その魔法が解ける前に

hayama_25

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第76話

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「ん?」

 壱馬さんが、少し首を傾げて私を見る。
 その声は、柔らかくて、どこか安心感があった。

 私が何か言いたげな顔をしていたのを、すぐに察してくれたのだろう。

「本当は、嬉しかったです」

 言葉にした瞬間、心が少しだけ軽くなった気がした。

 それは、私がずっと口にできなかった感情。

 でも、壱馬さんには伝えたかった。
 この気持ちを、ちゃんと届けたかった。

 彼の優しさが、私の世界を少しずつ変えてくれていることを、

 知ってほしかった。

 そして、私自身もその変化を受け入れたいと思った。

「…分かってるよ。ちゃんと食べてね」

 壱馬さんの声は、静かで、あたたかかった。

 その一言が、私の気持ちを受け止めてくれた気がして、胸がじんわりと温かくなった。

 彼は、私の言葉を否定しない。
 受け止めて、そっと包んでくれる。

 そう言って、壱馬さんは立ち去ろうとする。
 その背中が、少しずつ遠ざかっていく。

 でも、離れてほしくなかった。

 まだ一緒にいたい。

 私は、そっと彼の袖を掴んだ。

 その布の感触が、壱馬さんとの距離を繋ぎ止めてくれるようで、指先が震えた。

 壱馬さんの動きが止まる。

 その瞬間、心臓の音が少しだけ速くなった。

 袖を掴むという行為が、私にとっては“お願い”だった。

 “もう少しだけ、ここにいて”という、言葉にできない願いだった。

「好きな、好きな季節は何ですか、?」

 声が震えていた。

 昨日、壱馬さんと交わした約束。

 それは、私にとって小さな勇気の証だった。

「え?」

 壱馬さんが、少し驚いたように振り返る。
 その表情に、戸惑いと優しさが混ざっていた。

 彼は、私がこんなふうに質問するとは思っていなかったのかもしれない。

「昨日、一日一つ質問するって決めたじゃないですか」

 言葉にすることで、自分の気持ちが少しずつ形になっていく。

 本当は、ただ壱馬さんに、もう少しだけそばにいてほしかった。

 でも、それを素直に言う勇気は、まだ私にはなかった。

 どこかで“重い”と思われるんじゃないかと怖かった。

 だから私は、“約束”という言葉にすがった。

 それなら、彼は離れずにいてくれるかもしれない。
 それなら、私の願いが“わがまま”にならずに済むかもしれない。

 これが、私なりの精一杯だった。

「今日は無理しないで、また明日」

 その言葉が、優しくて、でも少しだけ遠く感じた。

 壱馬さんは、私の体調を気遣ってくれている。
 それは分かっている。

 その優しさが、あたたかいことも分かっている。

 でも“明日”じゃ、だめだった。
 “今”じゃなきゃ、意味がなかった。

「私が、聞きたいんです」

 その言葉は、私の中から自然とこぼれた。
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