その魔法が解ける前に

hayama_25

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第61話

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 湯を沸かす音が、部屋の静けさに溶けていく。

 その音がふたりの間に流れる沈黙を、やさしく包んでくれているようだった。

 湯気の立つポットの前で、ほんの少しだけ指先を止めた。

「…昔から、春の終わりが苦手なんです」

 それは、誰かに話したことのない感覚だった。
 誰かに話すことを、ずっと避けてきた。

 理由が分からないから。
 説明できないから。

 ただ季節の変わり目に、心が落ち着かなくなる。

 でも、壱馬さんなら…。

 この静けさの中でなら、言ってもいいような気がした。

「春の終わり…?」

 壱馬さんの声が、静かに空気を震わせる。

 春は別れの季節でもあるし、出会いの季節でもある。

 桜が綺麗で、空気が穏やかで、

「はい。空気が変わる感じとか、匂いとか。何かが終わるような気がして、」

 言いながら、湯気の立つマグカップをそっと壱馬さんの前に置いた。

 湯気がふわりと立ち上がり、

 その白さが、まるで言葉にできない感情のように、空気の中に溶けていく。

 何かが静かに消えていく季節。

 花が散り、風が変わり、空の色が少しずつ淡くなる。

 その変化が、どうしようもなく寂しかった。

「それって、何か思い出すことがあるの?」

 思い出す、というより染みついている。

 理由も、きっかけも、もう分からない。

 ただ、寂しいが動く。
 それは記憶というより、感覚だった。

「思い出すというより、染みついてるんです。理由はもう、よく分からないけど。この時期になると、夢に出てきたり…」

 それは、意識の奥に沈んでいたものが、ふと浮かび上がる場所。

 誰かを呼んでいる。
 でも、声が届かない。
 走っても、追いつけない。

 何かを失ったような、でも、何を失ったのか分からないような。

 そんな感覚。

 私は、壱馬さんの隣にそっと腰を下ろした。

 距離は、ほんの少しだけ近くなった。

「怖い夢?」

 壱馬さんの声が、少しだけ低く、柔らかくなる。

「誰かを呼んでる夢です。でも、声が届かない。走っても、追いつけない、そんな夢」

 言葉にすることで、その夢が現実に近づいてくるような気がして、少しだけ怖かった。

「それ、すごく…寂しい夢だね」

 壱馬さんの言葉が、まるで心の奥にそっと触れてくるようだった。

「そうですね。起きたあと、胸が空っぽになります」

 空っぽ。

 それでも、呼び続けてしまう。
 届かないと分かっていても、追いかけてしまう。

「…たまに、思うんです。誰かなんて、元々存在してなかったんじゃないかって」

 その言葉が口をついて出た瞬間、自分でも少し驚いた。

 本当は、どこかで分かっていたのかもしれない。
 私は、初めから一人だったのだと。
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