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レプリカント After Story
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隻眼のシャチの人、名をクゥルール。漁村の中で、発言権が高く。村長ではないが、だからと無視はできない人。奥さんの方は先に面識があり。妻からはよく話に聞いていると、僕の知らないところで名が知られていて。尾鰭とかついていなければよいが。
招かれるまま、一軒の民家に入ると。一回りは小さい、もう一人の海洋型レプリカント。同じシャチで、クァルールさんの一人息子。
玄関を開けてすぐ見える広間で、胡坐をかいて待っていたようで。僕を連れて父親が帰ってきて。ばっちりと目が合うのだが。ただそれだけで、数秒待ってもそれ以上アクションがなかった。そんな息子の様子に、僕の隣に居た隻眼のシャチは。先に草履を脱ぎ捨て居間に上がると。ギィギィと床鳴りをさせながら、重い足音と共に黙ったままこちらを見ていた息子さんの頭頂部。鼻の穴がある辺りに。拳骨を落としてみせた。ゴツって、そんな痛そうな音。
「おい、馬鹿息子。挨拶しねぇか!」
そしてそのまま、前の時のように。無理やりこちらに頭を下げさせて。痛がる暇すら与えない。身内に容赦がないなって思いながら、ただお構いなくって。愛想笑いをするしかなかった。玄関でひっくり返っている草履をつい癖で綺麗に整えながら、僕も上がって良いものか。様子を窺っていた。それと痛くないのかなって気になって、息子さんの顔を見る。それで、愛想笑いが固まってしまって。床に顎が擦りそうになっているシャチさんの頭、それは当然その父親が腕力で押さえてるからであって。ただアイパッチの下にある目。その視線が一切こちらから逸らされておらず。まるで獲物を見るようだと感じてしまい。背筋がぞわりと鳥肌が立つのがわかった。なに。
「……こんにちは」
ぼそっと、声が小さい。親に言われて渋々というのもあるのだろうが。足先から、頭の先まで。舐め回すような。値踏みするような、そんな不快な視線。人の視線に敏感というか、あまりそう自分の身が晒されるのが苦手であったから。気づけたというのもあった。いつもなら、その目を引くアイパッチの方に視線が誘導されていただろう。警戒心が多少なりともあったというのもあるのかもしれなかったが。
広めの広間なのだが、そこは人の基準。二メートル半ぐらいの巨体が二人、中央に置かれたちゃぶ台を挟んでいるが。とても、空間的に狭苦しいと感じた。あと、寸借が狂ったみたいに。目の前のちゃぶ台がとても小さく、おままごとにでも使うように見えてしまうのも。僕が使うには丁度いいが。片手で摘まんで目の前に置かれたから、恐らく普段は使用しておらず。ただ僕の為だけに引っ張り出してきたのだろうと推測させる。人差し指と、親指で。手が震えながら、人間サイズの湯飲みも置かれたし。本当に、お構いなくって萎縮しているが。客人をおもてなししたい心意気は伝わるので、断れず。たとえ人間が同じ身長になろうとも、彼らの手はちょっと大きめであるから。余計に扱い辛いのであろう。茶請けに小皿に乗せられた小魚が数匹出て来たのは、異文化コミュニケーションしてるなって。久しぶりにユートピアで昔感じたものを、体験していた。主食が魚であるから、それはそうなのかな。
ガルシェが取って来た陸の肉や野菜を食べたりもするから、内臓は人に近いのだろうけれど。生まれ持った好みというものがあるだろうし。沸かしてくれたのか、湯気が立つお茶を手に取り。あまり音を立てないように啜る。味は正直、お茶なのだろうけれど。あまり美味しくはない。嗅覚と味覚が海洋型レプリカントの人達はあまり優れてないから、しかたないのかもしれないが。なら、どうやって食べ物の味を楽しむのだろうか。喉越し、だろうか。僕は人なのでそこら辺の細かい部分は永遠にわからないのだろうなって。巨体のシャチ二人分の視線に見下ろされながら、別の方向を見ていた。小物とか、あまりないなって。肌が乾燥するから長期的に滞在するわけでもない、この家は仮住まいと倉庫的な役割であるのだから。不必要に物が増えないのだろうけれど。本当に何もなかった。こうして、状況にすら目線を逸らしているのは。息子さんの視線が、何だか気持ち悪いからだ。ずっと、ぞわぞわが止まらない。明確にどういった感情なのか、読み取りにくいその瞳。表情も細かい部分は察する事ができないというのもあって。得体の知れなさが、余計不安感を煽った。もう、早く帰りたい。そんな気持ちが話を聞く前から胸の内を満たしてしまう。
「それでな、頼みというか。お願いなんだが」
僕の方ではなく、息子さんの方を見ながら。隻眼のシャチさんがやっと話を切り出してくれる。さっさと聞いて、断って帰ろう。そんな気持ちで、姿勢を正しながら。用件があるだろう、父親よりも一回りだけ小柄なシャチさんを見つめて。そうすると、少しだけ息子さんがちゃぶ台に身を寄せた。
「あんたの知識を。俺に教えて欲しい」
何を差し出せと、責任問題とかそういった事ばかり想定していた僕は。予想外からの切り口に、ちょっと肩透かしを食らう。もっと凄い事を要求されるものとかってに思って。身構えていたから。それと、今はその気配が消えた得体の知れない視線もあって。そこで顔には出さなかったが、僕の中で彼らの話をちゃんと聞こうって姿勢になったのだった。
どうやら。前回の商人との一件。あれは実のところ、前からああいうふうに対応されていたそうで。常に足元を見られた商売に、文句を言いたかったが。残念ながら、陸の者達でされる取引。物の価値も、あまり知らず。教育がユートピア程行き届いていないから。数を数えられる者すら、村の者の中に殆ど居らず。だいたいこれぐらいって、そんな大雑把なものであって。だから、無知故に。言い返す武器もなく、だが難癖だけつけて。暴力に訴えかけると、取引を二度としてくれない恐れがあって。甘んじて受けていたのだった。
そんな漁村と、商人との事情に。突如訪れた転機。僕という存在。今はまだ、男衆では様子見の意見で纏まり。女衆達に任せ、害をなすようなら。追い出すか、潰して殺すように。そう村全体で決められていた僕の処遇。知らないところで恐ろしい話し合いがされていたのだなって、アハハハって乾いた笑いしかでなかった。人間相手の扱いなんてこんなもんと言われると、こんなもんだ。村の中を歩き回るのを許可してくれて、働かせて貰えるだけ優しいと言えたが。そんな警戒も、あまりそう時間がかからず取れて。受け入れられたのだが。でもそれは女性だけで、漁師達の間では。一部の者が警戒心を未だ抱いて。遠巻きにしていた。あまり男の人から話しかけられないなって思っていたけれど、なるほど。彼らもまた、僕から距離をおいていたのか。そう納得しつつ。狼と人間の番。それも同性の。そんな珍しいを合わせた不思議な奴らって共通認識。そこに、僕単体に焦点を当てた時見方が変わってくる。
そのきっかけになった事件。商人と僕との舌戦。蒸し返されると、今はもう恥ずかしいのだけれど。あの時は悪ノリが過ぎたのもあって。
銀狼の素性。あのユートピアの市長。その息子、というだけで驚きなのだが。僕の立ち振る舞いに、誰しもが溜まっていた鬱憤というのもあったのだろう。見ていた村の人が痛快に感じて。特に、クゥルールさんの息子さん。キャルくん、と言うらしい。さんの方がいいのだろうか。異種族の人は見た目で年齢がわからないので、こういう時なんて呼ぶか少し困る。それは向こうも同じなのだろうが。
そんなどこか可愛らしい印象を与える名前の、全く可愛くない大きさの息子さんが。感銘を受けて。足元を見られるのは、俺達が無知だからだって。このまま、なめられたままでいられない。そう立ち上がるきっかけになったらしい。だが、知識を得ようにも。閉鎖的な空間である漁村において。物知りな老人は居ても、それは生活に必要な知恵とかそういったものであって。今話題に出したものとはちょっと違ったのだった。ユートピアに徒歩で向かい、教育を受けたくても。道中で干からびて死んでしまう。乾燥した肌は、そこから裂けて肉を晒し血が吹き出す。惨たらしい末路を辿るらしい。
だからこその、僕。見るからに何もできなさそうな。自分達より小さい陸のレプリカントよりも、さらに背の低い。吹いたら飛ぶ人間が。見事に口だけで、言葉巧みに立ち回ってみせたのだから。かいつまんで言えば、キャルくんの家庭教師を依頼されている。ようはそういう事だった。正直。僕の役に立つかもよくわからない知識と、一応計算はできるが。それだけであって。でも漁村の人達はそれすらできなくて。今、必要とされている。協力してあげたい気持ちも、あるにはあるのだが。ただ、僕は誰かに教えた経験なんてなくて。教わりはしてもだ。教育という部分でなら、夫の方が適任ではないのだろうかと思わずにはいられない。軍人として英才教育を受けているから。ガルシェが、そういえばどこまで計算とかそういったものをできるのか。分野が違うというのもあって。あれだけ一緒に居て、知らないのだが。二人で旅商人を利用する際、口下手な彼ではなく。僕が基本世間話をしながら、取引をしていたから。人見知りが激しいから初対面の人に対して、あの銀狼は不必要に威圧してしまう。目つきが悪いし。ガルシェ。愛想が全くないわけではないのだが。やはり、傍から見ていると言葉が足りないと感じる。僕とは普通に話せるのにだ。
黙ったまま、その人相で威圧すると。商人さんが怯えちゃうというのもあった。だから自然と応対するのはいつも僕。そういえば、ガカイドやルオネ。皆で食べに行った際に。酔った彼がめんどくさそうにぽんと全額払ってくれた場面があったけれど。店員さんが言っていた金額より大幅に多かった気がする。返されるお釣りの量がそれを物語っていて。ガルシェの金遣いが荒い理由って。もしかして。自分で働く前まではお父さんの仕送りで食べ物は何不自由なく暮らしていたみたいであるし。ある意味、あの街での基準で言えば。住んでいた家の機能とか含め。お金持ちのお坊ちゃんみたいな人である。愛情だけ、不足していたが。家事が全くできず、ずっと商業区で出来合い品を買うか。缶詰で全て完結していたのだ。金銭感覚がまともに育つはずがなかった。こんど、そこらへんもつっついてみよう。必要なら直さないと。いつ、変なところで浪費されるかわかったもんじゃない。家の中、家計を管理しサイフを握っているのは僕なので。今現状で言えば、問題はないが。家の外は俺って、銀狼自身が決めた役割分担をしているし。そう言いながら時々、家事も手伝ってくれる。僕の負担なんてあまりあってないようなものだ。こんなところで、思わぬ気づきがあったものだと思う。
