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第六章
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個室に男女が二人きり。法的には夫婦の二人が互いに近づき触れあうことを誰に遠慮する必要もない。
邸には大勢の人が働いているが、主夫婦が二人きりで書斎で過ごすことを邪魔するような使用人はいない。
万が一誰かが現れても誰にも咎められることはない。
それに男の方も女性が心の底から嫌がって抵抗すれば無理矢理何かするような人ではない……多分。
つまりはこの状況を何とかするのは、私の態度ひとつだ。
背が高くがっしりとした夫の体と本棚に挟まれてはいても、本気で拒絶すれば彼は何もしないだろう。
本棚を背にして立つ私の前に立ち塞がる彼のシャツの隙間から彼が話すたび、息をするたびに上下する胸板が垣間見え、どうしてもそこに視線が行ってしまう。
これじゃあ、私の方が痴女みたいだ。
「わかりました。始めから怒ってはおりません。泣いたのは私の方に問題があるだけで、ルイスレーン様のせいではありませんから、どうかお気になさらないでください」
話を打ち切りたくて投げ捨てるように言った。
これ以上ここにいたら私がどうにかなってしまいそうだ。
触れる彼の胸の開けたシャツの隙間に指が当たりじんわりと熱が伝わる。早く手を離さないとと思うのに吸い付いたように放れない。
「なぜ泣いたのか、話してはくれないのか」
罪悪感を少しでも軽くしようと言った言葉だったが、逆にそこを突っ込まれてしまった。
「あ…………あの……」
緑とオレンジの瞳が覗き込む。
まるで魔法にかかったみたいに硬直する。
二度と政略結婚はごめんだと思った。
でも、彼は前の夫とは違う。
この先彼の気持ちがどうなるかわからないが、少なくとも今、彼は私の話に耳を傾け私の気持ちに寄り添ってくれている。
後で後悔するなら、今は彼のことを信じてみる?
「す、座ってお話しませんか?た、立ち話もなんですし」
とりあえずこの密着度を何とかしなければ。
「そうだな。他にも話があるし、座って話そう」
彼が胸に当てていた私の手を持ち上げ、片方を繋いだまま長椅子まで連れていかれた。
私を先に座らせ向かいに座ると思っていた彼が私のすぐ隣に腰を下ろしたので驚いた。
「あなたを呼んだのは、これを見せたかったからだ」
目の前の机に置かれた百科辞典くらいの厚さの本を指差す。
「これは?」
「この国の貴族名鑑だ。今日の宴では多くの貴族が集う。地方の者もいるので、ここに書かれた全てではないし、侯爵家の我が家から上位にある貴族の名前だけでも覚えていた方がいい」
そう言って彼が本を開くと広辞苑ばりの大きさの字で書かれそれぞれの紋章が記されたページが見えた。
よく見れば何枚か栞が挟まれていて、最初に彼が開いたのはリンドバルグ家のところだった。
月桂樹と鹿の家紋と共にリンドバルグ家の創設時の経緯が記されている。
「王室の歴史についてはフォルトナー先生から教授してもらっているのだろう?貴族については?」
「いえ、そこまでは……」
「我が家は建国から五十年後、もともと軍属だった祖先が功績を上げて男爵から昇りつめた侯爵家だ」
今は建国五百年。現在の陛下は第七十代目になる。それでも侯爵家は四百五十年の歴史があるということだ。
「我が家のように後から侯爵家を拝命したのとは違い、建国当初から侯爵の爵位を持っている方々を筆頭侯爵家と言い、現在は五家存在する。オリヴァー殿下……第二皇子の奥方であるイヴァンジェリン様はこの中でも最も力のあるマルセラ侯爵家のご令嬢だ。イヴァンジェリン様には茶会でお会いしたね」
「はい」
「王族の方を除いて、覚えておくのは今日のところはこの筆頭侯爵家の名前と我が家と同列の侯爵家、十家の名前だけでいい」
だけでって、十分多いです。とは言えなかった。横文字は覚えにくいんだよね。
マルセラ侯爵家
カレンデュラ侯爵家
ウェリゲントン侯爵家
オーレンス侯爵家
ルクレンティオ侯爵家
これらが筆頭侯爵家
ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
途中メイドがお茶を運んできて一度休憩をいれた。
「後は……あなたの生家、モンドリオール子爵か……さすがに自分の叔父を知らないとは言えないだろう」
そう言って後ろの方のページを開く。
