絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第一章 闇に蠢くものたち

中華街

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 小堀敬三は木製のテーブルの上をコツコツと何度も指で叩いていた。注文した料理がいつまで経ってもひとつも運ばれてこない。あとから来た隣のテーブルの客の料理が先に運ばれてくるのを目にしたとき、苛立ちはピークに達した。

「おい!」

 白いエプロンを付けた若い男の店員に怒鳴りつけた。

「私の料理はいつになったら来るんだ。もう三十分も待ってるんだがね」

 店員はおそらく中国人なのだろう、小堀の日本語があまり理解できないらしく、きょとんとした表情を見せる。

「ちょっと待ってください」

 少ししてそう言ってからその場をあとにした。

 有島の中華街エリアにいた。ビルの谷間の通りを埋め尽くすようにして屋台が並び、各店に吊るされた裸電球が夕闇の中で眩い光を放っている。周辺には食欲をそそるスパイスの八角の匂いが充満していた。

「どうしました?」

 料理人らしき大柄のスキンヘッドの男が現れて訊いた。

「注文した料理が来ないんだよ!」
「なにを注文した?」
「上海焼きそばと鴨ホルモン入り春雨スープ、それに青島ビールだ」
「そんな注文通ってないよ」

 その言葉に小堀は再び激昂した。

「ふざけるな!」

 椅子から立ち上がって掴みかからんばかりの勢いで男に詰め寄った。

「まあ、まあ、まあ」

 そこに別の客の男が割って入った。白のネルシャツを着ており、口元に薄く髭を生やしている。彼もまた中国人のようだった。

「落ち着いてください。とりあえず座って」

 小堀にそう言ってからスキンヘッドの男のほうを向き、中国語でなにか言って下がらせる。

「お腹空いているならこれを食べて。お酒は紹興酒でいいですか?」

 男は自分のテーブルから水餃子などの料理や紹興酒をもってきて小堀と向かい合わせに座る。そして空いているグラスに紹興酒を注いで小堀にすすめた。

「飲んでください」

 一口飲むと、口の中に広がる苦いような甘いような独特の味と香り。ちびちびと飲んでいるうちにいくらか怒りも和らいできた。

「私の名前は周です。有島には仕事ですか?」
「ああ、そうだ」

 小堀は東京本土で通販企業経営していた。有島に来たのは、この地に拠点を置くセレクトショップと資本業務提携を結ぶためだった。アジアの昔の下町を思わせるこの通りで、ひとりだけビジネススーツを着ている彼の姿は少しだけ浮いて見えた。

「どんな仕事?」
「あんたには関係ない」

 周の質問を適当に受け流しながら紹興酒をさらに呷った。酔いで焦点のはっきりと定まらなくなってきた視界に裸電球の鮮烈な光が突き刺さる。その光の向こう側にビルから突き出す色とりどりの電飾看板が水で溶かした絵の具のように滲んでいる。

