個の孤独を謳うということ

天之奏詩(そらのかなた)

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ep2

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 学校の最寄り駅に到着してからも、改札機から少しはなれた柱に寄りかかって、数分程学校生活について話をしていた。クラスメイトの話が浅かっただとか、授業中の発言の反省とか、そんな他愛のない話題でもある程度間を繋げられるくらいには彼女は会話が上手で、俺はほとんど相槌を打っているだけで自然と時間は過ぎた。ただその間、日陰に立っているにも関わらず、体温を分散させまいとするどんよりとした暑さに項垂れていた。ふと視線を上げて時計を確認すると、電光掲示板の時刻表に表示されている海莉の乗る電車の発車時刻まで、もう二分を切っていることに気が付いた。彼女はそんなことも知らず、まだ話を続けようとしている。
「電車、乗り遅れるぞ」
 そんな彼女に状況を知らせるべくそう声を掛けると、彼女はおっと、と同じく時計に目を向けて、流れる動作で足元に置いていた鞄を肩にかけた。
「一本送っちゃう?」
 そんなに話が楽しいのか、調子に乗って鞄の肩紐を片方肩から外そうとする彼女を、俺は呆れたように睨みつけて肘で小突く。一瞬悪戯っぽく目を細めた海莉だったが、好奇心を突き返されると面白くなさそうに唇を小さく尖らせて、不貞腐れたみたいにじっとこちらを見つめた。
「はいはい、分かったよ」
 数秒間睨み合っていると彼女のほうが先に折れて、そう嘆息した。俺が片手で背中を押すと、彼女は名残惜しそうな笑みを浮かべてスカートのポケットから定期券の入ったパスケースを取り出した。
「櫻木クンと話していると時間が過ぎるのが本当に早いな。うん、それじゃあね、また明日」
 案外割り切るのは早いらしく、彼女はさっと身を翻し、そのまま右手に持ったパスケースをヒラヒラと振りながら改札機を越えてゆく。
「また明日」
 ホームに上がるエレベータへと小走りに消えてゆく海莉の背中に小さくそう返す。当然、彼女はそれに気づかなかった。俺はバスターミナルへと歩を向けた。
 歩きながら考える。俺が去年のクリスマスに海莉にプレゼントしたアイボリーのワンカラーパスケース。ゴールドのクマのチャームが取り付けられていること以外特徴のない、落ち着いていてかつお洒落で可愛いそれは、彼女がずっと欲しがっていたブランドのアイテムの一つだった。プレゼントした翌日から直ぐに持ち歩いてくれたことをよく覚えている。嬉しそうにはにかんだ海莉の表情も、そのパスケースを見る度に鮮明に浮かび上がってきた。
 しかし、さっき改札を越えていった彼女はそんな幸せな記憶すら持たず、ただ以前から所有していたものであるという認識で扱っているのだと思うと少し寂しい。気持ちを込めて贈った品を、赤の他人が使っているのと変わらない気持ちになってしまうのも致し方ないか。特定の記憶を基準に相対的に感情が生産される。悲しい、とはまた少し違うけれど、残念だ、とても。何だか不愉快だと一言でまとめて言えてしまえば簡単だっただろうか。気分は、沈んでゆく。
「かーなーめっ!」
 突然トスンと背中を叩かれて後ろを振り向くと、そこには見知った顔があった。下から覗き込むようにしてこちらを見上げる少女は、その底抜けに明るい声色とは裏腹に、心なしか眉をハの字に傾けているように見える。
 紺色のリボンで高く結んだハーフアップ。パーマをかけているのか毛先はふわりと軽く膨らんでいて、前髪はセンター分けされて外側に流され耳にかかっている。開けた面は健康的に日に焼けており、彼女に溌剌とした雰囲気を纏わせているように思う。長い睫毛が目を大きく見せて、不安げな表情を浮かべていても、その瞳の存在感は際立っていた。小さく開いたままの唇から白い歯が覗いている。
「なんだ楓か。誰かと思ったよ」
「なんだとは何よ。奏芽が俯いてるから、何かあったのかなーって心配して声かけてあげたのに!」
