絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第ニ章 俺たちの夢

水族館

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 リリスは石畳の歩道に設置されたベンチにひとり座り、目の前を通り過ぎていくカップルや親子連れをぼんやりと眺めていた。彼らの向かう先にあるのは海に面して建てられた有島水族館。丸みを帯びた側面の一部は全面ガラス張りになっており、そこに青い海と空、白い入道雲を映し込ませている。

 彼女は左手首に付けられた腕時計型の携帯電話に目をやった。ラットに店まで同行してもらい、面倒な手続きをすべて彼にやってもらって購入したものである。それを指先で操作してラットに通話をかけた。

「もしもし。どうした?」

 ホログラム映像通話でかけたのだが、彼は音声だけで応じる。

「貴様、今どこにいる?」
「新加美町だ」
「なぜ?」
「仕事だよ」
「今日はいっしょに水族館に行く約束のはずだ」
「そうだったか?」
「……貴様、死にたいのか?」
「怒るなよ。今日はいろいろ取り込んでいてな。すまない。また別の日にしてくれ」
「別の日っていつだ?」
「わからない。俺のほうから連絡する。じゃあな」
「おい、待て……」

 通話は一方的に切られた。

 リリスは頭を抱え、怒りと落胆の入り混じった深いため息をついた。目の前の水族館の光景からは金メッキが剥がれ落ちるかのように輝きが失われていく。帰ろうかとも思ったが、せっかく慣れない地下鉄を乗り継いできたのでひとりで水族館に入ってみることにした。

 館内に設置された大小の水槽の中でさまざまな種類の魚が泳いでいた。しばらく奥に進んで狭い通路を抜けると、暗い空間に出た。その中で無数のクラゲがライトアップされ、まるで宇宙を漂うかのようにふわふわと優雅に漂っている。

 群れを成して泳ぐクラゲのうちの一匹がリリスのほうにゆっくりと近づいてきた。どこまでが水槽なのか境目がわからず、掴めそうな気がして手を伸ばしてみた。

「……あれ?」

 手が届いた。しかし、クラゲは幽霊のように彼女の手をすり抜け、またふわふわと漂っていく。視線で追いかけていくと、そこにひとりの女が立っていた。ふわりとしたシルエットのTシャツを着ており、前髪はアーチ状に切り揃えている。

 リリスと目が合うと、にこりと笑って日本語でなにか話しかけてくる。リリスがそれを理解できずに黙っていると、英語に切り替えてきた。

「ごめん。日本人じゃなかった?」

 リリスは答えない。

「タイ人?」

 リリスはうなずく。

「ここのクラゲはね、実物のものとホログラムのものが交じってるの。さっきのがホログラムで今頭上で泳いでいるのが実物。最初はちょっとびっくりするよね」
「へえ」
「ひとりで来てるの?」
「ああ」
「私もそう。今日入ってた予定が急にキャンセルになっちゃったから。この水族館、何回来ても飽きないんだよね」
「そうか」

 リリスは適当に相槌を打ち続けた。初対面なのによく喋る女だなと思った。

「この先にもっとすごいのがあるよ」

 女はそう言って室内を先へ進んでいく。

 ――なんだ、こいつ……?

 リリスは訝しく思いながらもその足は自然と彼女の後をついていっていた。子供のようなあまりに無邪気な笑顔に警戒心が緩んでいた。

 エレベーターで洞窟のような薄暗い空間を下りていった。徐々に静寂が深まっていく。やがて下のほうから光が差してきた。リリスの前に立っていた女が振り向くと、その笑顔が青白い光に優しく包まれる。

 神秘的な力で海中を筒状にくり抜いたかのような空間がそこに広がっていた。海の色をそのまま透き通らせたガラスに触れるとひやりと冷たく、その向こう側ではイワシが群れを成して泳いでいる。すぐ頭上を通過して群れの隙間からきらきらと木漏れ日のような光を放つ。それが去ると、真っ白な太陽が海面を漂うかのようにゆらゆらと揺れていた。

