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「待って待って、こんなとこで迷子になりたくない」
後ろから良の声がして、裕司は自動ドアを出たところで立ち止まった。
白く素っ気ない外観をした建物の周囲は、来たときよりも少しばかり日陰が広くなっていた。裕司は強い日射しを避けて壁際に寄る。
良の諸々の手続きのために区役所に来たのは昼前だったが、時計はとうに昼を回っていた。
「うええ、目が回りそう」
裕司に追いつくと、良はそんなことを言った。
「なんでだよ」
「お腹空いたもん」
そうだろうな、と裕司は苦笑する。役所など来慣れているはずもない良は、職員の前では借りてきた猫のようになっていた。それでも受け答えは思いの外ちゃんとしていて、裕司は良の新しい一面を見たような気持ちがした。
「お疲れ様さん」
軽く背中を叩いてやると、良ははにかんだ顔をして裕司を見た。
「うん……。あんたも、その、ありがと」
「ん?」
「俺のためにいっぱいめんどくさいことしてくれてるから……」
ふふ、とつい笑いが漏れた。手間と言えば手間だったが、億劫な気持ちはほとんどなかった。
書類を書き、署名をするごとに、良が少しずつ地に足のついた暮らしに近付いている実感があった。ずっとそうなることを望んでいたし、できるならそれは自分の手で与えてやりたいと思っていた。それが現実になるのなら、裕司にとって苦になるものなどあるはずがなかった。
「でも役所の手続きぐらいは俺がいなくてもできそうだな、お前」
歩きながら言うと、良は首を傾けた。日射しを受けて、その輪郭から濃い影が鮮やかに落ちた。
「……次から一人で来た方がいい?」
「そうしろってわけじゃないけど、いざとなったらできるだろ」
「それはそうだけど……でもここ、駅からの道わかりにくいよ。そんな遠くないのに」
手続きよりもたどり着く心配かと、裕司は笑う。身体を揺らしたせいで、肩が歩道添いの山茶花に触れた。
「お前、もう諦めてスマホ持てよ。バイトとかもすんだろ?」
「……」
「なんべんも言ってるけど、俺はお前がスマホ持っててくれたら便利だし安心だし、俺のためだと思ってそろそろ折れろよ」
良は叱られてへそを曲げたような目をして裕司を見たが、その表情は言葉になって出てくることはなかった。
「……俺も、そろそろないと困るなって思ってたよ」
降参した、という声音に、裕司は目を細めた。
「だろ? 帰りに店寄るか」
肩を叩くと、良は顎を上げて言った。
「お腹空いて頭回んないから、先にご飯食べたい」
自己主張というのは大事なものだ、と良を見ながら噛み締めて、裕司はフォークを置いて紙ナプキンで口を拭った。
駅前でたまたま目についたイタリアンの店で、目の前では良がマルゲリータのチーズと格闘していた。
いつも高い店は嫌だと言う良が、店の前の黒板メニューを見つめているのに気が付いて、入ってみるかと声を掛けてみると、良は幾拍か逡巡した後に思い切ったように頷いた。裕司にしてみれば高くもなければ安くもない一般的な価格帯だったが、良にとってはそうではないことはおおよそわかっていて、何の言い訳もせずに首を縦に振った彼には正直少し驚いていた。
少しは欲が出てきたのか、それとも甘える気になってくれたのか。いずれにしても、それはいいことだと裕司は思う。何につけ言わずに押し込めて我慢して飲み込んで、一人で耐えることをやめろと言うことはできなかったけれど、やめてほしいと願わないこともまたできなかった。
したいこともほしいものも、願いがあるならそれこそ口に出すのはタダなのだ。叶うかどうかは別としても、教えてくれなければ裕司はそれらを叶えてやることはできないし、叶えるチャンスすら与えられないことは寂しかった。
「ここのパン美味いな」
思ったことを思ったまま言うと、良はぱっと顔を輝かせた。
「ね、すごいいい匂いする」
そう言って良は幸せそうに笑ってみせた。それを見て、裕司は自分の頬が緩むのを感じた。
「ピザも美味しい。これ家で作るのは無理そう」
「そりゃあなぁ」
「美味しいの食べるとお腹空いてたの忘れるね」
彼らしい、ユニークな表現だった。
裕司の家に来たばかりの頃、良はもっと青白くて痩せていた。あの頃は食事を楽しむ余裕などなかっただろう。過ぎたこととはいえ、思い返せば不憫になる。
「……お前食べるの好きだなぁ」
「食べるの嫌いな人とかいるの?」
「まあ、人間色々いるだろ」
良は少し考えて、裕司の皿にピザを一切れ入れてきた。
「思ったんだけど、俺、前は食べるのが好きって感じじゃなかった気がする」
「前って?」
あんたに会う前、と言って、良はオレンジジュースに口をつけた。
「美味しいの好きなのは当たり前だけど、何だろ、ご飯食べるのは休憩みたいな感じだったかも」
「……」
「食べるときって何も考えなくていいじゃん。だからご飯食べるのと美味しいもの食べるのは別だったかも」
言ってることわかる? と言って良は首を斜めにして裕司を見た。裕司はそれに笑い返しながら、なんとなくな、と答えた。
良は平気な顔をしていたが、裕司は胸の奥の方に詰まるものを感じて、自分がうまく笑えていないような気がした。
