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第一章 闇に蠢くものたち
メイド喫茶
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ラットはベージュのキャップ帽を目深に被っていた。口にくわえたタバコに使い捨てライターで火をつける。その手は微かに震えている。口から吐き出された白い煙は中華街の混沌とした色合いの中を立ち昇っていき、ビルの谷間に覗く青空の中でふっと消えた。
歩道に出された屋台のテーブル席に着いていた。周囲からは中国語ばかりが聞こえてくる。この場所は堅気の中国人ばかりでなく、ラットたちタイマフィアの敵対する中国マフィアも多く出入りする。決して居心地のいい場所ではなかった。
白い陶器の湯呑みに注がれた中国茶を一口飲み、真後ろのテーブル席にいるリリスと中国人の禿頭の老人の会話に聞き耳を立てた。リリスは日本語と中国語は話せないので英語でやり取りをしていた。
「私、日本に来たのもはじめてなんです」
「そうかい。はじめての日本でよく有島なんかに来たね」
「知人からとても楽しいところだと聞いたので」
「ああ、たしかに楽しいよ」
「たとえばどんなものが楽しいですか?」
「あんたにとって楽しいものと私にとって楽しいものはだいぶ違うだろうからなあ」
「おじさんにとっての楽しいものでいいです」
「砂浜でバーベキューとか」
「もっと有島ならではのものがいいんです。たとえば……」
リリスはそこで少し声を落として言葉を続けた。
「ギャンブルとか」
「ほう、ギャンブルが好きなのか。見かけによらないね」
「有島でできませんか?」
「それならいい場所がある」
老人もそこで声を落として言った。
「ホテルへ行こう」
「え?」
――ホテル……!
ラットはその言葉にピクリと反応した。中国マフィアの経営する裏カジノは表向きの看板が会員制ホテルになっている。
「ホテルでギャンブルができるんですか?」
「ああ、そうだ」
「どんなギャンブルですか?」
「ベッドの上で私が先にいくか、あんたが先にいくかというギャンブルだ。最初に三万円払うが、もし私が先にいったら倍の六万円を払う。どうだ?」
ラットは短くなったタバコをプラスチックの灰皿でもみ消して小さく舌打ちする。
「いえ、そういうのではなくて……」
「私はこの年齢になってもいまだに精力絶倫でね。ヒヒッ」
次の瞬間だった。パリンと陶器の割れるような音が響き、それにリリスの言葉が続いた。
「気持ち悪いんだよ、クソジジイ。殺すぞ」
ラットがちらと振り返ると、老人が頭から中華の細麺をできそこないのカツラのように被り、そこから汁をポタポタと滴らせていた。
リリスはそこから足早に立ち去る。ラットは屋台の会計を済ませ、少し間を置いてからそのあとを追いかけた。ピンクを基調にしたメルヘンなファッションに身を包んだ彼女の姿は人混みの中でひどく浮いていた。彼女と並んで歩きながら話しかけた。
「リリス。言ったはずだろ。あまり目立つようなことはするなって」
「あのジジイを殺さないだけよかっただろ」
「中国マフィアの連中に目を付けられるようなことになったらどうするつもりだ」
「ああ、わかったよ。うるせえな」
中国マフィアの経営する裏カジノに出入りするにはまずはじめに誰かの紹介がなくてはならない。そこで、裏カジノに出入りしていそうな中国人を口説いて紹介をもらうというのが彼らの考えた計画だった。
「とにかく、今日はもう仕事はやめだ。遊びに行きたい」
「なに?」
ラットは彼女の気まぐれな発言に苛立ちを覚えた。が、とりあえずこの場所から離れたいという思いは彼も同じだった。
「どこか行きたいところはあるのか?」
「メイド喫茶だ」
「前に話していたところだな。それなら新加美町だ」
ラットはタクシーを捕まえて新加美町に向って走らせた。リリスの身のまわりの世話をすることも彼の任務のひとつだった。とはいえ、なぜ観光案内までしてやらなくてはならないのかという思いはあるが……。
新加美町のメイド喫茶の入った雑居ビルの前に到着した。エレベーターで五階に上がる。扉が開くとすぐ目の前が店の入り口になっていた。
「お帰りなさいませ。ご主人様とお嬢様」