「こっち、こっち」

 先を歩く女が振り向いて手招きする。リリスは吸い込まれるかのようにそこへ歩いていく。そして気が付くと、水族館に併設されたレストランで彼女といっしょに食事をとっていた。

 ちょうど昼時とあって店内はほぼ満席だった。大きな窓の外にはウッドデッキが設けられ、その先に海が広がっている。

「名前はなんていうの?」

 女はビーフシチューを食べながら訊いた。リリスは少し迷ってからこう答えた。

「……マイ」
「私は沙耶。よろしくね」
「あ、ああ」

 嘘をついたわけではなかった。彼女には三つの名前があった。ひとつは暗殺者としてのコードネームであり、ユダヤの伝承において男を惑わすとされていた女悪魔の名前からとったリリス。もうひとつは本名のナンティダー・ブーンシリウィット。そしてあだ名のマイ。タイ人は生まれたときに本名だけでなくあだ名も付けられる。家族や友人の間ではこのあだ名のほうで呼び合うのが一般的だった。

「有島には来てどのくらい?」
「一ヶ月くらい」
「仕事?」
「ああ」
「有島の生活にはもう慣れた?」
「いや、ぜんぜん。日本語も話せないから苦労している」
「じゃあ、この水族館にひとりで来るのも大変だったでしょう?」
「友達とここで待ち合わせしていたんだ。だけど、すっぽかされた」
「男の人?」

 リリスは躊躇いがちにうなずいて言う。

「……許せないよ。あいつは私との約束をいったいなんだと思ってるんだろう?」
「付き合ってるの?」
「いや、そんなんじゃない。でも……」

 リリスはそこまで言いかけてハッとなった。初対面の相手にいったいなにを話しているのだろうかと思った。口を噤んでスパゲッティをフォークでくるくると回した。

 テーブルの上の皿が空になったところで沙耶が訊いた。

「このあとの予定は?」
「なにもない」
「じゃあ、いっしょに遊びに行こうよ。私も約束をキャンセルされてすっごく暇なの」
「男?」
「男……というかバンド仲間。今日はバンド練習の予定が入っていたんだけど、他のメンバー二人とも生牡蠣を食べてお腹を壊したんだって。それでキャンセル」
「そうか」
「行こう、マイちゃん」
「あ、うん」

 沙耶から先に席を立ち、リリスがそれに続いた。

 ――マイ……。

 この名前で呼ばれるのはいったいいつ以来だろう。何年も昔の温かな記憶が胸の奥で微かにくすぐられる。

 水族館を出ると海岸沿いから離れ、肩を並べて適当に歩いた。しばらくして飲食店やショップの建ち並ぶエリアに出る。道路は歩行者天国にされており、通りの両側にお好み焼き、焼きそば、りんご飴などの屋台が並んでいた。

「へえ、こんなところでお祭りやってるんだ」

 沙耶は通りを埋め尽くす人混みの中に飛び込んでいく。リリスはその姿を見失わないようにしてあとをついていった。

 沙耶は射的の屋台の前で足を止めていた。紅白幕の前に三段の棚が置かれ、そこに箱入りの菓子や玩具、ぬいぐるみなどの景品が整然と並んでいる。

「一回やってみるね」

 彼女はランニングシャツの小太りの男に料金を払い、五発のコルクの弾が乗ったアルミ皿を受け取る。カウンター上の空気銃を手に取り、その銃口にコルクを詰める。両手で構えて引き金を引くと、パスッと軽い音を立ててコルクが発射される。しかし、どの景品にも当たらず、背後の紅白幕に当たって落下する。二発目、三発目も同様だった。

「貸してみろ。そんな撃ち方じゃぜんぜんダメだ」

 リリスは沙耶から空気鉄砲を受け取る。

「そもそもどれを狙っているんだ?」
「あのぬいぐるみ」

 沙耶の指差す先にあったのは胸元に赤いリボンの付いたクマのぬいぐるみ。

「あれはダメだ」
「どうして?」
「よく見てみろ。上と下の棚に挟まれて固定されてる。どんなにうまく当てたところで絶対に落ちない。あれは客をおびき寄せるための餌だ」
「じゃあ、どれならいいの?」
「そうだな……」

