空白樹の七片 ‐セプテントリオン・クロニクル‐ Ⅰ『黎明片 Dawnleaf』 記憶を失くした少女と、土に眠る欠片の目覚め

第3章 学士との邂逅

地下水脈の記憶

抜け道の奥は、かつて川だったのか、天井は丸く抉れ、壁面には水がしみ出し続けていた。
水音は細く、しかし絶え間ない。時折、ぽとりと水滴が地面を叩き、その音が静けさの底に輪を描く。

フィアは足元に広がる薄い水膜に目を凝らした。月の光も届かないはずの場所で、そこに欠片の淡光がかすかに反射していた。
その明かりに照らされながら、リオは前を進む。片手には簡易型の結晶灯を掲げ、もう片手で壁面の層をなぞっている。

「このあたりは昔、地脈が通ってた。今も、微弱だけど振動が残ってる」

リオの声は静かで、足音と共鳴するように空間に溶けていく。

「……君、名前は？」

「……フィア。フィア・ルース」

「ふむ。フィア。……悪くない名だ」

その何気ない言葉に、彼女は心臓を小さく撃たれたように立ち止まった。
“フィア”という音が、岩壁に跳ね返り、自分に届く。それは、誰かが呼んだ名ではなく、“ここにいる”と認識するための音だった。

だが同時に、その音が遠く響いていくようにも感じた。

（わたし……ほんとにフィアって名前だった？）

その問いが、喉の奥でかすれる。

「欠片が共鳴する相手は珍しい。君は、普通じゃない。……だが俺も普通じゃない。安心していい」

リオは後ろを振り向かないまま、手にした小さなスケッチ帳に何かを書き込みながらつぶやいた。

「名前を持つことは、大事なことだ。忘れていく者にとっては、なおさらな」

欠片がぴたりと脈打った。

それは彼の言葉に対する肯定のようで、彼女の胸中に深く沈んでいた恐れが、少しだけ和らいだ。