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第一章 闇に蠢くものたち
ラブレター
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沙耶の左手首に巻かれた携帯電話から平面の地図のホログラムが浮かび上がっている。彼女はその地図上の矢印の指し示す方向へと道を進んでいた。
道の両側に並ぶブロック塀には自転車を漕ぐ少年の絵などカラフルなスプレーアートが施されている。通りを行き交う人々は日本人もいれば、浅黒い肌の者、立派な口ひげをたくわえた者、目が大きく彫りの深い顔をした者など国籍不明の人間が多い。この有島においても特に雑多な人種の入り混じる地区だった。
「目的地に到着しました」
携帯電話から音声が流れる。目の前にあるのは五階建てのコンクリート造りのアパート。ここにアルンが住んでいるはずだった。住所はバイト先のタイ料理レストランの店長に教えてもらっていた。
入り口のガラス戸の横のインターホンを押した。
「はい?」
中年の女の声が応じる。
「えっと、私、ここに住んでいるアルンというタイ人の友達で……」
少しの沈黙。監視カメラで沙耶の顔を確認しているのだろう。
「アルンならいないよ」
「引っ越したんですか?」
「……とりあえず、中にどうぞ」
ガラス戸のロックが解除される音がした。
建物に入ってすぐ正面にある管理事務室に入った。窓から午後の柔らかな日差しが差し込み、事務机、ガラスのテーブル、本棚など室内すべてのもの包み込んでいる。事務机に着いていた厚化粧のブルドッグ顔の女が言った。
「急にいなくなっちまったんだよ。先月の家賃もまだ払ってもらってないってのに。あんたは彼とはどういう関係?」
「同じレストランでバイトしてました。急にいなくなって連絡もとれなくなってしまったので心配になって……」
「なにを心配してんのさ」
「なにか事件にでも巻き込まれたんじゃないかと」
「それはないね。タイに帰ったんだろ」
「でも、急にいなくなるなんてことありますか?」
「たまにいるんだよ。家賃を払わずにトンズラしちまう外国人が」
アルンもただタイに帰っただけなのだろうか。心配のし過ぎだろうか。しかし、それならば沙耶からの連絡に応じてくれてもよさそうなものだが……。
「あの……アルンの部屋を見せてもらうことはできますか?」
ブルドッグ顔の女は少し考え込むような顔をしてから机の引き出しからカードキーを取り出して沙耶に渡した。
「ほら。三階の三○五号室だ」
それを受け取ってエレベーターで三階に上がった。廊下の両側に部屋が並んでいる。突き当たりにあるベランダのドアが開け放たれ、そこから青空が覗いている。吹き抜ける一陣の風。わずかに心をざわつかせるものがあった。
三○五号室の前に立った。カードキーでドアロックを解除しようとするが、その前に一応インターホンを鳴らしてみた。
ピンポーン。
静寂を切り裂いて鳴る音。しばらく待ってみたがやはり応答はない。ドアロックを解除して部屋に入った。
カーテンのわずかな隙間から日差しが斜めに差し込んでいる。玄関でシューズを脱いで上がり、カーテンを全開にした。薄闇の中に埋もれていたパイプベッド、タンス、木のテーブルなどが光に照らされる。玄関から入ってすぐ両側はユニットバスと小さなキッチンになっていた。一人暮らしの男のごく一般的な部屋といった感じである。
テーブルの上に一通の白い封筒が置かれていた。それに書かれている宛名を見て心臓がドキリと跳ね上がった。沙耶へ。黒のボールペンでそう書かれていた。勝手に読んでいいものかと少し迷ったが、封を開け、便箋を取り出して読んだ。
僕は二年前にタイから日本に来ました。日本語があまりうまくないのでなかなか友達ができず、とても寂しかったです。でも、沙耶だけは僕にとても優しかった。
沙耶の笑顔を見るときに僕は神の存在を信じます。沙耶が僕にとっての女神だからです。沙耶を想うと胸が苦しい。でも、とても幸せ。沙耶の笑顔をずっとそばで見ていたい。
僕はあなたを愛しています。
あまりにも率直な言葉で綴られたラブレター。これを一生懸命書いているアルンの姿を想像して心が揺さぶられるのと同時に自責の念が湧いてきた。
――私はバカだ……。
アルンが自分に対してそんな想いを抱いていたなんて少しも気付かなかった。しかし、思い返してみると、たしかに彼はそれらしき行動を何度もとっていた。
店長と二人で休憩に入ったときのことである。アルンが賄いとしてパッタイを作ってくれた。店長はレシピでは一人前につき海老を三尾入れることになっているのに海老が一尾も入っていないとアルンを叱った。が、沙耶のものには六尾も入っていた。店長に入れる分の海老まですべて沙耶のほうに入れていたのだ。
アルンはこのラブレターをあとで沙耶に渡すつもりだったのだろう。それならばやはり急にタイに帰ったりなんてするはずがない。彼の身になにかあったとしか思えない。テーブルに顔を突っ伏してふうっと深くため息をついた。
目を閉じた。暗闇の中でさまざまな感情と思考がぐるぐると渦を巻く。しばらくして目を開けると、窓の外の青空を一羽の鳥がすうっと横切っていった。
携帯電話が鳴った。洋平からの着信。
「おまえ今どこ?」
「え? あ……、アルンのアパート」
「なにやってんだよ。今日スタジオ練習の日だぞ」
