個の孤独を謳うということ

天之奏詩(そらのかなた)

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ep.1

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 目を刺すような日差しがグラウンドを焼き付ける八月の放課後。色々な音が混ざり濁って籠るみたいに反響している部屋の中で、俺の聴覚は敏感だった。運動部の掛け声、吹奏楽部のトランペット――そんな遠くの音は柔らかく、エアコンの唸り声、時計の秒針――そういう間近な音は硬く、それぞれ鼓膜に触れてくる。
 つまり、沈黙。
 時折、俺が小説の頁を捲る音が差し込むのが、まるでシーンを区切っているみたいだと思える。映像作品における瞬きよりも短い一瞬の暗転、漫画におけるコマ割り、小説においては段落。この部屋を一続きに飽和する不協和音を敢えて区切るように、独立してその音は存在していた。薄い紙が撓りながら擦れる音、すなわちその独特な音程がまるで円をなぞるみたいに変化するのは、妙に楽器的な響きで、人工物のような、まさしく人の動きを形容したものに見える。いや、聞こえる。
 したがって、大袈裟な沈黙。
 集中力に欠いていた。まるで気を逸らすための行為としての読書。目で追った文字は脳で処理されることなく視界を素通りしていく。頭の中で誰かが朗読を始めそうな気配も感じられず、既にどれだけのページを無駄にしたことだろうか。
 それもこれも、気まずさのせいである。第三校舎の最上階、西の角、グラウンド側に位置するここ文芸部の部室で息を潜めていたのは俺だけではなかった。その少女、東雲海莉はここにおいて、沈黙の重大な原因をつくり出していた。
「ずっと読んでいるんだね」
 その声に俺は直ぐには答えなかった。顔も上げないようにして、まるで読書に没頭していてお前の声など一切、聞こえていないのだというでもいうように俺は必死になって文字を追う。首筋にはじんわり汗が滲んだ。
 今日、部室に入ったばかりのときはこうじゃなかった。俺はのめり込むように読書に励み、文字を貪り文章を消化した。そして世界を創造するエネルギーへと昇華した。が、東雲海莉が部室に入ってきてからというもの、どうだ。かれこれもう二〇分ほど感じている視線は強烈なもので、小説に向けられた俺の意識をそこから引き剥がすのには十分すぎた。そういうわけで、俺の聴覚は敏感にさせられていたのだ。
「ねぇ、ねぇってば」
 一度口を開いてから、東雲海莉は鎖を外したようにおしゃべりになった。飽きないのかとか、もしもし、聞いているのかとか、今日どれくらい読んでるのかとか、同じようなことを何度も繰り返す。彼女が諦めるまで無視してやってもよかった。しかしながら、これ以上、意識的に沈黙を続けてるのもそれはそれで精神衛生上よくないのは確かで、俺はとうとう、露骨な溜息を見せつけた後、小説に栞を挟んで手元に伏せる。
「ずっとじゃない。高校生なんだ、一日の時間を全部読書に割ける程暇じゃねえよ」
 そう言ってようやく目を合わせてやると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
 西陽を受けて茶色く透けた細い髪は肩のところで綺麗に切り揃えられていて、雪のように白い肌と、うっとりするほどに調和している。二重で大きすぎない目。口紅を塗ったみたいに淡く艶のある唇は微笑んでいて、それはどこか悪戯っぽくも見えた。
「でも、私の前ではいつも読んでるじゃないか」
「俺が読んでるときにお前が来るんだよ、いつだってお前に合わせて読んだことがあるか」
 互いに言葉を交わすと、彼女は俺を放って笑い出す。「あはは」と笑う姿は普段の男勝りな口調とは打って変わって可愛らしくいて、存外胸をくすぐられた。そこは、以前の彼女とまるで変わっていないのだ。
 そうか、そうか。と織り交ぜながら笑い終わると、彼女は再び俺と向き合って話を続ける。
「それでもね、櫻木クン。私はね、櫻木クンが私と仲良くしてくれることには感謝しているんだ。教室ではなんだか変な視線を感じるし、突然投げ込まれた環境で過ごすのは居心地が良いものではない。以前まで君の恋人だったという少女が自分のことだなんて認識は、勿論持てないしね」
「お前と海莉は違う、この先も間違った認識を持つなよ。俺に――何より彼女に失礼だ」
 俺は冷淡に吐き捨てる。
 教室で彼女に向けられる視線を思えば同情する節が全く無いとは言えない。だが、恋人関係を築いた海莉と今目の前に居る彼女とは、見かけこそ同じでも、その人格は全くの別人だ。彼女がもし本心から「東雲海莉」を名乗ったら、俺は猛烈な不快感を覚え、怒りに人格を変貌させるに違いない。
「世知辛いね」