「せがれが、漁以外で何かを学びたいと言うのは初めてで。頼れるのはあんたぐらいだ。どうだろうか」
人助けとかそいう意味では、本当にやってあげたいのだが。安請け合いもしたくない。それに、今でもかかわり過ぎていると感じているのに。これ以上、仲良くなるのもなって。そんな考えもあった。漁村の人達には、僕の出自は教えていない。というより、誰それと言えるわけもなかった。下手したら本当に殺処分されかねない。ガルシェは、それでも受け入れて。こうやって辺境で暮らす道を選んでくれたのが。レプリカントの人達全員が、同じようにしてくれるかというと。限りなく低く、いや、まずないであろうか。レプリカントの機械に対する悪感情は、考慮するべきだった。見つかったら、即戦いに発展して。女、子供、関係なく肉塊に変えられるのだから。そんな相手と、関係性があるかもしれないと知れたら。彼らがどう思うだろうか。考えるまでもなく、答えは明らかだ。この周辺は、比較的安全で。機械達も姿を見せないらしいが。都市部に近づけば近づく程に、特にユートピアの人達や。もう滅んでしまったフォードという街。その難民の一部が、ユートピアに流入して。今は暮らしているのだから。僕という存在は、魔女狩りのように。晒し物にされるだろうか。解剖されて、死体を尊厳もなく、嬲られて。
僕の秘密を知るのは。僕自身と、夫だけ。ガルシェは口が堅い。それと、馬鹿ではないから。言ってはいけない事は、ちゃんと黙っていてくれる。そういう心配はないが、だからと。積極的にかかわるのは、やはり避けるべきだ。そう結論付けると。どこか、僕が断る雰囲気をさせたのを感じ取ったのか。こんどは父親である。隻眼のシャチが身を乗り出して。
「報酬は勿論だす。あんたの身の安全も、あの目立つ毛皮をした狼の野郎に誓おう。俺が、口利きして。村の連中に手を出さないように、しっかりと言えば。前よりも過ごしやすいはずだ」
一応、交渉事であるから。僕の欲しい物を探りながら、前もって用意していたものを提示しているのだろうか。ただ、彼らの想定外なのは。やはり、こうして僕が頻繁に立ち寄りはしても。深くかかわりたくないって部分であって。そこまで魅力には感じない。逆に彼らが欲するのは僕の知識という、目に見えないもので。いくら血の気が多くとも、常識的に。こちらを尊重して接してくれているので今のところ。暴力で無理やり言う事を聞かせようなんて雰囲気はないが。だからこそ、こうしてゆっくりと考えられているのだが。それをした場合、恐らく夫が完全武装して乗り込んで来る事になるが。僕と二人っきりの時、普段はあんなだが。ガルシェは、やるとなったら殺るタイプだ。躊躇はない。躊躇したら、その瞬間に味方が死ぬって。そんな環境に置かれていたのもあるのか。ガカイドやルオネと一緒に受けた、卒業試験での事故も。彼の考え方を決定づける要因となっているのだろう。大事な人を守るとなったら銃の引き金を引くのに。迷う素振りはなかった。
旅の道中。僕を格好の獲物と定め。襲って来た暴漢をとても冷めた瞳で、交渉もせずに撃ち殺したから。同じ、レプリカントであっても。冷酷とも取れるが、それだけ。この世界は過酷なのだった。ユートピアで暮らしていた時期も、護衛として外に出ている時。襲ってくるのは野生動物や機械だけではなく、住む場所を追われ野党と化した同族であったり、人間であるのだから。殺人をした回数なんて、いまさら数えてはいないと。淡々と語る狼の口。あまり詳しく、あの街で一緒に暮らしていた頃は仕事の内容を聞かなかったが。ガルシェ自身、言わないようにしていたのだろう。聞いて、楽しいものではないし。同じ立場なら、僕だって濁す。
ユートピアは人間に対してまだ友好的だが。これは市長さんの方針が影響していると思う。逆にフォードの人達は、差別意識が強く。それが対応の差に表れており。ユートピアという街から離れれば離れる程に。人間とレプリカントの対立関係は表面化する。獲物を獲る縄張り争い、文明の遺産を巡って、理由は様々だが。穏やかに交渉だけで終わらず、血が流れる結果になってしまって。そうやって数十年、数百年。共に力を合わせて暮らしていた時期もあったのに。悲しいものだ。
それなのに。僕とガルシェという。人間とレプリカント。そんな奇跡のような組み合わせの番が居るのだから。お互いを尊重し敬い。思いやりで成り立つ関係。やった事、してくれた事。言った言葉、言われた言葉。ちょっとずつ、二人で乗り越えて、手を繋ぎ。結婚までして。
簡単ではなかった。お互いを時として傷つけあって。一度は生きる事すら諦めもした。そんな時、絶望の沼に沈んでいく僕を引き上げてくれたのは。他の誰でもない銀狼だったのだ。
僕の行動基準は。誰かの役に立ちたい。愛する人を支えたい、そんなものだったから。
だから、この漁村の人も助けてあげたい。商人との一件でも、そんな気持ちで行動に移したのだから。ただ優先すべきは、夫であり。僕にとっての一番はガルシェだ。彼らではない。そこを見失って身の丈に合わないところまで、飛び込んでいきたくはない。
銀狼は目の前で起きた事全てを、後先考えず飛び込んで助けようとするなら。
僕は薄情と思われるかもしれないが、大事な人、重要な人を選り分けて。助けられるものと、できないものと分けてしまう。そう、考えてしまう。あまり褒められた性格とは、自分でも言えないだろう。だから自分の事を優しい人とか、そう思った事もなかった。ガルシェはこういう僕の考え方を聞いても幻滅するどころか、ルルシャはそれでも。誰でも、結局は助けようとするだろって。言うのだ。買い被りすぎだと思う。全肯定するにも程がある。番に対して盲目的だとすら感じる。狼って、皆。ああなのだろうか。
断ろうと思った。そうしようと。だというのに僕が渋ると提示される額が上乗せされて。寄り合い所で網を直すよりも。そして時間にしても、日に二時間ぐらい。キァルくんも、クゥルールさんの元で一緒に漁師として海に出ないといけないから。教える時間帯は、お互いに昼過ぎから夕方までの間に限られる。僕の門限、暗くなる前に帰してくれるというのなら。ガルシェも怒らないであろうか。
「頼む、あんたしか頼める人がいないんだ。俺が覚えた後は、後輩には俺の手で教えていく。あんたが教えるのは俺だけでいい」
だからどうか。ここで初めて、キァルくんが自分から頭を下げた。勢いがつきすぎて、ごつってちゃぶ台に頭をぶつけ。お皿の上にある小魚が息を吹きかえしたかのように跳ねる。ちょっと、条件が僕に都合が良すぎるように感じられるが。隻眼のシャチからは息子の願いをただ叶えたい、お金は俺が融通するってあくまで補佐をし。裏がなさそうで。そして、その当人から熱意も感じられる。断ろうとした僕の心が、少し揺らぐ。
「その、僕の一存では。今日は話を持ち帰って、ガルシェにも相談したいです」
シャチの顔が二つ、ぱぁって花開くように笑顔になって。ありがとう。そう、まだ受けるとも言っていないのにお礼まで言われてしまって。息子さんに至っては太く逞しい尾ヒレがびたんびたんと床を叩き、しまいには突き破っていた。当然、家を壊すなって親父さんの拳骨が炸裂して。また小魚がぴょんぴょんする。
前の僕なら、自分の身の振り方はだいたいその場で決めていたけれど。事後承諾ばかりで。だがもうこの命は、ガルシェに預けている。かってに決めて良いものではなかった。夫にちゃんと相談しなくてはいけない。後、こうまでされると断り辛いというのもあって。一旦保留にして、後日。銀狼に駄目だと言われましたって。そう断ろうかなって考えていたから。こういう時、濁したり嘘を混ぜたりしても陸の者達みたいに。においで感情を読み取られないと安心する。建前がちゃんと使えるのだ。こうも喜ぶ姿を見てしまうと、罪悪感は生じるが。やっぱり、あまりかかわり過ぎると良くないだろうし。
実際にガルシェが、許すとは思えない。ちょうど今、寂しさを爆発させてる状態で。どうにかなだめて出てきてる僕が、これ以上家を留守にする時間が増えるのを良しとしないであろう。外に出掛けている時、番に会いたくて急いで帰ってくる銀狼。たまに留守番をさせると、見送ってくれるのはいいが。いつまでも玄関で離してくれないし。だいたいは着いこようとするのだから。ぬか喜びさせてしまっていて。申し訳なく思う。
家の外まで見送られてしまい。なんだか外堀を埋められそうだ。帰った後で、村中に受けて貰ったって言いふらしたりしないで欲しかった。頷いていないし、返事も保留にしたのだから。さすがに、あの親子がそこまで先走った行動に出るとは。思いたくはない。少し自転車を走らせて、べったりと張り付くような気持ち悪い視線を感じて。自転車を止め、振り返る。するとまだキァルくんだけ家の外で立ったままの状態で変わっておらず。親父さんは既に海か家の中に引っ込んだようであるが。向こうからも僕が自転車を止めて、振り返ったのがわかったのか。両手をぶんぶん、振っていた。そんな仕草に良心が痛む。後日、やっぱり無理でしたって言ったら。殴り殺されたり、しないよね。そう願いたい。
手土産に、編み籠の中には茶請けとして出された手付かずの小魚が。マッコウクジラのお婆ちゃんから貰ったアジの一種だろうか。そんな大ぶりの魚と一緒に入っていて。今日は魚料理に確定だった。気候的に痛みにくいとしても、生魚は速めに食べないとやはり足が速い。あまり量はないが。自宅から見て。漁村とは別方向にある牧場が存在していて。分けて貰ったバターがあったのを思いだした。あれも使わないと腐ってしまう。足の悪いレプリカントの老夫婦が細々と経営しているそこは。息子さんが跡を継ぐ予定であるらしいが、都会に憧れる若者のように。ユートピアに出稼ぎに行ってしまっているらしく。会った事はない。ガルシェが漁村から貰った魚や、自分で獲った肉を分けて。代わりにミルクや、バターを安く融通して頂いている。ユートピアでは、全体を鉄の壁で囲んでいる為に。畜産とかは土地が限られているのでとても小規模なものだったが。ここは害獣は出るとしても、機械達の脅威があまり及ばぬ場所。だからこそ、できるというのもあった。バターに魚。後、小麦粉もあるから。ムニエルとか良いかもしれない。嗚呼、でも風邪の時ってさっぱりした物の方が良いのか。普通に焼き魚と味付けは塩にしようか。
