If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ

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必守防衛圏

最後の水雷戦隊

一九四五年八月十四日の夜は、沖縄の海を深淵のような暗黒で包み込んでいた。
しかし、その暗闇は時折、遠く水平線の彼方で
明滅する火柱によって無残に切り裂かれた。
大和という巨大な精神的支柱を失った第二艦隊の生き残りたちは
今や高間完少将が指揮を執る
第十一水雷戦隊を中心に、死を覚悟した突入の陣を敷いていた。

昼戦において、日本艦隊はデヨ少将の戦艦部隊を壊滅させるという
空前絶後の戦果を挙げた。しかし、その代償はあまりにも大きく
かつての大艦隊の面影はどこにもなかった。
今、夜戦に向けて針路を西へと向けているのは、わずか十五隻の艦艇に過ぎない。

第六戦隊の重巡洋艦「加古」。第十戦隊からは軽巡洋艦「矢矧」と
第十七駆逐隊の「磯風」「雪風」「浜風」。
第五戦隊の重巡洋艦「妙高」「那智」。第八戦隊の重巡洋艦「利根」。
第四十一駆逐隊の「照月」「冬月」「涼月」。
そして第十一水雷戦隊の旗艦「大淀」と、軽巡洋艦「酒匂」、駆逐艦「宵月」「夏月」。

これが、帝国海軍が絞り出した最後の刃であった。

駆逐艦「涼月」の艦橋上部、射撃指揮所の中に位置する
四・五メートル測距儀の接眼レンズに目を押し当てているのは、舞門風兎中尉であった。
主砲測距員としての重責を担う彼は、レンズ越しに広がる暗動たる
海面を見つめながら、額に滲む汗を拭う暇もなかった。

「……舞門中尉、測距状況はどうだ。レンズが曇っていないか」

伝声管を通じて、砲術長の鋭い声が届いた。
舞門は視線をレンズに固定したまま、冷静に、しかし張り詰めた声で返した。

「問題ありません、砲術長。レンズの光軸修正は完了しています。
 夜間用遮光フィルターも、敵の探照灯を想定してセット済みです。
 ただ、この闇だ。水柱が見えなければ、いくら四・五メートルの基線長があっても
 第二観測員との立体視が一致しない。初弾で火災を起こしてくれることを祈るばかりです」

「贅沢を言うな。我々はレーダーの差を
 この肉眼とレンズの解像度で埋めるしかないんだ。
 秋月型の十センチ連装高角砲は、戦艦の装甲こそ抜けないが
 巡洋艦の非装甲部なら一分間に十九発の速射で蜂の巣にできる。
 お前の測る一メートルが、この涼月の命運を決めるんだぞ」

舞門は黙って頷いた。涼月の心臓部である十センチ高角砲
その六五口径の長砲身が、油圧の低い唸りを上げて獲物を探している。
九四式高射装置と連動したその射撃精度は、日本駆逐艦の中でも随一であったが
相手は最新鋭のレーダー射撃を行う米水雷戦隊である。

その時、旗艦「大淀」から全艦に向けて、一通の電文が発信された。
それは、高間少将が全乗員に対して送った、事実上の遺言であった。

「各艦へ。我、これより敵輸送船団およびその直衛部隊へ夜間突入を敢行す。
 本戦は我が国、そして帝国海軍の有終の美を飾る戦いなり。
 各員、死力を尽くして敵を撃滅せよ。なお、戦況苛烈を極め
 残存艦艇が五隻以下となった場合は、司令官の指示を待たず
 心苦しくも戦線を離脱し、佐世保へと帰投せよ。以上」

「五隻以下……か」

舞門は、レンズの向こう側の闇を睨みつけた。
十五隻のうち十隻が沈まなければ帰れない。
それは、生存よりも全滅を前提とした命令であった。
しかし、涼月の艦橋に悲壮感はなかった。
あるのは、かつての僚艦たちが眠るこの海を
敵の血で赤く染めてやるという執念だけだった。

「敵影発見!方位三一〇、距離一二〇〇〇!数
 多数!巡洋艦および駆逐艦の混成部隊と思われる!」

見張員の絶叫が、夜の静寂を打ち破った。

「戦闘開始!全門、照準合わせ!九三式酸素魚雷、発射用意!」

高間少将の号令とともに、暗黒の海に火蓋が切られた。

まず先陣を切ったのは、第十戦隊の「矢矧」と第十七駆逐隊であった。
彼らは昼戦での疲労も忘れたかのような見事な連携で
米軍の外郭部隊へと肉薄した。矢矧から放たれた酸素魚雷が
米重巡洋艦の舷側に突き刺さり、巨大な火柱が上がった。

