煩雑

みづき

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二人の蜘蛛

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 朝日がのぼり、目覚まし時計の騒がしい音が鳴る何時間も前、カーテンの隙間から溢れでた曙光によって起床する。気持ちよく眠れたのか、冬の凍り付くような寒さの中、布団を転がし外に出る。出勤まで、まだ大分余裕のある時間だった。普段は、通勤中にコーヒと適当な菓子パンを買い、会社で食べるのが常であるが、気分が高揚し、朝ごはんの支度に取り掛かろうと寝室を後にする。しかし、リビングからは既にコーヒーと焼き立てのパンの香りが立ち登っていた。もちろん、この家に住んでいるのは私だけだ。不思議に思い、恐る恐るリビングのドアを開ける。すると、身長が推定百八十センチほどの少し痩せ型だが優しそうな顔をした「蜘蛛」が、フライパンを持ち、料理を作っている最中であった。突然のことに驚いてしまったが、そんな私を見てその蜘蛛は軽く微笑んだ。
 「朝は、ごはん派だったかな?」オーブントースターの「チンッ」という音が、この奇妙な空間に響き渡る。もっと不思議なことは、この現状を受け入れようとする自分がいたことだった。催眠術にかかったのか、なぜだか悪い蜘蛛には見えない。冬の朝の清々しい気候に誘発されているのか、それとも蜘蛛の顔がタイプだったのか、はっきりしたことはわからない。とにかくこの異様な状況を冷静に捉えてしまっている。
 「大丈夫。朝はろくなものを食べていないから、なんだって嬉しいわ」蜘蛛が淹れたコーヒを迷いなく口にする。買い置きしておいたインスタントのコーヒーだと思うのだが、前に飲んだ時に比べて、明らかに味が変わっていた。
 いろんなことを聞きたかったが、結局あまり詳しいことは聞けず、身支度を急いで済ませて家を飛び出した。なぜ、人間は早起きをした日に限って時間が押してしまうのだろう。いつもよりも一つ後に来る電車に乗り、急いで会社を目指した。
 そんな非日常の最中、今朝の出来事をもう飲み込んでしまっている自分がいた。いつもよりも気持ちの良い一日を迎えているようなそんな気分にさえなる。実際今日は良い出来事が連続して起こったのだ。出社すると、仕事の分担を見直そうとのことで、大幅に自分の担当していたところが新しく割り振られ、仕事量が減った。また、今度の週末からの連休と合わせて消費出来ていなかった有給を取らせてもらえることが決まり、六連休が完成してしまった。終いには、何かとあるとすぐに暴言を吐いてくる上司が階段から転げ落ちたのだ。今日はなんて素晴らしい日なんだろう。あの蜘蛛が家に出て、なんとなく感じていた幸運めいたものも、帰宅の最中には確信へと変わっていた。「間違いない。あれは、幸運を呼ぶ蜘蛛だわ。」
 朝は蜘蛛を気にせずに家を出たが、次第に蜘蛛についての興味が湧いてきた。まだ家に居てくれているだろうか。家を出た後、どうしているのかは全くわからなかった。家に近づくに連れ、その感情は肥大化していく。電車を降りた後に一度電話をかけてみたが、つながることはなかった。胸騒ぎがした。小走りで自分の号棟の階段を駆け上がり、鍵を差し込んだ。しかし、鍵はかかっていないようだった。高揚した気分で部屋に入るものの、今朝見た蜘蛛の姿はなかった。いなくて当然であるといえばそんな気もするが、それでもやはり動揺を隠せない。今朝、蜘蛛が淹れてくれたインスタントコーヒの味を思い返し、もう一度自分で入れてみる。とてもじゃないが同じものとは思えない。ほとんど味がしない上に不味いとすら感じる。いったいどこにいってしまったのか。そんなことを気にしながら、夕食やお風呂といった日常を淡々と進める。なんてことはない。今まで通りの日常である。
 家に帰宅して数時間が経った後、インターホンが鳴った。時間も時間だったのでチェーンをし、覗き穴から向こう側をみる。すると今朝の蜘蛛が立っていたのである。すぐに鍵をはずし、ドアを開けるとその蜘蛛は不敵な笑みでこちらを覗くように立っていた。今朝見たものと同じ蜘蛛が佇んでいる。にもかかわらず、どうしてかすごく不気味に映った。身長が高いことが今朝は格好いいとすら思えたのだが、今ではその異様な高さが恐怖を醸し出していた。加えて優しそうな顔も今では全くそのようには見えず、気持ち悪いとすら感じている。蜘蛛はびくりともせず、目の前に静止している。何秒か固まってしまっていたが、体が動き始めるとすぐにドアを閉め施錠し、寝室に逃げ帰った。まるで幽霊や殺人鬼、そんなものを見たかのような感覚に陥った。嘘のようだった。全く同じものに出くわしたとは思えない。朝に見つけたあの蜘蛛はあんなにも優しく、紳士のように見えたが、今玄関先にいるのは不審者以外の何者でもない。まだいるのか、それともどこかへ行ってくれたかはわからなかったが、恐怖に怯える自分がいた。念のために台所に行き包丁を手に取った。
 玄関を覗くと、そこに蜘蛛の姿はなかった。あれはなんだったのだろう。どうしてこんなにも恐怖に駆られ、怯えているのだろう。とても不思議に思っていると、台所で食器が割れる音がした。全身に寒気が駆け上がる。急いでリビングのドアを開ける。すると、頭を抱えた蜘蛛がこちらを見ていた。もちろん今朝見た蜘蛛ではなく、先程の異様なほどに不気味な蜘蛛である。
 「驚かせてごめんよ。君のために料理を作りたかっただけなんだ。手が滑って何枚かお皿を割ってしまって。そういえば包丁はどこにあるんだい?」蜘蛛は矢継ぎ早に語りかけてくる。全てが気持ち悪く感じ、泣きそうになる。
 「君が持ってたのか。それを貸してもらえるかい?野菜を切るために必要なんだ。」蜘蛛は段々と近付いてくる。それと一定の距離を保とうと後ろに退く。しかし、蜘蛛は一歩一歩前進し、玄関まで後退した。私が壁にもたれると蜘蛛はもう一度へらへらと笑いながら言った。「包丁を貸してもらえるかい。」大胆不敵なその笑みに感じたことのない恐怖が襲った。しかし、追い詰められた私の記憶はそこで途絶えていた。
 気がつくと、血を流した蜘蛛がその場に横たわっていた。何があったかわからないが、蜘蛛の心臓には包丁が刺さっていた。状況から見て、私が殺めてしまったのだろう。倒れている蜘蛛の表情は、もう優しい笑顔なのか、不敵な笑みなのか判断がつかなかった。
 しばらくしない内にインターホンが再び鳴った。玄関のドアにもたれかかっていた私は、そのまま鍵を開け扉を開いた。すると、下の階に住んでるお爺さんが心配そうな顔で訪ねてきたのである。「何か大きな物音がしたんだが、」皆を言う前にお爺さんは蜘蛛が横たわっていることに気がつく。そして、不安そうな顔をした私を、励ますように言い放った。
 「夜出る蜘蛛は泥棒が来る前触れなんて言われている。お嬢ちゃんよく仕留めたね。」そう言うと、何もなかったかのように帰っていった。
 リビングに戻り今日の一通りの出来事を考えていた。どうしてこんなにも蜘蛛に対しての感じ方が変化したのだろうか。やはりお爺さんの言う通り、朝見た蜘蛛と夜見た蜘蛛の違いなのだろうか。明らかに自分の意識は蜘蛛に対して二種類の感情を持っていた。ふとお爺さんの話を思い出す。
 「夜出る蜘蛛は泥棒が来る前触れ、、、」こんなの迷信に決まっているが、今朝の幸福な出来事を朝の蜘蛛が運んできたのだとすれば、可能性はあるのかもしれない。通帳や現金、キャッシュカードなどの場所を代えようと引き出しを開ける。すると驚いたことに、通帳や現金、また色々と調べてみるとネックレスやコートなどの金目のものが全てなくなっていた。不思議な幸運に続き、悪夢が現実となり確信した。やはり、夜に出る蜘蛛は泥棒を呼び込む。全てを無くしたこの部屋で、再びインスタントコーヒーを淹れ直した。

