絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第ニ章 俺たちの夢

湖上の煙

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 健吾は左の頬にアスファルトの硬い感触を感じていた。朦朧とした意識の中に数発の銃声が響いた。それにバイクの走行音と地を揺るがすような衝撃音。もしかして健吾の呼んだ警察がマフィアに始末されてしまったのだろうか。

「ほら、立てよ」

 傷の男が地面に倒れている洋平を足蹴にする。

 ――動け。動け……。

 健吾はそう念じながら地面に放り出された右手の人差し指に集中した。ピクリと動いた。そこからゆっくりと波紋が広がっていくかのように力が戻ってくる。両膝をブルブルと震わせながらもかろうじて立ち上がることができた。

 傷の男に背後から向かっていった。腰にしがみつくかのようにタックルする。が、押し倒すことは叶わず、わずかに男の体を揺らすことしかできなかった。

「おまえはおとなしく寝てろ」

 健吾は傷の男からの強烈な一撃を背中に受けて再び地面に倒れる。続けざまに腹部へ蹴りが見舞われた。

「ぐッ、おえッ……」

 地面にびちゃびちゃと吐瀉物を吐き散らした。吐瀉物の酸っぱい匂いが口内に広がる。視線の先にはもうひとりの中国マフィアに頭を踏みつけられて地面に倒れているクンの姿があった。

 ――あいつを助けようなんて思わなければ……。

 込み上げてくる後悔の念。ゲームのようにやり直しができればと思った。戻るのはほんの一時間前でいい。そこでただ警察に通報だけして自分は安全なところに身を潜めていればこんな事態にはなっていなかったのだ。目を閉じて祈った。

 ――戻れ。戻れ。戻れ……。

 そして目を開ける。が、現実はあまりに無情である。そこにあるのは依然として変わらない光景。絶望と夜の闇に支配された狭い小路。ゲームのようにセーブ地点に戻ってやり直すことなんてできないのだ。

 コツ、コツと硬い足音が地面から鼓膜にダイレクトに伝わってくる。傷の男が健吾の背後にまわる気配があった。

「おまえらバンドでもやってるのか?」

 ジッパーを開く音。そしてギターの弦を指で弾く掠れた音。

「俺も昔少しだけギターをやっていたことがあってな」

 最初はただ滅茶苦茶に弾いているだけだったが、やがてひとつのメロディーを刻みはじめた。ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフだった。

「ま、これしか弾けるようにならなくてすぐに止めちまったけどな」
「おい、その手を離せ」
 視界の外から聞こえてくる洋平の声。意識を取り戻したらしい。
「あん?」
「そのギターはおまえみたいなクソ野郎が触っていいものじゃねえんだよ」
「なんだ、てめえ、コラ!」

 ――洋平、もうやめろよ……。

 健吾は警察が助けに来てくれるだろうという望みをまだ捨てていなかった。ここで無闇に抵抗したところで余計に痛めつけられるだけである。

「こんなものがそんなに大切か?」

 洋平は答えない。ただ荒い呼吸音だけが聞こえてくる。

「だったらよ、その大切なものでおまえの仲間の腕をへし折ってやるというのはどうだ?」

 再び健吾のほうに近づいてくる足音。間近で止まった。

「二度とバンドなんてできない体にしてやるよ」

 ギターが振り上げられる気配。健吾は地面に放り出された自分の両腕を庇おうとする力も残されていなかった。ヒュッと空気の切り裂かれる音。観念して目を硬く閉じた。

 ドスッ!

 鈍い衝撃音が響いた。が、痛みはない。

「う、あ……」

 すぐ耳元で苦痛に満ちた呻き声が聞こえた。洋平が健吾に覆い被さるようにして傷の男の攻撃から庇っていた。

「あはははは。こりゃあいいな。しっかり仲間を守ってやれよ」

 傷の男の攻撃が続いた。二発目、三発目、四発目……。

「ぐ……」

 洋平は歯を食いしばってそれに耐える。

「洋平、なんで……」

 健吾の胸の奥から込み上げてくる感情。それが涙になってあふれ出してくるのを堪えるのに必死だった。なにもできない自分があまりにもどかしかった。

 ガタン!

 小路の入り口のほうから物音がした。それと同時に傷の男の攻撃が止んだ。聞こえてくる中国語の会話。緊迫感が漂う。

 健吾はそこに向けてゆっくりと顔を動かした。セダンのボンネットの上にひとりの男が立っていた。背後からの微かな外灯の光が肩まで伸びた髪の毛の一本一本にまとわりつき、スーツを着用した黒いシルエットの輪郭を縁取っている。

 目が慣れてくるにつれてその姿が露になってきた。その異様なまでに鋭い目付きは表社会の人間でないことをはっきりと物語っており、着用しているジャケットは元の色がわからないほど大部分を血で赤く染められていた。健吾の呼んだ警察が彼によって始末されてしまったであろうことは間違いなさそうだった。

 ――もういいや……。

 健吾は心の中でぎゅっと硬く握り締めていたものを手放した。その途端に周囲に停滞していたエネルギーが流れ出し、それが体を包み込むような感触があった。そしてそこから展開された光景は、日曜日の昼下がりにまどろみながら見る映画のように現実味がなかった。

 血まみれの男はボンネットから下りると拳を大きく振りかぶる。その矛先は傷の男に向けられた。傷の男は顔面を殴られ、体ごと弾け飛んで地面をゴロゴロと転がる。まるで中国の古いカンフー映画のようなあまりに大袈裟な転がり方だった。返す刀で小路の奥にいたもうひとりの男も殴りつけた。

 ほんの一呼吸の間に二人の中国マフィアが倒されていた。

 血まみれの男は二人の服を掴んで荷物のようにズルズルと地面に引きずっていく。その途中、健吾と洋平のほうに振り向いてこう言った。

「……すまなかったな」

 そして小路の入り口に停められているセダンのほうへ歩いていく。後部座席のドアを開いて気を失っている女を引きずりおろし、代わりに二人の男をそこに乗せた。自分は運転席に乗り込み、すぐに発進させた。

 エンジン音が遠ざかっていくとあたりは静寂に包まれる。その静寂に耳が慣れてくると、遠くのほうから波の音が聞こえてきた。ついさっきまでの出来事が嘘のような穏やかさだった。

「洋平。生きてるか?」

 健吾はビルに両側を挟まれて薄く瞬く星を眺めながら訊いた。しばらくの沈黙の後に答えが返ってきた。

「……生きてる」
「さっきの男はなんだったんだろう?」
「わからない……けど、とにかく助かった」

 どのくらいの時間が流れたろうか。しばらくして小路の奥のほうから物音が聞こえた。健吾はハッとしてそこに顔を向けた。

 クンがよろめきながら立ち上がろうとしているところだった。洋平と健吾の横を通り過ぎ、小路の入り口に投げ捨てられていた女を抱き起こす。やがて彼女も目を覚まし、二人はきつく抱き合った。

 ――ああ、やっと終わった……。

 健吾は心からの安堵のため息を漏らした。まだ体中にズキズキと痛みが残っていたが、それすらも心地よく感じられた。
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