 ぷくっと頬を膨らませて、楓は俺の制服の裾をぐんぐん引っ張る。そんな彼女の様子に苦笑しながら謝罪を述べるが、駅構内、人々はその様子を異質な眼差しで過ぎていった。
 拗ねる楓をなだめながら尋ねる。
「ところで、楓、部活は? 終わるには少し早くないか」
 彼女はバドミントン部に所属しており、普段、活動が終わるのは五時半頃。現在時刻は五時を少し過ぎたあたりで、通常であればまだ活動時間中のはずだ。この時間帯に彼女が駅に到着しているのは何故だろうか。
「ああ、今日は柳先生が用事で早く帰らなきゃならないらしくて、その都合でね。ラッキーラッキー」
 俺の制服の裾から手を放して胸の前で掌を合わせると、楓は自分の幸運を堪能するような表情を浮かべた。感情の起伏が激しく忙しい性格だが、それが楓の長所だ。無論、時折、短所にもなり得るが。
 柳先生は女子バドミントン部の顧問を兼ねる社会科担当の女教師で、以前は、海莉からも時々名前を聞いていた。ただどんな雰囲気の人物だとか、そういったことはいまいち想像できていない。
「なるほど」
 そうとだけ返して、それ以降の会話に困る。自らの対話力の無さに内心どぎまぎするが、案外、それは楓も同じか、彼女の得意顔には徐々に不安が浮かび上がってきた。二人の間に降りる沈黙と、忙しく交差する人々の対照。それがさらに不安を煽るように迫りつけてくる。また、立ち止まる俺達に向けられる攻撃的な冷たい視線は、俺達をここから排除する気だった。
「ちょっとだけ、話せないかな。そこの喫茶店、とか」
 楓はそう捻り出してぎこちなく笑った。首筋には汗が滲んでおり、それは暑さのせいか、または冷や汗のようにも思える。どちらにせよお互いに負担を抱えているのだから、彼女から切り出されたことを情けなく思うのもまた確かなところ、提案に乗ることが最善と判断して、言われるまま駅を出た。
 喫茶店に入ると、第一に珈琲や紅茶の香ばしさが鼻腔を優しく包み込んだ。続いてやってきたエアコンの冷気が、肌の表面に滲む汗をさらさらと拭っていく。これまで心を蝕んでいた不快感は、洒落た香りがもたらす心地よさに上書きされ、汗が蒸発するのに紛れて霧散していった。
 四人掛けのテーブル席に案内されると、楓は荷物を放り投げてソファの上で伸びた。ベストは捲れ上がって白のブラウスが大袈裟に見えているし、普段から短く折ったスカートだって、なおさら裾が上がってバドミントン部のユニフォームがちらりと顔を覗かせている。二人の関係が只の同級生、もしくは初々しさの匂う友人同士だったならば、たった今の彼女の行為は俺に情欲を起こさせたに違いない。すなわち、目の前で伸びているのが楓でなければ唾を飲んでいたかもしれなかった。少なくとも鼻の下は伸びていたに違いない。
 そんなことを思っていると、楓がまるで俺の考えていることを見透かしたようなムッとした表情を向けてくる。何か言いたそうな顔をしているから「どうかしたのか」と当たり前のように白を切ってみると、楓は左手でベストを直してから再び伸びた。いや、起きろ。あとスカートの裾も下せよなんて心中で突っ込んでみるが、彼女はお構いなしに、そんなだらしない格好で、メニュー表を開きすらせず項垂れた声音で俺に抹茶ラテの注文を命じてくる。きっと彼女にとってはここは通い慣れた喫茶店なのだろうが、他の人と来た時には相手に合わせて一緒にメニューを話し合ったりするのが人付き合いというものじゃないだろうか。自分のほうが慣れているのならなおさらだろう。幼馴染とはいえ、「親しき仲にも礼儀あり」を説いてやりたい気分だ。そんな気持ちを抑えつつ、俺は溜息を吐いてメニュー表を閉じると店員を呼んで二人分の注文を伝えた。
 店員が去ってしばらくして、彼女はやっと体を起こした。
「彼女さん──東雲さん、か。仲良くしてるの?」
 態度を一転して切り出したその表情は少し不安そうで、俺はそんな楓の様子を見て、ああ、なるほどと思った。さっき駅で不安そうにしていたのは、この問いのためだった。
 昔から、彼女は周りの手を引いてぐんぐん突き進んで行く性格だった。それは多分、今でもあまり変わっていないのだと思う。高校に入ってからは流石に落ち着いたが、それまでは、彼女は皆が慄く事態にも必ず抗ってきた。