「昔の上海の景色に似ている……」

 独り言のように呟いた。

「上海に行ったことがあるんですか?」
「若い頃に二年間駐在していた」

 小堀がまだ雇われの会社員だったときのことである。仄かに蘇ってくるほろ苦く、甘酸っぱい思い出……。しかし、それについて周などに話すつもりはなかった。

「上海はどうでした?」
「悪くない」
「二年も中国にいたということは中国語は?」
「少しだけだ」

 周はテーブルに少し身を乗り出して小声で訊いた。

「あなた中国の女は好きですか?」
「は?」
「私、中国の女紹介できますよ。いい女たくさんいます」

 小堀はふんッと鼻を鳴らして空になっていたグラスに紹興酒を注ぐ。気のない素振りを見せていたのだが、周の次の言葉にピクリと反応してしまった。

「女子高生もいますよ」
「なに?」
「有島で売春をしてそのお金で渋谷や原宿でショッピング。これが中国の女子高生が日本に遊びに来たときの人気のコースです」

 周はさらに声を落として言葉を続ける。

「日本の警察はこの島では無力。だから大丈夫。絶対に安心」

 小堀はグラスを掴んだまま動きが止まっていた。食指は動いていた。が、まだわずかに残っていた理性が欲望を抑え込んでいた。グラスの中の紹興酒をグイと一気に呷った。

「ふう……」

 大きく息を吐いた。視界がグラグラと揺れる。ぼやけて二重になった周が下卑た笑いを浮かべながら訊いた。

「どうします?」

 小堀は意を決し、椅子から立ち上がって言った。

「よし、案内してくれ」

 千鳥足で周のあとを付いていった。屋台通りを抜けて中国語の文字のネオンの並ぶ大通りに出る。周は歩きながら携帯電話で誰かと話している。しばらくして横道に入った。人通りは少なくなり、奥に進むにつれて暗闇と静寂が深まっていく。

 遠くのほうで二本のレーザー光線が青、緑、ピンク……と次々に色を変えながら夜空を縦横無尽に飛び交っているのが見えた。有島駅のアリーから発射されるレーザー光線である。

「着きました。ここです」

 周が足を止めた。四階建てのコンクリート打ちっぱなしのマンション。それらしい雰囲気は微塵も感じられなかった。

「本当にこんなところに女子高生がいるのか?」
「私を信じてください」

 エントランスの上部に取り付けられた蛍光灯に一匹の蛾が体当たりを繰り返して鱗粉を撒き散らしている。その下を通って建物内に入った。エレベーターホールのドアの前に立つと、小さなレンズから赤いレーザー光線が周の目に向かって照射され、その虹彩を認証してからドアのロックを解除した。

 エレベーターで四階に上がり、一室に通された。玄関でスリッパに履き替えて寝室に入る。そこも建物の外観と同じくコンクリートの打ちっぱなし。ダブルサイズのベッドとシンプルな白のテーブルと椅子のみが置かれている。ベッドの横の壁は全面鏡張りになっていた。

「ここで待っててください。女を連れてきます」

 そう言って部屋を出ていこうとする周を小堀は引き止めて訊いた。

「女の子のチェンジはできるのか?」
「何回でも大丈夫」

 バタン。ドアが閉じられた。小堀はベッドに腰掛けてふうっと息を吐く。自分の心臓の鼓動が聞こえてきそうなほどの深い静寂が広がっている。

 ジャケットを脱いでネクタイを緩めた。ベッドの上で胡坐をかいて鏡と向き合う。自分の顔をじっと見つめた。年齢は五十二歳だが、薄い頭髪、たるんだ肌、シミなどのせいで見た目は七十歳以上の老人に見えた。

 鼻の穴から鼻毛が何本か飛び出しているのに気付いた。指で摘んでブチッと引き抜いた。しばらくその作業に没頭した。クシュンと小さくくしゃみをした。そのときだった。

 コンコン。ドアをノックする音。

「あ、ああ……。どうぞ」

 返事した声が思わず裏返ってしまった。

 鏡越しにドアが開くのが見えた。周とその隣に立っているひとりの小柄な女。白のワンピースを着ており、前髪を眉毛のあたりで一直線に切り揃えている。緊張しているのか、それとも怯えているのか唇をきゅっと固く結んでいた。

「この子でいいですか?」

 小堀はこくりとうなずいた。

「彼女は日本語をほとんど話せませんが……」
「大丈夫だ。問題ない」
「ヒヒッ。どうぞごゆっくり」

 周が出ていき、部屋に小堀と女の二人だけになった。女はドアの近くにじっと佇んだまま動こうとしない。気まずい沈黙が流れた。小堀のほうから口を開いた。

「ニーハオ」

 中国語でそう言うと、彼女の口元が少しほころんだような気がした。ベッドの上の小堀のほうへ歩いてきてその近くに腰を下ろした。化粧はしていないようだが、その必要性はまったく感じられないほど透き通るように白い肌をしていた。

