私の大好きな彼氏はみんなに優しい

第181話

「っ、……はぁ、っ…」

　喉が焼ける。
　息が吸えない。

　胸が苦しくて、肺が空気を拒んでいるみたい。

　目を開けた瞬間、部屋の天井が視界に飛び込んできて、現実に戻ってきたことを知る。

　でも、戻ってきたはずなのに、夢の中の気配がまだ肌にまとわりついている。

　心臓の鼓動は落ち着かない。

　手のひらにはじっとりと汗が滲んでいて、指先が微かに震えている。

　あの男の声、足音、笑い方。

　全部が、現実の記憶と夢の中で混ざり合って、境界が曖昧になっていた。

　夢の中で走っていた感覚が、まだ足に残っている。

　逃げても逃げても、追いかけてくる。

　教室の中を歩き回る足音。
　机の間をすり抜けるように近づいてくる気配。
　教卓の下で息を殺していたときの、あの空気。

　全部が、今もここにある気がして、息を整えることができない。

「夢……」

　声に出してみると、少しだけ現実に戻ってこられる気がした。

　でも、部屋の静けさがその言葉を吸い込んで、まるで誰かが耳を澄ませているような気がして、背中がぞくりとした。 

　文化祭が近づくたびに、あの男も近づいてきている気がする。

　まぁ、あながち間違いじゃないけど。

　冷たい汗が首筋を伝って、布団の中なのに寒気がする。

「無事に終わって、先輩とデートに行けますように」

　その言葉は、祈りだった。

　それを思うだけで、夢の中の恐怖も、現実の不安も、少しだけ遠ざかる気がする。

　でも、もし、もし本当に、あの男が何かを仕掛けてくるなら。

　人が多い文化祭で、私に何をするつもりなんだろう。

　目撃者も多いし、下手なことはできないはず。

　人混みに紛れて、わたしを連れ去るつもりなのか？
　誘拐……。

　まさか、そんなこと…。

　でも、目立たないように何かをしようとしてくるのは、確かだと思う。

　あの男は、そういう人間だ。

　静かに、じわじわと、逃げ場を奪ってくる。

　夢の中で歩き回っていた足音が、今も耳に残っている。

　布団の端をぎゅっと握りしめる。
　指先に力が入る。

　爪が布に食い込んで、それでも、手の震えは止まらない。

　怖い。
　本当は、すごく怖い。

　でも、逃げたくない。
　逃げたら、全部が終わってしまう気がするから。

「今更だけど合気道でも習おうかなぁ」

　冗談めかして言ったその言葉に、少しだけ笑った。
　でも、その笑いはすぐに消えた。

　先輩には、絶対に手を出させない。

　その決意だけは、夢の中でも現実でも、揺るがない。

　守りたい。
　何があっても、守りたい。

　私も、誰かを守れる人になりたい。

　目を閉じると、瞼の裏に先輩の顔が浮かぶ。

　優しくて、少し不器用で、でも、いつも私のことを気にかけてくれる。

　文化祭まで、あと少し。

　その先にある“約束”を守るために、絶対に負けない。

「……大丈夫。私は、ちゃんとここにいる」

　誰に向けた言葉でもない。

　でも、その言葉が、胸の奥に静かに灯りをともした。