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ホテル街で
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涼子の上で、男は激しく腰を振っていた。動きに連動してベッドのスプリングが軋み、彼の呼吸も荒々しくなっていくが、涼子は眉一つ動かさず、ぼうっと天井を見ていた。
男が静止すると、気だるげに涼子は聞いた。
「……終わった?」
男は返事の代わりにコンドームを外してゴミ箱に投げた。もぞもぞと下着を身に着け、徐にスマホを弄り始める。沈黙が続いた後、唐突に男は切り出した。
「……なんかお互い冷めちゃってるみたいだし、そろそろ終わりにしね?」
涼子は身を起こし、乱れた髪を整えながら答えた。
「そうね。それがいいかもしれない。どうせお互い、本気じゃなかったものね」
「ありがとう。お前は物分かりよくて助かるよ」
男はホッとしたように表情を緩め、続けざまに言った。
「今から友達がこっち来たいって言うんだ。悪いけどタクシーでも使って帰ってくんね?」
「そう。わかったわ」
涼子はベッドを出て、脱ぎ捨てた衣服を身に着け始めた。彼の言う“友達”とは、きっと新しい女だろう。
「じゃあな。今までありがとう」
涼子は一度も振り返らないまま、「さよなら」とだけ告げて彼のマンションを去った。
*
『涼子はオールラウンダーだね』――――小さいころから、それが両親の口癖だった。学校での勉強は勿論のこと、水泳、バレエ、習字、ピアノ、茶華道――――どんな習い事をやらせても、彼女はコツを掴むのが上手く、どの先生からも「才能がある」と褒められた。特にピアノは、始めて半年でピアノ歴三年の姉のレベルを追い越してしまうほどだった。
将来有望な娘に両親は多大な期待を寄せた。末は博士か大臣かとまで言われていた。
けれど実際、彼女は大した大物にならなかった。「プロ」と呼ばれる領域に達するための「努力」をしなかったからだ。
何でも簡単にできてしまうがゆえに、それ以上のめり込むことがない。元々競争心も薄かったため、誰かに負けても悔しいと思うことがなかった。
夢中になれるものを見つけられないまま、取り合えず広告代理店に就職したものの、職場の人間と馬が合わず、二年ほどで辞めてしまった。仕事への情熱や向上心を持っている同僚たちについて行けなかったのだ。チームワークを乱すくらいなら、辞めた方がいいと思った。その後はアルバイトを転々とし、今は本屋で書店員として働いている。安月給だが、職場の雰囲気が緩いので居心地は悪くない。
ちなみに彼女の三つ上の姉は、現在プロのピアニストとして活躍している。雨垂れ石を穿つとは、まさに姉のことだと涼子はしみじみ思う。
涼子は駅前広場のベンチで足を止めた。ここでのんびり読書しながら始発を待つことにした。倹約家な彼女は、タクシーを使って余計な出費を増やしたくなかったのだ。
目と鼻の先に警察署もあるし、不審者が現れる可能性も低いだろう。
手持ちの文庫本を取り出して広げた。布製のブックカバーが掛けられていて表紙は見えないが、それは「墜ちる亡国の姫」というタイトルの官能小説だった。
“読書”は彼女にとって唯一趣味と呼べる娯楽だった。
フィクションは退屈な現実から遠ざけてくれる。虚しさを紛らわしてくれる。
先ほどフラれたばかりだというのに、彼女はすぐに気持ちを切り替え、読書モードへと入った。
どうせお互い、遊びの付き合いだったのだ。罪悪感も、未練もない。
彼は感情豊かで多趣味で活動的で、涼子にないものをたくさん持っていた。付き合えばきっと楽しいだろうと思った――――そうやって無理に理由付けして、だらだらと恋愛ごっこをしていたのだ。
相手に選ぶのはいつだって、軽薄で浮気性で女を泣かせるタイプの男。お互いクズなら、気楽に付き合える。性欲を満たしたいわけでもなく、彼氏持ちというステータスが欲しいわけでもない。
代わり映えしないモノクロのこの生活に、少しでも“彩り”が欲しかったのである。
ベンチで読書を始めて三十分ほどが経過した時、ふいにぽつぽつと小雨が降り始めた。
霧雨程度ならまだしも、雨足は徐々に強まり、ページにいくつものシミを作っていく。
「今日は厄日ね…」
涼子は自嘲気味に呟き、建物内へ移動しようと本を鞄にしまった。
と、その時――――ふいにピタリと雨が止んだ。
いや、雨が止んだのではない。誰かが彼女に傘を差し掛けたのだ。
振り仰ぐと、男が二人立っていた。二十代半ばくらいだろうか。二人とも派手な出で立ちで、アルコールの匂いが漂っていた。
「お姉さん、一人?終電逃しちゃったの?」
「風邪引いちゃうよ」
「俺たちとホテルでも行かない?」
涼子は立ち上がった。朝までの暇潰しにはちょうどいいだろうと思ったし、誰かに必要とされることで、虚無感や寂寥感を紛らわせたかった。
「いいけど、ホテル代は払わないわよ」
男たちはガッツポーズし、涼子を挟んで歩き始めた。
ホテル街までやってくると、男たちは歩調を緩めた。
「どこにしよっか?一番安いとこだとSホテルだけど、オモチャあるとこ選ぶならKホテルかな」
随分ここらのホテルに行き慣れているようだ。
「どこでもいいわ」
涼子はどうでも良さように答えた。今はただ、早く建物の中に入りたかった。
その時、反対側の道から誰かが歩いてきた。カップルではなく、一人だった。
すれ違い様に、その人物と目が合った。
色白の顔を覆うライトブラウンの髪に、目元に深みのある中性的な顔立ち。一瞬、長身の女性かと思ったが、