ユートピアで使われている塩の一部が、この漁村の人達が副業として製造している塩なのは不思議な巡り合わせだった。旅商人が主に運ぶみたいだが。かなり安く買いたたかれていたのだろうか。あの悪徳商人だけである事を願いたい。複数の旅商人が。入れ替わりで立ち寄るので。同じ顔触れが続くような場合はないのだが。
ハンドルの片方に編み籠をぶら下げているので。正直、運転するのにバランスが悪い。気をつけていないと、片方に自転車が傾き。どんどん一方方向に曲がって行ってしまう。それと、帰りは坂道なのであまり荷物が増えると僕の負担もその分多くなる。鍛えているとはいえない、自分のひ弱な肉体を酷使しながら。ひんやりする空気に、冷却されている筈なのに。額に汗が伝う。あの街で暮らしている時よりは、旅をする中で。体力と、筋肉が自然とついたと思ったのに。本当に微々たるものだった。あまり僕がへばっていると、過保護な銀狼が抱っこしてくるのもあったと思うが。
それでもペダルを確実に踏み続けていると、森から出て。アスファルトが顔を出し。きっと穿たれた穴達は、空爆とか砲撃の名残なのかなって。障害物になっている、朽ちた自動車を避けながら。見えて来た我が家にホッとする。まだ日も落ちていないし。予定外の事がありはしたが、それでも早めに帰れたと思う。アーサー達にただいまって挨拶しながら。編み籠の中の小魚を見る。そういえば鶏って、魚をあげても大丈夫なのだろうか。茹でた麺類やパンはあげたら駄目だって、ガルシェが言っていたけど。餌は基本夫が作っているので、迂闊に僕が手を出して体調を崩してしまったら目も当てられない。ペットにも自分が食べるのと同じ物を食べさせてあげたいというのは、人間の完全なエゴであり。人間が毒耐性が高く、何でも食べられるだけで。他の生き物は食べたら最悪死に至る物が多い。ガルシェですら、玉葱が食べられないし。即死はしないが、気分が悪くなるらしい。嘔吐とか。やっぱり、毒だ。人間でもニンニクを大量に食べると善玉菌が死に絶えて大変な事になるらしいし。いくら毒耐性が高くとも、過信は禁物なのだが。
僕が気まぐれでこっそり、玉葱を調理して食べていたのを見つかった時。困惑したまま、尻尾を膨らませて凄い顔して見られた。レプリカントの人が食べられない食物は、とても安く売られていたり。そのまま捨てられたりするので。家計の節約で、僕だけそれで腹を満たせば。馬鹿にできない節約術になるのだ。銀狼が心配そうに。しきりに身体のどこか悪くないか聞かれるのを除けば。デメリットがないとすら言える。美味しいし、健康に良い。血液もサラサラ。ガルシェはこっちを見ながらびくびく。なんで怯えるの。
自転車を停めて、編み籠を持つと。空いた手で取り出した鍵を家の鍵穴に差し込む。シリンダーが錆びているせいで、ちょっとコツがいるのだが。イメージ的に差し込んだ鍵を持ち上げたまま回すと、ガチャリ。そんな音をさせて解錠された。もうそろそろ油を挿さないといけないかな。そう思いながら扉を開き、外は明るいが家の中は電気が普段通ってないので薄暗い。発電機を動かすのは水を使う時だけ。昼間でも銀狼が寝やすいように、カーテンも全部締め切っていたからなおさら暗く感じる。ガルシェの目なら気にならないみたいだが、僕だと小さな段差に気をつけないと躓きそう。
玄関を入ってすぐに。下駄箱の上にランタンが置かれているが、それを使おうか暫し悩むも歩けない程でもない。貧乏性な部分で、これぐらいならいいかなってそう思った。内側からまた施錠し、チェーンロックも掛ける。もしも誰かが押し入ろうとした場合、大きな窓を叩き割るなりチェーンロック程度簡単に引きちぎれるのがレプリカントという異種族の膂力の差であるし。悪意ある人間ですら道具を使えば結果は同じ事ができる。気休めだがせっかくあるのと、鍵を掛けずに開けっ放しというわけにも気分的に気持ちが悪い。そんな形だけの習慣をこなすと。部屋の奥。寝室に向けてただいまと、間延びした声で。銀狼に帰宅を告げた。耳の良い彼の事だから、寝室からでも鍵を開ける音を。もしかしたら自転車で庭に入ってきた音で気づいている可能性すらあったが。
二人しか住んでいないし、用途別に履き替える靴も持っていないから。収納スペースをもて余し気味な靴箱に、脱いだ靴を入れながら。返事がないから寝てるのかなって。夫の顔を脳裏に浮かべ、既に一足置かれているくたびれた大きなブーツを見やる。銀狼はよく脱ぎ散らかしたままにするので、僕が見つけたら直したり、下駄箱に入れたりする癖がついてしまっている。クゥルールさんの草履もついそうしてしまったのもそのせいだ。
とりあえず、一度キッチンに行き。編み籠の中身を冷蔵庫に入れる。半ば強引ではあったが。貰ったからには今日の晩ご飯として、ありがたく頂くべきだ。この編み籠も返さないといけない。
そろりそろり、足音を消しながら薄暗い廊下を進み。慎重に寝室へ続く扉のノブを持つと、これも音を立てないようにしながら開けて中の様子を窺う。とても静かだった。だが寝息にちょっと、鼻が詰まっているのか。男の寝苦しそうなとても小さな呻き声が混じる。やはり、ガルシェは寝ているって。ちゃんとおとなしくしていたんだなって、安堵しながら。扉の隙間から身体を滑り込ませるようにして室内に入り、開けた時と同じように扉を閉める。せっかく寝ているのだ。起こすのも悪いと思って。食事の用意をしてからでも、遅くはないであろうか。
ベッドに近づきながら。出掛ける前に置いておいた水差しの中身が、半分程に減っている事から。水分補給は一応しているのだなって確認して。それから狼の寝顔を覗き込もうとした。したのだが、掛け布団を肩までしっかりと被さっているのは良いのだが。彼の枕が、ちょっと頭のサイズに対しては小さい物で。逆に大きい方はベッドの下に転がっているし。その枕というか、狼の頭を囲むようにして。衣服が散乱していた。上着、下着。種類を問わず。ただ共通しているのは、全ての衣服が洗濯籠に入れておいた僕の着ていた物であるってだけで。そしてどう見ても、銀狼が使ってる枕も僕のだ。
何かの儀式めいていて、異様な光景に困惑した。それをしたのは、確実にガルシェなのだろう。眠るその顔をもっと覗き込もうとすると、気配で察知したのか。薄く目蓋が持ち上がる。意識が浮上していくさまが、目の動きでつぶさに感じとれ。ぱちぱちと、数回瞬きした後。金色の光彩がこちらを向く。
「んあ……、ルルシャ? おかえりぃ」
「ただいま。ガルシェ。どうしたのこれ?」
あまり衝撃を与えないように気をつけながら、ベッドの縁に腰を下ろすと。なんだかぽやぽやしている狼の額から、落ちかかっている濡れタオルを取りあげる。そしたらしっとりした毛皮を撫で付けた。まるで撫でられた猫のように、また目を細めている狼。僕の名を呼ぶ声は、今朝よりもだいぶかすれていて。鼻呼吸ではなく、口呼吸ばかりして喉を痛めたようだった。このままだと、咳も出だすかもしれない。
これ。そう、狼の頭を囲むぐちゃぐちゃの衣服を指差すと。自分でやっといて、まるで心当たりがないかのように。周囲を見回すようにして首を動かすガルシェ。そうした後。暫し考え、思い出したのか僕を見つめる銀狼の瞳は。怒られるのを恐れるようにして揺れ、耳までその感情を表現していた。
「あ、これは、その。鼻、詰まって。ルルシャのにおいが、感じられないから落ち着かなくて。せめて、物で満たしたら寝られるかと思ってだな……」
しどろもどろに、起き上がろうとする上半身を。言外に寝てろと、手で制しながら。僕のにおいがないと眠れない、特定条件下の不眠症を患う銀狼。あの街で暮らしていた頃は、ここまでではなかったのだが。なんだか、どんどん悪化している気がする。もうそれを改善する必要はなく、僕が傍に居れば問題ないのだから。状態を危ぶむ事もなく、ただ。可愛らしいなって。じんわりと、心を満たすもの。でも下着は持ってきて欲しくなかったな。僕のパンツにマズルを埋めている変態ではないけれど、近いものがある。
「そっか。効果のほどは?」
一応帰ってきた時、彼は寝ていたのだから。聞かなくても良かったのだが。僕を見て、安心したように気を許している相手に。つい聞いてしまって。銀狼も、ちょっと小さい枕に頭を預けながらも。首を傾げ。自嘲するように、口元を緩めた。
「本物には敵わないな」
起き上がるのを許さない僕に対して、寝転んだまま。銀狼が仰向けから横向きになると。布団の中から腕が伸びてきて、僕の腰を抱えるようにして引き寄せようとする。特に抵抗する理由もなかったので。好きにさせると、彼の頭が太腿の上に乗せられ。ぷぴーって、黒い鼻から変な音がした。詰まったそこではまだ嗅覚が回復していないのか。嗅げなくて残念そうにしながらも、自分の身体を擦りつける事で補おうとしているのか。においではなく、感触で、僕を確かめていた。太腿や、お腹に狼の頭が擦りつけられる。
「お腹空いてない? お魚貰ったんだけど、食べられそう?」
「食欲はある。けど、もう少しこのままがいい」
「ナデナデは?」
「お願いします」
あまりに素直な返答に、クスクスと笑いながら。お客様からの追加注文が入ったので。額から、こんどは後頭部にかけてをゆっくりと撫でてあげる。すると、ガルシェの布団で隠れた下半身。ちょうどお尻がある場所が内側から押し上げられては、沈んでを繰り返す。甘えたな成人男性を見下ろして。幼少期から、こうして誰かに甘えた事がないだろうから。今、そういう欲求が強く押し出されているのだと思った。カッコつけたがるけど、自分の願望にとても正直なので。やっぱり狼より、犬っぽい。その対象が僕だけという、優越感もあって。なら精一杯、彼を甘やかすのも。妻としての務めだろうか。番に対して、狼の人ってこうなるのなら。あの人も。灰狼も。そうだったのかなって。そんな対象を喪った、余生とは。立場的に頑張る道しか残されていない者とは。正直、僕はあの人を嫌っているわけではなく。この銀狼の父親というのもあって。どちらかというと、好いてはいて。だというのに、お互いに言葉で殺し合いをする仲でもあったわけで。息子さんを奪ってしまったから。今頃どうしているのだろうか。余生の中で、それでも頑張る理由を奪い去ってしまって。ガルシェという、愛する子を。自分では成しえなかった。番と子育てをし、幸せな家庭を築く。そんな理想を押し付けて。でもそれは真っ当な、ごく一般的な。ユートピアの人達にとっての理想像だというのも事実であった。だから、僕は身を引く事に異論なんてなかった。あの街では部外者でしかなかったから。お父さんも救いたいと思いながら、二度も愛する人を奪われて。その二度目をしたのは、僕だ。きっと怨まれているのだろうな。怨まないわけがなかった。愛情深い人だったから。その分、厳しくもあったが。