 例えば、中学時代、クラスメイトが上級生から陰湿ないじめを受けているのを目撃した際に、中身の入ったラケットケースで後ろからその上級生の頭を殴った姿は衝撃だった。そうやって事を荒立てて、多少罪を負いながらもクラスメイトを救った彼女は周囲から一目を置かれるようになる。浮いていたという表現が相応しい。だが、それが自分への攻撃に変わる前に、彼女は再び、自ら周囲へと歩み寄った。結局、世間の評価は彼女の度胸に感服するところで止まった。そのことに不満を唱えるつもりはないし、寧ろ世間からその背中を評価されただけでも彼女は相当よくやったのだと思う。でも、隣で見てきた俺だけが、ずっと彼女の目を見ていた――なんて言い方をすれば聞こえはいいか。あの日彼女がラケットケースを振りかざした時も、歪な視線を向けてくる同級生たちに話しかけに行った時も、その瞳はいつも、対象を捉えてはいなかった。明後日の方向を見ているときはまだマシだった。時々、彼女の視線は足元まで落ちていることもあって、だから、やはり不安だったのだ。目は口ほどにものを言うなんてことわざがあるが、彼女はまさにその典型だろう。だからきっと、今も彼女が見ているのは俺じゃない。いつも不安の対象を、見る振りをして乗り越えてきたのだから、きっと今も。
 そして、そんな彼女に、俺はこれまで一度だって何か言葉を掛けたことはなかった。俺から彼女に対して掛けていい台詞なんて、何も無かったのだから。
「お待たせ致しました。抹茶ラテと、アイスカフェラテです」
「お、ありがとうございます」
 二人分のコーヒーを運んできた店員が、先に抹茶ラテをテーブルに置く。楓は勢いよく起き上がって店員に愛想よく微笑みかけると、礼を述べてテーブルに置かれた硝子コップを自分の前に寄せた。続いて置かれたアイスカフェラテを、俺も軽く会釈して手前に寄せる。硝子の表面はまだ濡れていなかったけれど、内側から伝わる冷たさが火照った掌にゆっくりと沁み渡ってきた。
「ごゆっくりどうぞ」
「どうも」
 俺は去ってゆく店員を横目で流して、アイスカフェラテを一口含む。ツンと舌に張り付くような冷感が心地よく、ミルクの円やかさに紛れて苦みはほとんど感じない。少し背伸びしたような香りが遅れて嗅覚に触れる。喉を通ったはずの液体が、記憶に零れてセピア色の染みをつくっていくような映像が一瞬視界をチラついた。
 楓が自分のコップに視線を落として、苦笑する。
「その様子だと、あんまり上手くは行ってないみたいだね」
「え、あ、すまん。いや、ある程度仲良くはやってるよ」
 追憶に浸っていたとはいえ誤解させてしまったようなので平謝りする。楓は「そうなの?」と顔を上げて目を丸くした。それからコップに口を付けて、表情を柔らかくしてほっと息を吐いた。
「例の件、奏芽のお母さんから聞いてずっと気になってたんだ。もし気に障ったらごめん、でも言っちゃ悪いかもしれないけど、人格が変わっちゃったならもう、他人と変わらないよねって、思っちゃって…」
 初めこそ普段通りに話していた楓だったが、後半に差し掛かるに連れて、まるで俺の顔色を伺うように辿々しくなっていった。だが彼女の言ったそれは事実で、気に障ることなど何一つない。俺は肩を窄める楓に小さく笑いかけて、首を横に振った。
「楓の言う通り、今の彼女は俺の恋人の海莉じゃないよ。俺も、そして彼女自身もそう思ってる。言う通り、別人なんだよ」
 俺の発言にそっかと返事をした楓は両手で包んだコップをその場で回転させて、探るように尋ねてくる。
「そもそも、今の東雲さんの状態は普通の記憶喪失とどう違うの。記憶が失くなっちゃったらそりゃ性格も変わっちゃうものじゃない?」
 当然の疑問だった。実際、病院では海莉は解離性健忘――いわゆる記憶喪失として記録されており、未だ通院を命じられている。それでも周りの人間が海莉のことを敢えて『人格が変わった』なんて言い方をするのは、彼女自身がそう主張し続けるからに他ならなかった。
