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俺は逃げた女の背中を、呆然と見送った。
常なら逃げる獲物を見逃すことなどない。
そもそも逃げる隙など、与えない。
一度捕らえたら、相手が死ぬか気が削ぎれて放逐するか、とにかく相手に生き延びるという選択肢はない。
しかしこの時ばかりは違った。
自分の体に起こった事柄に、生まれて初めて戸惑っていた。
「熾」
「お側に」
名を呼ぶと、腹心の部下である熾がすぐに現れた。
「彼女が何者か、すぐに調べて来い」
すぐ横にさっと跪いた熾の方を振り返らず指示を出す。
「御意」
熾は「なぜ」とも聞かず、現れた時と同じように瞬時にいなくなった。
俺が指示することや俺の行動に、理由を聞く者は周りにはいない。
質問するのは愚か者のすることだ。
訊き返したり、口答えしたりして瞬時に消し去った者は数しれずいる。
熾が消え去り、伸ばした右手の人差し指の爪を見下ろす。
そこに彼女の血はもう残っていないが、まだ香りは僅かに漂っている。
爪を鼻に近づけ、その香りを思い切り吸い込む。
すると先程よりは弱いが、またもや恍惚感が訪れ、力が漲ってきた。
「聖なる血……」
かつて大勢存在していたそう呼ばれる血を持つ人間も、今では絶滅の危機に面していた。
その原因は、食生活の変化や空気汚染やストレスなどと言われている。
化学肥料を使って栽培された食物。配合された食品添加物。濁った空気。
医学の発展により人間の寿命は延びたが、人間のために処方された薬は、血に溶け込みその味を変えた。
かつて芳醇な香りを放ち、自分たち吸血鬼を虜にした血は、科学変化を起こし、すっかり味が変わっていた。
吸血鬼に取って血は必要なものだが、それだけで生きているわけではない。
普段は人と同じ食べ物も口にする。
血は最低週に一度、コップ一杯飲めば吸血鬼としての力を維持することが出来る。
吸血鬼が首筋を噛んで生き血を吸うのは、勝手な人間の想像だ。
ろくな道具もなかった時代ではそんなこともしていたが、直接噛んで摂取するなど野蛮な所業だ。
今は器械で血を取る。もちろん血を大量に失わせて、死なせるようなこともしない。
備わった力を使って相手を意識混濁させ、その間に血を奪う。血を奪われた人間はその間の記憶もなく、血を抜いた傷も虫刺されとしか思わせない。
そうして奪った血液をストックし、精製したものを飲む。
仲間の中には精製前の採取したての血を好む者もいるが、あんなものはとても飲めたものではない。
吸血鬼には二通りいる。
生まれながらの吸血鬼と、途中から吸血鬼になったもの。
生まれながらの吸血鬼とは、両方か、片方の親が純粋な吸血鬼だ。吸血鬼の遺伝子は強く、人の遺伝子を凌駕する。
両親の両方、またはどちらかが吸血鬼なら、確実に吸血鬼が生まれる。
しかし吸血鬼の出産率はパンダ並に低く、なかなか妊娠には至らない。
吸血鬼同士の子は尚更だ。
だが、そうして生まれた吸血鬼は強い。
途中から吸血鬼になった者とは、意図的にしろ偶然にしろ、吸血鬼の血を飲んだことで、吸血鬼になった者のことだ。
しかし必ずしも全員がそうなるわけではない。吸血鬼の血は飲んだ者の体に侵食し、それに耐えられない者は苦痛に悶え死ぬ。耐え抜いた者だけが吸血鬼になるのだ。
俺は両親ともに吸血鬼だった。
生まれながらに強い力を持ち、吸血鬼一族の中でも高位に位置する。
だが、純血である故に、欠点があった。
人でいうところの偏食。
普通の食べ物でも添加物が入った物が苦手で、オーガニックな食材でないと食べられない。
有機農法で作った野菜。自然な環境で育った家畜。調味料も特別に作られたものや、手作りのものでなければ口に合わなかった。
しかし、どんなに高価でもそれは手に入れることができる。
なんなら自分専用の農場や牧場だって作れる。
しかし問題は血だった。
吸血鬼としての力を維持するには、最低限の血は必要だ。
だが、この偏食のため生血など言語道断で、精製された血は、元の素材も厳選され、徹底して不純物を取り除いたものでなければ受け付けない。
なのに、今夜、いつものように夜の街を眺めていた時、突然芳しく甘い香りが鼻孔を擽った。
強烈なその香りを辿りやってくると、そこに彼女がいた。