ガルシェが、僕よりも先に死んじゃうのなら。それよりも先に生きているあの人も。ずっと早く、いなくなってしまうのだな。できるなら謝りたい。でも会わせる顔を持ち合わせておらず、会ったとして。何を言うのか。ただ相手の感情を逆撫でるだけであろうか。灰狼がいなくなった後で、あの街が。ユートピアがどういうふうに、人間に対する方針を変えるのか。そのままであったなら良いが。排他的になってしまったら。悲しくは思う。できるなら、人間と友好関係を取り戻したいという。彼の意思を継ぐ誰かが、後継人になってくれればいいが。シュリくんとか。あの子、ちょっと過激派な部類だから。もう少し成長したら、その面が幾らか和らいでくれたなら。僕の事を嫌っていなかったから、人間に友好的に接する意思をそのまま継いで欲しくはある。だが、肝心の人間側が。レプリカント種に対して友好的でないのが問題で。彼らよりも長生きな分、過去を過去とする感覚にも差異があって。食人事件は、まだ色濃く残っているのだろう。だからこそ、また仲良くしたいと言う。そんな灰狼を馬鹿にした態度で、応対していたのだと予想できた。
身嗜みを綺麗に整え、あまり流通していないスーツばかり着て。人よりずっと目が悪くなって眼鏡を使わないとすぐ近くの物すら。眉間に皴を作り、目を細めて見ないといけなくて。言葉遣いも、動物的な仕草も隠し。全部、彼の努力の証だった。よりよく、街を発展させる為に。見本となれるように。だからこそ。どれだけ傷つく事を言われても、僕はあの人を尊敬していた。尊敬している人にする仕打ちとしては、あまりにも酷であっただろうが。
「ガルシェ、お父さんに。会いたい?」
もしも。彼が会いたいと言うのなら。僕はそれをしても良かった。あの街にもう一度。そうして謝って。許されず。息子を返せと、僕の首に縄を掛けられようと。それで良かった。突然、聞いた僕に対して。銀狼は太腿に頭を預けたまま、目線だけ見上げてきて。訝しみ、そうやって。視線を横へと向かせ。考えているようであった。なんでそんな事急に聞くんだって、言わずに。ただどう答えようか。そう考えてくれていた。きっと僕が傷つかない言葉を探してくれている。
「狼は。番を持つ時。今まで居た群れから離れて、新しい相手と群れを作るから。別に会いたいなら俺一人で行けばいいし、ルルシャがそんなに気にしなくてもいいと思うぞ。ちゃんと話し合ってあの街から出て来たから。お前が負い目に感じる必要もない」
やり辛い体勢だろうに、腕を伸ばし。僕の頬に触れてくる。その肉球が愛おしい。思わず、その手をもっとしてって。そんなふうに、上から手を重ね。僕からも頬を擦りつけてしまう。
「負い目に感じてるって、バレてた?」
「ルルシャは考え過ぎるからな。そして優しいから、なんでも。自分のせいだって思ってしまう。言っただろ。もっと自分にわがままになっても良いと思うぞって」
そのわがままのせいで、君を僕に縛り付けているのに。一人で会いにいけば良いと言ったけれど。それはつまり。僕から暫く離れる事を意味していて。一日や二日で、ユートピアとこの家を往復できる距離ではなかった。そして、それを良しとする人でもなかった。僕を放置してまで、会いに行くわけもないと知っていた。ガルシェが。そうするわけない。
そして群れを作るって言っても。僕は男だから、彼の子を産めないわけで。たった二人だけの、群れであった。お互いが相手だけで良いなんて思っていた、あの瞬間は。考えが浅く。ただ、一緒に居るだけで良いんだって。思っていたのに。劣等感を自覚してからというもの。募っていく申し訳なさに。自分が、女の人で。狼であったなら。もっと、ずっと早く。肉体的にも彼を受け入れる決心をして。我慢なんて強いず、もっと。もっともっと、愛を返せたと。そう考えてしまうと。考え過ぎるな、なんて、言われても。考えてしまう。
「本当なら。先にルルシャを看病するのは俺の筈だったのに……」
むうって、狼の顔が。僕の膝上でいじけた態度を見せていた。どうやら、僕のありとあらゆる初めてを。ガルシェは奪いたいと思っているのか。そんなふうに、子供っぽい仕草で。安心させようとしてくれる。うじうじばかりしてしまうというのに。彼は一度も、そんな僕に対して。鬱陶しいと感じてもおかしくないのに。そんな態度一度も見せなくて。
「じぁあ。僕が風邪をひいたら。うんと、ガルシェに甘えないとね」
「本当か! ルルシャは、甘えて良いって言っても。ぜんぜん俺に甘えてくれないから。むしろ俺ばかり甘えて。だからたくさん甘やかしたい!」
がばって、腕を立てて。テンションが急上昇した狼が、起き上がり。ベッドの上で四つん這いになった。跳ねのけられた掛け布団が、空中を舞い。ばさりと、ベッドの外にはみ出すようにして落ちる。こうなると、もう一度大人しくさせるのに苦労させるのは僕だった。ぷしゅんってまたくしゃみをさせて。寒いって震える男を。布団を直しながら、ベッドの中に押し込めるのにだ。
ガルシェがそう思っていなくても、十分。僕は君に甘えているよ。甘えてた。しっかりしないといけないなって。成長速度が速い相手に。老いも早ければ、覚えるのも早いのか。体感時間は人の何十倍にも感じているとしたら。そうなってしまうのかな。甘えて欲しいと彼は言う。私生活。生活する面において、彼にだいぶ依存してる自覚はあるから。甘えてると言えるのに。銀狼にとってはそういうわけじゃないようで。だとすると、甘えるってどうしたらいいのだろうか。よくわからなかった。
彼のように。こうして、身体を擦りつけたりする事を言うのか。やっぱりわからなかった。正直、頼りきりな部分は抜け出したく。そういう意味ではあの、降って湧いたシャチの親子の申し出は。一次的とわかっていても、ありがたいものに感じてしまう。金銭的にあまり家計を支えられていないのもあって。たとえ専業主婦みたいになろうとも、銀狼はそれで良いと言ってくれるのだろうが。動物の頃。雄が雌に対する求愛として、取って来た獲物を分け与えたりする名残として。知性を獲得した今。食べ物だけでなく、住処や、稼ぎで。アピールするように。異性として魅力あると、主張できる物を変えていった時代があって。だからレプリカントの人であるガルシェが。僕に対してそうするのも理解していた。
人間である僕がそれをそのまま嬉しい気持ちのまま受け取らず、引け目に感じてしまうのも。自分だって何かしたいのに、まともに力仕事もできず。男性としてできうる当たり前ができず。かといって、彼の妻として。女性としての当たり前すらできないのだから。最近よく口にする。ルルシャにとって相応しい人になりたいと、銀狼が言うから。よけいに意識してしまうのだった。
今。あまり体調が悪そうではないし。喉がこのままさらに悪化する前に話すべきと感じ。お願いされた件を夫に相談する事に決めた僕は。再び布団の中に押し込んだ相手に。慎重に話題を切り出す。漁村で、網を直したりするのとは別に。シャチの子に計算を教えるのを。ユートピアで学んだ物価とか、そういったものと。ガルシェは、こちらの顔を見つめ。別の雄と喋るなって言ったわりに。その部分には特に触れず。触れられた場合話の腰を折られるので、そうされない方が良いのだが。静かに、聞いてくれていた。
てっきり、反応としては。途中で駄目だって、狼の顔が怒りだすかと思っていたのに。そうしないんだなって。ちょっと意外であり。僕の秘密を共有する人であるから。僕だけでなく、銀狼もまた。人間が不必要に他のレプリカントにかかわるのを避けた方が賢明な判断であると。話し合っていたとしても。
僕の話を聞き終えた銀狼は。考えを纏めているのか。僕から視線を外すと。お腹まで掛けている掛け布団。その上に置かれた自身の両手を見つめているようで、どこか遠くに思いを馳せているように感じさせる。そんな横顔で。
「いいぞ」
落ち着いた声で、でもやっぱり。風邪のせいで声が枯れてかけている。低い男性のそれで。ただ、いいぞって言うのだった。
「いいの?」
肯定してくれたというのに、聞き返してしまう。だってガルシェが、認めるとは思っていなくて。過保護な彼が、少しでも長く。この家以外であまり滞在するのを良く思わないのも。
「嫌だけど。ルルシャが、初めて。ちゃんと俺に相談してくれたから。いい。いつもは全部決めた後で、許可を求めてくるから。親父と、かってに相談して。かってに決めるから。それだけルルシャが自分で決めてしまう強さがあるんだって。以前の俺は思っても、一緒に居るのは俺なのにって。前は傷ついたけど。だから、いいぞ。嫌だけど」
嫌って二回も言った。市長さんの元で。かってに働く事を決めたのも。都市部へ行って。ガカイドを救うきっかけ作りをしようとしたのも。全部、誰にも相談せず。その場で、僕が決めたから。それで、良いって銀狼に毎回聞いて。事は全て整った後で。相手に何も言えなくさせて。強さなんてものではなかった。決して。
「それに、そういう顔をする時。ルルシャは誰かを助けたい時だから。番として支えたい。他の雄に近寄るの、やっぱり嫌だけどな」
「ガルシェ」
家ではだらしないけれど。それ以外で。本当に、魅力溢れる男に成長していく目の前の銀狼。それもこれも、全部僕の為って。する行動、言う言葉。その全てが一心に僕に向けられたもので。そんな顔をしていたのかなって、自分で自身の頬を触ってみるけれど。よくわからない。ただ、感極まってしまって。視界が潤んだ。君が相応しいと気にしなくても、十分、いいや十二分過ぎるぐらいに。君は立派だよ。好きだけれど。ガルシェの事が好きだけれど。この人はなんど、僕を好きにさせたら気が済むのだろうか。狼の際限のないひたむきな愛に、人間の僕まで引っ張られそうだった。
「ガルシェ」
「なんだ?」
もう一度、彼の名を呼べば。自身の手元を見ていた銀狼の顔を、こちらに向けさせる事ができた。そうやって、お互いの瞳を見つめ合いながら。
「ありがとう、大好き」
まとまらない感情を、本当に飾らない言葉にして。言うしかなくて。この気持ちを表現するのに、足りないと感じるのに。それしか言えない。でもその言葉を聞き届けた銀狼は。ニシシと。いつまでも変わらないで居て欲しいと思う。狼として立派になってゆく心と体。それに似つかわしくない子供っぽい笑顔を。彼特有の、僕が愛してやまない笑い方を見せるのだった。