「楓の言う通り、病院じゃ記憶喪失で通ってるよ。でも彼女と関われば何となく思うんだよ、新しい人格が入り込んだんだって。何ていうか、ほら、彼女は完全に自分という存在を感じているというか、少なくとも自分は東雲海莉ではないと自覚しているというか。そんな事を最初からずっと言い張ってるんだ。それってやっぱり、完全に孤立した自己意識がないと感じないことだと思うんだよ。彼女の妄言だと言われればそれまでだけどさ」
 身振り手振りで何とか伝えようと試みるが、楓は眉間に皺を寄せて唸っている。正直、実体の掴めない感覚的な内容を言葉で伝えるのは難しい。
「その…完全に孤立した自己意識って何よ?」
 眉間に皺を寄せ、右手の人差し指を立ててチョンチョンと振りながら楓は質問を繰り返した。その問いを受けて俺は、自分と彼女との間には自己意識というものの解釈に差異があるのだと思い至る。自己意識がどこに由来するものなのかという解釈。きっとそれは、俺と東雲海莉との間には生じていない違いで、暗黙のうちに、俺たちの間で、意識と肉体とは完全に切り離して考えられていたのだ。所謂、心身二元論である。
 でも、楓はきっとそうじゃない。
「自己意識って、他人と自分とをきちんと区別する意識のことだよ。当たり前のこと過ぎて四六時中考えるようなことじゃないから、改めて考えると複雑ではあるんだけど――」
 言葉の定義からきちんと説明するべく淡々と並び立てていると、彼女は振っていた人差し指を自分の顎に突き立てて静止させ、俺の話を遮る。
「自分は自分、あの人はあの人…って、そんな感じ? でもそれが完全に孤立するってどういうこと、意識って頭の中にあるものじゃないの? ほら、生物基礎で習った、えーと、ニョロニョロみたいな名前の…」
「神経細胞、ニューロンのこと? それはそうなんだけど、自分たちの意識がニューロンの取り扱う領域に縛られるものだと思うとあまりにも機械みたいでいやじゃないか? もし仮にそれが本当で、俺たちが機械なのだとしたら、人工知能や作業用のロボットと変わらないと思う。あれらはボディと同じ素材でできた中央処理装置と基盤に行動を制御されるから、判明さを内的に操作できないだろ。だけど俺たち人間はそうじゃない。予め設計された思考プロセスとは関係なしに、経験に基づいて独自の学習プロセスを身に着け、判明さを内的に操作できる。つまり、ここで完全に孤立するっていうのは、肉体と意識とがそれぞれ別々にあるんだっていう意味と、意識、すなわち精神が他者とは独立して存在しているっていう意味。完全に孤立した精神が肉体に入り込むことで──言い換えれば、肉体を得ることで、俺たちは物理的実体を持つ自分自身、その存在を自覚することが出来ていると考えるわけだよ。んー、うまい例え話があればいいんだけど、そうだな──昔、テセウスって人が乗った船があってな、その船は後の時代まで長く保存されたんだけど、朽ちた木材は少しずつ新しい木材に交換されていったんだ。それで、気が付いたらその船を構成する木材は全部新しいのに変わってて、だから、果たしてその船はテセウスの乗った船と言えるのかって、哲学者たちの議論の的になったんだよ。言い換えれば、ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたら、過去のそれと現在のそれは『同じもの』だと言えるのかって、そういうこと。『そのものの本質はどこにあるのか』って同一性の問題を示唆してるんだ」
 丁寧に説明している間、理解しているのかしていないのか、彼女は三回ほど抹茶ラテを口に含んだ。俺の方はまだ一口しか口を付けられていないのに対して、彼女の方はもう半分くらい量が減ってしまっている。二人のコップの表面はそろそろ結露していた。
 小難しい話を退屈に思い始めたかと少しばかり心配したが、案外、真剣に話を聞いていたのか、楓は質問を繰り返した。東雲海莉の話からテセウスの船へ自分から話を逸しておいて何だが、彼女のその思いのほか真剣な態度を不思議に思う。普段はこういった話に一切関心のない彼女を、一体何がそうさせているのだろうか。
「それが、今の東雲さんとどう繋がるの?」