「あれっ、氷野さん?」
声を聞いて、同僚の水上蓮だと気がついた。彼は最近入った大学生のアルバイトだった。
男が静止すると、気だるげに涼子は聞いた。
「……終わった?」
男は返事の代わりにコンドームを外してゴミ箱に投げた。もぞもぞと下着を身に着け、徐にスマホを弄り始める。沈黙が続いた後、唐突に男は切り出した。
「……なんかお互い冷めちゃってるみたいだし、そろそろ終わりにしね?」
涼子は身を起こし、乱れた髪を整えながら答えた。
「そうね。それがいいかもしれない。どうせお互い、本気じゃなかったものね」
「ありがとう。お前は物分かりよくて助かるよ」
男はホッとしたように表情を緩め、続けざまに言った。
「今から友達がこっち来たいって言うんだ。悪いけどタクシーでも使って帰ってくんね?」
「そう。わかったわ」
涼子はベッドを出て、脱ぎ捨てた衣服を身に着け始めた。彼の言う“友達”とは、きっと新しい女だろう。
「じゃあな。今までありがとう」
涼子は一度も振り返らないまま、「さよなら」とだけ告げて彼のマンションを去った。
*
『涼子はオールラウンダーだね』――――小さいころから、それが両親の口癖だった。学校での勉強は勿論のこと、水泳、バレエ、習字、ピアノ、茶華道――――どんな習い事をやらせても、彼女はコツを掴むのが上手く、どの先生からも「才能がある」と褒められた。特にピアノは、始めて半年でピアノ歴三年の姉のレベルを追い越してしまうほどだった。
将来有望な娘に両親は多大な期待を寄せた。末は博士か大臣かとまで言われていた。
けれど実際、彼女は大した大物にならなかった。「プロ」と呼ばれる領域に達するための「努力」をしなかったからだ。
何でも簡単にできてしまうがゆえに、それ以上のめり込むことがない。元々競争心も薄かったため、誰かに負けても悔しいと思うことがなかった。
夢中になれるものを見つけられないまま、取り合えず広告代理店に就職したものの、職場の人間と馬が合わず、二年ほどで辞めてしまった。仕事への情熱や向上心を持っている同僚たちについて行けなかったのだ。チームワークを乱すくらいなら、辞めた方がいいと思った。その後はアルバイトを転々とし、今は本屋で書店員として働いている。安月給だが、職場の雰囲気が緩いので居心地は悪くない。
ちなみに彼女の三つ上の姉は、現在プロのピアニストとして活躍している。雨垂れ石を穿つとは、まさに姉のことだと涼子はしみじみ思う。
涼子は駅前広場のベンチで足を止めた。ここでのんびり読書しながら始発を待つことにした。倹約家な彼女は、タクシーを使って余計な出費を増やしたくなかったのだ。
目と鼻の先に警察署もあるし、不審者が現れる可能性も低いだろう。
手持ちの文庫本を取り出して広げた。布製のブックカバーが掛けられていて表紙は見えないが、それは「墜ちる亡国の姫」というタイトルの官能小説だった。
“読書”は彼女にとって唯一趣味と呼べる娯楽だった。
フィクションは退屈な現実から遠ざけてくれる。虚しさを紛らわしてくれる。
先ほどフラれたばかりだというのに、彼女はすぐに気持ちを切り替え、読書モードへと入った。
どうせお互い、遊びの付き合いだったのだ。罪悪感も、未練もない。
彼は感情豊かで多趣味で活動的で、涼子にないものをたくさん持っていた。付き合えばきっと楽しいだろうと思った――――そうやって無理に理由付けして、だらだらと恋愛ごっこをしていたのだ。
相手に選ぶのはいつだって、軽薄で浮気性で女を泣かせるタイプの男。お互いクズなら、気楽に付き合える。性欲を満たしたいわけでもなく、彼氏持ちというステータスが欲しいわけでもない。
代わり映えしないモノクロのこの生活に、少しでも“彩り”が欲しかったのである。
ベンチで読書を始めて三十分ほどが経過した時、ふいにぽつぽつと小雨が降り始めた。
霧雨程度ならまだしも、雨足は徐々に強まり、ページにいくつものシミを作っていく。
「今日は厄日ね…」
涼子は自嘲気味に呟き、建物内へ移動しようと本を鞄にしまった。
と、その時――――ふいにピタリと雨が止んだ。
いや、雨が止んだのではない。誰かが彼女に傘を差し掛けたのだ。
振り仰ぐと、男が二人立っていた。二十代半ばくらいだろうか。二人とも派手な出で立ちで、アルコールの匂いが漂っていた。
「お姉さん、一人?終電逃しちゃったの?」
「風邪引いちゃうよ」
「俺たちとホテルでも行かない?」
涼子は立ち上がった。朝までの暇潰しにはちょうどいいだろうと思ったし、誰かに必要とされることで、虚無感や寂寥感を紛らわせたかった。
「いいけど、ホテル代は払わないわよ」
男たちはガッツポーズし、涼子を挟んで歩き始めた。
ホテル街までやってくると、男たちは歩調を緩めた。
「どこにしよっか?一番安いとこだとSホテルだけど、オモチャあるとこ選ぶならKホテルかな」
随分ここらのホテルに行き慣れているようだ。
「どこでもいいわ」
涼子はどうでも良さように答えた。今はただ、早く建物の中に入りたかった。
その時、反対側の道から誰かが歩いてきた。カップルではなく、一人だった。
すれ違い様に、その人物と目が合った。
色白の顔を覆うライトブラウンの髪に、目元に深みのある中性的な顔立ち。一瞬、長身の女性かと思ったが、
「あれっ、氷野さん?」
声を聞いて、同僚の水上蓮だと気がついた。彼は最近入った大学生のアルバイトだった。
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