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29・嫉妬
しおりを挟む「妃殿下、顔色がよくありませんね。魔力が足りていらっしゃらないのでは?」
鏡越し、気遣わしげにかけられたケーシャの声に、僕はひどく戸惑った。
だけど見ると確かに鏡の中の僕の顔色は、自分で見てもいいとは言い難い。
心当たりはあった。
昨夜見た悪夢だ。
「え? あ……うん、そう、だね……少し、足りないかもしれない……」
素直に頷きながら、そっと、下腹部を撫で、そこにある存在を確かめる。
とくり、とくり、脈打つかのような、自分以外の魔力の拍動。
確かに存在している事実に、ほっと息を吐いた。
昼下がり。昼食までをベッドの上で済ませて、ようやく寝台から這い出た僕は、せめてもと最低限の身支度を、鏡台の前で整えられている最中だった。
ケーシャの指摘してきた通り魔力が不足しているのは自分でもわかっている。だけどそれは今の時期なら当たり前と言っていい程度のもので、そもそも今の状態異常にここ数日はよくなった覚えもない。
だから仕方がないことだとも言え、問題視するほどのものとは思えなかった。
「今日はもう、寝台でお休みになっておられては? 陛下も……そうですわね、今日は確か……おそらく、夕方には戻りましょう」
僕だけではなく、どうやらリア様の予定もある程度把握しているらしいケーシャに、僕は力なく苦笑する。
「いや。そこまでじゃないから起きるよ。だって婚姻式の衣装合わせ、遅れているんでしょう? 今ならそれぐらいは出来そうだから」
書類の確認などまでは難しいだろうけれど、僕自身が何かを考えるだとか言うことがない。それに僕以外が出来ないのも確かで。
僕の体調とリア様の予定を確認しつつ進めている所為で、婚姻式の準備は、衣装合わせに限らず、順調とは言い難いのは実状だった。
もっとも聞けばそれでも致命的なほどの遅れではないのだとか。
これは元々以前からティネ殿下と行う予定であり、それをリア様とに変えただけであるというのが大きい。
招待客の調整や招待状の変更などが、ほとんど必要なかったためだ。
僕自身の衣装だって、リア様に合わせた多少の手直しのみで大きくは変わっていないと聞いている。
リア様の衣装などは何とかご自身が調整なさったのだとも。
戴冠式がなくなる分、手間はむしろ減っていて、だけど直前で必要なことはそれでも多岐に渡り、慌ただしいことに間違いはなかった。
今も、以前より傍にいる人の数が少ない。
『……――これがあの方であれば』
そこまでを思って、ふと蘇ってきたのはほんの数日前までよく耳にしていた囁き声。
今は近くにいない、あの女官の言葉。
僕ではなく、他の誰かであればと言っていた彼女は、いったい誰を想定していたのだろうか。
これもまた、誰かわからないことの一つだなと、思い至った。
夜中の共鳴の相手もわからなければ、彼女が比べていた相手もわからない。
わからないことだらけだ。
これがもし、彼女の囁いていた通り、僕ではなく――……そう、例えば、リア様の、元の婚約者だという方であれば。
思考が辿り着いたのは、どうしても気になってしまっている人のことだった。
美しく、優秀であったという、アレリディア嬢の叔父だというその人。
名前すら知らないその日とのことを、どうして僕はこんなにも気にしてしまっているのだろうか。
否、わかっている、僕が気にする理由なんて、かつてリア様の婚約者だった、その事実だけで充分なのだ。
(これは……嫉妬、かな……)
そんなものを抱いているらしい自分が、なんだかひどく滑稽だった。
自分はほんの数か月前まで、ティネ殿下の婚約者だったくせに。自分のことを棚に上げ、相手の、それももう10年以上前に破棄されたのだというそんな人のことを気にするなんて。
(多分、僕は漠然と……リア様には、そんな相手なんていなかったんだと、どうしてか信じ込んでいたからだ……)
そんなこと、あるわけがないのに。
国王に即位なさってからは、ご自身で遠ざけられたということだけれど、リア様は生まれた時から王族だった。
それで婚約者がいなかったわけがない。
僕でさえ、幼い頃から婚約者がいたのである。
低位、中位貴族はもとより、高位貴族であればあるほど、たとえ暫定であれ、婚約者を整えることはごく一般的なことと言えた。ましてや王族ともなると、いない方が不自然というものだろう。
なのに嫉妬している。
たったそれだけの相手に。
(僕はリア様の、婚約者だったことがないから……)
ティネ殿下との婚約が破棄され、その直後王妃となったので、当然、婚約者としてのリア様など知らず、それがどうしても気にかかってしまっていた。
リア様はお優しいし、今の関係に不満があるわけでもない。
それは確かに少しばかり、閨ごとにばかり偏っているのではと、思わなくもないけれど、状況を考えると、仕方がないと言ってもいいのだろう。
特に子供を宿している今はもちろん、子供自体、早急に求められることは何らおかしなことでは全くなかった。
とは言え、初めの一ヶ月の、子供を成しているわけでもないにもかかわらず、高すぎると思った頻度に関しては、今思い返してもよくわからなかったけど。
リア様ご自身が、それほど飢えておられるようには感じられなかったから余計に、だ。
初夜のことを思い出す。
知識はともかく、僕には経験などはなく、それでも。
(リア様は間違いなく、僕が初めてだった)
ぎこちなく、たどたどしかったリア様の手つきは、経験があるようには思えなかった。
リア様ご自身も、初めてだと言っていたはずだ。
真面目なリア様は、婚約者の方とは、そのような触れ合いを不用意になさったりなさらなかったのだろう。
そもそも仲が良かったとすら言えない状態だった僕とティネ殿下は論外として、通常、多くの場合婚姻前の貞淑など、そこまで重要視されないというのに、誠実な方だと思う。
そんな誠実なリア様は、婚約者だという方にどのようにふるまっておられたのだろうか。
(僕は多分、どんなリア様だって、知っておきたいと思っているんだろう)
それはなんて浅ましくて欲深いことか。
ずくと、胎の奥が痛んだ気がした。
ああ、いけないと、気を取り直して、そっと宥めるように下腹部を擦る。
意図して自身の中の魔力が、波立たないように努めた。
出来るだけ、全身全て、とりわけ腹になった子供の辺りは殊更平らになるようにと。
魔力の巡りが不安定になることが、今の時期の子供に取ってよいことではないことなんて、わからないはずがない。
そして魔力の安定性は、感情によって左右される。
(心を、落ち着けなくては……)
些細な悋気に、心を揺らしている場合ではない。
出来るだけ、気持ちを落ち着けながら、それでも共鳴の相手や、あの女官の比べていた誰か、何よりもリア様のかつて婚約者だった方のことを、頭から追い出しきることが出来ない僕は、やはり王妃として、足りていないのではないかと思えてならなかった。
「妃殿下?」
沈んだ顔をしてしまっていたのだろう、気遣わしげにかけられたケーシャの声に、僕は僅か、笑みを作って。
「大丈夫、何でもないよ」
柔く、そう返したのだった。
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