衿にえんじ色のリボンの付いたメイド服を着用した女に迎えられ、空いているテーブル席に通される。店内はハート模様が多くあしらわれたファンシーな雰囲気で、いちばん奥には小さなステージが設置されていた。
「ご注文が決まりましたらにゃんにゃんして呼んでください」
「あ、ああ……」
ラットはリリスにテーブルの上のメニューを差し出して言う。
「ほら、選べよ」
「メイド喫茶ではオムライスを注文するとケチャップでお絵かきをしてくれると聞いた。それは本当か?」
「知らん」
「調べておいたんじゃなかったのか?」
「ああ、そうだよ。オムライスを頼むとケチャップでお絵かきしてくれる。それでいいのか?」
「それとココアだ」
ラットは手を上げて店員のメイドを呼んだ。が、メイドは首を横に振り、丸めた両手を顔の前で動かす。にゃんにゃんして呼んでくださいと言われたのを思い出した。
「リリス。おまえが店員を呼んでくれ」
「私は日本語が話せない」
「にゃんにゃんって言って呼べばいいだけだよ」
「わからない」
ラットは舌打ちをしてからメイドのほうに向きなおり、丸めた両手を顔の前で動かして小さくにゃんにゃんと口にした。メイドはにこりと笑って彼らのもとへやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「オムライスとココア。それとアイスコーヒーだ」
注文してしばらくして料理とドリンクが運ばれてきた。メイドはリクエストを受けてリリスの似顔絵をケチャップでオムライスに描く。似顔絵のリリスは実物とは違い、舌をペロリと出して無邪気な笑顔を浮かべている。
リリスはそれをスプーンで少しずつ掬って食べる。半分ほどになったところで言った。
「よし、決めた」
「なんだ?」
「私はここでバイトをする」
「……本気か?」
「本気だ」
「生活費がないのなら報酬をいくらか前払いすることもできるが」
「そうじゃない。あのメイド服を着てみたいんだ」
「リリス。おまえはなぜ自分がこの島に呼ばれたかわかっているのか?」
「少しだけだ。本業には支障が出ないようにする」
「あのな……」
ラットはふうっとため息をつく。彼女をなんと諭そうか考えるが、やがて諦めてこう口にした。
「わかったよ。とりあえず店の人間に訊いてやる」
店長を呼び出すと、出てきたのは紺のネクタイを締めて黒縁のメガネをかけたいかにも真面目そうな雰囲気の男だった。
「この店は今バイトの募集はしているのかい?」
「はい、しております」
「この女がね、タイ人なんだが、ここでメイドとして働きたいそうなんだが、大丈夫か?」
「外国の方も採用していますが、日本語はどのくらい話せますか?」
ラットはリリスに通訳した。
「おまえがどのくらい日本語を話せるのか訊いている」
「こんにちは」
リリスは店長に日本語でそれだけ言った。
「話せる日本語がそれだけですと、うちで働くのはちょっと厳しいかと……」
「なるほど。日常会話くらいはできないと無理というわけだな」
「そうですね」
ラットはリリスに顔を向けて言った。
「というわけだ」
「なんだ?」
「日本語をもっと話せないと働くのは無理だと。諦めろ」
「それならこの店のメイド服を売ってもらえないか訊いてくれ」
ラットは店長に訊いた。
「この店のメイド服は売っているのか?」
「このビルの六階にメイド服の専門店があります。うちとまったく同じタイプのものはありませんが」
ラットとリリスはメイド喫茶を出ると、階段で六階に上がった。そこにメイド服専門店があった。
「いらっしゃいませ」
ここでもメイド服を着た店員に出迎えられる。店内のハンガーポールには色合いやデザインのさまざまなメイド服が何着も吊るされ、アンティークな白塗りのチェストの上にはカチューシャやリボンなどの小物が並べられていた。
リリスはメイド服を一着ずつ手にとってじっくりと眺めた。ラットは腕を組んで店の壁に寄りかかった。
「かわいい彼女さんですね」
店員の女がラットに言った。
「彼女さん……というのはあの女のことか?」
「違うんですか?」
「冗談じゃない。あんなクソ女が俺の彼女であってたまるかよ。メイド服を買いたいというから仕方なく付き添ってやってるだけだ」
「あ、そうなんですね」
「俺のタイプはもっと上品で、常識があって、おかしなコスプレ趣味のない女だ。あんなのとはまったく正反対の……」
