あしたに一歩!

南木野ましろ

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第三章

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 ―――

 いつの間に寝ていたのか、目を開けるとベッドの上だった。雨は止んだらしく、病室の天井が夕日で橙に染まっていた。朱色の西の空が燃え尽きようとしている。もう今日はリハビリ室には行けない。
 ゆっくり首を回すとベッドの横で古谷が座っていた。どことも定まらない目線で光が消えゆく壁を見つめている。

「オッサン、なんでいるの?」

 声を掛けると屈託ない笑顔でこちらを見た。

「お前が過呼吸になったのは外に連れ出した俺のせいでもあるんでな。あ、お前の母ちゃんには俺がいるからっつって帰ってもらったぜ。だいぶお疲れみたいだったしな」

 樹生の目が覚めるまで待っていてくれたのだろう。本当はもっとトレーニングやリハビリをしないといけないのに、樹生の気分でスケジュール通りにいかず周りに迷惑をかけてばかりいる。こんなに周りに助けられて、迷惑をかけながら生きるのかと思うと申し訳なかった。樹生はベッドに横たわったまま上半身を起こすこともできず、両腕で顔を覆った。

「……父さんと兄ちゃんが……」

 話し出すと、椅子から立ち上がろうとしていた古谷が止まった。

「父さんと兄ちゃんって、勉強していい大学に入っていい仕事に就いて稼ぐことが一番だ、みたいな考えがあって……。でも俺はずっとサッカーしかしてなかったから、勉強はできないし、将来やりたいこともピンとこなくて……」

 中腰で止まっていた古谷がゆっくり椅子に座る。

「このあいだ家に帰った時、母さんと父さんと兄ちゃんが三人で話してるのを聞いたんだ。『名前書けば入れるようなバカ高校も行けるか分からないようじゃヤバイ』とか『ただでさえ就職に不利なんだから、少しでもいい仕事に就けるように勉強させないと駄目だ』とか。……俺は、障がい者だから」

「……」

「頑張らなきゃ駄目だって自分でも分かってるんだけど、どうしてもそんな気持ちになれないんだ。リハビリも進まないのに、高校なんて行ける気がしない。想像できない未来のために頑張ろうと思えない」

 一気に喋ったせいで喉がヒリヒリと痛い。大きく深呼吸をして涙を飲んだ。

「……何を目指して頑張ればいいのか分からなかったからやる気が出なかった。でも、オッサンに『目の前のことをできるようになる』のを目標にすればいいって言ってもらえて、やっと前向きな気持ちになれた。……でも、そう思った途端にこのザマだよ」

 せっかく我慢できたと思った涙がまた溢れてきて、樹生は何度も袖で拭った。古谷は何も言わずにじっと続きを待っている。

「事故った日も雨だったから、雨が降ってきた途端フラバした。自分でもビックリなんだけど。……なあ、これ、ずっと続いたらどうしたらいい? 勉強もできない、足もない、取柄もない、雨が降ったら過呼吸になるような奴、誰が必要としてくれんの? なんのために頑張ればいい? 俺、本当に普通の生活ができるようになるのかな」

 それから樹生はしばらくむせび泣いた。日は完全に落ちていて、窓の外は暗闇だった。
 親でも兄弟でも友人でもない相手にこんな個人的な悩みを打ち明けたところで困らせるだけだ。けれども、なんでもいいから誰かに聞いてもらいたかった。古谷は樹生の期待通り、慰めも励ましもせずただ嗚咽を聞いているだけだ。かといって嫌そうにもしない。それが樹生を安心させた。だから遠慮なく泣き続けた。少し息が整った頃、古谷がようやく口を開いた。

「俺も雨、苦手なんだよな」

 樹生はゆっくり上半身を起こして、差し出されたティッシュで思いきり鼻をかむ。

「俺もさ、雨の日に事故に遭ったんだよ」

「……いつ?」

「五年前。奥さんと車で旅行に行ってて、サービスエリアの駐車場に停めたら車が突っ込んで来た」

 古谷が結婚していたことにまず驚いた。言われてみれば左手の薬指に指輪がはめられている。

「助手席側にぶつかってきたから奥さんが犠牲になって、救急車が到着する頃には亡くなってた」

「オッサンは? 怪我とか……」

 これ、と言って額の左側を指差して樹生に見せる。初対面の時に真っ先に目に入った古傷。

「俺はコレと、骨折程度で済んだ。その日はなあ……夜で、雨がすごかったんだよ。寒くて冷たくて、奥さんの手をずっと握ってたんだけど、どんどん体温がなくなっていくんだ。怖かったな。過呼吸にはならなかったけど、雨が降る度、自己嫌悪で駄目だった」

「自己嫌悪?」

 古谷は寂しそうな微笑を浮かべて頷いた。

「あの時旅行に行かなければ、サービスエリアに寄らなければ。……でも生き残ってしまったもんはしょうがないし、俺の場合嫌でも仕事をしなきゃいけなかったから、なんとか目の前のことをこなすことで気付いたら五年経ってた。意外とどうにかなるもんだ」

 それは両手があって、両足があるから、日常的に生きていくのに不便はなかったからどうにかなったのではないのか、という風に考えてしまう。

「そりゃあ、勉強ができないよりはできたほうがいい。貧乏より裕福なほうがいい。でもそれがすべての人間にとって最善とは限らない。お前もサッカーをしてた頃は勉強なんかできなくても困らなかっただろ。お前の言う「普通の生活」ってなんだよ。父ちゃんと兄ちゃんみたいに勉強していい学校に入ることか?」

 それは樹生自身もずっと考えていたことだ。今まではサッカーをする生活が普通だった。「今の」樹生が思う普通の生活は、

「……朝起きて、飯食って、学校行って、……友達と遊んだり……行きたいところに自由に行ける生活……」

 物心ついた時には歩いていたし、走っていたし、いつの間にか自転車も乗れるようになっていた。遊びに出掛けるのもサッカーをするのにも、不自由なく体を動かすことに深く考えたことなどなかった。何も考えずに日常生活を送ることは奇跡のようなものなのだと、失ってから気付いても遅い。どんなに後悔しても遅い。そして樹生は本音に辿り着く。

「………自分が障がい者になったなんて、認めたくない……」

 タイミングを見計らったように病室のドアがノックされた。

「夕食でーす。あら、面会時間は終わりですよ」

「すんませんね。もう帰ります」

 看護師がテーブルに夕食のトレーを置いて立ち去ってから、古谷も立ち上がる。

「――まずはアレだ。雨の日はあんまり出歩くな。もし外にいる時に雨が降ってきて過呼吸になりそうになったら、ゆっくり深呼吸しろ。近くにいる人に助けを求める。一人でどうにかしようとするな」

「……うん」

「リハビリはな、なんで義足を履くのか自分で納得しねぇと。次の土曜、父ちゃん何時に迎えに来る?」

「へ? 二時くらい、かな」

「じゃあ、午前中空けとけ」

「なんで?」

「百聞は一見に如かずってな」
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