次の瞬間にはくしゃみが飛んで来たけど。そこは、まあ。大目に見てやるとしよう。
招かれるまま、一軒の民家に入ると。一回りは小さい、もう一人の海洋型レプリカント。同じシャチで、クァルールさんの一人息子。
玄関を開けてすぐ見える広間で、胡坐をかいて待っていたようで。僕を連れて父親が帰ってきて。ばっちりと目が合うのだが。ただそれだけで、数秒待ってもそれ以上アクションがなかった。そんな息子の様子に、僕の隣に居た隻眼のシャチは。先に草履を脱ぎ捨て居間に上がると。ギィギィと床鳴りをさせながら、重い足音と共に黙ったままこちらを見ていた息子さんの頭頂部。鼻の穴がある辺りに。拳骨を落としてみせた。ゴツって、そんな痛そうな音。
「おい、馬鹿息子。挨拶しねぇか!」
そしてそのまま、前の時のように。無理やりこちらに頭を下げさせて。痛がる暇すら与えない。身内に容赦がないなって思いながら、ただお構いなくって。愛想笑いをするしかなかった。玄関でひっくり返っている草履をつい癖で綺麗に整えながら、僕も上がって良いものか。様子を窺っていた。それと痛くないのかなって気になって、息子さんの顔を見る。それで、愛想笑いが固まってしまって。床に顎が擦りそうになっているシャチさんの頭、それは当然その父親が腕力で押さえてるからであって。ただアイパッチの下にある目。その視線が一切こちらから逸らされておらず。まるで獲物を見るようだと感じてしまい。背筋がぞわりと鳥肌が立つのがわかった。なに。
「……こんにちは」
ぼそっと、声が小さい。親に言われて渋々というのもあるのだろうが。足先から、頭の先まで。舐め回すような。値踏みするような、そんな不快な視線。人の視線に敏感というか、あまりそう自分の身が晒されるのが苦手であったから。気づけたというのもあった。いつもなら、その目を引くアイパッチの方に視線が誘導されていただろう。警戒心が多少なりともあったというのもあるのかもしれなかったが。
広めの広間なのだが、そこは人の基準。二メートル半ぐらいの巨体が二人、中央に置かれたちゃぶ台を挟んでいるが。とても、空間的に狭苦しいと感じた。あと、寸借が狂ったみたいに。目の前のちゃぶ台がとても小さく、おままごとにでも使うように見えてしまうのも。僕が使うには丁度いいが。片手で摘まんで目の前に置かれたから、恐らく普段は使用しておらず。ただ僕の為だけに引っ張り出してきたのだろうと推測させる。人差し指と、親指で。手が震えながら、人間サイズの湯飲みも置かれたし。本当に、お構いなくって萎縮しているが。客人をおもてなししたい心意気は伝わるので、断れず。たとえ人間が同じ身長になろうとも、彼らの手はちょっと大きめであるから。余計に扱い辛いのであろう。茶請けに小皿に乗せられた小魚が数匹出て来たのは、異文化コミュニケーションしてるなって。久しぶりにユートピアで昔感じたものを、体験していた。主食が魚であるから、それはそうなのかな。
ガルシェが取って来た陸の肉や野菜を食べたりもするから、内臓は人に近いのだろうけれど。生まれ持った好みというものがあるだろうし。沸かしてくれたのか、湯気が立つお茶を手に取り。あまり音を立てないように啜る。味は正直、お茶なのだろうけれど。あまり美味しくはない。嗅覚と味覚が海洋型レプリカントの人達はあまり優れてないから、しかたないのかもしれないが。なら、どうやって食べ物の味を楽しむのだろうか。喉越し、だろうか。僕は人なのでそこら辺の細かい部分は永遠にわからないのだろうなって。巨体のシャチ二人分の視線に見下ろされながら、別の方向を見ていた。小物とか、あまりないなって。肌が乾燥するから長期的に滞在するわけでもない、この家は仮住まいと倉庫的な役割であるのだから。不必要に物が増えないのだろうけれど。本当に何もなかった。こうして、状況にすら目線を逸らしているのは。息子さんの視線が、何だか気持ち悪いからだ。ずっと、ぞわぞわが止まらない。明確にどういった感情なのか、読み取りにくいその瞳。表情も細かい部分は察する事ができないというのもあって。得体の知れなさが、余計不安感を煽った。もう、早く帰りたい。そんな気持ちが話を聞く前から胸の内を満たしてしまう。
「それでな、頼みというか。お願いなんだが」
僕の方ではなく、息子さんの方を見ながら。隻眼のシャチさんがやっと話を切り出してくれる。さっさと聞いて、断って帰ろう。そんな気持ちで、姿勢を正しながら。用件があるだろう、父親よりも一回りだけ小柄なシャチさんを見つめて。そうすると、少しだけ息子さんがちゃぶ台に身を寄せた。
「あんたの知識を。俺に教えて欲しい」
何を差し出せと、責任問題とかそういった事ばかり想定していた僕は。予想外からの切り口に、ちょっと肩透かしを食らう。もっと凄い事を要求されるものとかってに思って。身構えていたから。それと、今はその気配が消えた得体の知れない視線もあって。そこで顔には出さなかったが、僕の中で彼らの話をちゃんと聞こうって姿勢になったのだった。
どうやら。前回の商人との一件。あれは実のところ、前からああいうふうに対応されていたそうで。常に足元を見られた商売に、文句を言いたかったが。残念ながら、陸の者達でされる取引。物の価値も、あまり知らず。教育がユートピア程行き届いていないから。数を数えられる者すら、村の者の中に殆ど居らず。だいたいこれぐらいって、そんな大雑把なものであって。だから、無知故に。言い返す武器もなく、だが難癖だけつけて。暴力に訴えかけると、取引を二度としてくれない恐れがあって。甘んじて受けていたのだった。
そんな漁村と、商人との事情に。突如訪れた転機。僕という存在。今はまだ、男衆では様子見の意見で纏まり。女衆達に任せ、害をなすようなら。追い出すか、潰して殺すように。そう村全体で決められていた僕の処遇。知らないところで恐ろしい話し合いがされていたのだなって、アハハハって乾いた笑いしかでなかった。人間相手の扱いなんてこんなもんと言われると、こんなもんだ。村の中を歩き回るのを許可してくれて、働かせて貰えるだけ優しいと言えたが。そんな警戒も、あまりそう時間がかからず取れて。受け入れられたのだが。でもそれは女性だけで、漁師達の間では。一部の者が警戒心を未だ抱いて。遠巻きにしていた。あまり男の人から話しかけられないなって思っていたけれど、なるほど。彼らもまた、僕から距離をおいていたのか。そう納得しつつ。狼と人間の番。それも同性の。そんな珍しいを合わせた不思議な奴らって共通認識。そこに、僕単体に焦点を当てた時見方が変わってくる。
そのきっかけになった事件。商人と僕との舌戦。蒸し返されると、今はもう恥ずかしいのだけれど。あの時は悪ノリが過ぎたのもあって。
銀狼の素性。あのユートピアの市長。その息子、というだけで驚きなのだが。僕の立ち振る舞いに、誰しもが溜まっていた鬱憤というのもあったのだろう。見ていた村の人が痛快に感じて。特に、クゥルールさんの息子さん。キャルくん、と言うらしい。さんの方がいいのだろうか。異種族の人は見た目で年齢がわからないので、こういう時なんて呼ぶか少し困る。それは向こうも同じなのだろうが。
そんなどこか可愛らしい印象を与える名前の、全く可愛くない大きさの息子さんが。感銘を受けて。足元を見られるのは、俺達が無知だからだって。このまま、なめられたままでいられない。そう立ち上がるきっかけになったらしい。だが、知識を得ようにも。閉鎖的な空間である漁村において。物知りな老人は居ても、それは生活に必要な知恵とかそういったものであって。今話題に出したものとはちょっと違ったのだった。ユートピアに徒歩で向かい、教育を受けたくても。道中で干からびて死んでしまう。乾燥した肌は、そこから裂けて肉を晒し血が吹き出す。惨たらしい末路を辿るらしい。
だからこその、僕。見るからに何もできなさそうな。自分達より小さい陸のレプリカントよりも、さらに背の低い。吹いたら飛ぶ人間が。見事に口だけで、言葉巧みに立ち回ってみせたのだから。かいつまんで言えば、キャルくんの家庭教師を依頼されている。ようはそういう事だった。正直。僕の役に立つかもよくわからない知識と、一応計算はできるが。それだけであって。でも漁村の人達はそれすらできなくて。今、必要とされている。協力してあげたい気持ちも、あるにはあるのだが。ただ、僕は誰かに教えた経験なんてなくて。教わりはしてもだ。教育という部分でなら、夫の方が適任ではないのだろうかと思わずにはいられない。軍人として英才教育を受けているから。ガルシェが、そういえばどこまで計算とかそういったものをできるのか。分野が違うというのもあって。あれだけ一緒に居て、知らないのだが。二人で旅商人を利用する際、口下手な彼ではなく。僕が基本世間話をしながら、取引をしていたから。人見知りが激しいから初対面の人に対して、あの銀狼は不必要に威圧してしまう。目つきが悪いし。ガルシェ。愛想が全くないわけではないのだが。やはり、傍から見ていると言葉が足りないと感じる。僕とは普通に話せるのにだ。
黙ったまま、その人相で威圧すると。商人さんが怯えちゃうというのもあった。だから自然と応対するのはいつも僕。そういえば、ガカイドやルオネ。皆で食べに行った際に。酔った彼がめんどくさそうにぽんと全額払ってくれた場面があったけれど。店員さんが言っていた金額より大幅に多かった気がする。返されるお釣りの量がそれを物語っていて。ガルシェの金遣いが荒い理由って。もしかして。自分で働く前まではお父さんの仕送りで食べ物は何不自由なく暮らしていたみたいであるし。ある意味、あの街での基準で言えば。住んでいた家の機能とか含め。お金持ちのお坊ちゃんみたいな人である。愛情だけ、不足していたが。家事が全くできず、ずっと商業区で出来合い品を買うか。缶詰で全て完結していたのだ。金銭感覚がまともに育つはずがなかった。こんど、そこらへんもつっついてみよう。必要なら直さないと。いつ、変なところで浪費されるかわかったもんじゃない。家の中、家計を管理しサイフを握っているのは僕なので。今現状で言えば、問題はないが。家の外は俺って、銀狼自身が決めた役割分担をしているし。そう言いながら時々、家事も手伝ってくれる。僕の負担なんてあまりあってないようなものだ。こんなところで、思わぬ気づきがあったものだと思う。
「せがれが、漁以外で何かを学びたいと言うのは初めてで。頼れるのはあんたぐらいだ。どうだろうか」
