その魔法が解ける前に

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第53話

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 私はひとり、ぽつんとリビングにいた。

 壱馬さんが浴室へと消えていったあと、部屋の中には、静けさだけが残った。

 さっきまで彼の声が響いていた空間が、急に広く感じられて、

 その広さが、どこか心細かった。

 音のない空間は、まるで時間が止まったようで。

 壁にかけられた時計の針の音だけが、妙に耳についた。

 その規則的な音が、逆に不安を煽る。

 まるで、何かを待っているような、そんな感覚。

 ソファに腰を下ろした。

 けれど、落ち着かない。

 クッションの柔らかさが、今は心地よく感じられない。

 身体を預けても、どこか浮いているような気がした。

 指先が、膝の上でそっと絡まる。

 無意識のうちに、何かを握りしめるようにしていた。

 自分の手なのに少し冷たくて、その冷たさが、今の自分の心を映しているようだった。

 何かを考えようとすると、彼の表情が浮かんでくる。

 さっきの笑顔。

 優しくて、穏やかで、でもその奥に、ほんの少しだけ曇りがあった。

 あれは、私の思い過ごしだったのか。

 それとも、彼の中に、誰にも見せたくない何かがあったのか。

 分からない。
 でも、知りたいと思ってしまった。

 彼のことをもっと。

 彼の過去も、今も、全部を知りたいと思ってしまった。

 それは、彼に惹かれている証なのかもしれない。

 でも、まだ“好き”とは言えない。

 彼のことをもっと知りたい。
 でも、彼の心の奥に踏み込むのが怖い。

 その矛盾が、胸の奥で静かに揺れていた。

 まるで、深い湖の底で波紋が広がるように、静かだけれど確かに、心を動かしていた。

 気を晴らすために、ベランダに出た。

 夜の風が、頬を撫でる。

 少し湿った空気が、この部屋の中よりもずっと呼吸しやすく感じた。

 深く息を吸い込むと、胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。

 風の音、遠くの車の音、それらが、私を現実に引き戻してくれる。

 ベランダの隅に、小さな花瓶が置かれていて、そこには一輪の花が咲いていた。

 淡いピンク色の花びら。

 端が少し茶色くなっていて、今にも散りそうだった。

「綺麗な花…」

 思わずそう呟いた。

 枯れかけているのに、その姿はどこか儚くて、
 目を離せなかった。

 まるで、最後の力で咲いているような…
 そんな健気さがあった。

 しゃがみ込み、花瓶にそっと手を添えた。
 冷たいガラスの感触が、指先に静かに伝わる。

 その冷たさが、妙に心地よかった。

 熱を持った心を、少しだけ冷ましてくれるような気がした。

「…頑張ってるんだね」

 誰に言うでもなく、ただその花に向けて言葉を落とした。

 その声は、風に乗って、静かに夜に溶けていった。

 それは、自分自身に向けた言葉でもあった。

 この家に来て、まだ二日。

 壱馬さんの優しさに触れて、少しずつ心がほどけていくのを感じていた。

 でも、まだ完全には馴染めていない。

 まだ心の居場所を見つけられずにいる。

 でも、この花のように、枯れかけても、まだ咲いていたいと思った。

 風が少し強く吹いて、花びらが揺れた。

 その一瞬が、まるで花が答えてくれたように感じられて、少しだけ微笑んだ。

 そっと立ち上がった。

 ベランダの花瓶に咲くその一輪の花を見つめながら、部屋の中へ戻る。

 キッチンの蛇口をひねると、水の音が静かに響いた。

 その音が、静寂の中でやさしく広がっていく。

 その動作は、誰かのために何かをするというよりも、

 自分の中の静かな孤独に寄り添うような行為だった。

 水を注ぎながら、ふと壱馬さんのことを思い出す。

 彼も、誰かに気づいてもらえなかった時間があったのかもしれない。

 だからこそ、人に優しくできるのかもしれない。

 戻ってきたベランダ。

 夜の空気は変わらず優しくて、その中で、花はじっと咲いていた。

 コップを傾けて、花瓶の中にゆっくりと水を注いだ。

 ガラスの中で水が揺れて、花の茎が少しだけ動いた。

「…ごめんね、気づくのが遅くなって」

 その言葉は、花に向けたものだったけれど、
 どこか、過去の自分にも向けているようだった。

 誰かに気づいてもらえなかった時間。
 声を出せなかった日々。

 それでも、枯れずに咲こうとしていた自分。

 水を注ぎ終えたあと、しばらくその場にしゃがんでいた。

 風が吹くたびに、花が揺れる。

 その揺れが、まるで生きている証のように感じられた。

「…綺麗だよ」

 そう言って、そっと目を閉じた。

 その瞬間、心の奥にあった小さな痛みが、少しだけ和らいだ気がした。


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