常なら逃げる獲物を見逃すことなどない。
そもそも逃げる隙など、与えない。
一度捕らえたら、相手が死ぬか気が削ぎれて放逐するか、とにかく相手に生き延びるという選択肢はない。
しかしこの時ばかりは違った。
自分の体に起こった事柄に、生まれて初めて戸惑っていた。
「熾」
「お側に」
名を呼ぶと、腹心の部下である熾がすぐに現れた。
「彼女が何者か、すぐに調べて来い」
すぐ横にさっと跪いた熾の方を振り返らず指示を出す。
「御意」
熾は「なぜ」とも聞かず、現れた時と同じように瞬時にいなくなった。
俺が指示することや俺の行動に、理由を聞く者は周りにはいない。
質問するのは愚か者のすることだ。
訊き返したり、口答えしたりして瞬時に消し去った者は数しれずいる。
熾が消え去り、伸ばした右手の人差し指の爪を見下ろす。
そこに彼女の血はもう残っていないが、まだ香りは僅かに漂っている。
爪を鼻に近づけ、その香りを思い切り吸い込む。
すると先程よりは弱いが、またもや恍惚感が訪れ、力が漲ってきた。
「聖なる血……」
かつて大勢存在していたそう呼ばれる血を持つ人間も、今では絶滅の危機に面していた。
その原因は、食生活の変化や空気汚染やストレスなどと言われている。
化学肥料を使って栽培された食物。配合された食品添加物。濁った空気。
医学の発展により人間の寿命は延びたが、人間のために処方された薬は、血に溶け込みその味を変えた。
かつて芳醇な香りを放ち、自分たち吸血鬼を虜にした血は、科学変化を起こし、すっかり味が変わっていた。
吸血鬼に取って血は必要なものだが、それだけで生きているわけではない。
普段は人と同じ食べ物も口にする。
血は最低週に一度、コップ一杯飲めば吸血鬼としての力を維持することが出来る。
吸血鬼が首筋を噛んで生き血を吸うのは、勝手な人間の想像だ。
ろくな道具もなかった時代ではそんなこともしていたが、直接噛んで摂取するなど野蛮な所業だ。
今は器械で血を取る。もちろん血を大量に失わせて、死なせるようなこともしない。
備わった力を使って相手を意識混濁させ、その間に血を奪う。血を奪われた人間はその間の記憶もなく、血を抜いた傷も虫刺されとしか思わせない。
そうして奪った血液をストックし、精製したものを飲む。
仲間の中には精製前の採取したての血を好む者もいるが、あんなものはとても飲めたものではない。
吸血鬼には二通りいる。
生まれながらの吸血鬼と、途中から吸血鬼になったもの。
生まれながらの吸血鬼とは、両方か、片方の親が純粋な吸血鬼だ。吸血鬼の遺伝子は強く、人の遺伝子を凌駕する。
両親の両方、またはどちらかが吸血鬼なら、確実に吸血鬼が生まれる。
しかし吸血鬼の出産率はパンダ並に低く、なかなか妊娠には至らない。
吸血鬼同士の子は尚更だ。
だが、そうして生まれた吸血鬼は強い。
途中から吸血鬼になった者とは、意図的にしろ偶然にしろ、吸血鬼の血を飲んだことで、吸血鬼になった者のことだ。
しかし必ずしも全員がそうなるわけではない。吸血鬼の血は飲んだ者の体に侵食し、それに耐えられない者は苦痛に悶え死ぬ。耐え抜いた者だけが吸血鬼になるのだ。
俺は両親ともに吸血鬼だった。
生まれながらに強い力を持ち、吸血鬼一族の中でも高位に位置する。
だが、純血である故に、欠点があった。
人でいうところの偏食。
普通の食べ物でも添加物が入った物が苦手で、オーガニックな食材でないと食べられない。
有機農法で作った野菜。自然な環境で育った家畜。調味料も特別に作られたものや、手作りのものでなければ口に合わなかった。
しかし、どんなに高価でもそれは手に入れることができる。
なんなら自分専用の農場や牧場だって作れる。
しかし問題は血だった。
吸血鬼としての力を維持するには、最低限の血は必要だ。
だが、この偏食のため生血など言語道断で、精製された血は、元の素材も厳選され、徹底して不純物を取り除いたものでなければ受け付けない。
なのに、今夜、いつものように夜の街を眺めていた時、突然芳しく甘い香りが鼻孔を擽った。
強烈なその香りを辿りやってくると、そこに彼女がいた。
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