「命中!敵巡洋艦に魚雷二本命中!」

舞門の測距儀にも、その輝きが鮮明に映し出された。 
「目標捕捉!方位三一〇、距離一〇五〇〇
 右同航!敵巡洋艦、火災により視認可能!」

「撃てッ!」

涼月の八門の十センチ砲が一斉に火を噴いた。一分間に百五十発を超える砲弾が
真っ赤な曳光弾となって夜空に弧を描き、敵の駆逐艦へと降り注いだ。
高初速の砲弾は、敵駆逐艦の薄い装甲を次々と貫通し
艦橋を、機関部を、そして魚雷発射管を粉砕していった。

しかし、米軍の反撃もまた、迅速かつ正確であった。
レーダーに誘導された六インチ砲弾、五インチ砲弾が
日本艦隊の陣形を正確に叩き始めた。

まず、第六戦隊の「加古」が、集中砲火を浴びて炎上した。
 「加古、被弾多数!一番、二番砲塔沈黙、大火災発生!」 
古色蒼然たるその艦体は、最新のレーダー射撃には耐えられなかった。
加古は最後の魚雷を放った後、巨大な爆発とともに暗海へと消えていった。

続いて、第五戦隊の「那智」にも災厄が訪れた。
敵駆逐艦隊の雷撃が那智の側面に突き刺さり、巨体が大きく傾斜した。
 「那智、魚雷命中!傾斜増大、復旧見込みなし!」 
那智の甲板からは、兵士たちがなおも機銃を撃ち続けていたが
やがて彼女もまた、沖縄の海へと帰っていった。

「舞門、右舷側だ!敵の増援が来るぞ!」 
砲術長の叫びに舞門は測距儀を力任せに旋回させた。
 「方位二〇〇、距離八〇〇〇!重巡洋艦級二隻接近!
 測距開始……合致!距離七八〇〇、敵速二八ノット!」

「主砲、転射!目標、右舷の重巡!弾種半徹甲装填!」

涼月の砲弾が、米重巡洋艦「ニューオーリンズ」級の甲板で炸裂し
その上部構造物をなぎ倒した。しかし、その背後から現れた
別の重巡洋艦が、涼月の僚艦「宵月」を捉えた。

宵月は、艦首を失いながらも敵に突撃しようとしたが
さらなる直撃弾を受けて爆沈。
同じ十一水戦の「夏月」も、浸水によって速力が
低下したところを狙われ、海面にその姿を消した。

「酒匂も、大淀も……やられているのか」

舞門の接眼レンズ越しに、旗艦「大淀」が激しく燃えているのが見えた。
高間少将の乗る艦橋付近には、絶え間なく砲弾が着弾している。

「大淀より信号……
 『我、指揮不能。各艦、加賀山大佐の指揮下に入れ』……高間司令官……!」

その直後、大淀の艦橋は巨大な爆風に包まれ、その通信は途絶えた。
第十一水雷戦隊司令官、高間完少将は
その最期の瞬間まで指揮を執り続け、艦とともに没した。

戦場は、もはや統制を失った乱戦の極致にあった。 
「矢矧」は、敵駆逐艦三隻を道連れにしながら沈没。
「磯風」と「浜風」も、互いを守るようにして敵陣へ突入し、その短い一生を終えた。

残る日本艦艇は、刻一刻と数を減らしていった。 
第八戦隊の「利根」は、三番砲塔を失いながらも
その四つの二〇・三センチ砲で敵重巡洋艦一隻を撃沈した。
しかし、自身もまた無数の砲弾を浴び、最後は敵の雷撃によって力尽きた。

「第四十一駆逐隊、涼月以外は……」

舞門の声が震えた。彼の目の前で、「照月」が火薬庫の誘爆により一瞬で消え去り
「冬月」もまた、艦中央部を真っ二つに折られて沈んでいった。

この地獄のような戦いの中で、唯一、悪魔的なまでの生存能力を発揮していたのが
「雪風」であった。彼女は敵の弾幕をすり抜けるようにして
魚雷を放ち、砲弾を浴びせ、次々と敵を海に沈めていった。
彼女には敵弾が当たらない 否、敵弾が避けていく