「おい、ラット」
リリスが不意に彼を呼んだ。店員とは日本語で話していたので彼女には理解できないはずなのだが、それでも思わずドキリとした。
「ど、どうした?」
「これとこれ、どっちが私に似合う?」
彼女は両手にそれぞれメイド服を一着ずつもっていた。ラットにはどちらも同じに見えた。
「知らん」
「選べよ」
「じゃあ、右だ、右」
「これか。これのどこらへんが良いと思った?」
苛立ちが募っていった。それを堪えて適当に言葉を取り繕って答えた。
「右のほうがおまえのシノワズリな雰囲気とよく合ってるよ」
「ほう、シノワズリ……か」
そこへ店員が口を挟んだ。
「試着もできますよ」
「リリス。試着もできるそうだ」
リリスは二着のメイド服をもって店内奥の試着室に入った。閉じられたドアの下の隙間から彼女のピンクの服がばさりと脱ぎ捨てられるのが見えた。最終的に彼女は五着のメイド服を選んで購入した。
雑居ビルの外に出ると、空はすでに薄暗くなっていた。その空の藍色とレンガ造りのビルやモザイク模様の石畳を染める夕焼けのオレンジ色が淡いコントラストを描いている。青々と葉を茂らせる街路樹の上空に巨大なジョッキが現れ、そこにビールが注がれて白い泡があふれる。居酒屋の広告ホログラムである。
「ここからはひとりで帰れるな。地下鉄の乗り方はわかるか? それともタクシーか」
リリスはラットのその問いかけに答えず、両手にメイド服の入った紙袋を提げて遠くをじっと見つめていた。その視線の先にあったのはクレープの移動販売車だった。
「どうした?」
「クレープ……食べたい」
「買えばいいだろ」
「私は日本語が話せない」
「あのな、それくらい自分で買えなくてどうする? 有島で生きていけないぞ」
「頼む。これから日本語を勉強するから」
「……なにがいい?」
「生クリームとフルーツがたっぷり入っているものだ」
「待ってろ」
ラットは若い女たちに交じって移動販売車にできている列の最後に並んだ。しばらくして彼の番になった。
「苺とバナナのクレープを頼む。生クリームはたっぷりでな」
クレープを受け取ってリリスのところに戻った。
「ほら、買ってきたぞ」
「私は両手が塞がっている」
「下ろせばいいだろ!」
「あーん」
リリスが口を開けたのでラットは仕方なくそこにクレープを運んでやった。
「美味いか?」
彼女は口をもぐもぐと動かしながら小さくうなずいた。頬に生クリームが付いたのでラットはそれを紙ナプキンで拭ってやった。小さくため息をついた。これではまるで子どものお守りだなと思った。
「じゃ、俺は帰るからな」
リリスがクレープを食べ終えたところでラットは言った。
「あのな……」
「なんだ? まだなにかあるのか?」
「海が見たい」
「この通りをまっすぐだ。歩いてでも行ける。言っておくが、有島の海なんてそんなにきれいなものじゃないぞ」
「海に沈む夕日が見たいんだ」
「そうか」
ラットは彼女に背を向けて地下鉄の駅のほうに向って歩いた。途中、ちらと振り返った。リリスは燃えるような夕陽を正面に浴びながら歩いていた。石畳の地面にできた長い影法師が少し寂しげに揺れていた。
「まったく……」
彼女を小走りで追いかけ、その両手に提げられていた紙袋を取った。
「なんだ?」
「いいか。これで本当に最後だからな。海を見たら俺は絶対に帰るからな」
ラットはそう言って彼女の少し先をズンズンと歩いていった。
やがて海に到着した。海水浴のシーズンにはまだ少し早く、時間が遅いということもあり、人気はほとんどない。遠くに犬を散歩させている人の姿が見えるだけである。
リリスは波打ち際に立った。太陽は水平線に半分だけ沈んでおり、そこから陸地に向ってゆらゆらと揺れる光の帯を形成している。
ラットは砂浜に横になった。夕景の中で黒いシルエットになり、潮風に髪をなびかせている彼女の姿はまるで可憐な少女のように見えた。こんな女が本当に張暁明とまとめに渡り合えるのかという疑念はさらに大きく膨らんでいった。
タバコに火をつけてふうっと煙を吐き出した。砂浜に手をつこうとするとなにか硬いものが触れた。掌くらいの大きさの丸い石だった。ふとこんな考えが頭をよぎった。
――もし後ろからこの石でリリスの頭を殴ったらどうなる……?
