絶望ダンデリオン

小林ていじ

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第四章 最後の戦い

幻影

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 暁明は横一列に並んだ客席の下にうつ伏せになって身を隠した。その直後、目の前に銃弾の雨が降り注ぎ、コンクリートの床に爪痕を残して跳ね返る。銃弾の飛んできた方向に向かって拳銃を数発撃ち返すと女の攻撃の手が止んだ。

 暁明の経営する裏カジノを襲撃し、彼を瀕死にまで追い詰めた女。浩宇が調べたところによると、その名をリリスといい、バンコクの裏社会で暗躍していた暗殺者であるという。いつかまたどこかであいまみえることになるだろうと予期はしていたが……。

 拳銃の弾倉を対特殊治安部隊用の電気弾から通常のものへと素早く交換し、暗闇の中に耳を澄ました。リリスの気配は消えていた。

 どこから襲われるかわからないことに恐怖を覚える。が、恐怖の感情でただ闇雲に動けば死に直結する。怖いときこそ頭を冷静に保ち、最善の手を打たなくてはならない。まずはこの暗闇から脱出したいところだが……。

 暗闇の中をリリスがゆっくりと近づいてくる気配を感じた。暁明が床に置いた手に交換した弾倉が触れた。それを掴んで遠くに投げると、その逆の方向に駆けた。

 カンッ。

 弾倉が客席に当たる音。暁明は駆けながら拳銃を後ろに向けて何発か撃った。リリスからの銃弾が返ってくるが、そのときには彼は再び客席の下に身を隠していた。これで彼女からかなり距離を取ることができたはずである。

「洋平―――ッ!」

 そして下のホールに向かって思い切り叫んだ。

「聞こえるか! 電気をつけてくれ! どこかにスイッチがあるはずだ!」

 洋平からの返事はなかった。が、彼を信じるしかなかった。

 これを聞いてリリスはどう出るか。暗闇は彼女のテリトリー。人食い鮫にとっての海のようなもの。おそらく電気をつけられる前に一気に勝負を決めにくるだろう。

 仰向けになって拳銃を胸の上で構える。暗闇の中に天井に張り巡らされた鉄骨がうっすらと見えた。

 ――洋平、早く……。

 拳銃を握る手が徐々に汗ばんでいく。暁明の内側から発せられる恐怖と緊張は外側にまで溶け出し、空間をぐにゃりと歪めて見せていた。

 数分、それとも、ほんの数秒ほど経過したときだろうか。ふいに天井の鉄骨の一部が覆い隠された。リリスが飛んでいた。機関銃の銃口が暁明に向けられた。

 暁明は客席の脚を蹴ってコンクリートの床の上を滑りながら拳銃の引き金を引いた。暗闇の中を何発もの銃弾が交差した。

「くッ……」

 銃撃戦のあとに訪れた静寂の中に小さな呻き声が聞こえた。リリスに弾が命中したのか。いや、囮の可能性が高い。下手に動かないほうがいいだろう。

 しばらくしてパッと光が灯った。暁明はその眩しさに目を細める。洋平が電気のスイッチを入れてくれたのである。

 少しだけ上半身を起こして周囲を見渡した。少し離れた客席の隙間からモノトーンのドレスが覗いていた。さらに上半身を起こした。リリスが背中を見せて蹲っていた。ドレスの白地部分が血で赤く染まっている。どうやら本当に命中していたようである。

 彼女にとどめを刺すために体を起こそうとした。

 ――いや、待てよ……。

 しかし、そこで再び疑念が生じた。リリスは本当に負傷しているのか。これもまた罠ではないのか……。

 束の間の逡巡。しかし、結局、打って出ることにした。リリスは現に目の前で負傷して血を流している。しかも背中まで向けているのだ。ここでとどめを刺さずにいつ刺すのか。いったいなにを迷う必要があるというのか。

 体を起こして拳銃をリリスに向けた。が、そのときだった。この冬の時期にしては珍しい一匹の羽虫が彼女のほうへ飛んでいき、そしてその体をすり抜けていった。

 ――な……!