~あとがき~
 
 私の地域だけなのか全国的に言われているのか。わからないですが、「朝の蜘蛛は縁起が良いので、殺してはいけない。夜の蜘蛛は泥棒の前触れであり殺さなくてはならない。」こう言ったことを母から教わりました。因果関係などは全くないこの言い伝えのようなものはどこから生まれたのでしょうか。結論として私の中でどっちも逃がすと言うことになったのですが、もちろん泥棒に入られた事はありません。
 今回のお話は「朝は殺さないのに夜は殺すのは人間の身勝手な考えだよね」と言った、蜘蛛が可哀想と言うことをお伝えしたいのではなく、むしろそう言ったことに時々とらわれてしまう「人」の方に焦点を当てたかったのです。幸福が訪れるのはその場での積み重ねであり、「蜘蛛」によるものではありません。まあ、上司が階段から転げ落ちることはそう言った類ではないかもしれませんが。泥棒が入られるのも、「蜘蛛」のせいではなく、泥棒の意思によるものです。ですから、夜の蜘蛛を殺めたとしても、泥棒に入られる事はあります。もしかすると、朝の蜘蛛によって、、、関係ないのです。朝いつもと違ったことが起き、慌てて家を飛び出す。そういった不注意が原因かもしれません。
 長くなりましたが、鍵の施錠はお忘れなく。
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