「人間の本質が何か、どこにあるのかって点で繋がると思う。少なくとも俺やアイツは、それを精神だと考えてるんだ、多分。で、肉体は精神の受け皿。脳が記憶したり動作の指示を出したりと、まるでそこに自分たちの意志や意識があるように感じるけど、現代の科学じゃそれが正しいかのは分かってない。でもなんとなく俺は、脳は意識を出力するための媒体だと思ってる。それはリベットの実験が裏付けてくれるし、最近じゃ、海外のテクノロジー企業で人工知能が意識を持ったって話題もあった。それは疑い深いけど、面白いと思った。というか、そもそも人工知能の思考プロセスだって時間をかけて成長させる必要があるから、それは人間の脳の発達と変わりない。ある一定の条件をクリアすれば精神を媒介できるのだと考えると、人工知能が意識を持っても不思議じゃないし、リベットの実験結果にも頷けるんだ」
「へぇ、その実験も知らないなあ。どんなの?」
 楓は顔にかかったこめかみの髪を指でくるくる巻きながら窓の外に視線を飛ばした。夕方の色褪せた青の空の下、昼間の太陽が残していった暑さから逃れるように人々は急かしく帰路を辿っている。窓を小さく振動させるヒグラシの鳴き声が店の外の喧騒を想像させて、対して、スロージャズバラードの流れる店内の静けさと、緩徐な時の流れが際立って感じられた。
 俺はこちらに視線を寄越さない彼女の横顔をそれでも見ながら、質問に答える。
「意志、実際の運動、脳の指令の三つの開始時間を測って、自由意志なんてものがあるのかってのを確かめる実験だよ。脳が刺激を受け取ってから実際に反応が起きるまでの様子を調べたんだ。授業で習ったとおり、これまで意識的な反応は、脳が刺激を受け取る、意志が発生する、脳から反応の指令が出る、反応が起きる、っていう順に起こっていると考えられてきた。だけどこの実験の結果、意志の発生と脳からの指令が逆であることが分かったんだ。実際には、脳が刺激を受け取る、脳から反応の指令が出る、意志が発生する、反応が起きる、の順で身体は動いていた。つまり、俺たちは脳の出した命令を自分の意志であると錯覚しているにすぎないということで、そこに自由意志は存在しないことになる。肉体に意識がないとすれば、それは肉体とは別の場所――想像しづらいかもしれないけど、高次元、とか、そういう領域にあるのかもしれない。それは俺にも分からないけど、とにかく、意識と肉体は切り離して考えてるんだよ、俺や彼女は」
 俺が言い終わっても、楓はしばらく窓の外を見たままだった。何かを見つめているようで、何も見ていないような。見ているとすれば、窓に薄く反射している自分自身かもしれない。考え込んでいるのだろうか。西陽に照らされて微動だにしない彼女は人形みたいだと思った。
 しばらくして、彼女は思い出したかのように小さく息を吸った。それから俺の方へ妙にゆっくりと視線を戻して、そのままコップに口を付ける。
「何となくだけど分かったかも! イマイチ実感は湧かないけどね!」
 コップから口を離しつつ、彼女は幼い表情でそう笑った。本当に理解しているのかと呆れ混じりに尋ねてみるが、「大丈夫、大丈夫」とあしらわれるだけなので話を続けようと思う。俺はまた一口アイスコーヒーを含んで、東雲海莉の現状について述べるべく改め直した。
「色々逸れちまったけど、話戻すぞ。今、東雲海莉として生きている彼女は、自分が何者かは分かってないけど、少なくとも東雲海莉ではないのだという自己同一性を自覚している。つまり俺や彼女が考えるに、海莉の身体を操っているのは記憶喪失となった海莉自身ではなくて、全く別の存在なんだ。海莉の身体に、全く別の意識体が入り込んで、抜けられなくなってるって感じかな」
「じゃあ、もう奏芽の恋人の海莉さんは戻ってこないかもしれないの?」
 楓は一瞬目を見開いてから眉間に皺を寄せて、微かに震えた声で言った。それはこれまでの会話で彼女が放ったどの言葉よりも感情的で、俺も渋い表情で俯いてしまう。小さく肯定すると、彼女はコップを包む手に力を込める。
「何か、全部元に戻せるような手段は探さないの?」