 暁明は咄嗟に顔を別の方向に向けた。そこにナイフを構えて飛びかかってくるリリスがいた。拳銃で迎撃するのは間に合いそうになかった。

 ナイフがヒュッと振り下ろされた。

 次の瞬間、リリスの体は遠くに吹き飛ばされていた。ナイフで切られた暁明の髪の毛が空中にハラハラと舞った。

「ぐうう……」

 リリスは客席の間に倒れて苦しそうな呻き声を上げる。カウンターで渾身のボディブローを叩き込んでいた。そうすぐに立ち上がってくることはできないだろう。

 暁明は床に捨てた拳銃を広い、蹲って血を流しているリリスのほうに近づいていった。間近でよく見てみると、その体は少し透けており、その脇には携帯電話が置かれていた。それをグシャリと踏みつけて壊すと、リリスはフッと消える。携帯電話によって映し出されたホログラムだったのである。

「こんなものに騙されそうになるとはな……」

 次に本物のリリスのほうへ近づいていった。彼女は腹部を手で押さえながら苦しそうな顔を上げる。

「おまえ、そんな顔をしていたのか」

 カジノ襲撃のときは覆面で顔を隠していた。彼女の顔を見るのははじめてだった。頭には布花のカチューシャを付けており、服装の趣味も少し変わってはいるが、いかにもふつうの女の子という感じである。実際に戦っていなければ、彼女が凄腕の暗殺者だと言われても絶対に信じなかっただろう。

「おまえ、強かったよ。俺がおまえに勝てたのは運が良かったから。ただそれだけだ」

 リリスに銃口を突きつけて訊いた。

「最期になにか言いたいことはあるか?」

 それに対して、彼女は顔を歪めて鬼のような形相で言葉を返す。

「殺してやる。殺してやる……」

 暁明はゾッとした。やはり彼女はふつうの女の子などではない。いったいどんな過酷な人生を送ればこんな表情をするようになるのか。自分の部下を何人も殺されたことに対して激しい怒りを感じていた。が、それと同時に憐れみのような感情も湧いていた。とはいえ、ここで彼女を逃がしてやるつもりなどさらさらなかった。

「あばよ、リリス」

 ズダン!

 銃弾が放たれた。が、それはリリスに当たらずに客席にめり込んだ。発砲の直前に手首を握られてその向きを変えられていた。手首を捻られて暁明のほうに銃口を向けられそうになる。

 ズダン! ズダン! ズダン!

 暁明はその前に何発も立て続けに発砲した。

 リリスに金的を蹴り上げられ、暁明は床に跪いた。そこで拳銃を奪われてしまった。彼女は暁明の頭部に銃口を向けて引き金を引く。

 カチッ。

 しかし、空撃ち。弾倉はすでに空になっていた。

 床に落ちていた自分のナイフを拾い上げて再び暁明に襲いかかった。彼の喉元を目がけてナイフを横に振る。彼は背中を仰け反らせてそれをかわすが、その拍子に床に尻餅をついた。

 リリスは暁明の体に馬乗りになり、ナイフを両手で握って振り下ろしてくる。暁明は彼女の手を掴んでそれを防ごうとする。が、彼女はナイフに自分の全体重を乗せてきており、その鋭い刃は彼の胸元に向かって徐々に下りていく。

「殺す! 殺す! 殺す! ぶっ殺してやる!」

 狂気に歪むリリスの表情。剥き出した歯の隙間からふうふうと荒々しく息が漏れる。それはもはや人間の顔ではなかった。彼女がナイフに乗せているのは体重だけではない。その背後に黒い靄が立ち込め、それが彼女の背中を後押ししているのが見えた。

 ――ダメだ。こいつの恨みには勝てない……。

 ナイフはゆっくりと下りていく。やがてその切っ先は暁明の胸板にスッと入っていき、肋骨の間を擦り抜け、そして心臓にまで到達した。
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