その魔法が解ける前に

hayama_25

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第52話

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「ん?」

 壱馬さんが、少しだけ首を傾けて私を見た。

 その仕草は、いつも通りの柔らかさを含んでいるのに、どこか、ほんの少しだけ遠くを見ているような気がした。

 目の奥に、言葉にならない何かが揺れている。

 それは、私が見慣れた彼の表情とは違っていて、胸の奥がふとざわついた。

 彼の声は穏やかだった。
 だけど、逆に何かを隠しているように感じられてしまう。

 私の言葉が、彼の心に触れてしまったのかもしれない。

「どうして、悲しそうな顔するんですか」

 言葉にするまで、少し迷った。
 聞いてはいけない気もした。

 でも、どうしても気になってしまった。
 どこか寂しげだったから。

「え、そう?俺どんな顔してる?」

 壱馬さんが少し笑いながらそう言った瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。

 笑っているのに、その笑顔がどこかぎこちなくて。

 言葉にできない感情が、彼の目の奥に見えた気がした。

 それは、悲しみとも、寂しさとも違う。
 でも、確かに“何か”があった。

「…なんだか、遠くを見てるみたいな顔です」

 言葉が口をついて出た瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が走った。

 言ってしまった。

 壱馬さんの表情に違和感を覚えて、それをそのまま言葉にしてしまった。

 でも、それが彼を傷つけてしまうかもしれない。
 その不安が、すぐに心を覆った。

「…そっか、心配かけてごめんね。ただ、花澄があまりにも沢山褒めてくれるから驚いただけだよ」

 壱馬さんは、嘘が下手だなぁ。

 悲しくないと言いながら、彼の目は、まだ少しだけ曇っていた。

 私の言葉が、彼の中の何かを思い出させてしまったのかもしれない。

 過去の記憶。
 誰かとのやり取り。

 そのすべてが、彼の表情に滲んでいるような気がた。

「そう…ですか」

 壱馬さんは、私に優しい。
 でも、その優しさの奥にあるものを、私はまだ知らない。

 優しさの裏に、何か抱えているものがある。それを、私が無遠慮に引き出してしまった。

 誰だって、忘れたい過去の一つや二つぐらいあるのに。

 だから、私はただ知らないふりをする。

「じゃあ先にお風呂入ってくるね」

 その声は、いつも通りの軽やかさを含んでいたけれど、どこか少しだけ、逃げるような響きが混じっている気がした。

 これ以上は、踏み込めない。

「あ、はい。…ゆっくり入ってきてください」

 今の私には、これで精一杯だった。

「ありがとう」

 それは、私の気持ちに応えてくれた言葉。

 でも、どこか遠くに感じられてしまったのは、私がまだ、壱馬さんの本当の気持ちに触れられていないからだ。
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