後ろから良の声がして、裕司は自動ドアを出たところで立ち止まった。
白く素っ気ない外観をした建物の周囲は、来たときよりも少しばかり日陰が広くなっていた。裕司は強い日射しを避けて壁際に寄る。
良の諸々の手続きのために区役所に来たのは昼前だったが、時計はとうに昼を回っていた。
「うええ、目が回りそう」
裕司に追いつくと、良はそんなことを言った。
「なんでだよ」
「お腹空いたもん」
そうだろうな、と裕司は苦笑する。役所など来慣れているはずもない良は、職員の前では借りてきた猫のようになっていた。それでも受け答えは思いの外ちゃんとしていて、裕司は良の新しい一面を見たような気持ちがした。
「お疲れ様さん」
軽く背中を叩いてやると、良ははにかんだ顔をして裕司を見た。
「うん……。あんたも、その、ありがと」
「ん?」
「俺のためにいっぱいめんどくさいことしてくれてるから……」
ふふ、とつい笑いが漏れた。手間と言えば手間だったが、億劫な気持ちはほとんどなかった。
書類を書き、署名をするごとに、良が少しずつ地に足のついた暮らしに近付いている実感があった。ずっとそうなることを望んでいたし、できるならそれは自分の手で与えてやりたいと思っていた。それが現実になるのなら、裕司にとって苦になるものなどあるはずがなかった。
「でも役所の手続きぐらいは俺がいなくてもできそうだな、お前」
歩きながら言うと、良は首を傾けた。日射しを受けて、その輪郭から濃い影が鮮やかに落ちた。
「……次から一人で来た方がいい?」
「そうしろってわけじゃないけど、いざとなったらできるだろ」
「それはそうだけど……でもここ、駅からの道わかりにくいよ。そんな遠くないのに」
手続きよりもたどり着く心配かと、裕司は笑う。身体を揺らしたせいで、肩が歩道添いの山茶花に触れた。
「お前、もう諦めてスマホ持てよ。バイトとかもすんだろ?」
「……」
「なんべんも言ってるけど、俺はお前がスマホ持っててくれたら便利だし安心だし、俺のためだと思ってそろそろ折れろよ」
良は叱られてへそを曲げたような目をして裕司を見たが、その表情は言葉になって出てくることはなかった。
「……俺も、そろそろないと困るなって思ってたよ」
降参した、という声音に、裕司は目を細めた。
「だろ? 帰りに店寄るか」
肩を叩くと、良は顎を上げて言った。
「お腹空いて頭回んないから、先にご飯食べたい」
自己主張というのは大事なものだ、と良を見ながら噛み締めて、裕司はフォークを置いて紙ナプキンで口を拭った。
駅前でたまたま目についたイタリアンの店で、目の前では良がマルゲリータのチーズと格闘していた。
いつも高い店は嫌だと言う良が、店の前の黒板メニューを見つめているのに気が付いて、入ってみるかと声を掛けてみると、良は幾拍か逡巡した後に思い切ったように頷いた。裕司にしてみれば高くもなければ安くもない一般的な価格帯だったが、良にとってはそうではないことはおおよそわかっていて、何の言い訳もせずに首を縦に振った彼には正直少し驚いていた。
少しは欲が出てきたのか、それとも甘える気になってくれたのか。いずれにしても、それはいいことだと裕司は思う。何につけ言わずに押し込めて我慢して飲み込んで、一人で耐えることをやめろと言うことはできなかったけれど、やめてほしいと願わないこともまたできなかった。
したいこともほしいものも、願いがあるならそれこそ口に出すのはタダなのだ。叶うかどうかは別としても、教えてくれなければ裕司はそれらを叶えてやることはできないし、叶えるチャンスすら与えられないことは寂しかった。
「ここのパン美味いな」
思ったことを思ったまま言うと、良はぱっと顔を輝かせた。
「ね、すごいいい匂いする」
そう言って良は幸せそうに笑ってみせた。それを見て、裕司は自分の頬が緩むのを感じた。
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「そりゃあなぁ」
「美味しいの食べるとお腹空いてたの忘れるね」
彼らしい、ユニークな表現だった。
裕司の家に来たばかりの頃、良はもっと青白くて痩せていた。あの頃は食事を楽しむ余裕などなかっただろう。過ぎたこととはいえ、思い返せば不憫になる。
「……お前食べるの好きだなぁ」
「食べるの嫌いな人とかいるの?」
「まあ、人間色々いるだろ」
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「思ったんだけど、俺、前は食べるのが好きって感じじゃなかった気がする」
「前って?」
あんたに会う前、と言って、良はオレンジジュースに口をつけた。
「美味しいの好きなのは当たり前だけど、何だろ、ご飯食べるのは休憩みたいな感じだったかも」
「……」
「食べるときって何も考えなくていいじゃん。だからご飯食べるのと美味しいもの食べるのは別だったかも」
言ってることわかる? と言って良は首を斜めにして裕司を見た。裕司はそれに笑い返しながら、なんとなくな、と答えた。
良は平気な顔をしていたが、裕司は胸の奥の方に詰まるものを感じて、自分がうまく笑えていないような気がした。
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