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ep.3
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「女子にしか見えない世界があるものだよ櫻木クン」
彼女らは演技派な生き物だからね、と付け加えて、東雲海莉は小説の紙を捲った。乾いた音が静まり返った教室の中に虚しく反響する。同時に、獣臭若しくは腐敗集のような、ツンとした嫌な臭いが鼻腔を刺激した。
夏の暑さが残る秋の真ん中、グラウンドからは今日も変わらず雄々しい掛け声が響き、一層眩しくなった陽の光は、世界を銀色に輝かせている。対して、照明を点けるようになった部室の景色は無機質で、まるで時間が止まっているように感じた。まさか、いつも通り足を運んだ部室にこんな惨状が広げられているなんて俺は思いもしなかった。
「あ、ぇ……」
尻窄みでか弱い声が漏れる。彼女のと自分の、二つ向かい合わせにくっつけた机の上に広げられている代物を見て感情が掻き乱された。乱雑に破られた教科書やノート、下品に穴の開けられた体操着とユニフォーム、マーカーで黒く塗り潰された上履きや、折られて袋に詰められた文房具、中途半端に口を付けられたままカビの生えた購買のカツサンド。そして、かつての艶や滑らかな流れをすっかり失った髪が、陰毛を思わせるほど縮れて何本もダマになっている。異臭の正体は間違いなくこれだった。
恐る恐る手を伸ばして翻した教科書の裏には『花野楓』の名が綴られていた。字体は間違いなく彼女、楓のものである。
海莉曰く、これらは全て、女子バドミントン部で楓が使っていた個人ロッカーに押し込まれていたものだという。教科書を退けた場所に、一枚のはがきサイズほどの光沢写真が目についた。写っているのは、喫茶店で俯く俺と、俺の手を両手で包む楓の姿だった。
「櫻木クン、キミのせいじゃない。私はキミの味方だよ」
小説に目を落としたまま海莉はそう呟いた。
海莉の話によれば、ここ一か月ほどに渡り楓は部活のメンバーを中心に虐めを受けていたようだ。一体どうしてと思ったが、机の上の写真がそのすべてを物語っている。虐めの原動力となった理屈は大方すぐに察しがついたし、海莉の言うところにもそれは同じだった。
すなわち、今回虐めの主犯となった女子生徒は写真を餌に「花野楓が現状を利用して櫻木奏芽を横取りしようとしている」といったような噂を立て、周辺生徒および主犯格は制裁を下す感覚で楓に危害を加えたのだった。
俺の恋人、東雲海莉が記憶喪失になったことは学校でも有名な話で、主犯の生徒は楓がそれを利用しようと図ったのだと誤解したのだろう。もしかすれば、写真のデータをSNSで拡散していた可能性だってあり得る。実際、写真に写っている絵面は主犯格の言ったように見えないでもない。
しかし、楓はあの時、寧ろもとの東雲海莉を取り戻すことは出来ないのか、これからどうして行けば良いのかという件で俺にひたすら協力しようとしてくれたのだ。そこに嘘がなかったのはあの温もりが証明してくれる。
ああ、心が苦しい。真実を知ろうともせず主観による決めつけでその人の良心を蔑ろにするとは何と悪逆無道なことか。どうにか報復してやりたい。主犯格は、この写真を撮ったあの日の女子生徒に違いない。距離も距離だったから顔も思い出せないし、そもそもあの時は直接こんな惨劇に繋がるだなんてリスクは考えていなかったから記憶しようという意志すらなかったから、俺には個人の特定は出来そうにない。同じ部活ということもあって楓は顔見知りのようだったが、現状で本人に聞くのは憚られる。それは彼女の心の傷を抉るに違いないから。ならどうする。何が出来るだろう。
楓のこと、海莉のこと、どっちも割り切れないから、同時に処理しようとすると頭の中でごちゃごちゃにノイズが走る。動機が押し寄せて呼吸も荒くなる。頭に血が上って、毛穴からは汗が吹き出した。視界が揺れているのか、または身体が揺れているのかも分からない。