「ごめん。今日だったね。すぐ行く」
「三秒で来いよ。一……、二……」
沙耶は洋平が三と言う前に通話を終了させ、ラブレターをショルダーバッグにしまって部屋を飛び出した。
道の両側に並ぶブロック塀には自転車を漕ぐ少年の絵などカラフルなスプレーアートが施されている。通りを行き交う人々は日本人もいれば、浅黒い肌の者、立派な口ひげをたくわえた者、目が大きく彫りの深い顔をした者など国籍不明の人間が多い。この有島においても特に雑多な人種の入り混じる地区だった。
「目的地に到着しました」
携帯電話から音声が流れる。目の前にあるのは五階建てのコンクリート造りのアパート。ここにアルンが住んでいるはずだった。住所はバイト先のタイ料理レストランの店長に教えてもらっていた。
入り口のガラス戸の横のインターホンを押した。
「はい?」
中年の女の声が応じる。
「えっと、私、ここに住んでいるアルンというタイ人の友達で……」
少しの沈黙。監視カメラで沙耶の顔を確認しているのだろう。
「アルンならいないよ」
「引っ越したんですか?」
「……とりあえず、中にどうぞ」
ガラス戸のロックが解除される音がした。
建物に入ってすぐ正面にある管理事務室に入った。窓から午後の柔らかな日差しが差し込み、事務机、ガラスのテーブル、本棚など室内すべてのもの包み込んでいる。事務机に着いていた厚化粧のブルドッグ顔の女が言った。
「急にいなくなっちまったんだよ。先月の家賃もまだ払ってもらってないってのに。あんたは彼とはどういう関係?」
「同じレストランでバイトしてました。急にいなくなって連絡もとれなくなってしまったので心配になって……」
「なにを心配してんのさ」
「なにか事件にでも巻き込まれたんじゃないかと」
「それはないね。タイに帰ったんだろ」
「でも、急にいなくなるなんてことありますか?」
「たまにいるんだよ。家賃を払わずにトンズラしちまう外国人が」
アルンもただタイに帰っただけなのだろうか。心配のし過ぎだろうか。しかし、それならば沙耶からの連絡に応じてくれてもよさそうなものだが……。
「あの……アルンの部屋を見せてもらうことはできますか?」
ブルドッグ顔の女は少し考え込むような顔をしてから机の引き出しからカードキーを取り出して沙耶に渡した。
「ほら。三階の三○五号室だ」
それを受け取ってエレベーターで三階に上がった。廊下の両側に部屋が並んでいる。突き当たりにあるベランダのドアが開け放たれ、そこから青空が覗いている。吹き抜ける一陣の風。わずかに心をざわつかせるものがあった。
三○五号室の前に立った。カードキーでドアロックを解除しようとするが、その前に一応インターホンを鳴らしてみた。
ピンポーン。
静寂を切り裂いて鳴る音。しばらく待ってみたがやはり応答はない。ドアロックを解除して部屋に入った。
カーテンのわずかな隙間から日差しが斜めに差し込んでいる。玄関でシューズを脱いで上がり、カーテンを全開にした。薄闇の中に埋もれていたパイプベッド、タンス、木のテーブルなどが光に照らされる。玄関から入ってすぐ両側はユニットバスと小さなキッチンになっていた。一人暮らしの男のごく一般的な部屋といった感じである。
テーブルの上に一通の白い封筒が置かれていた。それに書かれている宛名を見て心臓がドキリと跳ね上がった。沙耶へ。黒のボールペンでそう書かれていた。勝手に読んでいいものかと少し迷ったが、封を開け、便箋を取り出して読んだ。
僕は二年前にタイから日本に来ました。日本語があまりうまくないのでなかなか友達ができず、とても寂しかったです。でも、沙耶だけは僕にとても優しかった。
沙耶の笑顔を見るときに僕は神の存在を信じます。沙耶が僕にとっての女神だからです。沙耶を想うと胸が苦しい。でも、とても幸せ。沙耶の笑顔をずっとそばで見ていたい。
僕はあなたを愛しています。
あまりにも率直な言葉で綴られたラブレター。これを一生懸命書いているアルンの姿を想像して心が揺さぶられるのと同時に自責の念が湧いてきた。
――私はバカだ……。
アルンが自分に対してそんな想いを抱いていたなんて少しも気付かなかった。しかし、思い返してみると、たしかに彼はそれらしき行動を何度もとっていた。
店長と二人で休憩に入ったときのことである。アルンが賄いとしてパッタイを作ってくれた。店長はレシピでは一人前につき海老を三尾入れることになっているのに海老が一尾も入っていないとアルンを叱った。が、沙耶のものには六尾も入っていた。店長に入れる分の海老まですべて沙耶のほうに入れていたのだ。
アルンはこのラブレターをあとで沙耶に渡すつもりだったのだろう。それならばやはり急にタイに帰ったりなんてするはずがない。彼の身になにかあったとしか思えない。テーブルに顔を突っ伏してふうっと深くため息をついた。
目を閉じた。暗闇の中でさまざまな感情と思考がぐるぐると渦を巻く。しばらくして目を開けると、窓の外の青空を一羽の鳥がすうっと横切っていった。
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「おまえ今どこ?」
「え? あ……、アルンのアパート」
「なにやってんだよ。今日スタジオ練習の日だぞ」
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