人助けとかそいう意味では、本当にやってあげたいのだが。安請け合いもしたくない。それに、今でもかかわり過ぎていると感じているのに。これ以上、仲良くなるのもなって。そんな考えもあった。漁村の人達には、僕の出自は教えていない。というより、誰それと言えるわけもなかった。下手したら本当に殺処分されかねない。ガルシェは、それでも受け入れて。こうやって辺境で暮らす道を選んでくれたのが。レプリカントの人達全員が、同じようにしてくれるかというと。限りなく低く、いや、まずないであろうか。レプリカントの機械に対する悪感情は、考慮するべきだった。見つかったら、即戦いに発展して。女、子供、関係なく肉塊に変えられるのだから。そんな相手と、関係性があるかもしれないと知れたら。彼らがどう思うだろうか。考えるまでもなく、答えは明らかだ。この周辺は、比較的安全で。機械達も姿を見せないらしいが。都市部に近づけば近づく程に、特にユートピアの人達や。もう滅んでしまったフォードという街。その難民の一部が、ユートピアに流入して。今は暮らしているのだから。僕という存在は、魔女狩りのように。晒し物にされるだろうか。解剖されて、死体を尊厳もなく、嬲られて。
僕の秘密を知るのは。僕自身と、夫だけ。ガルシェは口が堅い。それと、馬鹿ではないから。言ってはいけない事は、ちゃんと黙っていてくれる。そういう心配はないが、だからと。積極的にかかわるのは、やはり避けるべきだ。そう結論付けると。どこか、僕が断る雰囲気をさせたのを感じ取ったのか。こんどは父親である。隻眼のシャチが身を乗り出して。
「報酬は勿論だす。あんたの身の安全も、あの目立つ毛皮をした狼の野郎に誓おう。俺が、口利きして。村の連中に手を出さないように、しっかりと言えば。前よりも過ごしやすいはずだ」
一応、交渉事であるから。僕の欲しい物を探りながら、前もって用意していたものを提示しているのだろうか。ただ、彼らの想定外なのは。やはり、こうして僕が頻繁に立ち寄りはしても。深くかかわりたくないって部分であって。そこまで魅力には感じない。逆に彼らが欲するのは僕の知識という、目に見えないもので。いくら血の気が多くとも、常識的に。こちらを尊重して接してくれているので今のところ。暴力で無理やり言う事を聞かせようなんて雰囲気はないが。だからこそ、こうしてゆっくりと考えられているのだが。それをした場合、恐らく夫が完全武装して乗り込んで来る事になるが。僕と二人っきりの時、普段はあんなだが。ガルシェは、やるとなったら殺るタイプだ。躊躇はない。躊躇したら、その瞬間に味方が死ぬって。そんな環境に置かれていたのもあるのか。ガカイドやルオネと一緒に受けた、卒業試験での事故も。彼の考え方を決定づける要因となっているのだろう。大事な人を守るとなったら銃の引き金を引くのに。迷う素振りはなかった。
旅の道中。僕を格好の獲物と定め。襲って来た暴漢をとても冷めた瞳で、交渉もせずに撃ち殺したから。同じ、レプリカントであっても。冷酷とも取れるが、それだけ。この世界は過酷なのだった。ユートピアで暮らしていた時期も、護衛として外に出ている時。襲ってくるのは野生動物や機械だけではなく、住む場所を追われ野党と化した同族であったり、人間であるのだから。殺人をした回数なんて、いまさら数えてはいないと。淡々と語る狼の口。あまり詳しく、あの街で一緒に暮らしていた頃は仕事の内容を聞かなかったが。ガルシェ自身、言わないようにしていたのだろう。聞いて、楽しいものではないし。同じ立場なら、僕だって濁す。
ユートピアは人間に対してまだ友好的だが。これは市長さんの方針が影響していると思う。逆にフォードの人達は、差別意識が強く。それが対応の差に表れており。ユートピアという街から離れれば離れる程に。人間とレプリカントの対立関係は表面化する。獲物を獲る縄張り争い、文明の遺産を巡って、理由は様々だが。穏やかに交渉だけで終わらず、血が流れる結果になってしまって。そうやって数十年、数百年。共に力を合わせて暮らしていた時期もあったのに。悲しいものだ。
それなのに。僕とガルシェという。人間とレプリカント。そんな奇跡のような組み合わせの番が居るのだから。お互いを尊重し敬い。思いやりで成り立つ関係。やった事、してくれた事。言った言葉、言われた言葉。ちょっとずつ、二人で乗り越えて、手を繋ぎ。結婚までして。
簡単ではなかった。お互いを時として傷つけあって。一度は生きる事すら諦めもした。そんな時、絶望の沼に沈んでいく僕を引き上げてくれたのは。他の誰でもない銀狼だったのだ。
僕の行動基準は。誰かの役に立ちたい。愛する人を支えたい、そんなものだったから。
だから、この漁村の人も助けてあげたい。商人との一件でも、そんな気持ちで行動に移したのだから。ただ優先すべきは、夫であり。僕にとっての一番はガルシェだ。彼らではない。そこを見失って身の丈に合わないところまで、飛び込んでいきたくはない。
銀狼は目の前で起きた事全てを、後先考えず飛び込んで助けようとするなら。
僕は薄情と思われるかもしれないが、大事な人、重要な人を選り分けて。助けられるものと、できないものと分けてしまう。そう、考えてしまう。あまり褒められた性格とは、自分でも言えないだろう。だから自分の事を優しい人とか、そう思った事もなかった。ガルシェはこういう僕の考え方を聞いても幻滅するどころか、ルルシャはそれでも。誰でも、結局は助けようとするだろって。言うのだ。買い被りすぎだと思う。全肯定するにも程がある。番に対して盲目的だとすら感じる。狼って、皆。ああなのだろうか。
断ろうと思った。そうしようと。だというのに僕が渋ると提示される額が上乗せされて。寄り合い所で網を直すよりも。そして時間にしても、日に二時間ぐらい。キァルくんも、クゥルールさんの元で一緒に漁師として海に出ないといけないから。教える時間帯は、お互いに昼過ぎから夕方までの間に限られる。僕の門限、暗くなる前に帰してくれるというのなら。ガルシェも怒らないであろうか。
「頼む、あんたしか頼める人がいないんだ。俺が覚えた後は、後輩には俺の手で教えていく。あんたが教えるのは俺だけでいい」
だからどうか。ここで初めて、キァルくんが自分から頭を下げた。勢いがつきすぎて、ごつってちゃぶ台に頭をぶつけ。お皿の上にある小魚が息を吹きかえしたかのように跳ねる。ちょっと、条件が僕に都合が良すぎるように感じられるが。隻眼のシャチからは息子の願いをただ叶えたい、お金は俺が融通するってあくまで補佐をし。裏がなさそうで。そして、その当人から熱意も感じられる。断ろうとした僕の心が、少し揺らぐ。
「その、僕の一存では。今日は話を持ち帰って、ガルシェにも相談したいです」
シャチの顔が二つ、ぱぁって花開くように笑顔になって。ありがとう。そう、まだ受けるとも言っていないのにお礼まで言われてしまって。息子さんに至っては太く逞しい尾ヒレがびたんびたんと床を叩き、しまいには突き破っていた。当然、家を壊すなって親父さんの拳骨が炸裂して。また小魚がぴょんぴょんする。
前の僕なら、自分の身の振り方はだいたいその場で決めていたけれど。事後承諾ばかりで。だがもうこの命は、ガルシェに預けている。かってに決めて良いものではなかった。夫にちゃんと相談しなくてはいけない。後、こうまでされると断り辛いというのもあって。一旦保留にして、後日。銀狼に駄目だと言われましたって。そう断ろうかなって考えていたから。こういう時、濁したり嘘を混ぜたりしても陸の者達みたいに。においで感情を読み取られないと安心する。建前がちゃんと使えるのだ。こうも喜ぶ姿を見てしまうと、罪悪感は生じるが。やっぱり、あまりかかわり過ぎると良くないだろうし。
実際にガルシェが、許すとは思えない。ちょうど今、寂しさを爆発させてる状態で。どうにかなだめて出てきてる僕が、これ以上家を留守にする時間が増えるのを良しとしないであろう。外に出掛けている時、番に会いたくて急いで帰ってくる銀狼。たまに留守番をさせると、見送ってくれるのはいいが。いつまでも玄関で離してくれないし。だいたいは着いこようとするのだから。ぬか喜びさせてしまっていて。申し訳なく思う。
家の外まで見送られてしまい。なんだか外堀を埋められそうだ。帰った後で、村中に受けて貰ったって言いふらしたりしないで欲しかった。頷いていないし、返事も保留にしたのだから。さすがに、あの親子がそこまで先走った行動に出るとは。思いたくはない。少し自転車を走らせて、べったりと張り付くような気持ち悪い視線を感じて。自転車を止め、振り返る。するとまだキァルくんだけ家の外で立ったままの状態で変わっておらず。親父さんは既に海か家の中に引っ込んだようであるが。向こうからも僕が自転車を止めて、振り返ったのがわかったのか。両手をぶんぶん、振っていた。そんな仕草に良心が痛む。後日、やっぱり無理でしたって言ったら。殴り殺されたり、しないよね。そう願いたい。
手土産に、編み籠の中には茶請けとして出された手付かずの小魚が。マッコウクジラのお婆ちゃんから貰ったアジの一種だろうか。そんな大ぶりの魚と一緒に入っていて。今日は魚料理に確定だった。気候的に痛みにくいとしても、生魚は速めに食べないとやはり足が速い。あまり量はないが。自宅から見て。漁村とは別方向にある牧場が存在していて。分けて貰ったバターがあったのを思いだした。あれも使わないと腐ってしまう。足の悪いレプリカントの老夫婦が細々と経営しているそこは。息子さんが跡を継ぐ予定であるらしいが、都会に憧れる若者のように。ユートピアに出稼ぎに行ってしまっているらしく。会った事はない。ガルシェが漁村から貰った魚や、自分で獲った肉を分けて。代わりにミルクや、バターを安く融通して頂いている。ユートピアでは、全体を鉄の壁で囲んでいる為に。畜産とかは土地が限られているのでとても小規模なものだったが。ここは害獣は出るとしても、機械達の脅威があまり及ばぬ場所。だからこそ、できるというのもあった。バターに魚。後、小麦粉もあるから。ムニエルとか良いかもしれない。嗚呼、でも風邪の時ってさっぱりした物の方が良いのか。普通に焼き魚と味付けは塩にしようか。
ユートピアで使われている塩の一部が、この漁村の人達が副業として製造している塩なのは不思議な巡り合わせだった。旅商人が主に運ぶみたいだが。かなり安く買いたたかれていたのだろうか。あの悪徳商人だけである事を願いたい。複数の旅商人が。入れ替わりで立ち寄るので。同じ顔触れが続くような場合はないのだが。