 小堀はカタコトの中国語を駆使して彼女の身の上話を聞きだした。年齢は十七歳。出身は福建省。家庭が貧しく、高校の学費を稼ぐために学校の休みを利用して有島に出稼ぎに来ているのだという。名前は林杏といった。

 彼はその名前に運命を感じずにはいられなかった。上海に駐在していたとき彼には中国人の愛人がいた。その愛人の名前も林杏といった。燃えるような情事を何度も重ねた。しかし、日本に妻を残してきていたので駐在を終えて帰国するときにその関係は終わらせるしかなかった。

 ――もしあのとき、不細工な女房を捨てて林杏のほうをとっていたら……。

 あれから二十年以上経った今でもそんなふうに思い返すことがあった。

 今目の前にいる十七歳の林杏は小堀のジャケットを壁のハンガーに掛けていた。その後ろ姿がたまらなく愛おしくなり、背中から抱きついて耳元で囁いた。

「ああ、林杏……」

 彼女の髪の毛からシャンプーの甘い香りが漂ってきた。

 ベッドの上でお互いに服を脱いでいった。杏林は白の下着だけの姿になったところで顔をうつむけて言った。

「恥ずかしい。電気を消してもいい?」
「もちろん」

 彼女はベッド脇のスイッチに手をかける。照明を少し落とすだけかと思いきや完全な真っ暗闇にしてしまった。

 小堀はそれを訝しく思いながらも性欲に急かされるようにしてブリーフのパンツを脱いだ。暗闇の中、手探りで林杏の体を探した。あった。指先が彼女の滑らかな素肌に触れた。ブラジャーに手をかけてホックを外そうとした。そのときだった。

 パシャリ。

 ほんの一瞬、室内を覆う眩い光。いったいなにが起こったのか……。呆然としていると暗闇の中に男の笑い声が響いた。

「ククク……」

 ――まさか……。

 不吉な予感がざわざわと背中を這い上がっていく。照明が付いた。そのまさかだった。小堀と林杏しかいなかったはずの部屋に三人の男が立っていた。中国語でなにか言葉を交わし、それから小堀のほうに目を向けてまた笑い声をあげる。

「なんだ、おまえら……?」

 中央の男は三十代半ばくらいだろうか、グレーのスラックスに白のワイシャツという服装で、髪の毛は肩のあたりまで伸ばしている。服装はフォーマルだが、その異様なまでに鋭い目付きは明らかに裏社会に生きる人間のものだった。

 その両側の男二人は中央の男よりも一回り若く、それぞれ格子柄シャツと黒シャツを着ている。格子柄シャツの男は手にインスタントカメラと一枚の写真をもっていた。

「お楽しみのところをせっかくだから撮影してやろうと思ってね。ほら、見ろよ。よく撮れてるだろ?」

 そう言って格子柄シャツの男が見せた写真に小堀は血の気が引いた。全裸の小堀が下着姿の林杏の体に手をまわしていた。彼の顔とそそり立ったペニスまでもが鮮明に写されていた。

 デジタルカメラと違い、撮影したものがすぐに写真になるインスタントカメラは写真の改竄が困難である。そのため、証拠写真の撮影のためにいまだに重宝されていた。

「この写真を買い取ってくれないか」

 ――そういうことか……。

 小堀は体をブルブルと震わせ、林杏に憎悪の表情を向けた。あどけない少女だと思って侮っていた。彼女もはじめからグルだったのである。

 林杏は小堀から顔を逸らし、長髪の男に助けを求めるかのような視線を向ける。長髪の男が顎をしゃくると、彼女はすぐにワンピースを着て逃げるようにして部屋を出ていった。

「おまえも服を着ろよ。ジジイの裸なんて見ていたくないからよ」

 黒シャツの男が言った。小堀は慌てて服を着た。

「で、どうするの?」

 格子柄シャツの男が答えを催促した。

「おまえら私が誰だかわかっているのか? ドリームショッピングという会社はおまえらも聞いたことがあるだろう。その社長の……」

 小堀がそこまで言ったところで、長髪の男がテーブルの上のアルミの灰皿を手にとって彼の頭を強く叩いた。灰皿はスコーンと小気味好い音を立てて飛んでいき、床に落ちてカランカランと回転する。

