絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第一章 闇に蠢くものたち

バンド練習

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 健吾は両手に構えたスティックをスネアドラムとハイハットシンバルの上で跳ねさせるように連打し、軽快な十六ビートのリズムを刻んだ。裸足でフットペダルを踏んでそこにバスドラムの重低音も加える。

 ふだんの健吾はどこか垢抜けないところがあり、バンドマンというより田舎で農業に従事している気の優しい青年といった感じである。が、ドラムを演奏しているときは野性と機械の精密さが融合したかのような神々しさに包まれる。そのギャップはあまりに大きかった。

 彼はふいに演奏を止めた。ただギターを構えて立っているだけの洋平に向かって言った。

「洋平、やる気ないのか? なにやってんだよ」
「やっぱり沙耶が来るのを待ったほうがよくないか?」
「時間がもったいない。ここにいるだけで料金はとられるんだからな」

 健吾はフットペダルを踏んでバスドラムをドスンと鳴らした。その音の中に少しだけ苛立ちが滲んでいた。

 ドラムセット付きのレンタルスタジオにいた。片側の壁は鏡張りになっており、そこにドラムセットに座る健吾、ギターを構える洋平、黒い板の薄型アンプ、マイクスタンドなど室内すべてのものが映し出されている。天井に吊るされた照明はその光を鏡と光沢のある木目の床に反射させている。長方形の窓には夕闇に染まるビル群の景色が広がっていた。

「もう一回電話してみるか」

 洋平は床に転がしていた携帯電話に手を伸ばした。そのとき、ドアが勢いよく開いて沙耶が姿を現した。

「ごめん! 遅くなった」

 肩で荒く呼吸をしながら言う。

「なにしてたんだよ」
「本当にごめん。あとで杏仁豆腐おごるから許して」
「早く準備しろ」
「うん!」

 沙耶は肩に担いでいたケースを下ろし、中からベースギターを取り出す。そうしている間に洋平はギターの弦をピックで弾いて演奏を始めた。心のひだを震わせるような情緒的なイントロ。そこへ健吾のドラムが重なる。

 沙耶はストラップを肩にまわしてベースギターを構えた。四本の弦を上から順に指で弾いていき、ペグを回して音程を調節する。アンプには無線で繋がるようにしてあったのでコードで繋ぐ必要はなかった。

 チューニングが終わるとマイクスタンドの前に立った。鏡に沙耶を中心とした三人の姿が映し出される。沙耶はベースの弦を人差し指と中指で交互に弾いて重低音のリズムを刻みながらマイクに顔を近づける。そして口を開いた。

「自分の夢は語りたくない。どんな傷があるのかも見せたくない」

 彼らの新曲「君は優しく嘘を吐く」。歌い始めはわずかにズレていた沙耶のヴォーカルの音程が徐々に調節されていく。サビに入るとバンドから発せられるすべての音を従えてひとつの大きなうねりになり、室内を縦横無尽に駆け巡った。

 練習を終えたときには全員がほんのりと汗をかいていた。窓外の景色は夕方からは夜の色に塗り替えられており、その中にいくつもの小さな光が散りばめられている。

 壁に取り付けられた電話が鳴った。時間終了の電話だろう。健吾がそれに応じ、二人のほうに振り向いて言う。

「先に料金を払ってくるわ」

 そして部屋を出ていく。洋平と沙耶の二人が残された。

 沙耶はベースをケースに丁寧にしまって金具をパチンと閉める。洋平は床に散らばった楽譜を一枚ずつ拾い上げていく。そこに書かれた詞に目をやってそれとなく沙耶に訊いた。

「おまえ、健吾の書いた詞についてどう思う?」
「すごく良いと思うよ。愛する人への想いがよく伝わってくる。健吾って彼女いるのかな?」
「いないよ」
「じゃあ、好きな人がいる?」
「いなかったらあんな詞は書けないさ」
「誰だろう。バイト先の人かな?」