ハンドルの片方に編み籠をぶら下げているので。正直、運転するのにバランスが悪い。気をつけていないと、片方に自転車が傾き。どんどん一方方向に曲がって行ってしまう。それと、帰りは坂道なのであまり荷物が増えると僕の負担もその分多くなる。鍛えているとはいえない、自分のひ弱な肉体を酷使しながら。ひんやりする空気に、冷却されている筈なのに。額に汗が伝う。あの街で暮らしている時よりは、旅をする中で。体力と、筋肉が自然とついたと思ったのに。本当に微々たるものだった。あまり僕がへばっていると、過保護な銀狼が抱っこしてくるのもあったと思うが。
それでもペダルを確実に踏み続けていると、森から出て。アスファルトが顔を出し。きっと穿たれた穴達は、空爆とか砲撃の名残なのかなって。障害物になっている、朽ちた自動車を避けながら。見えて来た我が家にホッとする。まだ日も落ちていないし。予定外の事がありはしたが、それでも早めに帰れたと思う。アーサー達にただいまって挨拶しながら。編み籠の中の小魚を見る。そういえば鶏って、魚をあげても大丈夫なのだろうか。茹でた麺類やパンはあげたら駄目だって、ガルシェが言っていたけど。餌は基本夫が作っているので、迂闊に僕が手を出して体調を崩してしまったら目も当てられない。ペットにも自分が食べるのと同じ物を食べさせてあげたいというのは、人間の完全なエゴであり。人間が毒耐性が高く、何でも食べられるだけで。他の生き物は食べたら最悪死に至る物が多い。ガルシェですら、玉葱が食べられないし。即死はしないが、気分が悪くなるらしい。嘔吐とか。やっぱり、毒だ。人間でもニンニクを大量に食べると善玉菌が死に絶えて大変な事になるらしいし。いくら毒耐性が高くとも、過信は禁物なのだが。
僕が気まぐれでこっそり、玉葱を調理して食べていたのを見つかった時。困惑したまま、尻尾を膨らませて凄い顔して見られた。レプリカントの人が食べられない食物は、とても安く売られていたり。そのまま捨てられたりするので。家計の節約で、僕だけそれで腹を満たせば。馬鹿にできない節約術になるのだ。銀狼が心配そうに。しきりに身体のどこか悪くないか聞かれるのを除けば。デメリットがないとすら言える。美味しいし、健康に良い。血液もサラサラ。ガルシェはこっちを見ながらびくびく。なんで怯えるの。
自転車を停めて、編み籠を持つと。空いた手で取り出した鍵を家の鍵穴に差し込む。シリンダーが錆びているせいで、ちょっとコツがいるのだが。イメージ的に差し込んだ鍵を持ち上げたまま回すと、ガチャリ。そんな音をさせて解錠された。もうそろそろ油を挿さないといけないかな。そう思いながら扉を開き、外は明るいが家の中は電気が普段通ってないので薄暗い。発電機を動かすのは水を使う時だけ。昼間でも銀狼が寝やすいように、カーテンも全部締め切っていたからなおさら暗く感じる。ガルシェの目なら気にならないみたいだが、僕だと小さな段差に気をつけないと躓きそう。
玄関を入ってすぐに。下駄箱の上にランタンが置かれているが、それを使おうか暫し悩むも歩けない程でもない。貧乏性な部分で、これぐらいならいいかなってそう思った。内側からまた施錠し、チェーンロックも掛ける。もしも誰かが押し入ろうとした場合、大きな窓を叩き割るなりチェーンロック程度簡単に引きちぎれるのがレプリカントという異種族の膂力の差であるし。悪意ある人間ですら道具を使えば結果は同じ事ができる。気休めだがせっかくあるのと、鍵を掛けずに開けっ放しというわけにも気分的に気持ちが悪い。そんな形だけの習慣をこなすと。部屋の奥。寝室に向けてただいまと、間延びした声で。銀狼に帰宅を告げた。耳の良い彼の事だから、寝室からでも鍵を開ける音を。もしかしたら自転車で庭に入ってきた音で気づいている可能性すらあったが。
二人しか住んでいないし、用途別に履き替える靴も持っていないから。収納スペースをもて余し気味な靴箱に、脱いだ靴を入れながら。返事がないから寝てるのかなって。夫の顔を脳裏に浮かべ、既に一足置かれているくたびれた大きなブーツを見やる。銀狼はよく脱ぎ散らかしたままにするので、僕が見つけたら直したり、下駄箱に入れたりする癖がついてしまっている。クゥルールさんの草履もついそうしてしまったのもそのせいだ。
とりあえず、一度キッチンに行き。編み籠の中身を冷蔵庫に入れる。半ば強引ではあったが。貰ったからには今日の晩ご飯として、ありがたく頂くべきだ。この編み籠も返さないといけない。
そろりそろり、足音を消しながら薄暗い廊下を進み。慎重に寝室へ続く扉のノブを持つと、これも音を立てないようにしながら開けて中の様子を窺う。とても静かだった。だが寝息にちょっと、鼻が詰まっているのか。男の寝苦しそうなとても小さな呻き声が混じる。やはり、ガルシェは寝ているって。ちゃんとおとなしくしていたんだなって、安堵しながら。扉の隙間から身体を滑り込ませるようにして室内に入り、開けた時と同じように扉を閉める。せっかく寝ているのだ。起こすのも悪いと思って。食事の用意をしてからでも、遅くはないであろうか。
ベッドに近づきながら。出掛ける前に置いておいた水差しの中身が、半分程に減っている事から。水分補給は一応しているのだなって確認して。それから狼の寝顔を覗き込もうとした。したのだが、掛け布団を肩までしっかりと被さっているのは良いのだが。彼の枕が、ちょっと頭のサイズに対しては小さい物で。逆に大きい方はベッドの下に転がっているし。その枕というか、狼の頭を囲むようにして。衣服が散乱していた。上着、下着。種類を問わず。ただ共通しているのは、全ての衣服が洗濯籠に入れておいた僕の着ていた物であるってだけで。そしてどう見ても、銀狼が使ってる枕も僕のだ。
何かの儀式めいていて、異様な光景に困惑した。それをしたのは、確実にガルシェなのだろう。眠るその顔をもっと覗き込もうとすると、気配で察知したのか。薄く目蓋が持ち上がる。意識が浮上していくさまが、目の動きでつぶさに感じとれ。ぱちぱちと、数回瞬きした後。金色の光彩がこちらを向く。
「んあ……、ルルシャ? おかえりぃ」
「ただいま。ガルシェ。どうしたのこれ?」
あまり衝撃を与えないように気をつけながら、ベッドの縁に腰を下ろすと。なんだかぽやぽやしている狼の額から、落ちかかっている濡れタオルを取りあげる。そしたらしっとりした毛皮を撫で付けた。まるで撫でられた猫のように、また目を細めている狼。僕の名を呼ぶ声は、今朝よりもだいぶかすれていて。鼻呼吸ではなく、口呼吸ばかりして喉を痛めたようだった。このままだと、咳も出だすかもしれない。
これ。そう、狼の頭を囲むぐちゃぐちゃの衣服を指差すと。自分でやっといて、まるで心当たりがないかのように。周囲を見回すようにして首を動かすガルシェ。そうした後。暫し考え、思い出したのか僕を見つめる銀狼の瞳は。怒られるのを恐れるようにして揺れ、耳までその感情を表現していた。
「あ、これは、その。鼻、詰まって。ルルシャのにおいが、感じられないから落ち着かなくて。せめて、物で満たしたら寝られるかと思ってだな……」
しどろもどろに、起き上がろうとする上半身を。言外に寝てろと、手で制しながら。僕のにおいがないと眠れない、特定条件下の不眠症を患う銀狼。あの街で暮らしていた頃は、ここまでではなかったのだが。なんだか、どんどん悪化している気がする。もうそれを改善する必要はなく、僕が傍に居れば問題ないのだから。状態を危ぶむ事もなく、ただ。可愛らしいなって。じんわりと、心を満たすもの。でも下着は持ってきて欲しくなかったな。僕のパンツにマズルを埋めている変態ではないけれど、近いものがある。
「そっか。効果のほどは?」
一応帰ってきた時、彼は寝ていたのだから。聞かなくても良かったのだが。僕を見て、安心したように気を許している相手に。つい聞いてしまって。銀狼も、ちょっと小さい枕に頭を預けながらも。首を傾げ。自嘲するように、口元を緩めた。
「本物には敵わないな」
起き上がるのを許さない僕に対して、寝転んだまま。銀狼が仰向けから横向きになると。布団の中から腕が伸びてきて、僕の腰を抱えるようにして引き寄せようとする。特に抵抗する理由もなかったので。好きにさせると、彼の頭が太腿の上に乗せられ。ぷぴーって、黒い鼻から変な音がした。詰まったそこではまだ嗅覚が回復していないのか。嗅げなくて残念そうにしながらも、自分の身体を擦りつける事で補おうとしているのか。においではなく、感触で、僕を確かめていた。太腿や、お腹に狼の頭が擦りつけられる。
「お腹空いてない? お魚貰ったんだけど、食べられそう?」
「食欲はある。けど、もう少しこのままがいい」
「ナデナデは?」
「お願いします」
あまりに素直な返答に、クスクスと笑いながら。お客様からの追加注文が入ったので。額から、こんどは後頭部にかけてをゆっくりと撫でてあげる。すると、ガルシェの布団で隠れた下半身。ちょうどお尻がある場所が内側から押し上げられては、沈んでを繰り返す。甘えたな成人男性を見下ろして。幼少期から、こうして誰かに甘えた事がないだろうから。今、そういう欲求が強く押し出されているのだと思った。カッコつけたがるけど、自分の願望にとても正直なので。やっぱり狼より、犬っぽい。その対象が僕だけという、優越感もあって。なら精一杯、彼を甘やかすのも。妻としての務めだろうか。番に対して、狼の人ってこうなるのなら。あの人も。灰狼も。そうだったのかなって。そんな対象を喪った、余生とは。立場的に頑張る道しか残されていない者とは。正直、僕はあの人を嫌っているわけではなく。この銀狼の父親というのもあって。どちらかというと、好いてはいて。だというのに、お互いに言葉で殺し合いをする仲でもあったわけで。息子さんを奪ってしまったから。今頃どうしているのだろうか。余生の中で、それでも頑張る理由を奪い去ってしまって。ガルシェという、愛する子を。自分では成しえなかった。番と子育てをし、幸せな家庭を築く。そんな理想を押し付けて。でもそれは真っ当な、ごく一般的な。ユートピアの人達にとっての理想像だというのも事実であった。だから、僕は身を引く事に異論なんてなかった。あの街では部外者でしかなかったから。お父さんも救いたいと思いながら、二度も愛する人を奪われて。その二度目をしたのは、僕だ。きっと怨まれているのだろうな。怨まないわけがなかった。愛情深い人だったから。その分、厳しくもあったが。
