ディストピア系アイドルゲームのモブに転生したので、クズ上司を演じながら推し活することにした

西嶽 冬司

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序章【来訪者、あるいは共犯者の苦悩】

第3話【カニ、あるいはクズの覚醒】

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千紗の歌声はまさに天上の調べだ。

澄み渡る高音が空気を震わせ、鼓膜を通り越して魂に直接響いてくる。
荒廃した世界に降り注ぐ、一筋の祝福。
神が人類に与えた、最後の慈悲。
あるいは——堕天する直前の天使が零した、最初で最後の涙。

歌詞なんてものはない。
純粋な音の連なりが、聴く者の記憶を、感情を、存在そのものを揺さぶっていく。

悲しみを知らない者は、この歌で初めて涙の意味を知るだろう。
喜びを忘れた者は、この歌で再び微笑むことを思い出すだろう。

その声を初めて聞いたあの日の情景は、今でもはっきり思い出せる。

薄暗くて、湿っぽい空気の漂う共同スペース。
壁紙はところどころ剥がれ、コンクリートの地肌が顔を出していた。
安物の蛍光灯はチカチカと瞬き、床には、いつ掃除したのか分からない薄い埃の膜。
子ども用と呼ぶにはあまりに無機質な長椅子と、欠けたマグカップ。

——それが、俺が引き取られた施設の日常。

そんな見窄らしい世界の隅っこで、千紗は歌っていた。

窓ガラスは細かいヒビだらけで、外の空は鉛色。
なのに、千紗の周りだけは、まるで天から光が降り注いでいるみたいに見えた。
安っぽい蛍光灯の白さすら、彼女を照らすためだけのスポットライトに思えた。

場違いなほど綺麗で、場違いなほど優しくて。
この世界のどこにも属していない、完璧に浮いた光景。

その中心で、まだあどけない顔の千紗が、目を閉じて静かに声を紡いでいた。

砕けたガラスを透かした光が、千紗の銀髪に降り注ぐ。
その姿は、まるで天使が地上に舞い降りたかのよう。
薄汚れた世界の中で、彼女の周りだけが別の法則で動いているような—— 
そんな錯覚すら覚えるほどの、圧倒的な存在感。

俺はその日、確かに思ったのだ。

——ああ、これが「推し」の歌声か、と。

そんな歌声を聞いた俺は——






白目を剥いて泡を吹き、のたうち回った。



***



「いやおかしくないですかぁ!?
 美声に酔うならまだしも、なんでカニ化してるんですか!」

突然の鋭いツッコミ。
響は回想から抜け出し、呆れ返っている記者——佐倉 美咲に視線を戻した。

「ちょっとちゃんミサキぃ、過去回想に入ってくるのは御法度でしょー。
 世界観への没入が台無しじゃーん」

「あだ名の語感最悪かよ!
 私、食後のお茶請けに楽しい話頼んだんですけど!?」

美咲が持っていたペンを放り投げた。
まったく、これだから現代っ子は困るよ。

「せっかちさんだなぁ。 最後まで聞けって。 ここからが本番なんだから。
 まさに聞くも涙、語るも涙の、壮大な義兄妹の大スペクトラムよ」

「絶対嘘ですよね。 カニの話がメインディッシュだったら帰りますよ。
 あとスペクトラムじゃなくてスペクタクルでしょ」

「帰んなって。 ほら、続き話すから」

響は咳払いをひとつ。
再び、記憶の糸を手繰り寄せ、あの日へと意識を沈めていく。
カニになった、あの運命の日へ。



***



——兎に角、千紗の歌声が耳に入った瞬間、俺の脳内でバグが起きた。

記憶が奔流のように押し寄せてくる。
前世の記憶。平和な日本。
ソシャゲ。 ディストピア。 アイドル。 兵器——
そして、推しの悲惨なエンディング。

いや待て待て待て。
この曲、知ってる。 めっちゃ知ってる。
ていうかこれ、イベント限定ガチャのテーマ曲じゃねぇか!
俺が天井まで回した曲じゃねぇか!