木の実を持ったリスが横を向いている紋章が目にはいった。
それを見た時、なぜかどきっと心臓が跳ねた。
邸には大勢の人が働いているが、主夫婦が二人きりで書斎で過ごすことを邪魔するような使用人はいない。
万が一誰かが現れても誰にも咎められることはない。
それに男の方も女性が心の底から嫌がって抵抗すれば無理矢理何かするような人ではない……多分。
つまりはこの状況を何とかするのは、私の態度ひとつだ。
背が高くがっしりとした夫の体と本棚に挟まれてはいても、本気で拒絶すれば彼は何もしないだろう。
本棚を背にして立つ私の前に立ち塞がる彼のシャツの隙間から彼が話すたび、息をするたびに上下する胸板が垣間見え、どうしてもそこに視線が行ってしまう。
これじゃあ、私の方が痴女みたいだ。
「わかりました。始めから怒ってはおりません。泣いたのは私の方に問題があるだけで、ルイスレーン様のせいではありませんから、どうかお気になさらないでください」
話を打ち切りたくて投げ捨てるように言った。
これ以上ここにいたら私がどうにかなってしまいそうだ。
触れる彼の胸の開けたシャツの隙間に指が当たりじんわりと熱が伝わる。早く手を離さないとと思うのに吸い付いたように放れない。
「なぜ泣いたのか、話してはくれないのか」
罪悪感を少しでも軽くしようと言った言葉だったが、逆にそこを突っ込まれてしまった。
「あ…………あの……」
緑とオレンジの瞳が覗き込む。
まるで魔法にかかったみたいに硬直する。
二度と政略結婚はごめんだと思った。
でも、彼は前の夫とは違う。
この先彼の気持ちがどうなるかわからないが、少なくとも今、彼は私の話に耳を傾け私の気持ちに寄り添ってくれている。
後で後悔するなら、今は彼のことを信じてみる?
「す、座ってお話しませんか?た、立ち話もなんですし」
とりあえずこの密着度を何とかしなければ。
「そうだな。他にも話があるし、座って話そう」
彼が胸に当てていた私の手を持ち上げ、片方を繋いだまま長椅子まで連れていかれた。
私を先に座らせ向かいに座ると思っていた彼が私のすぐ隣に腰を下ろしたので驚いた。
「あなたを呼んだのは、これを見せたかったからだ」
目の前の机に置かれた百科辞典くらいの厚さの本を指差す。
「これは?」
「この国の貴族名鑑だ。今日の宴では多くの貴族が集う。地方の者もいるので、ここに書かれた全てではないし、侯爵家の我が家から上位にある貴族の名前だけでも覚えていた方がいい」
そう言って彼が本を開くと広辞苑ばりの大きさの字で書かれそれぞれの紋章が記されたページが見えた。
よく見れば何枚か栞が挟まれていて、最初に彼が開いたのはリンドバルグ家のところだった。
月桂樹と鹿の家紋と共にリンドバルグ家の創設時の経緯が記されている。
「王室の歴史についてはフォルトナー先生から教授してもらっているのだろう?貴族については?」
「いえ、そこまでは……」
「我が家は建国から五十年後、もともと軍属だった祖先が功績を上げて男爵から昇りつめた侯爵家だ」
今は建国五百年。現在の陛下は第七十代目になる。それでも侯爵家は四百五十年の歴史があるということだ。
「我が家のように後から侯爵家を拝命したのとは違い、建国当初から侯爵の爵位を持っている方々を筆頭侯爵家と言い、現在は五家存在する。オリヴァー殿下……第二皇子の奥方であるイヴァンジェリン様はこの中でも最も力のあるマルセラ侯爵家のご令嬢だ。イヴァンジェリン様には茶会でお会いしたね」
「はい」
「王族の方を除いて、覚えておくのは今日のところはこの筆頭侯爵家の名前と我が家と同列の侯爵家、十家の名前だけでいい」
だけでって、十分多いです。とは言えなかった。横文字は覚えにくいんだよね。
マルセラ侯爵家
カレンデュラ侯爵家
ウェリゲントン侯爵家
オーレンス侯爵家
ルクレンティオ侯爵家
これらが筆頭侯爵家
ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
途中メイドがお茶を運んできて一度休憩をいれた。
「後は……あなたの生家、モンドリオール子爵か……さすがに自分の叔父を知らないとは言えないだろう」
そう言って後ろの方のページを開く。
木の実を持ったリスが横を向いている紋章が目にはいった。
それを見た時、なぜかどきっと心臓が跳ねた。
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