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第三章

61話 それぞれの祈り

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 エミリアが自分の房に帰ろうと女子住居房の長い廊下を歩いていると、待ち構えていたようにアビゲイルがそこに立っていた。

「エミリアさん」
「アビゲイルさん、先程はどうも」
「……いい気なものね。いくら巡礼を成功させたからといってなんだというの? 私はまだ諦めていないわ」
「……」
「あなたには迷いがある。私には分かるわ」

 エミリアは悲しそうに眉を寄せてアビゲイルを見た。学友の頃は共に楽しく語らった事もある彼女は鋭い目つきでエミリアを見つめている。貴族達の思惑さえなければ純粋に実力で勝負する事ができたというのに。

「エミリア様!」
「あ……はい。ではアビゲイルさん、さようなら」
「……ふん」

 エミリアは自分を呼びに来た尼僧に呼びかけられてその場を後にした。

「エミリア様、あまりアビゲイル様とお話になるのは……」
「ごめんなさい。気を遣わせたわね」

 エミリアは自室でしばらくゆっくりする事にした。教典を棚に置く。その棚の奥に隠すように置いてあるメダルがことりと音を立てた。

「……ふ」

 それは名無しとリュッケルンの街を散策した時に違いに交換したメダルだった。オモチャのような土産物のメダルの裏には『アルからエミリアへ』と彫り込まれている。エミリアは危険と隣り合わせではあるものの、どたばたしたあの旅を思い出して微笑んだ。

「そうだ……これから精進潔斎だから……」

 エミリアは紙を束ねる革紐を取り出すと、そっとメダルにその紐を通した。そして首からかけて服の中に隠した。



「それではこれより聖女就任の儀を行います。これより三日間、この聖水以外のものを口にしてはいけません。……よろしいですか」
「はい、猊下」

 三日後。宗教界の最高権力者の大教座みずから聖水……実際は塩と蜂蜜といくつかのハーブを混ぜたもの――が手渡された。この潔斎を終えてさらに三日の祈祷を経て、エミリアは聖女になる。
 エミリアが聖女になる事で、教会と俗世の権力構造は均等になるはずであり、周りもそう期待していた。

「これよりエミリアは身を清め祈りを捧げ、魂の階層をあげて人々の安寧につくすこととなる」

 大教座のその宣言を持ってエミリアの儀式が始まった。僧侶達が神妙にその声を聞く中で貴族に荷担した、あるいはその出身の僧侶達は顔色を失い、その場にはアビゲイルもいた。その表情は複雑であった。

「エミリア……」

 本当に、ごく小さなアビゲイルの呟きは盛大に鳴らされた鐘の音に紛れて消えた。

 一方、ユニオールの街の片隅。あまり日のあたらない間借りの一室にてフレドリックは机に向かっていた。大きな体に机と椅子が可愛そうな感じである。
 フレドリックはそこで一心に書面に目を通していた。

「ふう……」

 すでに老眼のはじまっているフレドリックは痛みを感じて目頭を抑えた。

「ちょっと根をつめすぎましたかな」

 フレドリックが目を通していたのは有力貴族からの書簡である。ライアンへの助力への嘆願の返事なのだが、当然ながらどの貴族も『協力する』と明言するものはいなかった。しかし、ハッキリと拒絶するものもいない。例えその手紙を第三者に見られてもなんとでも言えるような表現が並んでいた。
 フレドリックはその中から賛同の気配のする文言を探しだそうとやっきになっていた。

「ああ、これだから政治は面倒なのだ」

 そんな風に嘆くフレドリックのお腹がぐーっと音を立てる。

「そういえば朝も食べてませんでした」

 フレドリックは箱に手紙を纏めてベッドの下に隠すと食事を取ろうと階下に降りた。

「道いまだ遠き……」

 フレドリックは通りの向こうの丘の上に見える中央教会を見上げてつぶやいた。通りの店に適当に入ったフレドリックは昼食を注文してあっという間に平らげた。それから屋台のはちみつのかかった揚げ菓子も買ってもそもそとほおばる。酒を辞めてから妙に甘い物が欲しくなったフレドリックであった。

「号外! 号外! 大ニュース!」

 新聞屋がそう叫びながら歩き回っている。それはエミリアが聖女就任の儀式に入った事を知らせるものであった。

「エミリア……。これでライアン様も一層寂しくなるでしょうな……」

 会いたい。会ってライアンが無事かどうか、元気にしているかどうかこの目で確かめたいとフレドリックは強く思った。

「いかんいかん……」

 会うどころか、手紙を出すのも我慢しているのだ。今、フレドリックとライアンがおおっぴらに接触するのは敵を刺激する事になる。

「待っていてくだされよ」

 フレドリックは最後の揚げ菓子をぱくんと口にしてまた部屋へと戻っていった。



「ライアン殿……あの……」
「なんだ」

 ライアンは不機嫌そのもの、という顔で部屋にやってきた僧侶を睨み付けた。

「危ないですよ……あとそういったものの持ち込みは……」
「思い出の品だ。大目に見ろ」

 ライアンが手にしていたのはナイフである。以前に名無しに貰ったものだ。

「手に馴染ませんといかん」
「ですけどね」
「……うるさいぞ」

 ライアンはその切っ先を僧侶に向けた。僧侶は縮みあがって口を閉ざした。

「安心しろ。このナイフを突き刺すのはお前などではない。出て行け」
「は、はいっ」

 逃げ出すように姿を消した僧侶がパタンと扉をしめたのを見届けて、ライアンはナイフを鞘に収めた。

「アーロイス叔父上……いやアーロイス、待っていろ……」

 窓の外の傾きはじめた日を眺めながらライアンは一人、呟いた。
 こうしてそれぞれの一日が終わろうとしていた。
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