その魔法が解ける前に

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第68話

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「…ックシュ」

 くしゃみがひとつ、静かな部屋に響いた。

 自分でも驚くくらい大きな音で、思わず肩をすくめてしまう。

「やっぱり風邪ひいちゃったんじゃない?さっきベランダにいたから」

 壱馬さんの声は、少しだけ心配そうで、でもどこか優しくて。

 心配してくれている。

 それが分かるだけで、なんだか、体の奥がじんわりと温かくなる。

 もうそろそろこの時期か…。
 季節の変わり目。

 空気が乾いて、朝晩の冷え込みが強くなる頃。

 毎年この時期になると、体調を崩しやすくなるのは分かっていた。

 でも、誰かに気づかれることは、あまりなかった。

「風邪ではないと思います」

 そう言いながらも、自分の声が少しだけ弱っていることに気づく。

 本当は、少し喉が痛い。
 体もだるい。

 でも、心配をかけたくなくて、つい強がってしまう。

 壱馬さんの前では、弱い自分を見せるのが怖い。

 壱馬さんに嫌われたくないから。

 それから、彼の優しさに甘えてしまうのが怖いから。

 その優しさに触れたら、私はもう戻れなくなる。

 戻らないといけない日が来るのに、それを拒んでしまいたくなる。

 自分にはどうにもできないと、分かっているのに。

 気付かないふりをするのは、昔から得意だった。

「そう?」

 壱馬さんは、私の顔をじっと見つめる。

 その視線が、まるで体温計のように、私の体調を測っている気がして、少しだけ恥ずかしくなる。

「休日は何時に起きられますか?」

 話題を変えるように、私はそう尋ねた。

 朝食を作る。

 それだけのことなのに、私にとっては彼の生活の一部に触れられるような気がして、少しだけ特別だった。

 彼のために何かをすることで、自分の存在が、少しだけ意味を持つような気がした。

 それが、私にとっての“返す”ということだった。

「どうして?」

 壱馬さんの問いに、私は少しだけ言葉を詰まらせる。

 でも、すぐに答えを紡ぐ。

「それに合わせて朝食のご準備をと、」

 何かをしてあげたい。

 それは、私が彼に返せる数少ないもののひとつだった。 

 でも壱馬さんは、ふと表情を変えて、少しだけ笑った。

「それよりさ、どこか出かけない?」

 その言葉に、胸が少しだけ跳ねた。

「お出かけ、ですか?」

 声に出した瞬間、自分の中にある期待と不安が、
 静かに交差しているのを感じた。

 それは、彼と並んで歩くということ。
 彼と同じ景色を見るということ。

 それが、嬉しくて、怖かった。

「せっかくの休日だし、家にいるだけじゃ退屈かなって」

 その言葉に、私は少しだけ頷いた。
 でも、すぐに彼が私の顔を覗き込むように言った。

「あ、やっぱり体調悪い?」

 その問いに、私は少しだけ迷った。

 本当は、少しだけ体がだるかった。

 でも、壱馬さんと出かけたい気持ちもある。

 彼の提案は、私のことを気遣ってくれているのに、

 それ以上に、“一緒にいたい”という気持ちが込められている気がして。

 私は、どうしたらいいんだろう。

 無理をすることで、壱馬さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。

 でも、こんな機会は二度と訪れないかもしれない。
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