絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第一章 闇に蠢くものたち

釣り人

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 有島に大量の雨を降り注いでいた雲はその日の昼過ぎに空から退いていった。その後ろから太陽が顔を覗かせ、木々の葉の上にわずかに残っていた水滴に煌きを与える。悦子の頬を撫でる風は少し暖かい。梅雨が明けたのかもしれないなと思った。

 中央公園の池を目の前に臨むベンチにひとり腰かけていた。池の水面は苔のような鄙びた緑色に染まり、その中に周辺の樹木や青空、遠くに聳える高層ビルなどを映し込ませている。それを見ながらぼんやりと考えごとをした。

 有島に暮らす若者の実態を追いかけた彼女の連載記事はあまりアクセス数がなく、不人気のようだった。世間は有島に暮らす若者のことになど興味がないのかもしれない。もうこの取材は止めたほうがいいのだろうか……。

 ポチャン。

 水の跳ねる音が聞こえた。池の水面に波紋が広がっている。その波紋の中心点へと視線を動かしていくと、そこにひとりの釣り人がいた。地面に半分埋まった大きな石の上に腰かけ、薄手のグレイのパーカーを着て、そのフードを頭にスッポリと被っている。

 なんとなく気になり、近くまで行って声をかけてみた。

「釣れますか?」
「いや、まだ一匹も」
「この池ではどんな魚が釣れるんですか?」
「鮒とかが釣れるらしいけど……」

 釣り人はほんの一瞬だけ悦子のほうに顔を向けた。金髪で青のカラコンをしており、それが彼の端正な顔立ちに中性的で無国籍な印象を与えている。悦子の心を一瞬にして掴んでしまうほどの美男子だった。

「今日は仕事はお休み? それとも学生?」
「これから仕事だよ」
「なんの仕事をしているの?」
「……おばさん。僕になんか用なの?」

 青年は怪訝な表情を浮かべた。悦子はその場に留まるための理由を考えた。彼ともっと話をしてみたかった。取材ということにしようと思った。

「私、ライターの黒澤悦子といって……」

 彼に名刺を差し出しながら言った。彼はそれを空いている左手で受け取る。怪我をしているようでその小指には包帯が巻かれている。いかにも興味なさそうに名刺を一瞥だけして悦子に突き返した。

「ふーん。で?」
「有島に住んでいる若者を取材しているんだけど、少しだけ話を聞かせてもらっていい?」
「どんな話?」
「どうして有島に来たのかとか、有島でどんな生活をしているかとか」
「別にいいよ。答えられる範囲なら」
「ありがとう!」

 悦子を周囲を見まわして腰を下ろせる場所を探した。青年はそれに気付き、自分の隣に置いていたクーラーボックスを顎でしゃくって言った。

「そこに座れば?」

 彼女はその上に腰を下ろし、携帯電話を録音モードにしてから質問を始めた。

「まず名前を聞いてもいい?」
「竜崎浩人」
「年齢は?」
「二十四」
「有島にはいつ頃来たの?」

 そこで間が空いた。浩人は悦子の質問を無視して水面にプカプカと浮かぶどんぐり形のウキをじっと見つめていた。

「……ねえ、聞いてる?」
「え、なに?」
「有島に来たのは?」
「四年くらい前」
「きっかけかは?」
「スカウトされたんだよ」
「なにに?」
「ヤクザに。有島の近藤組って知ってる?」
「……嘘でしょ?」

 悦子は浩人の左手の小指に巻かれた包帯に目をやった。ただ怪我をしているだけだと思っていたが、まさか……。

 浩人が有島に来る前のことから順を追って訊いていった。話の概要はこうだった。

 彼は群馬や栃木など北関東一帯に勢力を広げる暴走族の総長を務めていた。ある日、特攻隊長であり、親友である小山秋則といっしょに近藤組の組長からのスカウトを受けて有島にやってくる。しかし、秋則はそこで出会ったカトリックの神父に感銘を受け、その教会で働きはじめる。浩人はひとり近藤組に入り、二人はそれぞれまったく別の道を歩むことになった。

「ま、僕も最近組を抜けたけどね」

 彼はそう言って左手を広げて見せた。そうすると、左手の小指が第一関節から欠損しているのがはっきりとわかった。彼のアイドルのような華やかな容姿と暴走族やヤクザなどの暴力的な世界はまったく結びつかなかったが、その欠損した小指が彼の話に信憑性を与えた。

「組を抜けるときに小指を詰める風習は今でも残っているのね」
「ふつうはそんなことしないよ。うちの組長はものすごく頭が古いんだ」

 思いがけず次々と面白い話が飛び出してくる。彼の話を記事にしたら悦子がこれまでに書いた記事の中でいちばんのアクセス数になるかもしれない。

「で、今はなにをしてるの?」
「教会で働いてる」
「親友の秋則君といっしょに?」
「いや、あいつはいない」
「辞めたの?」
「失踪したんだ。ある日突然。群馬にいる両親も行方がわからないらしい。警察に捜索願いも出してるけど」
「そう……。それじゃあ、浩人君が教会で働きはじめたのは秋則君の意思を継ぐため?」
「あいつの見ていた景色を見てみたかった。それに教会で働くことによってあいつの行方の手がかりが掴めるかもしれないと思って」

 悦子はふと思い出すことがあった。以前インタビューした真野沙耶という女もタイ人のバイト仲間が失踪したと話していた。もしかしてこの件となにか関連があるのだろうか……?

「ねえ、最近有島で若者の失踪が増えているなんてことない?」
「そういうことは警察に訊けば?」
「浩人君の身の回りでは?」
「失踪というか殺される奴は多いよ。先月は港の倉庫で近藤組の奴が二人殺されてた。まだ最近組に入ったばかりの二人で僕よりも若かった」
「誰に殺されたの?」
「おそらく中国マフィアだろうね」
「秋則君の失踪にも中国マフィアが関わっている可能性は?」
「ないね。秋則と中国マフィアはなんの接点もない」
「でも、あなたが所属していた組は中国マフィアと敵対していた」
「だからなに?」
「敵対する組の組員の親友ということで狙われた可能性は考えられない?」

 浩人は黙った。無表情ではあるが、悦子の発言に腹を立てているのかもしれない。彼女はそれ以上の追及をやめた。相手はつい最近までヤクザだった男である。あまり怒らせないに越したことはない。

 それにしても、この件は追いかけてみる価値があるかもしれない。背後でなにか大きな闇が蠢いている可能性も考えられるからだ。もしそのときは彼女自身の命を危険に晒すことになるかもしれないが……。

「あ!」

 浩人がふいに声をあげた。水面に浮かんでいたウキが水中に沈んでいた。すぐに釣竿を引き上げるが、釣り針にはなにもかかっていない。池の水面に波紋だけが静かに広がっていった。
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