『天井まで回す……? 自分をですか?』

そう、まさに天に昇る気持ち。
そして対価に気づいて虚無に堕ちるわけ。

目まぐるしく脳内を駆け巡った情報を必死に整理した。

この世界は、前世でやり込んだ18禁アイドルゲー『響界のヴァルキリー』。
キャッチコピーは『歌声は世界を救う』。
箱を開けたら死にゲーも裸足で逃げ出す鬱ゲーだった。

そしてヤバイものを見てしまった感じになっている、目の前の美少女。
この世界に燦然と輝く綺羅星——

メインヒロインの篠崎千紗だ。

元のグラよりまだ若いが面影を感じる。 間違いない。

俺の最推し。 ガチ恋相手。

いやガチ恋っていうか、ガチ家族になってるんだけど。
義妹だし。 リアル義妹。 課金どころの騒ぎじゃない。

千紗の何がいいって、まずビジュアルが完璧。
銀髪ロング、紫の瞳、儚げな雰囲気——
運営の性癖をグツグツのギトギトに煮詰めて結晶化したような存在だ。

『褒めてるんですかそれ』

褒めてる。 どう考えても最大級に褒めてるでしょ。

見た目も最高だが、何より声がすごい。
千紗の声は、天使の囁きとしか言えない甘い声をしている。 声優さんGJ。
……天使の囁きって聞いたら死ぬホラー小説じゃなかったっけ? ウケる。

そして、レゾナントとしての圧倒的な才能。
ノイズの中でも0.01%の奇跡と呼ばれる、選ばれし存在。
その中でも、千紗だけが特異な性質を持っていた。 さすがだぜメインヒロイン様!

だがそれは、使い方を間違えれば破滅を呼ぶ力だ。

キャラのバックボーンとして語られたフレーバーテキスト。
最推しなので、プロフィールデータは毎日ニヤニヤしながら読んでいた。

『毎日義妹のプロフィール眺めてニヤニヤしてたんですか? キッショ』

ちゃんミサキさん、本気で引いてるじゃないですか。 もう一声くれる?

『死んでください』

頂きましたぁ。 ありがとうございます。

そんなマイスウィートハートのフレーバーテキスト。 そこには——
自らの能力で、義兄と所属チームを消滅させた過去が示唆されていた。
そして千紗だけが、瓦礫の中で1人生き残る。 この時点で運営には心がない。
その後、千紗は監視対象として三区へ送られ、原作主人公と出会うってわけ。

……俺の推しを、誰が奪っていいと言った? お義兄ちゃんは許しませんよ。

『今すごい怖いこと考えてません?』

考えてない。 考えてないぞ。

『目が完全にイッちゃってるんですけど』

気のせい気のせい。

そういうわけで俺も千紗も、そして第九のメンバーも。
このままでは黒猫よりも真っ黒けっけな未来しか想像できない。

つまるところ——

「詰んでる」

「え?」

幼い俺の口から言葉が漏れた。 まだ声が高くて気持ち悪い。
思わず聞き返す千紗に構わず、なお続けた。

「いや、完全に詰んでる。 ノーヒント初見殺しの高難易度ゲーよこれ」

「お義兄ちゃん……何の話をしてるの?」

「人生の話だ」

聞こえてたことが分かり、少しだけ千紗がほっとした様子を見せる。 ごめんね。

「ちょっとビックリしちゃった。 お義兄ちゃん、大丈夫?」

心配そうに俺を見上げる千紗。
その紫の瞳には純粋な不安と、それ以上の信頼が浮かんでいた。

……ああ、そうだ。 この子は、こういう子だった。

画面越しに見ていた推しが、今は俺の目の前にいる。
俺を「お義兄ちゃん」と呼んで、俺を心配してくれている。

なにこれ。 尊すぎる。 頼む、課金させてくれぇ。

「お義兄ちゃん? またなんか変な顔してる……」

「いや、なんでもない。 大丈夫だから」

俺は千紗の頭に手を置いた。
さらさらと指の間を流れていく銀髪。
ゲームじゃ絶対に味わえないリアルな感触。
ふんわりして、いい匂いで、暖かくて、いい匂いで、柔らかくて——
そしていい匂いがする。
自分でもキモいなって思うような感情が次々と溢れていく。

「でもお義兄ちゃんの変なところ、私は好きだよ」

その言葉だけで、なんか色々報われた気がした。
やばい。 ガチ恋が加速する。

俺は天を仰いだ。

——俺の義妹、可愛すぎません?——

世界中の人間にそう叫んで聞かせたかった。

『うわぁ……』

美咲がドン引きしている。 知ってる。

でもこんな、目に入れてグリグリゴリゴリされても可愛い義妹が。
なぜだ。 なぜなんだ。 なぜ苦しまねばならないんだ……。

——運営お前んとこのゲーム、バランス調整ガバじゃん。

千紗はレゾナント。 つまりはノイズ。
その世界でノイズの人権なんてほぼ皆無だ。
確かにアイドルとして所属している間は、給料や配給などは受けられる。
でも退役すれば何の保証もない。

子供が生まれるエンディングもあるが、細々とした幸せに縋るだけ。
そんな爪に火を灯すような日々を許容できるか!!