 洋平は苦笑いをする。そのとき、ドアが開いて健吾が戻ってきた。

「一人千六百円な」
「あ、私、遅れてきたから多めに払うよ」
「いや、沙耶も同じでいいよ」
「でも……」
「その代わり、沙耶には杏仁豆腐をおごってもらうことになってるから」
「あ、そうか」

 レンタルスタジオを出ると、健吾は自分のバイクを駐車場に残し、三人で歩いて中華街エリアに向かった。そこに沙耶のお気に入りの杏仁豆腐専門店があった。

 木を基調にしたおしゃれなカフェのような店内。テーブル席に着くと、洋平はメニューを開かずに言った。

「杏仁豆腐食べ放題コースにしようぜ」
「そんなのあったっけ?」
「どれだけ食べても沙耶がすべて払ってくれるという夢のようなコースだ」
「まじでやめて」

 この店では生姜の香る杏仁豆腐、マンゴープリン杏仁豆腐、抹茶杏仁豆腐などぜんぶで十二種類もの杏仁豆腐をそろえていた。三人ともそれぞれ異なるものを注文した。

 しばらくしてテーブルに運ばれてくる。洋平が注文したのはマンゴープリン杏仁豆腐。純白の杏仁豆腐の上でマンゴープリンのオレンジが鮮やかに映えている。洋平はスプーンですくって口に運び、その蕩けるような甘さに身悶えした。

「で、沙耶はなんで今日こんなに遅れてきたの?」

 健吾が訊いた。

「アルンのアパートに行ってたの」
「バイト仲間のタイ人か。見つかった?」
「見つかってない。だから彼のアパートまで行ってみた。でも、いなかった」
「どうせタイに帰ってるだけだって。どうして沙耶がそこまで深入りする必要があるの?」
「でも、それなら連絡くらいくれたっていいでしょ。それに……」

 沙耶はそこまで言いかけて口を噤んだ。

「それになんだよ?」

 洋平が続きを促した。

「やっぱりいい。なんでもない」
「気になるだろ。言えよ」
「……アルンの部屋に私宛てのラブレターがあった」
「あ?」

 洋平と健吾が二人同時にテーブルに身を乗り出した。

「どういうことだ?」
「どういうことってそういうことだよ。あとで渡そうと思っていたんじゃないかな」
「なんて書いてあった?」
「それは言えない」
「もうここまで話したんだからぜんぶ言えって」
「私が女神とかなんとかって……」
「お、おまえが女神?」
「うるさいな」
「で、そんなラブレターを読んでしまったものだから、さらにアルンのことが気になりはじめてしまったと?」

 沙耶は洋平のその質問にはなにも答えなかった。健吾が別の質問をした。

「でも、もしアルンが見つかったとして、沙耶はどうしたいの?」
「それは……」
「彼の気持ちに応えるつもりがないなら探したって仕方ないだろ」
「そうかな」
「洋平はどう思う?」
「くだらない恋愛ごっこに興味はない」
「洋平はそういうのないのか?」
「ないね。俺が愛しているのはロックンロールだけさ」
「それは違うぞ」
「違うってなんだよ」
「ロックを奏でるのはなんだと思う? ギターか? ベースか? 違うね。人間の心だ」
「はあ?」
「人間の心がロックを奏でる。楽器はそれを音として伝導するための道具に過ぎない。つまりロックだけに夢中になって、誰かを本気で愛したことのない人間にロックを奏でることはできないというわけだ」
「なるほど。よくわかったよ」
「本当にわかったのか?」
「わかったよ。だから杏仁豆腐のおかわりを頼んでもいい?」

 洋平は沙耶のほうを向いて訊いた。

「二杯目はおごらないよ」
「やっぱりわかってないな」
「わかったって。要するにロック以外のものにも愛をもてってことだろ。だから俺は杏仁豆腐も愛することにしたよ」
「違う!」

 健吾は洋平の喉にチョップを食らわせる。すると、洋平の口の中にわずかに残っていた杏仁豆腐が吐き出される。沙耶はそれを見てスプーンを口にくわえたままクスッと笑った。
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