 テーブルに身を乗り出して旺盛にそう訴えかけてくるが、俺は反対にソファの背凭れに背中を預けて、深く溜息を吐いた。半ば諦めているようにも映っただろう俺の態度に、彼女はそれを訝しむような表情を浮かべて俺の名前を口にする。俺はそんな彼女に事の難解さを説明すべく、ゆっくりと姿勢を直した。
「そう単純な話でもないんだ。仮に海莉の人格を取り戻したとして、じゃあ今あそこに在る彼女はどうなるか、想像がつかない。もしかしたら、それは彼女における死なのかもしれない。さっき言ったように、俺たちは人間の本質が精神にあると考えているから、もし今の彼女の人格の行く先が不明のまま海莉の身体から無理やり追い出してしまうのだとすれば、それは殺人に値する行為なのかもしれない。色々と考えてはいるけど…」
 早く、恋人と以前のように話したいと強く願う反面、海莉の身体を操っている彼女を殺してしまうとすれば、その行為に責任を持てない。そうして諦めようとする己の弱さも自覚していた。現状を継続してしまうのも仕方ないことなのだと、これが運命なのだと。恋人を失ってから、同じ姿をした全くの別人と過ごした一ヶ月という時間は、俺の意志を弱らせるには充分すぎたのだろう。いいや寧ろ、このくらいで怯むほど、俺の心は元々弱かったのかもしれない。
 説明しながら段々と弱気になっていく俺の様子を察したのか、楓の誤解が解けていくのが表情から読み取れた。まるで俺に同情したかのような辛そうな表情を浮かべて、彼女はコップを包んでいた手をテーブルから降ろした。
「そう…か、そうよね」
「ああ」
 複雑な心境のまま返事を捻り出すと、二人の間には長い沈黙が降りた。腰の横に手を置いたまま動かない彼女に時々視線をやるが、彼女は自分のコップに残った抹茶ラテの、氷で歪められた凸凹の表面をじっと見つめていて、こちらに気が付く様子もない。何か考え込んでいるのか、焦点も合っていないように見える。
 残りのアイスカフェラテを一気に喉の奥に流し込むと、俺は再びソファの背凭れに背中をべったりと貼り付けて、しばらく窓の外の景色に意識を投げた。
  窓は二次元平面的に外の世界の情報を映し出し、遠近感は大小の差で表現されている。平べったい画面が窓を横滑りし、何層にも重なった人混みの向こうにはとうとう遠くの景色も見えず、三次元の奥行きは感じられなかった。嗅覚を支配する香ばしさは舌にじっくりと蓄積された鉄みたいな苦味と混ざって少しばかり不愉快で、腹の内側から伝わってくる冷感も相まって吐き出しそうになる。店内を流れるスロージャズバラードに織り込まれたアルペジオは不協和音だったか、そのメロディが意識を揺らす。俺は徐々に、窓の映像に意識を落とし込んでいくような錯覚を覚え始めた。
 硬い硝子コップの底が木製のテーブルをゴツンと叩く音で我に返ると、人々の蠢動を映し出していた窓の一番手前に、薄く少女の姿が浮かび上がっていた。その時、平面的な世界から改めて元の世界に帰還する。視線を向けた楓のコップの中は空になっていた。
「あのね、奏芽。全部一人で抱え込まなくていいんだよ、信頼できる誰かを頼っていいんだよ。でも、私に出来ることがあれば――ううん、出来ないことでも、なんでも挑戦してみるからっ…」
 しどろもどろしながら楓が言う。自分でも何を言おうか纏まっていない様子で、身振り手振りが落ち着かない。そんな彼女が存外可愛らしく思えると同時に、やはり面白くて笑いを堪えていると、突然真剣な眼差しを向けられ、思考を停止させられる。思わず唾を飲み込んだ。
 彼女は少し間を開けると、一度深呼吸して柔らかく笑った。
「だから、私で良ければ頼ってね」
 俺は呆けてしまう。彼女のこんな表情は初めて見た。
「楓、お前――」
 これまで、無邪気で阿呆で稚拙な彼女を多く見てきた。たまには勇敢で無謀で純粋な彼女も存在していたが、今回みたいなのは初めてだった。まるで、母の抱擁を思わせるような温かな体温が、心に直接染みる。
 穏やかな笑みが自然と口から漏れて、俺は何となく、彼女を大切に思う気持ちを意識した。
「でも、楓って昔から色々と大胆すぎるから、なんか頼りづらいな」
「はぁぁぁあああ、何よそれぇ?! せっっっっっかく奏芽のことを思って恥ずかしい台詞言ったのに! もう知らない!!」
 俺が苦笑しながら言うと、楓は顔を赤くして怒った。