すぐにその考えを振り払おうとした。が、心が揺れた。どうしても彼女の実力を一度試してみたかった。それに、もしこれで死んでしまう程度の実力なら、張暁明と対峙したときに簡単に殺されてしまうに決まっている……。
ザザ―――ッ。
静寂の合間に波の打ち寄せる音が響いた。ラットは短くなったタバコを砂浜に押し込む。空いた手で石を掴んで腰を上げた。
「人工の島にも砂浜はあるんだな」
リリスが海のほうを向いたまま言った。
「この砂浜だって人工のものだ。千葉県の海岸から白砂を運んできたらしい」
ラットはそう答えながら彼女の背後からゆっくりと近づいてく。やがて彼女に手の届く距離まで来た。石を握った手を大きく振りかぶり、彼女の後頭部に向けて放った。
スカッと空を切った。
石は彼の手からすっぽ抜けて音もなく砂浜に落ちた。リリスの姿を探した。彼の目の前でしゃがみ込んでいた。顔を振り向かせて言った。
「ほら、これを見ろ」
薄暗くてよくわからなかったが、彼女の親指と人差し指の間になにか小さなものが小さなものが挟まれているようだった。携帯電話の光で照らすと青く透き通った輝きを放った。
「シーグラスだ」
これでラットの心は決まった。彼の攻撃を避けられたのはただの偶然か、それとも殺気を感じ取ったのか……。そんなことはどうでもよかった。なんにしても、このままでは彼らの組織が壊滅に追いやられるのは目に見えているのだ。
「きれいだな」
「ああ、そうだな。すごくきれいだ」
そう言って彼は笑った。波の音もかき消すほどの大きな笑い声だった。
歩道に出された屋台のテーブル席に着いていた。周囲からは中国語ばかりが聞こえてくる。この場所は堅気の中国人ばかりでなく、ラットたちタイマフィアの敵対する中国マフィアも多く出入りする。決して居心地のいい場所ではなかった。
白い陶器の湯呑みに注がれた中国茶を一口飲み、真後ろのテーブル席にいるリリスと中国人の禿頭の老人の会話に聞き耳を立てた。リリスは日本語と中国語は話せないので英語でやり取りをしていた。
「私、日本に来たのもはじめてなんです」
「そうかい。はじめての日本でよく有島なんかに来たね」
「知人からとても楽しいところだと聞いたので」
「ああ、たしかに楽しいよ」
「たとえばどんなものが楽しいですか?」
「あんたにとって楽しいものと私にとって楽しいものはだいぶ違うだろうからなあ」
「おじさんにとっての楽しいものでいいです」
「砂浜でバーベキューとか」
「もっと有島ならではのものがいいんです。たとえば……」
リリスはそこで少し声を落として言葉を続けた。
「ギャンブルとか」
「ほう、ギャンブルが好きなのか。見かけによらないね」
「有島でできませんか?」
「それならいい場所がある」
老人もそこで声を落として言った。
「ホテルへ行こう」
「え?」
――ホテル……!