 景品を端からひとつずつ眺めていった。黒装束を身に纏った忍者の人形がいちばん落としやすそうに見えた。

 空気銃を両手で構え、刀を持っている忍者の右腕に狙いを定めた。そして引き金を引いた。が、コルクは忍者の少し右を通過して紅白幕に当たる。

「なるほど。そういうことか」
「どういうこと?」

 狙ったところから数センチほど右に誤差が生じてしまう。だから、それを修正してやればいい。今度は忍者の右腕から数センチ左に狙いを定めて引き金を引いた。コルクは忍者の右腕に命中した。体ごとくるりと回転し、棚から落下した。

「すごい!」
「これくらいどうってことない」
「タイにもこういう射的の屋台あるの?」
「……まあな」

 リリスは店主から受け取った忍者の人形を沙耶に渡した。

「ほら、やるよ」
「ありがとう。でも、ちょっと渋いね」
「じゃあ、父親にでもプレゼントすればいいだろ」
「私、両親いないの」
「え?」
「私がまだ子供のときに二人とも交通事故で死んでるから」
「あ……」

 ――ごめん……。

 リリスがそう言おうとしたときには沙耶はもう彼女に背を向けて先を歩いていた。リリスは慌ててそのあとをついていく。自分の重い過去をまるで天気のことでも話すかのようにあまりにもあっけらかんと話すので少し面食らってしまった。

 その後、二人は買い食いなどをたっぷりと楽しんでから帰路についた。屋台の並ぶ通りを離れてしばらく歩くと人気の少ない閑静な住宅街に出る。淡い夕闇の中に外灯の光が柔らかな光を放っている。

「じゃあ、私はここで。また遊ぼうね」
「ああ、またな」

 T字路で二人は別の道に分かれた。沙耶はここから自宅アパートまで歩いて帰れる距離だという。リリスは最寄りの地下鉄の駅に向かって歩きはじめた。が、少しして足を止めて振り返り、沙耶の後ろ姿をじっと見つめた。

 彼女の存在はあまりにも眩しかった。まるで光の存在そのものであるかのように。その光は彼女の肉体からも溢れ出し、銃弾を撃ち込まれても弾き返してしまうような気さえした。

 ――くだらない……。

 リリスは自分のその考えを鼻で笑った。

 スカートの内側に忍ばせていた拳銃を取り出してハンマーを起こした。そしてその銃口を沙耶の後頭部に向ける。あとは引き金を引くだけで彼女は脳漿をぶちまけて死ぬ。それはどんな人間であろうと同じのはずである。

 しかし、彼女はいつになってもその引き金を引くことはできなかった。そうしているうちに沙耶の姿は住宅街の薄闇の中に消えていく。リリスは拳銃をスカートの内側にしまい、ふうっと小さくため息をついた。

 リリスも沙耶と同じく、子供の頃に両親を亡くしていた。

 彼女は仏教徒が大多数を占めるタイにおいては珍しいカトリックの家に生まれた。住まいはバンコクの隣に位置するサムットプラカーン県の一軒家。両親との三人家族だった。

 リリスの十四歳の誕生日パーティーでのことだった。

「目を閉じて両手を出して」

 父親にそう言われ、彼女は目を閉じて両手を差し出す。すると、そこにふわりと柔らかく温かいものが乗せられた。目を開けると、そこにいたのは一匹のグレーの子猫だった。透き通るようなグリーンの目でリリスを見つめ、挨拶するかのように小さくにゃあと鳴く。

