大人になる約束

三木

文字の大きさ
95 / 149

95

しおりを挟む
 二人で役所に手続きに行ってからというもの、良は肩の荷が下りたように晴れやかな顔を見せることが増えた。
 朝も裕司と同じ時間に起きて、二人で朝食を食べることができている。
 これまで良に翳りを落としていたものが何だったのかなどとわざわざ訊くことはしなかったが、彼の住まいがこの家に公私ともに定まったことは、裕司の予想以上に彼にとって大きな意味を持っているようだった。
 この部屋はもう街を彷徨って流れ着いた仮住まいではない。住民として登録されて、ここが己の暮らす場所なのだと、何よりも彼自身が認識できたのではないか、と裕司は想像した。いるべき場所があるという確かさは、彼の心を少なからず安定させたように思われた。
 そして彼の心が落ち着いた分だけ、家の中には彼の私物が増えた。借り物ではなく、良が使うために良が選んで買ったものが、居間にも寝室にも洗面所にも目につくようになった。裕司の感性だけでできていた空間の中に、裕司なら選ばない──あるいは必要としないものが入ってきて、家の中の空気の匂いまで変わりつつあった。
 居間のテーブルの上に広げられた参考書と新しいペンケース、転がったシャープペンシル。伏せられたスマホ。床の上で仰向けになった、クレーンゲームの景品だった大きなぬいぐるみ。
 良がその場にいなくても、家の中から良の気配がするようになって、そしてそれは本人がそこにいるよりも若々しく今風に感じられるそれだった。まだ二十歳にもならぬ若者がここに住んでいるのだと実感すると妙にこそばゆくて、本人を前にするよりも戸惑った。
 住処を定めた彼は、それ以前に比べるといくらか遠慮がなくなったが、しかし相変わらず無欲だった。足りていると言うべきだろうかとは思うものの、若いのだからもっと欲張ってほしいとも思ってしまう。
「あれ、何してんの」
 寝室の戸口から、洗濯かごを抱えた良が声を掛けてきた。
「コーヒー淹れてるだけだよ」
「言ってくれたらやったのに」
「お前洗濯物干してただろ」
 うん、と言って、良は意味もなく空の洗濯かごをひっくり返した。
「そんなにすぐ飲みたかった?」
 何の含みもない声でそう言われて、裕司は返事をするより先に笑ってしまった。
「そんなに何でもお前にやらせるわけにはいかないだろ」
「あんたゴミ出しも掃除機もやってくれたじゃん」
 裕司の家なのに、やってもらったという感覚があるのか、と思うと、複雑な気持ちだった。家事をすることに抵抗がないのは、良のこれからの人生でとても役に立つことだろうけれども、同居人がいるのなら何も良ばかりがそんな責任感を負うことはないのだ。
「ちったぁ立たないと身体が固まるだろ」
 言い訳のようにそう言うと、良は笑って洗濯かごを片付けに行った。几帳面と言うほどでもないが、こうしてくれと頼んだことはほとんどその通りにやってくれるし、そうできなかったときはこちらが申し訳なくなるほどしおれて謝られることがあった。
 人に気を遣って暮らすことが身に付いているのは、実家での生活があったからだと知っているから、裕司はそれを素直に喜ぶことはできなかったが、良が同居人として優れていることは間違いなかった。はじめこそうまくコミュニケーションを取れなかったり、寝起きする時間をコントロールできずにいたけれど、それは良がそれだけ神経を尖らせて疲弊していたからだ。
 彼の年齢を思う度に、彼はもっと未熟であるべきだと思う自分がいて、そうでない彼を愛したいと思う自分もいた。
「ごめん、コップ取らせて」
 戻ってきた良が裕司とシンクの間に肩を割り込ませるようにして、伏せてあったグラスに手を伸ばした。良はそれに水を注いでほとんど一気にあおると、こめかみを拭って、外すっごい暑い、と呟いた。
「洗濯物すぐ乾いていいけど、外出る気なくなる」
「夜になっても暑いしなぁ。運動不足が全然解消できねぇな」
 裕司の台詞に、良は渋い顔をした。公園の長い階段でひどく息を切らしてから、良は己の体力を気にしているふうだった。
「何か最近あんたに筋肉ついてるの腹立つんだけど」
 唇を曲げて、良は裕司の二の腕をつかんできた。確かにジムには通っているが、それは座り仕事でどうしても運動不足になりがちであるのと、加齢に抗いたいという程度の理由だった。
「俺は普通だろ。お前が細いんだよ」
「そうだけど、何か俺だけひょろいのヤダ」
「ヤダって、俺がそんな痩せたら病気だぞ」
「てかあんたお腹出たりしないの? まだそんな歳じゃないだけ?」
 言いながら、良は裕司の腹に手を伸ばしてきた。やめろ、とその手を払うと、良は可笑しいのをこらえるような顔をした。
「そうならないようにがんばってんだよこっちは」
 渋面の裕司に、良はくすくすと笑って、裕司のズボンのポケットに指を引っ掛けてきた。
「知ってる。あんた美形とかそういうのじゃないけど、かっこいいもんね」
 褒められているのかどうなのか判断しかねたが、コーヒーのいい香りが満ちる中、良の笑顔が見られるこの時間には、幸福という言葉がふさわしいと思われた。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

寂しいを分け与えた

こじらせた処女
BL
 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。  昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

処理中です...