ラットはその言葉にピクリと反応した。中国マフィアの経営する裏カジノは表向きの看板が会員制ホテルになっている。
「ホテルでギャンブルができるんですか?」
「ああ、そうだ」
「どんなギャンブルですか?」
「ベッドの上で私が先にいくか、あんたが先にいくかというギャンブルだ。最初に三万円払うが、もし私が先にいったら倍の六万円を払う。どうだ?」
ラットは短くなったタバコをプラスチックの灰皿でもみ消して小さく舌打ちする。
「いえ、そういうのではなくて……」
「私はこの年齢になってもいまだに精力絶倫でね。ヒヒッ」
次の瞬間だった。パリンと陶器の割れるような音が響き、それにリリスの言葉が続いた。
「気持ち悪いんだよ、クソジジイ。殺すぞ」
ラットがちらと振り返ると、老人が頭から中華の細麺をできそこないのカツラのように被り、そこから汁をポタポタと滴らせていた。
リリスはそこから足早に立ち去る。ラットは屋台の会計を済ませ、少し間を置いてからそのあとを追いかけた。ピンクを基調にしたメルヘンなファッションに身を包んだ彼女の姿は人混みの中でひどく浮いていた。彼女と並んで歩きながら話しかけた。
「リリス。言ったはずだろ。あまり目立つようなことはするなって」
「あのジジイを殺さないだけよかっただろ」
「中国マフィアの連中に目を付けられるようなことになったらどうするつもりだ」
「ああ、わかったよ。うるせえな」
中国マフィアの経営する裏カジノに出入りするにはまずはじめに誰かの紹介がなくてはならない。そこで、裏カジノに出入りしていそうな中国人を口説いて紹介をもらうというのが彼らの考えた計画だった。
「とにかく、今日はもう仕事はやめだ。遊びに行きたい」
「なに?」
ラットは彼女の気まぐれな発言に苛立ちを覚えた。が、とりあえずこの場所から離れたいという思いは彼も同じだった。
「どこか行きたいところはあるのか?」
「メイド喫茶だ」
「前に話していたところだな。それなら新加美町だ」
ラットはタクシーを捕まえて新加美町に向って走らせた。リリスの身のまわりの世話をすることも彼の任務のひとつだった。とはいえ、なぜ観光案内までしてやらなくてはならないのかという思いはあるが……。
新加美町のメイド喫茶の入った雑居ビルの前に到着した。エレベーターで五階に上がる。扉が開くとすぐ目の前が店の入り口になっていた。
「お帰りなさいませ。ご主人様とお嬢様」
衿にえんじ色のリボンの付いたメイド服を着用した女に迎えられ、空いているテーブル席に通される。店内はハート模様が多くあしらわれたファンシーな雰囲気で、いちばん奥には小さなステージが設置されていた。
「ご注文が決まりましたらにゃんにゃんして呼んでください」
「あ、ああ……」
ラットはリリスにテーブルの上のメニューを差し出して言う。
「ほら、選べよ」
「メイド喫茶ではオムライスを注文するとケチャップでお絵かきをしてくれると聞いた。それは本当か?」
「知らん」
「調べておいたんじゃなかったのか?」
「ああ、そうだよ。オムライスを頼むとケチャップでお絵かきしてくれる。それでいいのか?」
「それとココアだ」
ラットは手を上げて店員のメイドを呼んだ。が、メイドは首を横に振り、丸めた両手を顔の前で動かす。にゃんにゃんして呼んでくださいと言われたのを思い出した。
「リリス。おまえが店員を呼んでくれ」
「私は日本語が話せない」
「にゃんにゃんって言って呼べばいいだけだよ」
「わからない」
ラットは舌打ちをしてからメイドのほうに向きなおり、丸めた両手を顔の前で動かして小さくにゃんにゃんと口にした。メイドはにこりと笑って彼らのもとへやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
「オムライスとココア。それとアイスコーヒーだ」
注文してしばらくして料理とドリンクが運ばれてきた。メイドはリクエストを受けてリリスの似顔絵をケチャップでオムライスに描く。似顔絵のリリスは実物とは違い、舌をペロリと出して無邪気な笑顔を浮かべている。
リリスはそれをスプーンで少しずつ掬って食べる。半分ほどになったところで言った。
「よし、決めた」
「なんだ?」
「私はここでバイトをする」
「……本気か?」
「本気だ」
