1 / 5
穏やかな春、静かな家、聞こえてくる鳥たちのさえずり①
しおりを挟む
住み込み給仕の朝は早い。
太陽が昇り始める頃には起きて、仕事を始めなければならない。スマートフォンのけたたましいアラーム音で無理やり起きた私は、眠気を飛ばすために冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、黒を基調とした和風の制服を着て、敷地内にある住み込み使用人のための住居から、現当主が住んでいる本館へ入る。
「おはようございます」
「おはよう深咲ちゃん。今日もよろしくね」
台所には既に先輩給仕の雪歩さんがいて、朝食の準備を始めていた。
本当は雪歩さんの隣に立って私も朝食の準備をしたいのだけれど、包丁の使い方すらままならない私は、今のところテーブルを拭いて食器を並べるくらいしかやれることがない。雪歩さんは「それも立派な仕事よ」と言ってくれるのだけれど、お金を貰って働かせていただいている私は、不甲斐なさを感じてしまう。
このことを雪歩さんに打ち明けたら、「そこまで言うなら、練習しましょうか」と言ってくれた。今日から空き時間に料理を教えてもらう予定だ。
そんな事を考えながらも、きっちりとデーブル周りの準備を終えた私は、ふと部屋の隅にある趣深い柱時計が視界に入った。その長針は12を指していた。
「もう六時過ぎですけれど、晴彦様、下りてきませんね」
私は漆塗りのお椀にご飯をよそっている雪歩さんに尋ねてみた。
この家の現当主である九十九晴彦様は、よく食事を抜く。朝が苦手とかじゃなくて、昼食だろうと夕食だろうと食べないときは食べない。雪歩さん曰く、ダイエットをしているとかじゃなくて、考え事をしている時に食事を取ると集中力が途切れるかららしい。
「そうね……今日は食べると思うから、呼んできてみてくれる?」
雪歩さんの晴彦様に関する勘はよく当たる。先々代の当主が生きていた頃から九十九家に仕え、若くして死んでしまった晴彦様の両親に代わって晴彦様をここまで育てられた人だからだろう。
「わかりました」
晴彦様の部屋は階段を上がって右手側にある。
扉の前で深呼吸して、声がかすれないように咳払いしてから、ノックをする。
「晴彦様、朝食の準備ができました」
努めて落ち着いた声音で、晴彦様に扉越しに話しかける。
「わかった。すぐいく」
もしかしたら寝ているかもしれないと思ったけれど、すぐに返事が来た。どうやら今起きたばかりらしく、声がまだ眠そうだった。
すぐに行くと言われておいて、ここで待っていても仕方がないので、私は雪歩さんのところに戻って朝食を運ぶ手伝いをする。
丁度全ての料理をテーブルに並べ終えたときに、晴彦様は作務衣姿で眠そうに目をこすりながら下りてきて、無言で席につき、手を合わせてからご飯を食べ始めた。
今年で二十歳になる私よりも一つ年下の晴彦様は、新進気鋭のアーティストで、今は油絵を制作している。サラサラとした真っ白な髪が人間離れしたアーティストって感じの雰囲気を醸し出しているのだけれど、あの髪はブリーチをかけているわけではなく、二年前くらいから自然に白くなっていったらしい。九十九家の人間が代々短命なことが関係しているのかもしれない。
なんて事を考えている内に、晴彦様は朝食をほとんど食べ終えてしまっていた。食後に温かいお茶を飲む明彦様のために、お茶を入れにいく。
茶葉を急須に入れて、沸かしてから少し経っている薬缶からお湯を注ぎ、一分ほど茶葉が広がるのを待ってから湯呑に入れる。
そのお茶をお盆に乗せて持っていくと、最後の一口を食べた晴彦様と目が合った。
「熱いので、お気を付けください」
そう言ったにもかかわらず、晴彦様はお盆から直接湯呑を手に取って、勢いよく飲み出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
びっくりして思わずお盆が手から離れた。
それを見た晴彦様は少し笑って、
「大丈夫ですよ」
とのこと。
どうやら私はからかわれたらしい。たまにこういう年相応なことするので、晴彦様も私と同じ人間なんだなぁと感じる。
晴彦様は、その後すぐに二階へと上がっていった。
晴彦様が使っていた食器を片付けると、今度は私と雪歩さんの朝食の時間となる。
雪歩さんの料理は本当に美味しいのだけれど、美味しすぎて食べ過ぎてしまうせいで、最近体重が少し増えてきている。でも、食べちゃう。
「深咲ちゃんは何でも美味しそうに食べてくれるからいいわぁ」
雪歩さんは、目を細めてそう言う。優しい視線に慣れていない私は、何だか恥ずかしくなる。
「雪歩さんが作ってくれるものが全部美味しいからですよ」
恥ずかしさに悶えながらも、私は雪歩さんの方を見てそう言う。
母さんともこんなやり取りができていたら良かったのにな、なんて戯言が、一瞬だけ頭に浮かんで消える。無理な事を夢見ても空しいだけだ。