そして、重巡洋艦「妙高」。 加賀山大佐は、高間少将の戦死を受け
代理指揮官としてこの壊滅的な艦隊の指揮を執ることとなった。 
「残存艦艇、状況を知らせ!我らに残された手札はどれだけだ!」

「……妙高、雪風、涼月。以上三隻のみと思われます!
 残る艦はすべて沈没、あるいは航行不能です!」

加賀山大佐は、その報告を聞き、一瞬だけ目を閉じた。 
「五隻以下……か。高間司令官、あなたの命令は、あまりにも重い」

しかし、その時、予想だにしない事態が起きていた。
 誰が放ったのか、あるいは沈みゆく駆逐艦が放った最後の意地か。
暗闇の中を疾走していた一本の九三式酸素魚雷が、偶然にも
戦域から離脱しようとしていた
米高速戦艦「ニュージャージー」の右舷後部に突き刺さったのである。

「ニュージャージー、被弾!巨大な水柱を確認!」 
涼月の見張員が叫んだ。 その一撃は、ニュージャージーの
四つのエンジンのうち二つを粉砕し、三三ノットを誇ったその俊足を一瞬で奪った。
彼女は右へと大きく回頭し、撤収作業を中断して立ち往生するという
米軍にとっては屈辱的な損害を被ったのである。

「よし……一矢報いたな」 
舞門は、測距儀から目を離し、周囲の海面を見た。 
あちこちで、重油の燃える臭いと、鉄の焼ける臭いが漂っている。
数時間前まで、十五隻いた仲間たちは、今や三隻しか残っていない。

日本側の報告によれば、この夜戦での撃沈数は
重巡三、駆逐艦七。撃破重巡三、駆逐三。 しかし、後年の調査によれば
実際の米軍の被害は、重巡四隻が沈没、駆逐艦六隻が沈没。
そして、戦艦ニュージャージーへの深手。それは、数的劣勢にある日本艦隊が成し遂げた
奇跡に近い大戦果であった。

「加賀山大佐より、全艦へ……
 『これより戦線を離脱し、佐世保へ向かう。雪風、涼月は妙高の左右を護衛せよ』」
 「……帰れるんだ。俺たちは」

舞門の体から、一気に力が抜けた。 涼月の主砲塔は
砲身が焼け、塗料が剥げ落ち、無数の弾痕が刻まれていた。 
舞門は、狭い指揮所を出て、夜風を浴びた。沖縄の海は
先ほどまでの激戦が嘘のように、再び静まり返ろうとしていた。

「舞門中尉、生きていたか」 砲術長が、煤だらけの顔で梯子を登ってきた。
 「はい……どうにか。しかし、みんな、いなくなってしまいました」

砲術長は、遠く沈んでいった仲間たちの海を見つめ、静かに答えた。
 「彼らがいたから、俺たちがいる。妙高も、雪風も、この涼月も
 彼らの命を繋いで佐世保に帰るんだ。それが、生き残った者の義務だ」

残された三隻は、夜の闇に紛れながら、全速力で北へと進路を取った。 
米軍の追撃を恐れ、レーダーを最大限に警戒し、無線を封鎖した、孤独な航海。

妙高は艦首を損傷し、雪風もまた上部構造物に軽微な被害を受けていた。
涼月は一番、二番砲塔が使用不能となり、艦内には多くの負傷兵が収容されていた。
しかし、三隻の機関は、力強く脈動を続けていた。

夜が明け、東の空が白み始めた頃、三隻の前に見慣れた九州の山々が見えてきた。 
舞門は、甲板に立って、その景色を眺めた。 数日前にこの地を後にしたとき
自分たちは、二度とこの景色を見ることはないだろうと思っていた。

佐世保の軍港に入港する三隻の姿は、あまりにも悲惨であり
同時にあまりにも神々しかった。 岸壁にいた将兵たちは
傷だらけになりながらも帰還した三隻に対し、無言で、しかし力強い敬礼を捧げた。

舞門は、涼月の甲板から、静かに佐世保の土を踏んだ。
 大和が沈み、沖縄が燃え、多くの仲間たちが散っていったこの
一週間の出来事が、まるで遠い昔のことのように感じられた。

日本海軍が誇った最後の水雷戦隊は、ここに解散した。 
しかし、彼らが沖縄の海に刻んだ戦い、その執念と誇りは、決して消えることはない。

舞門は、自分たちが守り抜いたこの国の空を見上げた。 
そこには、ただ青く、静かな秋の空が広がっていた。
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