「生活費がないのなら報酬をいくらか前払いすることもできるが」
「そうじゃない。あのメイド服を着てみたいんだ」
「リリス。おまえはなぜ自分がこの島に呼ばれたかわかっているのか?」
「少しだけだ。本業には支障が出ないようにする」
「あのな……」
ラットはふうっとため息をつく。彼女をなんと諭そうか考えるが、やがて諦めてこう口にした。
「わかったよ。とりあえず店の人間に訊いてやる」
店長を呼び出すと、出てきたのは紺のネクタイを締めて黒縁のメガネをかけたいかにも真面目そうな雰囲気の男だった。
「この店は今バイトの募集はしているのかい?」
「はい、しております」
「この女がね、タイ人なんだが、ここでメイドとして働きたいそうなんだが、大丈夫か?」
「外国の方も採用していますが、日本語はどのくらい話せますか?」
ラットはリリスに通訳した。
「おまえがどのくらい日本語を話せるのか訊いている」
「こんにちは」
リリスは店長に日本語でそれだけ言った。
「話せる日本語がそれだけですと、うちで働くのはちょっと厳しいかと……」
「なるほど。日常会話くらいはできないと無理というわけだな」
「そうですね」
ラットはリリスに顔を向けて言った。
「というわけだ」
「なんだ?」
「日本語をもっと話せないと働くのは無理だと。諦めろ」
「それならこの店のメイド服を売ってもらえないか訊いてくれ」
ラットは店長に訊いた。
「この店のメイド服は売っているのか?」
「このビルの六階にメイド服の専門店があります。うちとまったく同じタイプのものはありませんが」
ラットとリリスはメイド喫茶を出ると、階段で六階に上がった。そこにメイド服専門店があった。
「いらっしゃいませ」
ここでもメイド服を着た店員に出迎えられる。店内のハンガーポールには色合いやデザインのさまざまなメイド服が何着も吊るされ、アンティークな白塗りのチェストの上にはカチューシャやリボンなどの小物が並べられていた。
リリスはメイド服を一着ずつ手にとってじっくりと眺めた。ラットは腕を組んで店の壁に寄りかかった。
「かわいい彼女さんですね」
店員の女がラットに言った。
「彼女さん……というのはあの女のことか?」
「違うんですか?」
「冗談じゃない。あんなクソ女が俺の彼女であってたまるかよ。メイド服を買いたいというから仕方なく付き添ってやってるだけだ」
「あ、そうなんですね」
「俺のタイプはもっと上品で、常識があって、おかしなコスプレ趣味のない女だ。あんなのとはまったく正反対の……」
「おい、ラット」
リリスが不意に彼を呼んだ。店員とは日本語で話していたので彼女には理解できないはずなのだが、それでも思わずドキリとした。
「ど、どうした?」
「これとこれ、どっちが私に似合う?」
彼女は両手にそれぞれメイド服を一着ずつもっていた。ラットにはどちらも同じに見えた。
「知らん」
「選べよ」
「じゃあ、右だ、右」
「これか。これのどこらへんが良いと思った?」
苛立ちが募っていった。それを堪えて適当に言葉を取り繕って答えた。
「右のほうがおまえのシノワズリな雰囲気とよく合ってるよ」
「ほう、シノワズリ……か」
そこへ店員が口を挟んだ。
「試着もできますよ」
「リリス。試着もできるそうだ」
リリスは二着のメイド服をもって店内奥の試着室に入った。閉じられたドアの下の隙間から彼女のピンクの服がばさりと脱ぎ捨てられるのが見えた。最終的に彼女は五着のメイド服を選んで購入した。
雑居ビルの外に出ると、空はすでに薄暗くなっていた。その空の藍色とレンガ造りのビルやモザイク模様の石畳を染める夕焼けのオレンジ色が淡いコントラストを描いている。青々と葉を茂らせる街路樹の上空に巨大なジョッキが現れ、そこにビールが注がれて白い泡があふれる。居酒屋の広告ホログラムである。
「ここからはひとりで帰れるな。地下鉄の乗り方はわかるか? それともタクシーか」
リリスはラットのその問いかけに答えず、両手にメイド服の入った紙袋を提げて遠くをじっと見つめていた。その視線の先にあったのはクレープの移動販売車だった。
「どうした?」
「クレープ……食べたい」
「買えばいいだろ」
「私は日本語が話せない」
「あのな、それくらい自分で買えなくてどうする? 有島で生きていけないぞ」
「頼む。これから日本語を勉強するから」
「……なにがいい?」
