私の大好きな彼氏はみんなに優しい

第167話

「い…先輩、！」

　誰かの声が、遠くから響いてきた。
　夢の中の心桜の声とは違う。

　でも、確かに知っている声だった。
　その声が、俺を現実へと引き戻していく。

　まるで深い水の底から、誰かが手を伸ばしてくれたような感覚だった。

　その声に、俺は必死に浮かび上がろうとした。

「っ…、」

　目を開けた瞬間、天井の白さが目に飛び込んできた。
　息が荒い。
　胸が痛い。

　手は、まだ何かを掴もうとしていた。

　指先が震えていて、夢の中の“届かなかった感触”が、皮膚のすぐ外側に残っていた。

　喉が焼けるように乾いていた。
　心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響いている。

　現実に戻ったはずなのに、身体はまだ夢の中にいた。

「大丈夫…？」

　その声に、俺はゆっくりと顔を向けた。

　首を動かすだけで、全身が重く感じた。

　そこにいたのはら心桜だった。

　彼女の顔が、心配そうに俺を覗き込んでいる。

　その瞳の奥に、俺の苦しさを感じ取ろうとしている気配があった。

　夢の中で失ったものが、現実ではまだここにあった。

　その確かさが、俺の心を静かに支えてくれた。

「……心桜」

　名前を呼ぶだけで、喉の奥が熱くなった。

　夢の中で、何度も呼んでも届かなかった名前。
　今、ようやく届いた。

　心桜の頬を触る。

　夢の中では、何度手を伸ばしても触れられなかった。

　でも今、確かにそこにいた。

　その温度が、俺の“失ったと思っていたもの”を、
　静かに取り戻してくれた。

　触れられることが、こんなにも安心をくれるなんて。

　彼女の頬に指を添えたまま、しばらく動けなかった。

「先輩、？」

　心桜が、少し驚いたように俺を見つめる。

　その声に、俺はようやく指を離した。

　彼女の瞳は、俺の動揺をすべて見透かしているようで、

　でも、責めることなく、ただ静かに受け止めてくれていた。

「心桜、どうしてここに？」

　その言葉が口をついて出た瞬間、俺は自分の声が少し掠れていることに気づいた。

　喉が焼けるように乾いていて、言葉を発するだけで胸の奥がじんと痛んだ。

　目の前にいる心桜は、確かに現実の彼女だった。

　でも、夢の中で彼女に別れを告げられた記憶が、あまりにも鮮明すぎて、

　今この瞬間の彼女の存在が、まるで幻のように感じられた。

　夢の中の混乱がまだ尾を引いていて、現実の記憶がうまく繋がらない。

「さっき電話したじゃないですか」

　心桜が、少し笑いながら言った。

　ああ、そうだった。
　その瞬間、記憶の断片が静かに繋がった。

　もうすぐ着くから家の鍵開けててって。
　確かに、心桜から電話があった。

　俺は鍵を開けて、そのまま寝てしまったんだ。
　彼女が来るのを待ちながら。

　そして、眠気に負けてベッドに倒れ込んだ瞬間から、夢の中で心桜を失う悪夢が始まった。