大人になる約束

三木

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 彩乃が腹を立てているのを奇妙な距離で眺めながら、裕司は身じろぎもせずに黙っていた。
 ただ胸の中のものが言葉のかたちを取らなかっただけではあったが、今この場を自分の声で現実に戻したくないとも思っていた。
 厳しい顔をして菓子を噛んでいた彩乃は、はたと気付いたように裕司を見て言った。
「ちょっと、何黙ってんの。あんたに怒ってんじゃないわよ」
 裕司は少し笑う。就職して、結婚して、子どもができて、彩乃は様々な顔を持つようになったが、裕司に対してつっけんどんなものの言い方をするところは昔のままだ。幼い姪っ子がそれを見咎めて、裕司おじちゃんに怒らないであげてと言い出したときは、姉弟そろって気まずかったものだ。
「……姉貴はいいのか? 俺がずっとこっちに住んでても」
「いいも何も、地元に戻る理由なんかないんじゃないの? 今の仕事だって前の会社のツテだって言ってたじゃない。田舎が恋しくなったってんなら止めないけど」
「まあ……そうだな、仕事はこっちじゃないとちょっとな」
 何より、良のことを考えると、進学や就職に地理的なハンデを与えたくなかった。裕司の地元ではアルバイトの口も満足に見つからないだろう。
「だいたい、一緒に暮らしてる人はどうすんのよ」
 ちょうど考えていたことを彩乃に問われて、ぎくりとする。いくら彩乃でも、まさか裕司の同居人が十代の青年だとは思ってもいないだろう。
「……俺としては、地元に戻る気はないよ」
「私もそれでいいと思うけど、たまには実家に顔出さないと。顔見ればそれだけで安心すんのよ、お母さん達」
「うーん……」
 裕司は顎を掻く。帰りたくないわけではない。良も二、三日の留守番ぐらいはしてくれるだろう。実家でも親が家を空けることはあったと言っていた。
「何、そんなに帰りづらい理由でもあんの?」
 彩乃の細い眉がひそめられて、その言葉はまた核心に近付いてきた。本当のことを言えば今度こそ激昂されるかもしれない、と思ったが、裕司のセクシャリティを察して、横暴に踏み込むことをしなかった彼女に隠し続けることは、何だかフェアではない気がした。
 息をゆっくりと吐いて、裕司は彩乃の目を見た。
「……ひっぱたかれても仕方ない話なんだが」
「は?」
「俺は、もう考えるだけ考えて、結論を出したつもりだから、……できれば味方になってほしいんだ」
 何の話をしているのか、と彩乃の目が言っていた。
 それほど冷房は効いていないはずなのに、指先がこわばって、裕司はぎこちなく両手を合わせる。
「今、一緒に暮らしてるやつ、今日はバイトで出てるんだが」
「……うん」
「良っていうんだ。すごく……賢くて、優しくて、俺は本当に信頼してる」
 彩乃は黙って頷いた。その顔は、裕司がまだ一番大事なことを言っていないことを察しているように見えた。
 裕司は唾を飲む。覚悟していても、大切なものを否定されるかもしれない告白は怖かった。
「そいつ……まだ18なんだ。……この春うちに来て、それからずっとうちに住んでる」
 彩乃はテーブルから肘を浮かせて、目を見開いた。驚いていることはわかったが、そこにどんな感情が伴っているのかは読み取れなかった。
 ごうごう、と音がしたのが、表の通りを過ぎていくトラックの音なのか、自分の血流の音なのかわからなかった。それで裕司は、己の緊張の度合いを知った。
 彩乃はおもむろに眉間に手を当てて、口を開いた。
「……あんたよりだいぶ若い子がいるんだろうなとは思ったんだけど」
 裕司はついテレビの脇の棚を見る。最近良が使っている文房具や彼が買った本がそこにはあった。玄関には良の傘や靴もあるから、彩乃はそれらにも気付いていたに違いない。
「何て言うのかしら……。……もしかしなくて訳ありな子?」
 彩乃の声は静かで、そこから侮蔑や嫌悪は感じられなかった。それだけでも裕司は安堵した。自分がひどく臆病になっていることを、頭のどこかで他人事のように観察していた。
 裕司がすぐに返事をしないことをどう捉えたのか、彩乃は弁明するような調子で言った。
「その、私の周りにはあんたみたいな……同性を好きになるような人間がいないから、こう、偏見もあるし、何が差別的なのかもたぶんわかってないのよ。今どき人の親として色々認識が足りてないとは思ってるけど、だからって当事者に聞く機会もないし……。だから、あんたの言うことを悪く取っちゃってたら」
「悪くなんかないよ」
 彩乃の言葉を遮った己の語尾が、思いもよらずわずかに震えて、裕司は両手を組み合わせた。
 およそ三十年の間、己が抱えていたものが、自分で思っていたよりもはるかに大きかったのだと感じられた。
「……姉貴は身内だから、俺も言いたいことは言えるし、姉貴がそんな気ぃ遣うことねえよ。……ただ、俺は、良を誤解されたくないんだ。さっき味方になってほしいって言ったのも、俺のじゃなくて……」
 良の味方になってやってほしい、と言おうとしたが、声にならなかった。この歳になって、よりにもよって姉の前で涙など見せたくないというつまらぬ意地が邪魔をした。
 良のことを話したいのに、これまで押し込めていた自分が大きく膨らんで、喉元に詰まったような気分だった。

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