよねって。ちょっと意地悪に指摘すると。それは、ついやっちゃうし。この前言ったように、ルルシャも内心喜んでるからと。そう言うのだった。まあ、はい。否定はできません。顔を涎だらけにされるのが嫌なだけで、愛情表現で舐められるのは。受け入れているし快くとすら思っていた。
 では。だからこそ。この前の一件である。あれだけの事を自分からしておいて。ペニスを押し付けてまで。考えてみると、とんでもない事をしてくれている。この男、愛していなければわりと気持ち悪いと感じる事を平気でする。ガルシェだしって。異種族で、狼の顔をしているのもあって。僕も気にしていなかったが。
「それは、だってルルシャが怖がってるくせに襲わないように我慢している俺を煽るから! あれにかんして、俺は悪くないっ!」
 しゅんとしていた態度から急にガルガルと唸られた。それはとても綺麗な逆ギレであった。黒い鼻の縁と、毛の薄い耳の裏を真っ赤にさせて。ぷんぷん、狼が怒っていた。威嚇されているけれど、迫力なんてこれっぽっちも欠片もない。なんだこいつとすら、そんな感想を抱いていた。残念ながらこれが僕の夫である。喉を傷めているのに叫ぶものだから、首元を押さえて咳をしだした銀狼の背後に素早く回り背中を擦る。お水を飲むかと、コップを持って口元に近づけてみると。受け取って一息にゴクゴクと飲み干していた。
 俺は怒ってるんだぞって。そんなふうに僕の顔を見ないように、違う方向に顔を向けているガルシェ。取り合えず、こちらとしては話の所在は置いといて。ただ咳き込んだ相手が心配なので背中を擦り続けるのだが。熱も出なかったし、鼻詰まりも緩和し。後は次に咳が出だした病人相手に。これ以上追及する気も失せてしまったというのもあった。
 何をこうも真面目に、ガルシェとの性生活を悩んでいるのか。たまに馬鹿らしくもなるが、共に暮らしているし。我慢をしてくれているのは相手なので。僕がどうすれば良いか。考えないといけないのだった。本当に、いっそ裸で跨ってしまうべきか。ただ煽り過ぎて、銀狼の理性を完膚なきまでに飛ばしてしまった場合。それで僕が怪我でもしようものなら。また新たなトラウマを作りかねないので。話し合いは大事だ。
 問題は。僕の覚悟の度合いと。その話題を銀狼が避けたがるので、やはり平行線を辿るのだが。へたれなんだか、こちらを愛してくれてそうなってるのか。人も狼も、お互いを気遣い。踏み込みきれないだけだと言えたが。
 実際に最後まで。言ってしまえば肛門性交だが。彼のを受け入れるにあたって、僕の身体が耐えきれるかという不安要素は確かにあって。準備とか、そういう知識も欠けていて。気持ちいいと感じて貰えたら、僕が多少痛いのは我慢すればそれで良いが。我慢できる限界もあり。裂けたり、流血沙汰はごめんだ。男なので、受け入れる場所は膣ではなく腸であり。処女膜とかないので、しっかりそういう準備をすれば血を見ないで済むのかなって。思ってみても。拗ねているのか。顔を合わしてくれない背中を擦っている男の身体をまじまじと見つめて。自分との身長差もあり。そして、実際に勃起した生殖器のサイズも覚えたくはないが知っているので。裂けそう。僕と違い。身体が大きいから。レプリカントの男性同士なら受け入れる事もできるのかもしれないが。人間である僕ではどうしてもそれで、怖気づくのだった。
 彼の言葉通り受け取るなら。しなくてもいい。無理はしなくて良いのだろう。だが、僕がしてあげたいのだ。それぐらいしか。自分の身体を使うしか、報いる事ができないのだから。せめて。夫が望む事をちょっとでも叶えたいと思うのが。僕なりの考えだった。狼の番らしい事、ぜんぜんできていないと感じているから。極端かもしれないが、わかりやすく。即物的な快楽の共有。肉体的接触。ただ僕が難しく考え過ぎなのかもしれないし。寄り合い所の人達が言っていたように、勢いが大事とか。そうなのかもしれなかったが。やるのは、僕である。
 大きさを気にするなら。男同士なのだから、別に僕が女役に固執する必要はないのではと気づいたが。でも、この逞しい大男を押し倒して。それで興奮して、セックスできるかと言われると。否と答える。あくまでもガルシェだって、狼の雄として。僕を雌扱いするきらいがあるから。受ける事は想像すらしていないのはわかるし。きっと断られるだろう。肉体的な負担で言えば、きっとそれが最善手だが。お互いの気持ちを考慮すると、かなり逸れてしまう。男を犯す趣味はないし。好き好んで、男に犯されたいわけでもない。だから一年もこの話題に触れなかったのだが。ただ、ガルシェが望むなら。そこに尽きる。
