絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第一章 闇に蠢くものたち

トイレ

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 小堀はイタリアンレストランのトイレの狭い個室にいた。壁に備え付けられたトイレットペーパーを引いた。カランと音を立ててほんの数センチの切れ端が出てくるだけだった。

「クソッ!」

 便座にはウォシュレット機能も付いていたのだが、できればその使用は避けたかった。切れ痔に勢いよく噴射されて悪化させてしまったことがあり、小さなトラウマになっていた。しかし、他に選択肢はなく、仕方なく「おしり」のボタンを押した。穴に向かって噴射される水の感触に身をよじった。

 近藤組の構成員である吉野のことを考えた。彼には中国マフィアのボスである張暁明の暗殺を依頼していたのだが、数日前からまったく連絡がとれなくなっていた。

 怖気づいたのかもしれない。しかし、小堀にとってはそのほうが好都合だった。薄汚い野良犬に噛みつかれた。彼に起こったのはただそれだけのことである。少し冷静になって考えてみればそう腹を立てるほどのことではないし、そのたった一匹の野良犬の駆除のために一億円も払うなどあまりにも馬鹿げている。

 ――とにかく、この有島にはもう二度と近づかないようにすればいい……。

 ウォシュレットで濡れた尻に生温かい風が吹き付けられた。ふうっと大きく息を吐いた。

 コン、コン。

 ドアがノックされた。小堀はノックを返した。しかし、またすぐにノックされる。

「入ってるよ」

 少し苛立ってそう言うと、少しの間を置いて声が返ってきた。

「……小堀だな?」

 聞き覚えのある男の声だった。

 ――まさか……。

 魔物の冷たい手に心臓をぎゅっと掴まれるかのような恐怖を覚えた。次の瞬間、爆発するような凄まじい音とともに木製のドアが蹴破られた。ドアは小堀の頭をガツンと叩き、それから個室の外に放り投げられる。

 その後ろからひとりの男が姿を見せた。顔の半分近くを包帯で覆われてはいるが、張暁明であることは明らかだった。便座に座っている小堀を見下ろして言う。

「よう、小堀。会いたかったぜ」
「な、なんでここに……?」
「おまえに訊きたいことがあるんだ。実はちょっと前に近藤組の若い衆二人に襲撃を受けてね。その件についてなにか知っていることはないか?」
「し、知らない! 私がヤクザと関わりなどあるわけないだろう!」
「へえ、そうかい」

 暁明はジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。

「あいつらを殺す前に面白い証言が聞けてな」

 音声レコーダーが再生された。

「誰に依頼された?」

 暁明の声。それに応じたのは吉野の声である。

「小堀敬三という男です。小堀にあんたを殺してくれって依頼されたんです」

 かなり痛めつけられているのか弱々しい声ではあるが、はっきりと小堀の名前を口にしていた。暁明はその部分を何度もリピートさせた。小堀敬三という男です。小堀敬三という男です。小堀敬三という男です……。

 暁明は再生を止めて訊いた。

「で、おまえはこれに対してどう弁明する?」

 小堀は泣き出したくなった。なにも言い逃れの言葉が思いつかなかった。それでも最後の悪あがきとばかりにこう口にした。

「ほんの冗談のつもりだったんだ。それなのにまさか本当に実行するなんて……」

 小堀の顔面が弾け飛んだ。鉄球が直撃したかのような衝撃。舌の上にドロッと生温かく、鉄のような味の液体が広がる。口元を手で押さえて咳き込むと、その掌に赤い血が付着する。

「冗談のつもりだっただと、コラ? そのせいで俺の大切な部下がひとり死んでるんだ。わかってんのか?」

 暁明は右の拳をぎゅっと握り締めた。小堀は頭を下げて懇願した。

「命だけは助けてください! お金ならいくらでも払いますから!」
「ダメだね」

 暁明は小堀の顔面をもう一発殴った。それから彼の薄い頭髪を掴んで立たせ、便座を上げてから便器の中に顔を突っ込ませる。

「もがが、もが……」

 小堀の口の中に水といっしょに彼自身の汚物が侵入する。必死に抵抗するとわずかに顔が水から浮いた。そこでまた懇願した。

「お願いします! 二億でも三億でも払いますから!」
「最期の言葉はそれでいいのか?」

 また便器の中に顔を押し込まれた。後頭部に硬い感触を感じた。革靴で踏みつけられているようである。カチャリと冷たい音がした。

 ――拳銃……?

 それが後頭部に押し当てられるのを感じた。小堀は必死にもがいた。が、今度は少しも顔を上げることができなかった。

 ズダン!

 弾丸が発射された。それは小堀の脳を貫通し、便器を破壊した。タイルの床に広がる水の中に赤い色が滲んでいった。
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