大人になる約束

三木

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 さすがに身体が重くなってきたのを感じながら寝支度をして、その間も頭の隅では、もしかすると良が起きて待っているかもしれないと考えていて落ち着かなかった。
 そっと寝室の戸を開けると中は明るくて、良は枕ではなくベランダの窓の方に頭を向けてうつ伏せになっていた。
「……寝てろって言ったろう」
 もぞ、と良は頭を上げてこちらを見た。その目が飼い主の機嫌を窺う犬のようで、裕司は少し笑ってしまう。
 裕司が布団に入ろうとすると、良は起き上がって言った。
「……怒ってる?」
 首を斜に傾けて、そんなことを訊いてくる。その目はじいと裕司を見つめていて、その中に怯えや不安は見つからなかった。
「そう見えるか?」
 良は首を横に振り、そしておもむろに布団の上で正座をした。
 そうされるとさすがに無視できなくて、あまり働かなくなってきた頭でその様子を眺めていると、良は両手で膝頭をつかむようにしながら口を開いた。
「今日は、……ほんとに、ありがとうございました」
 そう言って頭を下げた良に、裕司はぽかんと口を開けて、返事どころか何の反応もできなかった。
 裕司の沈黙をどうとらえたのか、良は顔を上げると気まずそうに視線を外して、それでもはっきりとした声で言った。
「あの、明日になったら、たぶんタイミングわかんなくて言えないから。今日のうちに言っとかなくちゃと思って」
「……そんなの、お前、別に……」
「あんたは気にしてないんだろうなっていうのは思ったんだけど、でも、俺にとってはやっぱり大事なことだから、黙ってるのは違うなって……」
 良は言いながらまた裕司を見る。黒い瞳の中には、見慣れた寝室の灯りが映っていて、それ以外に何の淀みもなく美しかった。
「あんたが大人で、俺の母親ともちゃんと会ってくれて、俺の気持ちにたくさん気を遣ってくれてたの、俺は当たり前なんて思えないし、俺の知らないとこでも俺のために色々考えたりしたりしてくれてるんだろうなって思うから、……ちゃんとお礼言いたかった。……ありがとう」
 良はまた頭を下げて、そして息をつきながら力の入っていたらしい肩を下ろした。
 裕司はまだ己の感情のかたちをうまくつかめなくて、ただ胸にせり上がるものは確かにあって、いつの間につかんでいた布団を離す。そして腕を伸ばして、良の手を握った。
「……こっち来い」
 そう言って手を引くと、良は何の抵抗もなく裕司の懐まで身を寄せてきた。その疑いのない距離に愛しさがつのって、温かい身体を抱き締める。嗅ぎ慣れた柔軟剤と石鹸の香りがした。
「…………ほんと、お前は……」
「……何?」
 躊躇いなく背中に回された手の感触と、胸の奥まで染みるような体温に、疲労と意識が同時に溶けていくような心地がした。
「……そんなこと言われたらたまらんだろうが……」
 いい言葉など何も出てこなくて、うめくように呟くと、腕の中で良が吹き出した。
「何を笑ってんだ、こら」
 頭に拳を押し付けてやると、良は笑いながら痛い痛いと言って、いっそう裕司に強くしがみついてきた。
「だって、あんた、俺に甘すぎるから」
「……」
「甘いっていうか、なんて言うんだろ……弱いって言うのかな……」
「……そんなの、もう知ってただろ」
 言うと、良はしばらく沈黙して、うん、とごく小さな声で応えた。
 良の声も、温もりも、重みも感触も、見えないはずの心も、すべてが心地よくて、それに裕司の感情は揺さぶられて乱された。
 こんなに愛しい生き物を手放した人間がいるのだということが信じられなかったし、喜びと悲しみがねじれ合うようで、心の行き場がわからなくて不安になる。それを抑えようと、良の頭を抱き寄せた。
「……もう寝るぞ。お前、どうせ明日寝坊するんだろ」
「起きなきゃいけないんだったら起きる……」
「うるせえ、寝てろ」
 なにそれ、と文句を言う良を抱き込んだまま、布団を蹴飛ばして寝転ぶと、耳のすぐ近くで良が驚いた声を上げた。
 今だけは世界に二人きりになってしまいたい。良以外の何もかもを忘れて眠りたかった。
「…………今日は、お前的に、いい日だったってことでいいのか?」
 躊躇いが声に表れて、それはまるで囁きのようになってしまった。
 やんわりと良の手に力がこもって、裕司の肩に良の指のかたちが感じられた。首筋にわずかに良の息がかかって、穏やかな声に耳をくすぐられる。
「うん……ちゃんとここに帰ってこれたし、……お寿司美味しかったし」
 寿司か、と呟いて、裕司は笑い声を漏らす。良に気を遣われているような気もしたが、今は彼の言葉の裏など考える必要はないと思った。
「…………疲れたろ。明日は何時まででも寝てていいからな」
 そう言って頭を撫でてやると、良は、すり、と裕司の腕に顔を擦り寄せて、細い声で言った。
「あんたも……お疲れ様。色々ほんとに……ありがと」
 俺に礼なんかいらないんだ、と、口に出せばきっと違う意味で伝わってしまうだろうことを胸の中だけで呟いて、裕司は代わりに短くおやすみと告げる。すぐにおやすみと返ってきた声と吐息に深い安堵を覚えて、手探りで寝室の灯りを消した。

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