「生クリームとフルーツがたっぷり入っているものだ」
「待ってろ」
ラットは若い女たちに交じって移動販売車にできている列の最後に並んだ。しばらくして彼の番になった。
「苺とバナナのクレープを頼む。生クリームはたっぷりでな」
クレープを受け取ってリリスのところに戻った。
「ほら、買ってきたぞ」
「私は両手が塞がっている」
「下ろせばいいだろ!」
「あーん」
リリスが口を開けたのでラットは仕方なくそこにクレープを運んでやった。
「美味いか?」
彼女は口をもぐもぐと動かしながら小さくうなずいた。頬に生クリームが付いたのでラットはそれを紙ナプキンで拭ってやった。小さくため息をついた。これではまるで子どものお守りだなと思った。
「じゃ、俺は帰るからな」
リリスがクレープを食べ終えたところでラットは言った。
「あのな……」
「なんだ? まだなにかあるのか?」
「海が見たい」
「この通りをまっすぐだ。歩いてでも行ける。言っておくが、有島の海なんてそんなにきれいなものじゃないぞ」
「海に沈む夕日が見たいんだ」
「そうか」
ラットは彼女に背を向けて地下鉄の駅のほうに向って歩いた。途中、ちらと振り返った。リリスは燃えるような夕陽を正面に浴びながら歩いていた。石畳の地面にできた長い影法師が少し寂しげに揺れていた。
「まったく……」
彼女を小走りで追いかけ、その両手に提げられていた紙袋を取った。
「なんだ?」
「いいか。これで本当に最後だからな。海を見たら俺は絶対に帰るからな」
ラットはそう言って彼女の少し先をズンズンと歩いていった。
やがて海に到着した。海水浴のシーズンにはまだ少し早く、時間が遅いということもあり、人気はほとんどない。遠くに犬を散歩させている人の姿が見えるだけである。
リリスは波打ち際に立った。太陽は水平線に半分だけ沈んでおり、そこから陸地に向ってゆらゆらと揺れる光の帯を形成している。
ラットは砂浜に横になった。夕景の中で黒いシルエットになり、潮風に髪をなびかせている彼女の姿はまるで可憐な少女のように見えた。こんな女が本当に張暁明とまとめに渡り合えるのかという疑念はさらに大きく膨らんでいった。
タバコに火をつけてふうっと煙を吐き出した。砂浜に手をつこうとするとなにか硬いものが触れた。掌くらいの大きさの丸い石だった。ふとこんな考えが頭をよぎった。
――もし後ろからこの石でリリスの頭を殴ったらどうなる……?
すぐにその考えを振り払おうとした。が、心が揺れた。どうしても彼女の実力を一度試してみたかった。それに、もしこれで死んでしまう程度の実力なら、張暁明と対峙したときに簡単に殺されてしまうに決まっている……。
ザザ―――ッ。
静寂の合間に波の打ち寄せる音が響いた。ラットは短くなったタバコを砂浜に押し込む。空いた手で石を掴んで腰を上げた。
「人工の島にも砂浜はあるんだな」
リリスが海のほうを向いたまま言った。
「この砂浜だって人工のものだ。千葉県の海岸から白砂を運んできたらしい」
ラットはそう答えながら彼女の背後からゆっくりと近づいてく。やがて彼女に手の届く距離まで来た。石を握った手を大きく振りかぶり、彼女の後頭部に向けて放った。
スカッと空を切った。
石は彼の手からすっぽ抜けて音もなく砂浜に落ちた。リリスの姿を探した。彼の目の前でしゃがみ込んでいた。顔を振り向かせて言った。
「ほら、これを見ろ」
薄暗くてよくわからなかったが、彼女の親指と人差し指の間になにか小さなものが小さなものが挟まれているようだった。携帯電話の光で照らすと青く透き通った輝きを放った。
「シーグラスだ」
これでラットの心は決まった。彼の攻撃を避けられたのはただの偶然か、それとも殺気を感じ取ったのか……。そんなことはどうでもよかった。なんにしても、このままでは彼らの組織が壊滅に追いやられるのは目に見えているのだ。
「きれいだな」
「ああ、そうだな。すごくきれいだ」
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公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
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