 ちらりと。僕がまた良からぬ事を考えていると気づいたのか。聡い狼がこちらに視線を投げてくる。それで見つめ返すと、すぐ逸らされてしまったが。あいも変わらず、可愛らしい仕草をするものだった。我が夫は。逆切れした手前、ちょっと気まずいのだろうか。においで既に僕が怒っていないのは、わかっているだろうに。
 男の名を呼び。意識をこちらに集中させる。それでこちらを向かなくても問題はなく。ただ僕と違い可動域の広い耳だけでも、こちらに向いてくれれば。それでよくて。
「風邪、早く治そうね。そしたら一緒にお散歩行こう」
 銀狼が稼いだ分は全部僕に預けて、それで家計はこちらが管理しているが。だいたいは、家の使えるお金がどれくらいか。食糧の備蓄具合。そして現在の季節。冬支度の進み具合。それらを考慮すれば。彼も早く身体を治して、仕事に復帰するべきだと理解はしているだろう。栄養を付けて、治りが早まらないかなって。今回の食事も。これでもそれなりに奮発した方である。干し肉も、あまり使うべきではないのだ。風邪が長引く事を想定すれば、もっと節約して然るべきである。前のように、僕は稼げないのだから。
 今回の事で。銀狼が怪我で数か月とか動けない状態になった場合。他のレプリカントの男性相手に。身体を売る想定も心の隅でしていたが。口には出さない。きっと、十年もしない内にだんだん彼の免疫能力は下がっていくのだろうし。健康で居て欲しい。その点、銀狼は煙草の量も減らしてくれている。嗜好品なので、あまり浮いたお金がなくて。そういったお酒とかもあまり買えないのもあるだけだが。自分の身体すら売る、自分の命をどう扱うか。そういった覚悟は不思議とすぐ決められるのだが。言わないのは。この考えは彼と大喧嘩になると思うというのもあった。さっきみたいな可愛らしい怒り方ではなく、本気で怒られそうだ。
 僕がお散歩と言えば。そんな暇はないだろって。そう考えているのか。夫はあまり芳しくない反応をさせたが。それでも控えめながらも尾を揺らしてくれて。そんな相手にやっぱり、病み上がりでも無理はさせたくなかった。
「そうだな」
 後頭部をこちらに向けたまま。短くそう言う彼の背中を、優しく撫でながら。ちょっと笑ってしまう。顔は見えないし、僕はにおいで感情なんてわからないけれど。ガルシェ。きっと、照れてる。稼げる時に、しっかり稼いでおかないと。キァルくんの願いを叶えつつ。僕も、家計の手助けになるなら。もう少し拙いながらも先生とやらを頑張ってみたい。
 冬か。狼にとって繁殖の季節でもあるのだから。そういう意味で、向き合うには丁度良い時期と言えた。もっと話し合ってみよう。挑戦は大事だ。それで僕の身体が受け入れる事すら叶わないとしても。やってみないとわからないし。その時は、その時だ。そうなった場合、手淫や素股で我慢して貰う他ないのだが。今まで、それすらなかったのだから。キスもあまりしなかったし。友達の延長線上で居たお互い。もう少し一歩踏み出してみても良いかもしれない。手を繋いだり、抱き合ったり。彼に顔を舐められたりはそれなりにしてきたが。
 漁師の男達のする猥談では。妻はエロい方が良いとかそんなものも聞こえてくる。ガルシェも、男の子なのだから。エッチな事はしたいのだろうし。というかそれはちゃんとしたいと言っていたが。同じ男である僕にエロさを求められても正直困るな。身体をくねらせて、露骨に相手を誘う自分を想像して。自分で自分が気持ち悪いと感じる。やだな。
 ううん。本当に。夫婦の関係って難しい。恋をそのまま燃え上がらせるように、僕達は一緒になったわけではないのも関係してるのかもしれないが。僕も、ガルシェも。隣に相手が居て、落ち着くのだ。居ないと、どうしようもなく寂しくなる。彼のように、不眠症になったりはしないが。僕も、銀狼が隣に居なければ。やっぱり寂しいのだった。頑張ろう。いろいろ。
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