 彼女は嘆息してゆっくり言うと、椅子の背凭れに体重を預け、窓の外で汗を流す運動部員たちへと視線を投げた。バットがボールを殴る鈍い音が響く。「お、ホームラン」と彼女は呟いた。
 その横顔をぼんやりと見つめる。
 ついこの間まで、東雲海莉は俺の恋人だった。しかしながら、彼女から別れを告げられたとかこちらから話を切り出したとかではなしに、その関係は唐突に打ち切られる。
 一ヶ月前、七月半ばの放課後のことだった。放課後、二人で部室へと足を運ぶ最中、海莉は意識障害を起こして廊下に倒れた。病院に搬送されて一通りの検査が済むと、医者からはすぐに突発性の不整脈と告げられた。続けて言うには、不整脈はストレスや睡眠不足、過労などから誘発されることもあるが、検査した中で今のところ特に異常は見つからなかったから、少しすれば目を覚ますだろうとのことだった。しかしその晩、海莉は目を覚まさなかった。
 海莉が目を覚ますまでの間、俺はひたすらここ最近の彼女の様子を思い返していた。何か塞ぎ込んでいる感じは無かったか、夜はきちんと眠れているようだったか。幸い頭に浮かぶのは太陽の香りがする爽やかな笑顔ばかりで、そもそも彼女が俺に何か隠し事ができるわけがないのだと思い出す。そう、彼女は嘘をつくのがとても下手だった。
 海莉が目を覚ましたのは翌日の昼過ぎのことだった。ゆっくりと目を開けた彼女の顔を見てほっと胸を撫で下したあの瞬間の安堵は今も鮮明に思い出せる。そして、直後に心が凍った感覚も。
「――キミは、誰かな」
 夏の暑さは一気に遠退き、背筋が冷えた。目の前の少女の落ち着いた声は俺を酷く怯えさせた。一瞬、海莉の悪ふざけかと疑って頬が緩みかけたりもしたが、彼女がユーモアに富んだ人物でないことを俺はよく知っていて、だから、そこにいるのが以前までの彼女でないことは容易に察しがついた。それから目の前に繰り広げられた現実を瞬時に理解できたか、それとも少し時間を要したかよく思い出せないが、頭から分泌された何かが心臓の弦を弾いたようにスイッチが切り替わったのを感じた。
 彼女が記憶喪失になってしまったことを、受け入れてしまえた。
 俺がぼーっと呆けている間彼女は何度か質問を繰り返していたが、その言動に何だかよく分からない違和感を抱いたのは確かだった。言うなれば、そう、その日から、まるで言葉と感情を後付けしたみたいな空虚な存在が海莉の身体を操り始めたように感じた。
 二日後には、彼女は学校に復帰した。以前の東雲海莉について色々と事情は聞いたらしく、俺の前にも姿を現した。今度は目覚めたときのような虚ろな目ではなく、まるで物事に無頓着な気楽な表情だった。気さくに話しかけてくる様子から、物怖じしない彼女の新しい性格が見て取れた。
 東雲海莉という、新しい存在。ただ少しの喪失感を連れて、彼女は俺の前に再び帰ってきた。
 それからの俺は、デカルトの二元論を強く意識しているに違いない。何だか自分自身の感覚すら朧気だった。ただただ、彼の言った通りココロとモノとはそれぞれ別に存在しているのだと、目の前の現実をぼんやりと捉えていた。そう思えば、以前の海莉がまだココロの状態で傍にいるような気がした。
「ねぇ櫻木クン」
 机に肘をついて窓の外を見つめたまま海莉が小さな声で俺の名前を呼ぶ。彼女が俺をそう呼称する度、頭の中で重たい塊が積まれていくような感覚があった。
「いい加減、そう苗字で呼ぶのはよしてくれないか。違和感が抜けないんだ」
 苦虫を噛み潰したような声色でそう質問を遮ると、海莉は顔を窓に向けたままこちらに視線を飛ばした。横目に睨みつけるようなその鋭い表情を見て、初めて見る顔だ、こんな表情ができたのかと息を呑む。だがその口元が優しく緩んでいるのを見て我に返った。
「恋人ごっこは案外楽しい。――いいよ、奏芽くん」
 海莉の口から発せられた懐かしい響きに一瞬胸が踊り、視界に愛おしい情景が浮かんだ。目を細めて朗らかに笑うかつての彼女の姿が。だが霧が失せたように現れた目の前の少女の顔を認識した途端、その胸の高鳴りは瞬時に締め付けるような痛みに変わった。下瞼が力んで痙攣する。
「そういうことだよ、私は櫻木クンを櫻木クン以外の呼び方で呼べない。さっきキミが言ったんだ。失礼だってね」
 困ったように笑う彼女を見て、どこか恨めしいような理不尽な感情が自分の中に湧き上がるのを感じた。
「お前は、何者なんだ」
 東雲海莉の身体に芽生えたもう一つの存在。それは自己同一性を持ち、本来その身体を持っているべき人物と自身との区別を完全に自覚している。しかし自身の由来を知らず、他人の人生を強いられて生きている。そんな矛盾を抱えた自分自身を、彼女はどう認識しているのだろう。
 少しの沈黙の後、彼女は改めて俺と向き直った。
「哲学的な問いをしてくるね、面白い。そういうの嫌いじゃないよ」
 意味深長な笑みを浮かべた彼女は、机に肘をついて興味深そうに食いついてくる。臆すどころか寧ろ乗り気な彼女の態度が癪に障った。