ガルシェが、僕よりも先に死んじゃうのなら。それよりも先に生きているあの人も。ずっと早く、いなくなってしまうのだな。できるなら謝りたい。でも会わせる顔を持ち合わせておらず、会ったとして。何を言うのか。ただ相手の感情を逆撫でるだけであろうか。灰狼がいなくなった後で、あの街が。ユートピアがどういうふうに、人間に対する方針を変えるのか。そのままであったなら良いが。排他的になってしまったら。悲しくは思う。できるなら、人間と友好関係を取り戻したいという。彼の意思を継ぐ誰かが、後継人になってくれればいいが。シュリくんとか。あの子、ちょっと過激派な部類だから。もう少し成長したら、その面が幾らか和らいでくれたなら。僕の事を嫌っていなかったから、人間に友好的に接する意思をそのまま継いで欲しくはある。だが、肝心の人間側が。レプリカント種に対して友好的でないのが問題で。彼らよりも長生きな分、過去を過去とする感覚にも差異があって。食人事件は、まだ色濃く残っているのだろう。だからこそ、また仲良くしたいと言う。そんな灰狼を馬鹿にした態度で、応対していたのだと予想できた。
身嗜みを綺麗に整え、あまり流通していないスーツばかり着て。人よりずっと目が悪くなって眼鏡を使わないとすぐ近くの物すら。眉間に皴を作り、目を細めて見ないといけなくて。言葉遣いも、動物的な仕草も隠し。全部、彼の努力の証だった。よりよく、街を発展させる為に。見本となれるように。だからこそ。どれだけ傷つく事を言われても、僕はあの人を尊敬していた。尊敬している人にする仕打ちとしては、あまりにも酷であっただろうが。
「ガルシェ、お父さんに。会いたい?」
もしも。彼が会いたいと言うのなら。僕はそれをしても良かった。あの街にもう一度。そうして謝って。許されず。息子を返せと、僕の首に縄を掛けられようと。それで良かった。突然、聞いた僕に対して。銀狼は太腿に頭を預けたまま、目線だけ見上げてきて。訝しみ、そうやって。視線を横へと向かせ。考えているようであった。なんでそんな事急に聞くんだって、言わずに。ただどう答えようか。そう考えてくれていた。きっと僕が傷つかない言葉を探してくれている。
「狼は。番を持つ時。今まで居た群れから離れて、新しい相手と群れを作るから。別に会いたいなら俺一人で行けばいいし、ルルシャがそんなに気にしなくてもいいと思うぞ。ちゃんと話し合ってあの街から出て来たから。お前が負い目に感じる必要もない」
やり辛い体勢だろうに、腕を伸ばし。僕の頬に触れてくる。その肉球が愛おしい。思わず、その手をもっとしてって。そんなふうに、上から手を重ね。僕からも頬を擦りつけてしまう。
「負い目に感じてるって、バレてた?」
「ルルシャは考え過ぎるからな。そして優しいから、なんでも。自分のせいだって思ってしまう。言っただろ。もっと自分にわがままになっても良いと思うぞって」
そのわがままのせいで、君を僕に縛り付けているのに。一人で会いにいけば良いと言ったけれど。それはつまり。僕から暫く離れる事を意味していて。一日や二日で、ユートピアとこの家を往復できる距離ではなかった。そして、それを良しとする人でもなかった。僕を放置してまで、会いに行くわけもないと知っていた。ガルシェが。そうするわけない。
そして群れを作るって言っても。僕は男だから、彼の子を産めないわけで。たった二人だけの、群れであった。お互いが相手だけで良いなんて思っていた、あの瞬間は。考えが浅く。ただ、一緒に居るだけで良いんだって。思っていたのに。劣等感を自覚してからというもの。募っていく申し訳なさに。自分が、女の人で。狼であったなら。もっと、ずっと早く。肉体的にも彼を受け入れる決心をして。我慢なんて強いず、もっと。もっともっと、愛を返せたと。そう考えてしまうと。考え過ぎるな、なんて、言われても。考えてしまう。
「本当なら。先にルルシャを看病するのは俺の筈だったのに……」
むうって、狼の顔が。僕の膝上でいじけた態度を見せていた。どうやら、僕のありとあらゆる初めてを。ガルシェは奪いたいと思っているのか。そんなふうに、子供っぽい仕草で。安心させようとしてくれる。うじうじばかりしてしまうというのに。彼は一度も、そんな僕に対して。鬱陶しいと感じてもおかしくないのに。そんな態度一度も見せなくて。
「じぁあ。僕が風邪をひいたら。うんと、ガルシェに甘えないとね」
「本当か! ルルシャは、甘えて良いって言っても。ぜんぜん俺に甘えてくれないから。むしろ俺ばかり甘えて。だからたくさん甘やかしたい!」
がばって、腕を立てて。テンションが急上昇した狼が、起き上がり。ベッドの上で四つん這いになった。跳ねのけられた掛け布団が、空中を舞い。ばさりと、ベッドの外にはみ出すようにして落ちる。こうなると、もう一度大人しくさせるのに苦労させるのは僕だった。ぷしゅんってまたくしゃみをさせて。寒いって震える男を。布団を直しながら、ベッドの中に押し込めるのにだ。
ガルシェがそう思っていなくても、十分。僕は君に甘えているよ。甘えてた。しっかりしないといけないなって。成長速度が速い相手に。老いも早ければ、覚えるのも早いのか。体感時間は人の何十倍にも感じているとしたら。そうなってしまうのかな。甘えて欲しいと彼は言う。私生活。生活する面において、彼にだいぶ依存してる自覚はあるから。甘えてると言えるのに。銀狼にとってはそういうわけじゃないようで。だとすると、甘えるってどうしたらいいのだろうか。よくわからなかった。
彼のように。こうして、身体を擦りつけたりする事を言うのか。やっぱりわからなかった。正直、頼りきりな部分は抜け出したく。そういう意味ではあの、降って湧いたシャチの親子の申し出は。一次的とわかっていても、ありがたいものに感じてしまう。金銭的にあまり家計を支えられていないのもあって。たとえ専業主婦みたいになろうとも、銀狼はそれで良いと言ってくれるのだろうが。動物の頃。雄が雌に対する求愛として、取って来た獲物を分け与えたりする名残として。知性を獲得した今。食べ物だけでなく、住処や、稼ぎで。アピールするように。異性として魅力あると、主張できる物を変えていった時代があって。だからレプリカントの人であるガルシェが。僕に対してそうするのも理解していた。
人間である僕がそれをそのまま嬉しい気持ちのまま受け取らず、引け目に感じてしまうのも。自分だって何かしたいのに、まともに力仕事もできず。男性としてできうる当たり前ができず。かといって、彼の妻として。女性としての当たり前すらできないのだから。最近よく口にする。ルルシャにとって相応しい人になりたいと、銀狼が言うから。よけいに意識してしまうのだった。
今。あまり体調が悪そうではないし。喉がこのままさらに悪化する前に話すべきと感じ。お願いされた件を夫に相談する事に決めた僕は。再び布団の中に押し込んだ相手に。慎重に話題を切り出す。漁村で、網を直したりするのとは別に。シャチの子に計算を教えるのを。ユートピアで学んだ物価とか、そういったものと。ガルシェは、こちらの顔を見つめ。別の雄と喋るなって言ったわりに。その部分には特に触れず。触れられた場合話の腰を折られるので、そうされない方が良いのだが。静かに、聞いてくれていた。
てっきり、反応としては。途中で駄目だって、狼の顔が怒りだすかと思っていたのに。そうしないんだなって。ちょっと意外であり。僕の秘密を共有する人であるから。僕だけでなく、銀狼もまた。人間が不必要に他のレプリカントにかかわるのを避けた方が賢明な判断であると。話し合っていたとしても。
僕の話を聞き終えた銀狼は。考えを纏めているのか。僕から視線を外すと。お腹まで掛けている掛け布団。その上に置かれた自身の両手を見つめているようで、どこか遠くに思いを馳せているように感じさせる。そんな横顔で。
「いいぞ」
落ち着いた声で、でもやっぱり。風邪のせいで声が枯れてかけている。低い男性のそれで。ただ、いいぞって言うのだった。
「いいの?」
肯定してくれたというのに、聞き返してしまう。だってガルシェが、認めるとは思っていなくて。過保護な彼が、少しでも長く。この家以外であまり滞在するのを良く思わないのも。
「嫌だけど。ルルシャが、初めて。ちゃんと俺に相談してくれたから。いい。いつもは全部決めた後で、許可を求めてくるから。親父と、かってに相談して。かってに決めるから。それだけルルシャが自分で決めてしまう強さがあるんだって。以前の俺は思っても、一緒に居るのは俺なのにって。前は傷ついたけど。だから、いいぞ。嫌だけど」
嫌って二回も言った。市長さんの元で。かってに働く事を決めたのも。都市部へ行って。ガカイドを救うきっかけ作りをしようとしたのも。全部、誰にも相談せず。その場で、僕が決めたから。それで、良いって銀狼に毎回聞いて。事は全て整った後で。相手に何も言えなくさせて。強さなんてものではなかった。決して。
「それに、そういう顔をする時。ルルシャは誰かを助けたい時だから。番として支えたい。他の雄に近寄るの、やっぱり嫌だけどな」
「ガルシェ」
家ではだらしないけれど。それ以外で。本当に、魅力溢れる男に成長していく目の前の銀狼。それもこれも、全部僕の為って。する行動、言う言葉。その全てが一心に僕に向けられたもので。そんな顔をしていたのかなって、自分で自身の頬を触ってみるけれど。よくわからない。ただ、感極まってしまって。視界が潤んだ。君が相応しいと気にしなくても、十分、いいや十二分過ぎるぐらいに。君は立派だよ。好きだけれど。ガルシェの事が好きだけれど。この人はなんど、僕を好きにさせたら気が済むのだろうか。狼の際限のないひたむきな愛に、人間の僕まで引っ張られそうだった。
「ガルシェ」
「なんだ?」
もう一度、彼の名を呼べば。自身の手元を見ていた銀狼の顔を、こちらに向けさせる事ができた。そうやって、お互いの瞳を見つめ合いながら。
「ありがとう、大好き」
まとまらない感情を、本当に飾らない言葉にして。言うしかなくて。この気持ちを表現するのに、足りないと感じるのに。それしか言えない。でもその言葉を聞き届けた銀狼は。ニシシと。いつまでも変わらないで居て欲しいと思う。狼として立派になってゆく心と体。それに似つかわしくない子供っぽい笑顔を。彼特有の、僕が愛してやまない笑い方を見せるのだった。
次の瞬間にはくしゃみが飛んで来たけど。そこは、まあ。大目に見てやるとしよう。
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