私の大好きな彼氏はみんなに優しい

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第146話

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「ただいま」

 玄関のドアを閉める音が、まるで現実に戻る合図のように響いた。

 靴を脱ぎながら、わたしはそっと息を吐く。
 胸の奥が、まだふわふわしている。

 先輩との時間が、まだ胸の奥に残っていて、その余韻を抱えたまま、家の空気に足を踏み入れる。

 地に足がついていないような、夢の中を歩いているような感覚。

「おかえり、遅かったわね」

 母の声が、キッチンから届く。

 その響きは、いつも通りで、わたしの知っている“家”の音だった。

 でも、わたしの中には、さっきまでの“特別”がまだ残っていて、その差に、少しだけ戸惑う。

 日常に戻ったはずなのに、心はまだ、あの場所に置き去りにされたまま。

「文化祭の準備が長引いちゃって」

 そう答えながら、わたしは鞄を置いて、リビングに向かう。

 “準備”のあとに、聞いた電話の内容。沙紀先輩との駆け引き。

 交わした視線、そして、あの唇が触れた瞬間…。

 それを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 数十分前までは悲しくて、苦しかったのに。
 数秒で世界が180度変わった。

 まるで、そこだけ時間が止まってしまったみたいに。

「そう。晩御飯食べるでしょ?」

 母の声は、いつも通り優しくて、わたしのことを気遣ってくれているのがわかる。

 でも食欲なんて、今はなかった。

 胸がいっぱいで、何かを口にする余裕なんてなかった。

 それよりも、先輩の言葉が、まだ頭の中で繰り返されていて、その余韻を壊したくなかった。

「ごめん、お腹空いてないからいいや。明日食べる」

 そう言いながら、わたしは冷蔵庫の前で立ち止まる。

 何かを探すふりをしながら、実は、ただ気持ちを落ち着けたかった。

 この胸のざわめきを、誰にも気づかれないように、
 そっと隠したかった。

 でも、隠しきれない。

 頬が熱い。
 心臓がうるさい。

 指先が、少しだけ震えている。

「どこか具合でも…あら、顔が真っ赤よ?熱でもあるんじゃない?」

 母の言葉に、わたしはびくっと肩を震わせた。
 図星を突かれたような気がして、心臓が跳ねる。

 頬が熱い。
 耳まで火照っている。

 でも、それは風邪なんかじゃない。

 あの瞬間のせい。
 先輩の唇が触れた、あの一瞬のせい。

「違うの。そういうんじゃない」

 声が少しだけ上ずった。

 否定しながらも、その言葉に自分の気持ちがにじみ出てしまうのが怖かった。

「そういうんじゃないなら一体…もしかして恋煩い?」

 母の顔が、からかうように近づいてくる。

 その目が、わたしの顔をじっと見て、にやにやと笑っている。

 わたしは、思わず後ずさった。

 恋煩い…。

 その言葉が、あまりにも的確すぎて、わたしは言葉を失いそうになる。
 
「そ、そういうんじゃない!お風呂入って寝るから!ほっといて!」

 声が裏返った。

 わたしは、鞄を持って、逃げるように脱衣所へ向かう。

 照れ隠しの言葉。
 逃げるための言葉。

 でも、どれも本音に近い。

「はいはい。青春ねぇ~」

 母の声が、背中越しに聞こえてくる。

 その響きは、少しだけ温かくて、わたしの逃げる足音を、優しく見送ってくれていた。

 青春という言葉が、

 今夜だけは、少しだけ似合っている気がした。
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