その魔法が解ける前に

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第69話

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「いえ。ただ、楽しみで」

 その言葉が口をついて出た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 それは、私がずっと避けてきた言葉だった。
 期待することが怖かった。

 誰かと過ごす時間に、心を預けることが怖かった。

 期待してしまえば、裏切られたときの痛みが大きくなる。

 だから、何かを“楽しみ”にすることを、ずっと避けてきた。

 でも、壱馬さんの前では、その言葉が自然とこぼれてしまった。

 抑えようとしても、心の奥から湧き上がってくる。
 それが、少しだけ怖くて、でも嬉しかった。

 本当は、断らないといけないはずだった。

 体調は、正直あまり良くない。
 喉の奥が少し痛くて、関節が重い。

 いつも通りなら、きっと明日は熱が出る。

 それでも、私は賭けたかった。

 熱が出ないかもしれない。

 少しだけ無理をしても、彼の隣にいられるなら、それでいい。

 そう思ってしまった。

「そっか。行きたいところとかある?」

 そう聞かれて、すぐに答えが浮かばなかった。

 どこかに行きたいというより、ただ壱馬さんの隣にいたい。

 それだけで、十分だった。

「いえ、特には」

 そう答えながら、少しだけ自分がつまらない人間に思えてしまった。

 何か特別な場所を言えたらよかったのに。

 でも、壱馬さんは気にする様子もなく、ふわりと笑ってくれた。

 その笑顔が、私の“つまらなさ”を、そっと包み込んでくれるようで、胸の奥がじんと温かくなった。

「じゃあドライブで……近くの展望台まで行ってみようか。車で30分くらいだし、上まで登らなくても、駐車場からでも景色見えるし」

 その提案に、私は思わず目を見開いた。

 何よりも嬉しかったのは、彼が私の体調をちゃんと考えてくれていたことだった。

 誰かと並んで座って、同じ景色を見て、同じ時間を過ごすこと。

 それが、今の私には、何よりも嬉しかった。

「はい」

 その返事は、少しだけ声が高くなってしまった。

「今日は遅いしもう寝ようか」

 その言葉に、時計を見なくても夜の深さを感じた。

 一緒に過ごす時間が、あっという間に過ぎていく。

 それが、少しだけ寂しくて、でも、また明日があると思えることが、嬉しかった。

「はい」

 その返事は、少しだけ名残惜しさを含んでいた。

 もっと話していたい。

 でも、私の体調を気遣ってくれているようで、それも嬉しかった。

 明日、行けたらいいな。

 季節の変わり目で体を壊しやすい体質以前に、なにか予定がある前日は熱が出やすい体質でもあった。

 実家にいた時は、熱が出ても関係なかった。

 家事をして、自分の任務が終わったら、あとは周りに移さないように部屋に一人耐えるだけ。

 誰にも甘えられなかった。
 誰にも心配されなかった。

 だから、今こうして誰かに「無理しなくていいよ」と言われることが、

 こんなにも胸に響くなんて、知らなかった。

「一緒に寝る?」

「はい…え?」

 言葉が口からこぼれた瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。

 あまりにも日常の延長のように響いたから、私の心は、何の防御もなくその言葉に応じてしまった。

 明日のことを考えていたせいで、壱馬さんが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。

 心臓が、さっきまでの静かなリズムを裏切るように、急に速く、強く打ち始めた。

 顔が一気に熱くなるのを感じた。

「じゃあ行こっか」

 壱馬さんが立ち上がろうとした瞬間、私は慌てて言葉を探した。

 何か言わなきゃ。

 このままじゃ、誤解されたままになってしまう。
 でも、何を言えばいいのか分からない。

「いや、あの、」

 声が震えていた。
 言葉にならない感情が、喉の奥で渦を巻いていた。

「冗談だよ。ずっと上の空だったから、からかっただけ」

 そう言って、壱馬さんは私の頭をぽんぽんと優しく叩いた。

 その手のひらの感触が、思っていたよりもあたたかくて、肩の力がふっと抜けた。 

 そして、少しだけ申し訳なかった。

 私は、彼の隣にいるのに、ちゃんと“ここ”にいられていなかったのかもしれない。

 体調のこと、明日のこと、不安ばかりが頭の中をぐるぐるしていて、ちゃんと向き合えていなかった。

 でも、壱馬さんは、そんな私を責めることなく、
 ただ、そっと笑ってくれた。
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