「知らねえよ、バーカ!」
「なにが社長だ、バカ野郎。おまえはただの変態ロリコンジジイだろ」
「女子高生といったいどんなことがしたかったんだ?」

 格子柄シャツの男と黒シャツの男がまた笑い声をあげる。しかし、長髪の男だけは少しも笑わず、まるで汚物を見るかのような冷たい目を小堀に向けているだけだった。

 小堀はそれまで味わったことのないような屈辱に打ちひしがれていた。これまでの人生をかけて必死に築き上げてきたプライドがこんな中国人のチンピラに足蹴にされていた。しかし、この場はとりあえず彼らの要求に従うしかなさそうだった。

「いくらだ」

 ジャケットの内ポケットから長財布を取り出しながら訊いた。

「それごとよこせよ」

 長髪の男が財布を奪う。そして札をすべて取り出し、一枚ずつ丁寧に数えていく。その金額に満足したのか、彼は札をピンと指で弾いて財布を小堀に返す。そしてインスタントカメラの写真もいっしょに渡した。

「ほらよ。この写真はおまえの家の神棚にでも飾っておくんだな」

 長髪の男がそう言うと、格子柄シャツの男と黒シャツの男がまた笑い声をあげた。

 ――あれ……?

 小堀は少し拍子抜けしていた。カード類まで根こそぎもっていかれるものだとばかり思っていた。財布に入っていた金額はおよそ三十万円だが、それは彼にとってどうということのない金額だった。この程度でいいのかとさえ思った。

 緊張が緩んだところで一時的におとなしく身を潜めていたプライドがまた頭をもたげてきた。財布と写真をジャケットの内ポケットにしまい、部屋のドアの前に立ったところでこう捨て台詞を吐いた。

「覚えておくんだな。おまえらみたいなチンピラすぐに叩き潰してやるからな」

 そしてドアノブに手をかけた。そのときだった。

「おい!」

 室内の空気だけでなく壁までもがビリビリと震動するような大声が響いた。長髪の男が小堀にゆっくりと歩み寄りながら訊いた。

「おまえ今なんて言った? 俺たちを叩き潰すのか?」
「……え、あ」
「悪いけど俺は物覚えが悪くてな、たぶん明日には忘れちまう。叩き潰すのなら今すぐにこの場で叩き潰してくれよ」
「い、いや……」
「こいつら二人には手を出させないからよ、俺とタイマンの喧嘩しようぜ」

 黒シャツの男は小堀のジャケットの襟首を掴んで長髪の男の前に突き出す。そして逃げられないようにドアの前に立ちはだかった。

「ほら、来いよ」

 長髪の男は両手を前に構えた。いかにも喧嘩慣れしている感じの構え方だった。

「私はそういうつもりでは……」
「じゃあ、どういうつもりだ。俺たちを叩き潰すんだろ?」
「やれよ!」
「早くやれ!」

 格子柄シャツの男と黒シャツの男も野次を飛ばしてくる。

「わかったよ。まずはおまえから先に俺を一発殴らせてやる。それを試合開始のゴングということにしようぜ」

 長髪の男は両腕を下ろしてノーガードの状態で小堀に詰め寄る。しかし、小堀はただじりじりと後退するだけだった。

「早く殴れ!」

 小堀は後退する。

「殴れって言ってんだろ!」

 さらに後退して壁際まで追い詰められる。それ以上後退することができずに腰を落としていった。そのとき、顔面の真横でなにかが破裂するような凄まじい音が響いた。長髪の男の革靴がコンクリートの壁に置かれていた。

「やらねえか!」
「あ、あ……」

 小堀は自分の股間のあたりがじわりと温かくなっていくのを感じた。人生ではじめての恐怖による失禁というものを経験していた。
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