でも、それでもまだマシな方なんだよ……。
災害に巻き込まれて死亡するパターンがほとんど。
トゥルーエンドでは、俺たちの戦いは続く!みたいなオチ。
救いでもなんでもねぇ!

……ふざけるな。
それがハッピー? それがトゥルー? リアリィ?
バカな事をお言いでないよ!

そんな気持ちで全ルート確認した。
どこにも光がなかった。

運営が用意したエンディングは、全部クソだ。
俺の推しが、心を殺してまで生き残る未来が『正史』だって言うのか?

そんなの、クソゲー以下のゴミシナリオだ! ただの運営の勝手な妄言にすぎない!

「運営エアプかよォ!!」

思わず叫んだ俺を、周囲が白い目で見つめた。
眼前の千紗も、不安げな表情で瞳を濡らしていた。
いや違う、今のはそういう意味じゃない。
説明させてくれ。 いや説明できないわこれ。
ごめんねって気持ちをこめて、俺は千紗をなでまくった。 は~きゃわわだわ。

『急に発狂してるじゃないですか……こわぁ……』

シャラップ美咲ィ!

俺は、もっとキラキラドキドキに輝いてるアイドルの姿が見たいんだよ!
なんで死にゲー並に鬱しかないエンディングを見なきゃいけないんだ!

『でも第九のメンバーはすごいドキドキ(恐怖)させてくれますよ……』

みんな美人だからな! 原作に出ないのにキャラデザ最高かよ! 全員推せる!

『いやそういう話じゃ……』

美咲の声を聞き流しながら、俺は拳を握りしめた。

俺は認めない。 千紗が笑えなくなる未来なんて。
第九部隊の連中が、ただの舞台装置として消費される結末なんて。

「お義兄ちゃん……お義兄ちゃんは、ずっと私の側にいてね」

千紗の幼い手が、俺の服の裾をぎゅっと掴む。
宝石のような瞳を涙で潤ませながら、上目遣いで見つめられ——

俺のハートは粉々に撃ち抜かれた。



幼い俺は、その日から動き始めた。

まず情報収集。
千紗の能力について、俺自身の立場について、この世界の仕組みについて。
俺の知識と現実を照らし合わせ、使えるものは全部使う。

とりあえず千紗の能力はまだ口止めしておく。
変にバラせば、彼女はモルモット扱いされるだろう。 濁音が付くほど、許せん。

次に戦略立案。
千紗を救うには何が必要か。
退役後の保証がないなら、俺が作ればいい。
技術が足りないなら、俺が持ち込めばいい。

幸いにして、俺の頭の中にはエンディング後の知識がある。
すなわち、数十年先の『未来の知識』だ。
この世界にはまだない技術、まだない制度、そしてまだない発想。
パクれるものは全部パクる。

倫理観? 馬鹿野郎! そんなもん、推しの命より軽いわ!

——そして実行。一心不乱に実行。
シントニアに潜り込み、コンダクターの座を手に入れ、内側から世界を変える。

時間はかかる。 不可能かもしれない。
でも、やるやらないじゃない。 やるしかないんだ。

だが、彼女だけをどうにかしようとしても意味がない。
この世界でのノイズに対する偏見は強く、ノイズ同士でなければ結ばれもしない。

世界そのものがノイズにとって理不尽な構造である限り、彼女の幸福は脆いのだ。

別に俺は、千紗と結ばれたいわけじゃない。 
千紗の歌を聴いた日から、俺の人生はたった一つ。

どんな道に進んでも、千紗に幸せになってほしいだけだ。
だからこそ、ノイズ全てを救う他ない。


俺は決意した。
必ずや彼の邪智暴虐(仕様)な運営の魔の手から、千紗を救うと。

『……あれ? なんかデジャヴが……』

あぁん? 貴様ぁ、某の推しへの愛を、凡百と同じと申すかぁ……。

『ヒョエ……こいつモノノフだぁ……こわぁ……やっぱ帰るぅ……』
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