「そう言ってくれるのは深咲ちゃんだけよ。あの人は昔から感情を表に出さない人でね。何が好きとか何が嫌いとかほとんど言わないの」
雪歩さんの話すことは、大体が晴彦様についてで、特に彼に対する不満が多い。理由はわからないけれど、九十九家は周囲の人達からあまり好かれていないから、話せる人がいなかったのだろう。
「あの人は、絵さえ描ければ後はどうでもいいって感じなの。今日も、あれだけ朝食を食べたらお昼は食べないと思うわ。本当は三食きちんと食べて欲しいのだけど、あの人は『どうせ短い命なんだから、健康よりも作品を優先したい』って言うの」
その不満の内容も、晴彦様を心配するが故のもので、私はなんとも言えないような気持ちになる。私の両親も、今頃もしかしたら雪歩さんみたいに私の事を心配してくれているのかもしれない、なんてことを考えてしまう。でも、きっと私の両親は、相変わらず寝る間も惜しんで仕事に励んでいるだろうけれど。
「でも、若くして大成するようなアーティストは、晴彦様みたいな人じゃないとなれないのかもしれませんね」
この言葉には、少しだけ嫉妬が混じっていた。私は、晴彦様のように一生懸命に打ち込める何かを見つけることすらできなかったから。
「そうかしら?芸術って、いくら心血を注いで描いても駄作は駄作だし、鼻歌交じりに描いても傑作は傑作になる世界でしょう。作品それ自体が評価されるわけで、作品に対する懸命さが評価されるわけではないのだし」
確かに、一生懸命にやれば必ず評価されるなんて、考えが甘いのかもしれない。
しばしの沈黙の後、手を叩いて立ち上がった雪歩さんは、私の方を見てにっこりと笑った。
「さて、おしゃべりはこのくらいにして、料理の練習をしましょうか」
私の頭の中が、別方向の不安で一新された。
太陽が昇り始める頃には起きて、仕事を始めなければならない。スマートフォンのけたたましいアラーム音で無理やり起きた私は、眠気を飛ばすために冷たい水で顔を洗い、歯を磨き、黒を基調とした和風の制服を着て、敷地内にある住み込み使用人のための住居から、現当主が住んでいる本館へ入る。
「おはようございます」
「おはよう深咲ちゃん。今日もよろしくね」
台所には既に先輩給仕の雪歩さんがいて、朝食の準備を始めていた。
本当は雪歩さんの隣に立って私も朝食の準備をしたいのだけれど、包丁の使い方すらままならない私は、今のところテーブルを拭いて食器を並べるくらいしかやれることがない。雪歩さんは「それも立派な仕事よ」と言ってくれるのだけれど、お金を貰って働かせていただいている私は、不甲斐なさを感じてしまう。
このことを雪歩さんに打ち明けたら、「そこまで言うなら、練習しましょうか」と言ってくれた。今日から空き時間に料理を教えてもらう予定だ。
そんな事を考えながらも、きっちりとデーブル周りの準備を終えた私は、ふと部屋の隅にある趣深い柱時計が視界に入った。その長針は12を指していた。
「もう六時過ぎですけれど、晴彦様、下りてきませんね」
私は漆塗りのお椀にご飯をよそっている雪歩さんに尋ねてみた。
この家の現当主である九十九晴彦様は、よく食事を抜く。朝が苦手とかじゃなくて、昼食だろうと夕食だろうと食べないときは食べない。雪歩さん曰く、ダイエットをしているとかじゃなくて、考え事をしている時に食事を取ると集中力が途切れるかららしい。
「そうね……今日は食べると思うから、呼んできてみてくれる?」
雪歩さんの晴彦様に関する勘はよく当たる。先々代の当主が生きていた頃から九十九家に仕え、若くして死んでしまった晴彦様の両親に代わって晴彦様をここまで育てられた人だからだろう。
「わかりました」
晴彦様の部屋は階段を上がって右手側にある。
扉の前で深呼吸して、声がかすれないように咳払いしてから、ノックをする。
「晴彦様、朝食の準備ができました」
努めて落ち着いた声音で、晴彦様に扉越しに話しかける。
「わかった。すぐいく」
もしかしたら寝ているかもしれないと思ったけれど、すぐに返事が来た。どうやら今起きたばかりらしく、声がまだ眠そうだった。
すぐに行くと言われておいて、ここで待っていても仕方がないので、私は雪歩さんのところに戻って朝食を運ぶ手伝いをする。
丁度全ての料理をテーブルに並べ終えたときに、晴彦様は作務衣姿で眠そうに目をこすりながら下りてきて、無言で席につき、手を合わせてからご飯を食べ始めた。
今年で二十歳になる私よりも一つ年下の晴彦様は、新進気鋭のアーティストで、今は油絵を制作している。サラサラとした真っ白な髪が人間離れしたアーティストって感じの雰囲気を醸し出しているのだけれど、あの髪はブリーチをかけているわけではなく、二年前くらいから自然に白くなっていったらしい。九十九家の人間が代々短命なことが関係しているのかもしれない。
