絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第ニ章 俺たちの夢

目撃

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 健吾が両手の親指と人差し指で作った長方形の枠の中に有島の夜景が切り取られている。大きく湾曲した海岸線沿いに連なる高層ビル群はその光を真っ暗な海の中にわずかに滲ませている。日中は汗ばむほどの気温だったが、日が暮れてからは少し肌寒く、波の音とともに吹き付ける潮風に小さく身震いする。

 左手首に巻いていた携帯電話が鳴った。洋平からの着信。あまりのベストタイミングに健吾はクスッと笑って電話に応じた。

「ちょうど洋平に電話しようと思ってた」
「どうした?」
「PVの撮影地として最高の場所を見つけたんだ」

 彼らはバンドのコンテストにエントリーしようとしていた。曲のPVを自分たちで撮影して応募。ネット上でそれが公開され、視聴者は好きなバンドに投票する。もっとも多く票を獲得したバンドがこのコンテストを主催しているレコード会社と契約を結べるというものである。

 健吾は携帯電話を手首に巻いたままレンズを目の前の夜景に向ける。

「お、いいじゃん」
「雑居ビルの屋上だ。もうビルの管理人に撮影の許可ももらっている」
「場所を教えてくれ」

 携帯電話を操作して現在地の情報を洋平に送った。

「そこだったらすぐに行けるな」
「沙耶も呼ぼうか」
「あいつは今バイト中だよ」

 健吾は通話を終えてからまた目の前の夜景に目を向けた。それを背景にしてバンド演奏をする自分たちの姿を想像すると心が興奮でざわめいた。夜景だけでなく、太陽がビルの谷間に沈んでいく夕景を使ってもいいかもしれない。

 景色をもっとよく見ようと屋上を取り囲む鉄柵に近づいた。そのとき、吹き付ける潮風の中に小さな呻き声が交じった。

 ただの気のせいだろうか……。耳を澄ました。風の音。波の音。そして呻き声。また聞こえた。気のせいなどではない。

 胸元くらいまでの高さの鉄柵に身を乗り出してビルの真下に目を向けた。向かい側のビルとの間の狭い路地の奥に三人の男の姿があり、ひとりの男が暴行を受けていた。それを隠すかのように路地の入り口にはセダンが停められていた。

 男は地面に倒されて仰向けになる。色白で髪は茶色く染めている。見覚えがあるような気がした。その顔に携帯電話のレンズを向けてズームインした。沙耶と同じタイ料理レストランでバイトしているタイ人のクンだった。

 震える指先で携帯電話から警察に通報した。

「一一〇番警視庁です。事件ですか? 事故ですか?」
「じ、じ、事件です。ひとりの男が二人の男から暴行を受けています」
「場所はどこですか?」
「今俺がいるビルの真下です」

 緊張で少し上擦る声で伝え、現在地の情報を送ってから通話を終えた。

 クンを暴行している男二人が話しているのは中国語。おそらく中国マフィアの構成員だろう。中国マフィアとタイマフィアがこれまでに何度も抗争を繰り返してきたことは知っていた。が、一般人であるはずのクンがなぜ彼らに暴行を受けているのか。もしかしてタイマフィアに属しているのだろうか。

 中国マフィアはクンの髪の毛を掴んで顔面を壁に叩きつける。このままでは警察が到着する前に殺されてしまうかもしれない。が、自分が止めに入るような真似はしたくなかった。この有島においてこういった暴力沙汰は日常茶飯事。そこに毎回首を突っ込んでいたら命がいくつあっても足りはしないのである。

 ――でも……。

 沙耶のことが思い浮かんだ。以前、クンと同じタイ人のバイトのアルンが失踪したときはひどく気落ちしていた。もうあのときのような彼女の表情は見たくなかった。逡巡の末、自分の臆病を振り払って助けに向かうことにした。

 階段で六階に下り、そこからエレベーターで一階に向かう。膝が微かに震えている。五、四、三……と下がっていく階数表示がまるで自分の死へのカウントダウンのように感じられた。

 エレベーターを降りて雑居ビルの外に出た。ビルの角に停められているセダンの車内にちらと覗くと、後部座席にひとりの女が横たわっている。犯罪の匂いを感じてさらに気が重くなっていった。

 ビルとセダンの隙間に体を滑り込ませるようにして路地に入った。薄闇の中で男二人が健吾に顔を振り向かせた。その片方が訊いた。

「なんだ? なんか用か?」
「いや、あの……、そこに倒れている人……」

 クンは地面に仰向けになったままピクリとも動いていない。

「こいつがどうかしたか?」
「俺の友達なんです。助けてやってもらえませんか」
「おまえ日本人だろ。タイ人の友達がいるのか?」
「はい」
「……そうかい」

 男が一歩ずつゆっくりと近づいてくる。ビルに挟まれた狭い路地にコツコツと革靴の足音が反響する。近づいてくるにつれてぼんやりと見えてくる男の顔に健吾は思わずぎょっとなった。眉間を貫くようにして大きな傷跡の走ったその凶悪な面構えは話し合ってわかり合えるような相手にはとても思えなかった。助けに入ったことを深く後悔したが、今更ここで引き返すわけにもいかなかった。

 男はボサボサに伸びた髪の毛を片手でまさぐり、その手を健吾に見せる。血がべっとりと付着している。

「見ろよ、これ。こいつにやられたんだ。ひでえもんだろ」

 健吾は土下座した。硬くて冷たいコンクリートの地面に額を擦り付けた。

「申し訳ありませんでした!」

 そう言った瞬間、腹部にズンと衝撃が走った。男に蹴り上げられていた。

「けほッ……」

 健吾は束の間、呼吸困難に陥る。

「おまえの汚ねえ頭を下げられたところでなんにもならねえんだよ」

 そこへもうひとりの男が間に入った。傷の男の肩に手を置いてなにか言う。中国語なので聞き取ることはできないが、その雰囲気からして彼の行為をたしなめているようだった。が、傷の男はそれを振り払い、健吾に向きなおって言う。

「友達を助けたいんだったらよ、俺を倒してみろよ」
「いや……」

 健吾は首を横に振った。中国マフィアを相手に喧嘩するつもりなどさらさらなかった。

「ほら、来いよ!」

 傷の男の拳が地面に座っている健吾の脳天に振り下ろされる。健吾の目から火花が飛ぶ。前のめりに倒れそうになったところを髪の毛を掴まれ、後頭部をビルの壁に叩きつけられた。

 抵抗するつもりはなかった。このまま殴りたいだけ殴らせておけばそのうち男も気が済むのではないかという淡い期待があった。

 しかし、男の暴力はいつになっても止む気配がない。男の気が済むよりも先に健吾の命のほうが消えてしまうのではないかという恐怖が徐々に込み上げてくる。

 健吾の携帯電話が鳴った。おそらく洋平からの着信だろう。傷の男はそれを健吾の腕から取り上げ、地面に叩きつけてから革靴の底で踏みつける。着信音が止んだ。

 ジャリッ。

 男の革靴の足音。それに続いて健吾の腹部を貫く衝撃。地面に仰向けになった。ビルの無機質なコンクリートの壁が外灯の光のオレンジ色に仄かに染められている。その向こう側には長方形に切り取られた真っ暗な夜空が広がっている。

 ――洋平……。

 そこへ傷の男が顔を出し、にかっと黄ばんだ歯を剥き出して笑った。
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