「わあ! やった!」
「パパからの誕生日プレゼントだ」
「ありがとう! ありがとう! ありがとう!」

 リリスは子猫を抱えたままキッチンに駆け、冷蔵庫を開けて餌になりそうなものを探した。牛乳があったので平皿に移して床に置いた。

 子猫は小さな舌をちろちろと出してそれを舐める。空になると顔を上げてにゃあと鳴いた。口のまわりが牛乳で白くなっていた。

「ねえ、パパ!」

 リビングにいる父親に大声で呼びかけた。

「この猫の名前、ミルクにしていい?」
「ああ、いいよ。マイの好きな名前を付ければいい」
「よし、おまえの名前はミルクだ」

 その夜はベッドの中で胸元にミルクを抱いて寝た。温もりとトクトクと小さな心拍が直に伝わってくる。

 母から言われた教訓めいた言葉を思い出した。心から願ったことはすべて神様が叶えてくれる。本当にその通りだと思った。猫は以前から飼いたいと思っていたが、そのことを両親に話したことはなかった。それなのに父が誕生日プレゼントに猫を買ってきてくれたのは、きっと神様が彼女の願いを聞き届けてくれたからとしか思えなかった。

 ためしに神様にもっとお願いごとをしてみようと思った。しかし、なかなか願うことが思いつかない。そのときの彼女は幸せの絶頂にあり、これ以上ほしいものなどなにもなかった。長いこと考えてからこう願った。

 ――この幸せがいつまでもずっと続きますように……。

 しかし、その願いはそれから一ヶ月も経たないうちにあまりにも残酷な形で裏切られることになった。

「ただいま」

 その日の夕方頃、学校から帰宅すると、玄関のドアに鍵はかかっていなかったのに両親からの返事がなかった。物音ひとつせず、しんと静まり返っている。訝しく思いながら家の中に入っていくと、キッチンの床に血溜まりができていた。そしてその中央で母がうつ伏せになって倒れていた。

 ――え……。

 床に尻餅をついて後ずさる。背中が壁についたところで顔を上げて叫んだ。

「パパ―――ッ!」

 二階の書斎に父がいるはずだった。しかし、返事はない。階段を上がった。ポツポツと血痕が落ちていた。

 書斎の床に父が倒れていた。母と同じく血まみれで床に倒れていた。彼女は目の前の現実を受け入れることができずに茫然自失となった。

「にゃあ」

 しばらくしてミルクの鳴き声が聞こえた。書斎のドアから入ってきて素早く彼女のもとに駆け寄る。

「よかった。おまえだけは無事だったんだね」

 ミルクを胸元に抱きかかえて言った。そして自分の放った言葉にハッとなった。

 ――おまえだけは……。

 それはつまりミルク以外は無事ではなかったということ。両親は死んでしまったということ。無意識に心が受け止めることを拒んでいた現実を自分自身の放った言葉によって突きつけられる形となってしまった。

「う、う……」

 嗚咽がこぼれた。ミルクのざらついた舌で頬を舐められたときにそれは堰を切った。

「うわ―――ッ!」

 天を衝くようなあまりに悲痛な泣き声。日中に押し入った強盗により両親は刺殺されていた。十四歳のリリスの心が受け止めるにはあまりにも重すぎる出来事だった。

 その後は親戚の家を転々とした。が、どことも折り合いが悪く、中学校卒業を機にひとりと一匹だけで生きていくことを決意した。ミルクを連れてバンコクに上京した。

 生活費は自分で稼がなくてはならなかったのだが、まだ十五歳で中卒の彼女を雇ってくれるところはどこにもなかった。物乞いをするしかなかった。大通りの歩道に紙コップを置いてミルクといっしょに座っていると、その日ご飯を食べられるくらいの収入にはなった。

 夜は路上にダンボールを敷き、ミルクを抱いて寝た。その温もりはそのときの彼女にとって生きる希望そのものだった。闇に堕ちてしまいそうな心がそれによってかろうじて繋ぎとめられているような気がした。

 ある日、ミルクの腹部と内股が脱毛して赤くただれているのに気付いた。動物病院に連れていって診てもらうと、好酸球性肉芽腫症候群という病気であるという。ホルモン剤の投与などをすれば治るらしいのだが、その治療費として提示された料金は五百バーツ。その日暮らしのリリスにはそれだけの持ち合わせがなかった。

 もう一度だけ神様にお願いしてみることにした。夜、路上に敷いたダンボールの上で寝る前に両手を合わせて祈った。

 ――神様、お願いします。ミルクの治療費の五百バーツをお与えください……。

 その翌晩のことだった。その日の物乞いを終えて紙コップの中の紙幣と小銭を数えようとすると、目の前にひとりの男が立った。腹部がぼっこりと膨らみ、頭の禿げあがった中年の男。頭をボリボリと掻きながら訊いた。

「おまえ、金ほしいのか?」
「あ、はい……」
「いくらほしい? 五百バーツでいいか?」

 ――やった!

 心の中で快哉を叫んだ。なんという奇跡だろう。彼女が希望したとおりの金額。神様が願いを聞き届けてくれた。神様はまだ彼女のことを見捨てていなかったのである。

「はい!」

 リリスは笑顔でうなずいた。

「じゃあ、しゃぶれよ」
「……え?」
「だから、俺のものをしゃぶれってんだよ。そしたら五百バーツくれてやる」

 言われていることが理解できずに黙っていると、男は言った。

「とにかく俺についてこい」

 連れていかれたのはそこからすぐ近くの空き地の草むら。ブロック塀で通りと仕切られており、通行人からは見えないようになっている。

 男はそこで自分の短パンを下ろして自分の性器を露にした。リリスの目には毛むくじゃらの巨大な芋虫のように見えた。

「さあ、やれ」
「いや……」

 リリスは首を横に振る。が、男は彼女の髪の毛を掴んでその顔を自分の性器の前にもってこさせる。頬にピタリと触れた。ツンと鼻をつく臭いがした。全身が総毛立つ思いだったが、ミルクの治療のためと思い、覚悟を決めた。

 ゆっくりと口に含んだ。舌を這わせると口の中で徐々に膨張していく。やがてリリスの口の中で液体が発射され、苦い味とともにドロリと広がった。

「へへッ、なかなかよかったぜ」

 男はそう言うと、五百バーツ札を一枚残して去っていった。

 リリスはすぐに水道水で口をゆすいだ。喉の奥まで指を突っ込んでおえっと餌付いた。ミルクの治療費は手に入れることができたが、目には悔しさで涙が滲んでいた。

 翌日、ミルクを動物病院に連れていって治療を受けさせた。こんなことはもうこの一回だけにしようと思った。が、欲が出てきてしまった。

 屋外のショッピングモールを散歩していたとき、服屋のウィンドウに飾られていた純白のワンピースが目についた。胸元の部分はレース、裾はフリルになっている。一目で気に入ったが、値段を見ると二千五百バーツ。とても彼女の手の出せる金額ではなかった。しかし、そのとき彼女の心の中でこう囁く声があった。

 ――またあれをやればこれくらいはすぐ……。

 その日の晩、路上に紙コップを置いて座っているとひとりの若い男が声をかけてきた。

「ね、ねえ、君……」
「はい?」
「五百バーツで口でしてくれるというのは本当?」

 おそらく前に相手した男から話を聞いたのだろう。リリスは長いこと逡巡してから首を縦に振った。

 回数を重ねるごとにこの行為への抵抗と罪悪感は薄くなっていった。ワンピースを買うためのお金はすぐに貯めることができた。

 ワンピースを購入するとすぐに身に纏った。バレリーナのように体をくるりと回転させると、裾がふわりと大きく広がる。

「どう? お姫様みたいでしょ?」

 ミルクはそれににゃあと鳴いて答える。ミルクも動物病院での治療の甲斐あってすっかり元の美しい毛並みを取り戻していた。

 その数日後の夜だった。いつものように路上で物乞いをしていると、目の前に恰幅のいい男が立った。タンクトップで胸元には金のネックレスが光っている。

「物乞いのくせに随分といい服を着てるんだな」

 男の姿と言葉には威圧感があり、リリスはなにも言葉を返すことができなかった。

「五百バーツでしゃぶってくれる女がこのあたりにいるって話を聞いたけど、それはもしかしておまえのことか?」

 彼女はなにも答えない。

「否定しないってことはそうだな。で、どこでやってくれる? まさかこんな人通りのある場所でやるわけじゃないだろ?」
「この近くの空き地で……」

 彼女がそう言って腰を上げようとしたときだった。

「……けッ、噂は本当だったのか」

 男はそう言うと、スニーカーを履いた片足を高く上げ、勢いよく振り下ろした。石のタイルに着いたスニーカーの裏側からじわりと血が広がっていく。足を上げると、そこにあったのはぺしゃんこに潰されたミルクの姿だった。

「みっともないことしてんじゃねえよ、このゴキブリ。とっととこの街から失せな」

 そして男は去っていった。

 リリスは無残な姿になったミルクをじっと見つめた。内臓をぶちまけ、腹部はグレーの毛皮一枚だけになっている。

 バク、バク、バク……。

 心拍が徐々に速く、大きくなっていく。それがある地点に達したとき、彼女の中でなにかがプツリと切れた。彼女の内側から大蛇が体を突き破って姿を現すかのように黒い渦があふれ出し、一瞬にして全身を包み込んだ。

 近くに落ちていたコンクリートブロックを拾って男のあとを追った。すぐに追いついた。

「おい、待てよ。クソ野郎」
「あ?」

 グシャリ。

 振り向いた男の顔にブロックをめり込ませた。

「ふおおおッ……!」

 男は顔を両手で押さえて腰から崩れ落ちる。砕けた歯と血がボタボタと零れ落ちる。

 リリスはその脳天にブロックを振り下ろした。男は地面に前のめりに倒れると、体をビクッ、ビクッと痙攣させる。その体を足蹴にでひっくり返して仰向けにする。馬乗りになってその顔面に何度もブロックを叩きつけた。

 気が付くと、男の頭部は血にまみれた肉片に変わっていた。彼女はようやく手を止め、ふうっと大きく息を吐いた。そして半分近くを雲に覆われた夜空を仰ぎ、そこにいる存在に向かって話しかけるかのように心の中で呟いた。

 ――よーくわかったよ。これがあんたのやり方っていうわけだな……。

 昔のことを回顧しながらぼんやり歩いていると、どうやら道を間違えてしまったらしい。地下鉄の駅にすぐ着くはずだったのにいつになってもその入り口が見えてこない。周囲には沙耶と別れたときとほとんど変わり映えのない住宅街が広がっていた。

 建ち並ぶ家屋の向こう側に十字架がポツリと立っているのが見えた。リリスの足は自然とその方向に向かっていた。

 傾斜の緩やかな三角屋根の先端を貫いて十字架が立っていた。窓のステンドグラスには聖母マリアが描かれ、そこから微かに光が漏れている。

 入り口のドアは施錠されておらず、ドアノブを回すときいっと小さな音を立てて開いた。室内には木製の長椅子が並び、そこからいびきが聞こえてくる。何人かの男たちが横になって寝ていた。浮浪者たちの寝床になっているようだ。

 奥のほうからはぶつぶつと念仏を唱えるような声が聞こえてくる。祭壇の白い壁に十字架に磔にされたキリストの像が掲げられている。腰の曲がった白髪の老婆がそれに向かって両手を合わせて祈っていた。

「ククッ……」

 リリスはその姿を見て失笑した。哀れだなと思った。

 どんなに祈ったところで神は決して助けてくれなどはしない。それどころか、「すべては愛のため」というクソのような戯言をほざいて無邪気に蟻の足をもぎとって遊ぶ子供のように人の人生を弄ぶ。幸せを求める者には地獄を、愛を求める者には憎しみを与える。そして泣き叫び、悶え苦しむ人間の姿を見下ろしながら自分の性器をしごいてよだれを垂らしているのだ。

 ――待ってろよ、神……。

 リリスはスカートの内側からハンティングナイフを取り出して刀身を鞘から抜いた。そして祭壇に向かって駆けた。床を蹴って高く跳躍し、老婆の頭上を越える。壁に掲げられたキリスト像に向かってナイフを振り下ろした。

 ――おまえをいちばんえげつないやり方で殺してやるよ!

 彼女が着地した数秒後、キリスト像の首が取れて床にゴロリと転がった。茨冠を被せられた頭が天井のほうを向いた。
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