「そうか、なら答えろよ。お前は自分を、何だと思ってるんだ」
 不機嫌に吐きつけたが、彼女はやはり物怖じせず、変わらない笑みで質問を返した。
「櫻木クンは自分自身をどう定義づけているんだい? 自分が何者か、私に紹介して見せてよ。生まれた時から『キミはキミ』なんだ。私に答え方の例を示しておくれよ」
「なっ……」
 ぐうの音も出ず引き下がる。彼女の表情は、まるで鋭い眼光でも見えそうなほど尖っていた。ここで問われた回答、つまり俺が彼女に求めたものは単に自己紹介ではないのだ。名前とか誕生日とか住所とか、そういうことじゃない。そんなことは自分が一番理解していて、本当の答えを出そうとすれば、たとえ学者が挙って議論を展開しても難しいのは明々白々だ。
 返事に困っていると、彼女は小さく息を吐いて、不敵な笑みを浮かべて再び口を開いた。海莉の身体を乗っ取ってまだ一ヶ月しか経過していないというのに、随分と上手に使いこなしていた。相手の心情を掌で転がすのが上手である。
「例えば、アメリカの心理学者エリクソンによれば、人間は成長や社会的環境の変化に応じて自身の役割を変化させるものであって、それを統合する何かがアイデンティティ、すなわち自分であるらしいよ」
 哲学的な解を引用した彼女に息を詰めた後、俺は直ぐに深いため息をついた。それは、自分の中で明確な答えを出せていない質問を他人へぶつけたことへの自身に向けられた嫌悪感と、具体例を挙げて俺を試すような真似をした彼女に完敗したという自覚によるものだった。
 流石に、ダサすぎる。
「そうだな」
 気まずく彼女から目を逸して小声で唸ると、「うむ」と大義そうに答えるのが聞こえた。その後、軽く息を吐いて改めた彼女が再び問う。
「それで、どうなんだい」
 今度はまるで情けをかけたような、癪に障る優しさが含まれているような気がして、俺は更に気が小さくなるのを感じた。
「悪かったよ、分からない」
 さっきより小さい声で無礼を詫びると、しかし彼女は胸の前で軽快に手を叩いた。
「私もそうだよ! 分からない、同じだね。私は私を、まだ上手く定義づけられていない」
 勢いよくそう言って「引用して話すと恰も賢く見えて面白い」と彼女は心底愉快そうに笑う。つまり俺は誂われたわけだと気が付いて、心中、これまで我が身に向けられていた不快感が彼女に対する苛立ちへと変化していった。
「帰る」
 居た堪れなくなって小説を鞄に仕舞い席を立つと、何故か彼女も吊られたように少し遅れて席を立った。読書は終了かと尋ねる彼女に事情を吐きつけてやれば、彼女は堪えるように笑いながら俺に謝罪した。しかしながら、そこに本意は感じられなかった。
「一緒に帰ろうよ櫻木クン、駅まででいいからさ」
「お前は俺が距離を取ろうとしてるってこと分からないのか。それとも誂い足りないか」
 部室を出て鍵を回しながら、苛立ち紛れにそう訴えかけてみるが、彼女は気にせず俺の隣を陣取った。その身体を以前の海莉が操っていたならば、このタイミング、彼女は背中から抱きつきに来ていたなと懐かしく思う。今、一定の距離感を保って俺を見つめる彼女について思えば、そこにはやはり、恋人の本質はなかった。
 職員室に鍵を返し終わるまで、二人の間には沈黙が降りた。ようやく俺の怒りが伝わったかと呆れて、同時に、得体のしれない者と接する違和感から開放されることに安堵する。だが、下駄箱に向かう途中、渡り廊下に差し掛かる頃彼女は切り出した。
「私が会話を楽しめるのは櫻木クンとだけなんだ、気を悪くしたならすまなかった。反省してるから、どうか一緒に帰ってはくれないか。知らない街を一人で歩くのは心細い」
 文言こそしおらしく聞こえるが、その声色と表情には堂々たる自信が垣間見られる。
 しかし自分でも驚いた。あれだけ彼女への反感を抱えた上に、やっと開放の兆しが訪れたと思ったらこの発言。流石に呆れも通り越して器械的になるかと思いきや、覚えず彼女を気がかりに思った。それは多分、恋人の姿が本人の認知の外でどのように扱われるかを悟ったからだと理解する。
「分かったよ」
 それでも渋々そう言って彼女に手を差し伸べると、やった、と小さく弾んで彼女は俺の手を取り、嬉しそうに肩を近づけてきた。
 手の形、温度、握る強さ、横目に映る身長差。懐かしい景色に心が満たされてゆくが、騙されそうな脳みそを制御するように自我を鮮明に保ち、それは自分の求めている彼女ではないのだと強く意識する。
 そうすれば、自然と視線は、彼女と反対側を向いた。
 大窓から覗いた景色。西陽はまだ空に浮かび、白い校舎は黄金色に輝いている。思い出したかのように鳴き始めたヒグラシが空気を振動させて、突然、世界が騒がしくなったように感じた。
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