なんて事を考えている内に、晴彦様は朝食をほとんど食べ終えてしまっていた。食後に温かいお茶を飲む明彦様のために、お茶を入れにいく。
茶葉を急須に入れて、沸かしてから少し経っている薬缶からお湯を注ぎ、一分ほど茶葉が広がるのを待ってから湯呑に入れる。
そのお茶をお盆に乗せて持っていくと、最後の一口を食べた晴彦様と目が合った。
「熱いので、お気を付けください」
そう言ったにもかかわらず、晴彦様はお盆から直接湯呑を手に取って、勢いよく飲み出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
びっくりして思わずお盆が手から離れた。
それを見た晴彦様は少し笑って、
「大丈夫ですよ」
とのこと。
どうやら私はからかわれたらしい。たまにこういう年相応なことするので、晴彦様も私と同じ人間なんだなぁと感じる。
晴彦様は、その後すぐに二階へと上がっていった。
晴彦様が使っていた食器を片付けると、今度は私と雪歩さんの朝食の時間となる。
雪歩さんの料理は本当に美味しいのだけれど、美味しすぎて食べ過ぎてしまうせいで、最近体重が少し増えてきている。でも、食べちゃう。
「深咲ちゃんは何でも美味しそうに食べてくれるからいいわぁ」
雪歩さんは、目を細めてそう言う。優しい視線に慣れていない私は、何だか恥ずかしくなる。
「雪歩さんが作ってくれるものが全部美味しいからですよ」
恥ずかしさに悶えながらも、私は雪歩さんの方を見てそう言う。
母さんともこんなやり取りができていたら良かったのにな、なんて戯言が、一瞬だけ頭に浮かんで消える。無理な事を夢見ても空しいだけだ。
「そう言ってくれるのは深咲ちゃんだけよ。あの人は昔から感情を表に出さない人でね。何が好きとか何が嫌いとかほとんど言わないの」
雪歩さんの話すことは、大体が晴彦様についてで、特に彼に対する不満が多い。理由はわからないけれど、九十九家は周囲の人達からあまり好かれていないから、話せる人がいなかったのだろう。
「あの人は、絵さえ描ければ後はどうでもいいって感じなの。今日も、あれだけ朝食を食べたらお昼は食べないと思うわ。本当は三食きちんと食べて欲しいのだけど、あの人は『どうせ短い命なんだから、健康よりも作品を優先したい』って言うの」
その不満の内容も、晴彦様を心配するが故のもので、私はなんとも言えないような気持ちになる。私の両親も、今頃もしかしたら雪歩さんみたいに私の事を心配してくれているのかもしれない、なんてことを考えてしまう。でも、きっと私の両親は、相変わらず寝る間も惜しんで仕事に励んでいるだろうけれど。
「でも、若くして大成するようなアーティストは、晴彦様みたいな人じゃないとなれないのかもしれませんね」
この言葉には、少しだけ嫉妬が混じっていた。私は、晴彦様のように一生懸命に打ち込める何かを見つけることすらできなかったから。
「そうかしら?芸術って、いくら心血を注いで描いても駄作は駄作だし、鼻歌交じりに描いても傑作は傑作になる世界でしょう。作品それ自体が評価されるわけで、作品に対する懸命さが評価されるわけではないのだし」
確かに、一生懸命にやれば必ず評価されるなんて、考えが甘いのかもしれない。
しばしの沈黙の後、手を叩いて立ち上がった雪歩さんは、私の方を見てにっこりと笑った。
「さて、おしゃべりはこのくらいにして、料理の練習をしましょうか」
私の頭の中が、別方向の不安で一新された。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。
そこで待っていたのは、最悪の出来事――
けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。
でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
異母姉の身代わりにされて大国の公妾へと堕とされた姫は王太子を愛してしまったので逃げます。えっ?番?番ってなんですか?執着番は逃さない
降魔 鬼灯
恋愛
やかな異母姉ジュリアンナが大国エスメラルダ留学から帰って来た。どうも留学中にやらかしたらしく、罪人として修道女になるか、隠居したエスメラルダの先代王の公妾として生きるかを迫られていた。
しかし、ジュリアンナに弱い父王と側妃は、亡くなった正妃の娘アリアを替え玉として差し出すことにした。
粗末な馬車に乗って罪人としてエスメラルダに向かうアリアは道中ジュリアンナに恨みを持つものに襲われそうになる。
危機一髪、助けに来た王太子に番として攫われ溺愛されるのだか、番の単語の意味をわからないアリアは公妾として抱かれていると誤解していて……。
すれ違う2人の想いは?
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる