絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第三章 追う者と追われる者

有島サンライズ

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 夜の色に染まる真っ黒な油の中に小麦粉の皮に包まれた三角錐のサモサがいくつか入れられた。屋台の裸電球の光はシュワシュワと弾ける泡を白く浮かび上がらせ、それを揚げているインド系の浅黒い肌の男を優しく照らしている。

 男はその皮がこんがりときつね色になってきたところで網杓子で掬い、網の敷かれたバットにドサリと移した。

「これ二つ」

 健吾はそれを指差しで注文した。男はにこりと愛想の良い笑みを浮かべてサモサを二つ紙皿に乗せる。それに緑色のソースを添えてから手渡した。

 通りを歩きながら揚げたてのサモサを口に運んだ。パリッとした皮の内側はホクホクのじゃがいもである。カレースパイスが効いており、味わいはカレーコロッケに近い。緑色のミント味のソースが程よいアクセントになっていた。

 インド系の店が多く並ぶリトル・インディアと呼ばれる通り。雑貨店の軒先ではインドのお香が焚かれ、服屋のショーウィンドウに並ぶマネキンにはピンク、水色、黄色など色とりどりのサリーが着せられている。

 砂利の敷かれた小路に入ると、小さな食堂が奥のほうまでズラリと並び、食欲をそそるスパイスの香りが通り全体に充満していた。掲示板に貼られたインド映画のポスターには月明かりを背景にして抱き合う男女の姿が描かれている。このリトル・インディアにインド映画を専門に上映する映画館でもあるのだろうか。

 新加美町からもほど近いアクセスの良い場所であるにも関わらず、今までほとんど足を運んだことがなかった。有島に住むようになって約五年。それでもまだはじめて目にする新鮮な景色は残されているものである。

 ――もう五年も経つのか……。

 健吾は感慨に浸る。スーツケースに二本のドラムスティックを詰めてはじめて有島にやって来た日のことから思い返した。その後の洋平と沙耶との出会い。ふッと笑みのこぼれる楽しい思い出。そしてほんの数日前の胸の張り裂けるようなあまりに悲痛な出来事……。

「ふうう……」

 健吾は大きくため息を吐いてそれ以上回顧するのをやめた。サモサを食べ終えて空になった紙皿をゴミ箱に捨てて小路を奥に進んだ。

 やがてリトル・インディアのエリアを抜けたのか、すれ違う人々に日本人や中国人などインド人以外の姿が増えてきた。小路の奥のほうからは眩い光が放たれ、そこから賑やかな声が聞こえてくる。健吾はそこに吸い込まれるようにして足を速めた。

 そこにあったのはカクテルバーの屋台だった。車輪の付いた屋台の台の上に淡いグリーンや水色などカラフルなボトルが隙間なく並べられている。空いているテーブル席に着くと、男の店員が注文を取りに来た。

「ご注文は?」
「おすすめあります?」
「当店オリジナルの有島サンライズがおすすめです」
「じゃあ、それを」
「かしこまりました」

 店員は屋台に戻ってシェイカーをシャカシャカと振る。そして運ばれてきたカクテルは鮮やかなオレンジ色をしており、グラスの淵にチェリーがひとつ添えられていた。柑橘系の爽やかな口当たりだった。

 ぼんやりと頭上を見上げた。小路を渡すようにして赤、青、オレンジの三色の電飾が吊るされ、それが夜風に吹かれてゆらゆらと揺れている。じっと見つめていると、自分が揺りかごの中で揺られているかのような感覚に包まれる……。

「ここ空いてるかい?」

 突然の男の声にその心地よさを破られた。健吾と向かい合わせにカーキ色のセーターを着た小太りの中年の男が座っていた。

「おーい、いつものを頼むよ」
 男は健吾が答えるのを待たずに店員に手を上げて注文する。健吾は軽い苛立ちを覚えた。他にも空いている席はあるのになぜわざわざここに座るのか。

「ひとりで来てるの?」

 男は腫れぼったい目を健吾に向けて訊いた。

「ええ、まあ……」
「なにかあったの?」
「なにか?」
「今にも泣き出しそうな顔をしてるけど」
「別に……なにもないですよ」
「俺でよければ話を聞くよ」
「けっこうです」

 さらに苛立ちが募っていく。面倒な相手に絡まれてしまった。カクテルを飲み終えたらすぐにここを離れようと思った。

 男のところにソルティードッグが運ばれてきた。彼はそれを一口ちびりと飲み、グラスの淵に付いた塩を指でなぞってペロリと舐める。

 あと一口で健吾のグラスが空になろうとしたときだった。左手首に巻いていた携帯電話が着信音を鳴らした。洋平からの着信だった。が、健吾はその画面をただじっと見つめるだけで応答しようとしない。

「……出なくていいの?」

 やがて着信音は鳴りやんだ。健吾はグラスに残っていたカクテルを飲み干してから言った。

「俺の……親友なんです」
「さっき電話をかけてきたのが?」
「ええ。その親友が俺の好きな女の子とできていた。ただそれだけのことです」
「ほう……」

 心の奥底では誰かに話を聞いてもらいたいと思っていたのかもしれない。しかし、それにしてもこんなわけのわからない相手に打ち明けるなんて、我ながらいったいなにを血迷ったのだろうかと思った。

「その二人は君の気持ちを知っているの?」
「知らないはずです。一度もそんな話をしたことはないので」
「どうして話さなかったの?」
「三人でバンドをやっていたんです。みんなで力を合わせてバンドの成功を目指しているというときにそんなことを口にしてはいけないと思ったから」
「それで君の知らない間に他の二人はできていたというわけか?」
「……ええ」
「で、これからどうするの?」
「これからって?」
「自分の気持ちをちゃんと伝えないの?」
「伝えるわけないでしょう! 二人はもうできているのにそんなことしていったいなんになるっていうんですか」
「だけど、君はそれでいいの?」
「いいんですよ。俺はそんな未練がましい男じゃない。潔く身を引きます。それに……あいつだったら俺なんかよりずっと彼女のことを幸せにしてやれるだろうし。だから……、これで良かったんです」

 男は腕を組んで考え込むような表情を浮かべる。しばらくして口を開いた。

「……いかんなあ」
「え?」
「君は自分の心に嘘をついている。別に俺やその二人に嘘をつくのは構わん。しかし、自分の心にだけは嘘をついちゃダメだ」
「嘘なんてついてないですよ」
「楽しいときは笑い、悲しいときは泣く。それが人間ってもんじゃないか。ネガティブな感情を無視して感じないようにするのは男らしさでもなんでもないからな」
「だから俺は……」

 心の奥底にしまい込んで見て見ぬふりをしようと思っていた感情が男の言葉によって刺激される。マグマのように熱くなってじわじわと這い上がってくる。

「本当は悔しいんだろ?」
「俺は……」
「自分の気持ちに正直になれよ」

 テーブルの上に置いた拳をぎゅっと握り締めた。体がブルブルと震えた。限界だった。

「悔しい―――ッ!」

 そう叫んだ途端に大粒の涙がポタリと零れた。

「悔しいに決まってるだろ! ふざけんな! なんで洋平なんだ! なんで俺じゃないんだ! ふざけんな、畜生!」

 泣きじゃくりながらテーブルの上にうなだれると、その肩に男の手が置かれた。

「そうだ、それでいいんだ。とにかく今夜は飲め。俺の奢りだ。飲んですべての感情を吐き出すんだ」

 健吾は男の注文した名前のわからないピンク色のカクテルをがぶ飲みして叫んだ。

「畜生! 畜生!」

 そしてそれからさらに二杯のカクテルを飲んでしばらくしたときだった。ふと上を見ると、そこに吊るされているオレンジ色の電飾が大きくグラグラと揺れていた。風が強くなったのだろうか。いや、違う。揺れているのは自分の意識のほうだ。

「……帰ります。ごちそうさまでした」

 健吾は腰を上げた。このままではここで酔い潰れて寝てしまいそうだった。

「送っていくよ。どこまで行く?」
「地下鉄の駅まで」
「ここからだと新加美町の駅が近い。そこでいいか?」
「はい」

 男に肩を借りて千鳥足で歩いた。カクテルバーの屋台から離れるほどに喧騒と光も遠のいていく。周囲は静寂に包まれる。

 猛烈な眠気に襲われていた。少しでも気を緩めると意識を根こそぎもっていかれそうになる。朦朧とした意識の中で自分の飲んだカクテルの杯数を数えた。四杯である。健吾は決して酒の弱いほうではない。それなのにわずか四杯のカクテルでこんなにも酔いがまわるなんてことがあるのだろうか。

 ――まさか睡眠薬を……。

 そう気付いたときにはすでに手遅れだった。意識の落ちる直前、薄く開いた視界の中で男が悪魔のような笑みを浮かべるのが見えたような気がした。
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