上 下
58 / 61

58 揺れる心

しおりを挟む
「和音がつくってくれるものなら何でもいい」
「それ、一番困る言い方よ」

毎日の献立に悩む主婦にとって、家族からの何でもいいは、一番困る答えだと聞いたことがある。
まさか自分もそう言われることになる日が来るとは思わなかった。

「そうか。でも、本当に何でもいい。和音が私のために用意してくれたものなら」

燕のその言葉は、本当に本心なのだろう。
卵を茹でただけでも喜んでくれそうだ。

「砂糖と塩を間違えても美味しいって言いそうね」

たとえ失敗したとしても、燕なら何も言わず逆にこれ以上はないくらいに褒めてくれそうだ。

「そういう間違いをしたと、落ち込む和音を見るのも楽しいな。それもまた思い出だ」

燕がそう言って期待を込めた眼差しで見つめてくる。

「とにかく、考えておいてください。何でもという答えは駄目ですから」
「わかった。考えておくよ。ご馳走さま」

食べ始める時と同じように手を合わせ食事を終えた。

「和音、すまない、少し席を外す」
「え、ええ」

食事処から戻り部屋の前までくると、燕が言った。

「直ぐに戻る」
「わかったわ」
「それと、部屋に客がいるから」
「お客様?」

誰だろうと立ち去る燕の背中を見てから、和音は部屋に入った。

「和音様」
「さ、坂口さん」
「和音様」

部屋には桃田と坂口がいた。

「ご無事で良かったです」

駆け寄ってきて坂口が和音の手を握った。

「坂口さん、心配かけてごめんなさい」
「いいえ、すみません、和音様をお守りできなくて」
「あなたのせいじゃないわ」
「実は私、和音様が面会されているのを待っている間、飲んでくださいと渡されたコーヒーを飲んで、眠らされていたんです」

そして気がつくと手足を縛られ、閉じ込められていたらしい。

「気がつくと駐車場に停めてあった車のトランクにいて、丸一昼夜経って発見されました」
 
発見された時、軽い脱水症状だったのと、クラッシュ症候群を防ぐために数日入院していたということだった。

「そんな、ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
「和音様こそ、大変だったと伺いました」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。子供も元気みたいだし」
「何の御役にも立てず、申し訳ございませんでした」
「謝らないで、坂口さんが悪いわけじゃないもの」
「和音様、坂田は今回のことに責任を感じて、専属を辞めると申しております」
「え、な、なんで?」
「それは、私は和音様をお守り出来ず…」
「そうじゃなくて、責任って、坂田さんは悪くないでしょ」

和音の巻き添えで縛られてトランクに放り込まれて、怖くなったのならわかるが、責任を感じるというのはおかしい。

「実は、私と坂田は医者で看護師ですが、それなりに武芸も嗜んでおりまして、護衛も兼ねていたのです」
「え、そうなの?」

和音が聞き返すと、彼女は黙って頷いた。

「言うなれば衛生兵とでも申しましょうか、そういう経歴もあって雇われたのですが、まったく役に立ちませんでした。ですので…」
「あなたは、もう懲り懲りだから辞めたいの?」
「い、いえ、そういうわけでは」
「なら、最後まで職務を全うしてください。桃田さんも、異存はありませんね」
「もちろんです」
「ですが、燕様が何とおっしゃるか…」
「和音がいいなら、私は構わない」
「燕」

いつの間にか戻ってきていた燕が、話に入ってきた。

「燕様、この度は」
「ああ、いい。こちらこそ、悪いことをした。体はもう大丈夫なのか」
「はい、お陰様で、私は何も…燕様にまでご迷惑をおかけし、お子様と和音様が何事もなかったとお聞きし、ほっとしております」
「私も油断していた部分がある。君だけを責められない。一番の被害者である和音が許すなら、私に権限はない」

燕が和音の肩に手を置いて、そうだなと確認する。
和音もそれでいいと言う意味で頷いた。

「あ、ありがとうございます。今後とも精一杯勤めさせていただきます」
「私も坂田共々更に励みます」
「よろしくお願いします」

桃田たちはその流れで和音の診察を終え、引き上げていった。
和音たちも明日には東京に戻るということになり、明日また一緒に行動する約束をした。

「和音、少しいいだろうか?」

二人きりになり、燕が深刻な表情で話しかけた。

「はい」
「明日東京に戻り、それからバミューダへ帰るつもりだ。今回のことを考えて、しばらくはそこから和音を出してあげることはできなくなる」
「父のことですか?」
「そうだ。今回『ホワイトブラッド』に城咲尊が利用された。また同じことが起こるとも限らない。だから…」
「父とは縁を切ります」
「それでいいのか? 確かに君と父上の関係は良好ではない。でも、君には唯一の肉親だ。異母兄弟のこともある。後で君に後悔してほしくないんだ」

改めてそう尋ねられると、和音も自信がなかった。
とっくに他人だと思っていても、会いたいと言われれば、それに応えてしまう。
自分のそんな優柔不断さが今回の騒動を招いたのだ。

「君が望む通り最後まで付き合うよ」

そんな和音の揺れる心を、燕は優しく受け止めてくれた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

悪役令息の義姉となりました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:21,066pt お気に入り:1,518

婚約破棄?私には既に夫がいますが?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:11,239pt お気に入り:847

その愛を受け入れて…

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:41

初恋の王女殿下が帰って来たからと、離婚を告げられました。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:71,423pt お気に入り:6,908

寂しいきみは優しい悪魔の腕でまどろむ

BL / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:467

どうやら、我慢する必要はなかったみたいです。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:79,386pt お気に入り:3,879

処理中です...