  もちろんさっきの発言は半分冗談である。しかし彼女は時々恐ろしく大胆な行動を取るから、自分のせいで傷つくかもしれないと思うと、素直に頼るのは気が引けるのも確かで、やはり半分本気だった。
「あはは、悪かったよ」
 だけど彼女が見せた温かな表情は楓の気持ちが本物なのだという実感を持たせてくれて、本物を否定するのは、俺は嫌だと思った。だから、俺は改めて素直に感謝を述べることにした。
「うん、ありがとう。本当はやっぱり、一人で色々と考えてたのは事実なんだ。今日、楓と話せて少し楽になった気がするよ。また何かあったら、お前を頼っても良いか」
 姿勢を直して正面から彼女と向き合う。海莉が倒れてから一ヶ月間、突然自身に降り掛かった理不尽に怒りをぶつけることも叶わず、様々な感情の矛先は東雲海莉という新しく芽生えた人格について考えるという行為のみに向いてきた。そうやってひたすら内側に向けてきた矛の先端は、きっともう心臓の表面に到達しようとしていたのだ。
 楓はゆっくりと身を乗り出すと、テーブルの上で握られた俺の拳を両手で優しく包んだ。
「うん、うん…当たり前だよ。幼馴染、舐めなさんな」
 窓から射し込む西陽を受けた楓の姿は鮮やかに輝いていて、それはなんだか、出来すぎた絵画のようだと思った。
「ありがとうな、楓」
 クーラーで冷えた肌の表面を楓の掌の熱がじんわりと伝わってくる。照れくさくなって窓の外に逃した視線が捉えたのは、施設棟にシステマティックに囲まれた夕焼け空だった。
 そうか、人混みは開けたのだ。きっと世界は何次元にも広がって居るに違いない。そんな広大さと複雑さが、このたった小さな景色の中にすら感じられた。
「あー、も、もう六時前だねえー! 今は人が少なくなったけど、またすぐ増えちゃうかもー!」
 そろそろ出ようかと鞄を背負った彼女に同意して、俺も伝票を持って立ち上がる。結局、こうやって話したからと言って何かが見えたわけではない。だが確実に変わったものがある気がした。その輪郭がはっきりと見えるのはまだ先になるのかもしれないけれど、楓が俺の中の何かを変えたよう感じがする。俺は心の中でて深く頭を下げながら、ソファーとテーブルの狭い隙間を抜けた。
 ふと、楓が窓の外を見たまま静止しているのに気が付いた。
「楓、どうかしたか」
 その横顔に話しかけてみるも、彼女は唸るばかり。俺は不思議に思って彼女の視線を追って、その先に同じ学校の制服を着た女子生徒を捉えた。だがその人物は俺と目が合うと直ぐに歩き去ってしまう。今のは友達かと尋ねると、楓は煮えきらない表情を浮かべた。
「うん、同じバドミントン部の子。でもなんかスマホ構えてどっか行っちゃった」
「そうか」
 少しばかり不可解そうな表情を浮かべているが、楓の友人関係はよく知らないので何とも言ってやることが出来ない。彼女の様子を伺って立ち止まっていると、数秒ほど経ったあたりで彼女は開き直ったように短く息を吐いて、そのあと無邪気な笑顔を浮かべた。
「ま、お会計しよっか!」
 パンと両手で顔を叩いて、楓は俺を抜いて会計へと歩を向けた。俺は苦笑して、適当に返事をしながらその背中に続いて財布を用意する。店内のスロージャズバラードはいつの間にかクラシックに変わっていて、夏の夜の訪れを報せていた。
 この時、俺はまだ知らなかった。今日話を聞いてもらった瞬間から、彼女が俺と東雲海莉との間にもう足を踏み入れていたのだということ。彼女を頼ることに対して一瞬抱いた恐れは間違っていなかったのだということを。
 一週間後、楓はバドミントン部を辞め、一ヶ月掛けて登校頻度も下がり、最終的には不登校になった。そのことを、東雲海莉が教えてくれた。
 九月の終わり、まだ暑い秋のことだった。
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赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

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