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いぬこいし編
人に戻った彼は忙しい
しおりを挟む「──とまぁ訳の分からない愛を散々語られており……」
別邸に戻った皆はそれぞれ持ち場に戻り、泣き疲れたアオイは自室にて休んでいる。
怜はこれから一貴族として社交界に舞い戻る準備の為、必要な書類を揃えながら本邸でのアオイの様子をコニーに報告してもらっている最中だ。
(しかし……己に対しての事なのだが聞いていて恥ずかしい、いやそれを通り越して狂気すら感じる内容……。誰が! 剥製なんぞになるものかっ!)
「終始そのような感じで結果がアレという事で、はい……」
「う、うむ。有難う……」
「では私は下がらせて頂きます。人の手でジュエリーを磨くのがこんなにも楽しいとは思いませんで早く籠もりたいのです」
「そ、そうなのか……?」
コニーは最後に、「あの~旦那様……」と閉まりかけのドアの隙間から死んだ目を主人に向ける。
その視線に何だか嫌な予感がして、ぞわっと背中を震わした。
きっと山犬の姿なら尻尾と耳がへたれていただろう。
「な、何だ……?」
「犬に戻って下さいな……」
「あ、阿呆か! 誰が!」
「アオイ様もお喜びになるでしょう。改めて、では」
「おいっ……!」
正直、一度は思わなくも無かった。
これ程迄に泣かれるなら犬のままでもと。
呪いが解けたあの日から、アオイの笑顔を見ていないのだ。
向日葵のような、眩しい笑顔を。
怜は自室の奥の机にて手触りの良い革の椅子をくるりと窓の方に向きを変え、「はぁ……」と何時もと変わらず溜息をついた。
空を眺め、あの笑顔を思い出す。
アオイの恋愛対象がそもそも人間でないのだろうか。
そうなれば己がどれだけ頑張ろうが無意味だろう。
(いやいや、私は何をしているんだ。今はそんな事を考えている場合ではないだろう)
アオイがどうこうより、まず己自身が人の姿に慣れねばならない。
戦闘の仕方も乗馬も、なんなら釦の留め方すら一瞬迷ったぐらいだ。
それに紅華国の賊共に人食い山犬が消えたと知られれば面倒である。
やらねばならぬ事が山程あるのだ。
しかしまた直ぐに、アオイという存在が脳も心も支配していく。
何だかんだで呪いが解けた姿にも、惹かれてくれるものだろうと、怜自身も、使用人も、狼森家の皆が、そう思っていた。
だがそう上手くはいかないらしい。
結界が無くなり、外の朗らかな風にゆらゆら踊る向日葵を眺めていると、わなわなと何かが混み上がってきた。
そこはかとない感情。
(と言うかな? 普通はこれ程迄に顔の良い男が現れたら、幸せに暮らしましたとさめでたしめでたし、となるのでないか!? 全く、アオイときたら逃げやがって。これじゃあ物語も終わらんぞ!)
「って……、」
だから今こんな事をしている場合ではと、椅子を机の向きに正せば、「旦那様……、先程から何をされているのです?」と何時から居たのか、ナウザーが冷めた目で怜を見つめていた。
「えっ……、いや、別に。な、何もしておらん……」
「お一人で戯れるのも結構ですが早く書類を片付けて下さい」
「だ! 誰が一人で戯れるか……!」
「はぁ……」
「何だその目は……!」
「いえ別に。それよりも此方をお持ち致しました」
強がる主人にナウザーが渡したのは、頼まれていた両親の遺言書。
もうずっと前の遺言書で何処に仕舞っていたかも覚えていなかったが、ナウザーに頼めば直ぐ見つけてくれる。
「早いな、ありがとう」
「嗅覚が鋭いので」
「……ブラックジョークが得意なようで」
「有難うございます」
「褒めてないからな?」
──怜の父、〈狼森 史郎〉は、狼森家の長男だった。
領主であった父史郎は、勿論自分が死んだ後、たった一人の息子である怜に狼森家を継がせる筈だった。
いや、実際はちゃんと継いでいるのだが、何分結界の外へ出られない、ましてや恐ろしい獣になっただなんて言えもしないので、国からしてみれば怜達は神隠しにあった状況だ。
なので書類の名義は息子の怜なのだが、史郎の弟家系が代理人と言うわけだ。
父、史郎の遺言書にはこう書いてある。
〈私の遺産は半分は妻に、もう半分は息子である怜に。弟の家系には収入の七割を与える事〉
父の後に亡くなった母セレナの遺言書にはこうだ。
〈遺産は一人息子である怜に全て残す〉
そして二人の遺言書には同じことが書かれている。
〈息子が消えたその日から数えて101年経っても息子が現れなければ、金庫に保管している遺産は、領民に全て寄付する。狼森家当主は史郎の弟家系に譲る〉
名義は〈狼森 怜〉であっても、実際100年も経てば本当に〈狼森 怜〉なのか疑わしいだろう。
それを証明しなければならないのだ。
しかし100年も経てば技術も進歩する。
世界一厳重だと言われている蒼松国の金庫では、今や指紋や血液などで、本人であると証明出来るらしい。
世界一厳重な金庫が開けば、〈狼森 怜〉本人であると認めざるを得ないだろう。
金庫を開け、それから王族達へ謁見もしに行かなければならない。
辺境伯としての対策も練らねばならない。
(全く。やる事が沢山ある……アオイとも話合いたいのだがな)と、また溜息をつく怜だった。
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