パタンと、目の前で小説が閉じられる。
「櫻木クン、花野さんはキミの幼馴染なんだってね、小耳に挟んだよ」
いつも通りの口ぶりで彼女がそう述べたのならば、混濁とした意識の中、俺は彼女の言葉に耳を傾けることはなかっただろう。しかしどういうわけか、彼女の放った言葉には怒りが混じっているようだった。
不思議に思って彼女の方へ視線を向けると目が合った。その眼力は重く、俺の中の錯乱をその圧力で上から沈めて押し固めてくれるみたいだった。俺の返事を必要とせず彼女は再び口を開く。
「そこに如何なる理由があろうと、こんな残虐行為は到底許されてはいけない。私は実のところの東雲さんではないし、正直、花野さんにキミを奪われようが奪われまいがどうだっていい。ただ、花野さんの行為が倫理的に良くないことなのだとしても、正しさを諭す手段としてこのような行為を選択するのはそれこそ非倫理的で、それ以上に極悪非道だと私は思うよ」
淡々と述べながら、彼女はポケットから大きなビニール袋を取り出して広げ、机上の全てを乱暴にその中へ流し入れた。袋は、保健室前に配布型で設置されている教室のゴミ箱用のものだろう。
「…どうするんだよ、それ」
激しく音を立てて次々と落下してゆく楓の私物を目で追いながら尋ねると、海莉は袋の中身へと冷酷な眼差しを向けた。
「バドミントン部の顧問に突き出すのさ。己の受け持った環境で起きたことを理解させて対応を煽るよ」
言いながら机上を空にすると、彼女は流れる動作で袋の口を縛った。蹂躙された楓の私物が半透明の袋の表面に霞んで映る。見るに堪えず、俺は机に顔を伏せた。
海莉が見せた意外にも真剣な態度に一瞬精神を立て直したものの、改めてその蛮行の末を見て噎せ返りそうになる。
「俺には、何も出来ないのかな」
ごもと口を動かすと同時に、袋が持ち上げられる音がした。
「キミは下手に行動すべきじゃないでしょ。被害者となるはずだった私が動くことで、当事者同士の間に何の因縁もないことが証明できるし、部外者が首を突っ込む問題ではないという道理の表明にもなって、話は丸く収束する」
ハッとして顔を上げる。海莉の中ではまだ、彼女らの誤解は誤解と認識されていないのだ。
彼女は既に俺に背を向け、右手に袋を下げてもう扉を開かんとしていた。誤解を解かねばと咄嗟に立ち上がる。
「ま、待ってくれ! 楓は別に俺を横取りしようとなんかしていないんだ」
俺の発言に応えて、彼女は扉に手を掛けたところで静止した。彼女の態度に一呼吸つくと、俺は言葉を続ける。
「楓は、お前が海莉の身体に入り込んだこととか、これからのこととか、解決に向けて協力しようとしてくれて…それで二人で話してるところを見た女子生徒がいたんだよ。きっとそいつが誤解して、こんなことに――」
「――なら尚更糾弾されるべきだね。真実を知ろうともせず主観による決めつけでその人の良心を蔑ろにするとは何と悪逆無道なことか」
食い気味に言って顔だけこちらを振り向いた彼女の目には、明らかにさっきよりも深い怒りが滲んでいた。また、俺は彼女の言葉に心を貫かれるような感覚を覚えた。さきほど自分の中に湧いた怒気を、彼女が、そのまま、まったく同じ言葉で、明言したからだ。
俺は首肯した後、それを確認して扉を開こうと再び持ち上げられた彼女の反対の手、すなわちビニール袋を引っ提げた方の袖を掴んで引き止めた。今度は何かと、彼女は不満げな面持ちで身を翻す。同時に鋭い眼光が俺の心臓を掠めた。そこに自我を現してからこれまで一度も見たことのない覇気に俺は少しばかり慄くも、持ち直して同じく丹心な眼差しで向き合う。
「それは、俺に持って行かせてくれないか」
俺の言葉を聞いた彼女の表情は変わらなかった。見据えた瞳には一切の揺らぎも生じず、頑としてこちらを捉えている。狩り場に現れた虎を牽制する獅子のようなその圧力は、俺の体をその空間に固定させて連続の開口を許さず、二人の間にはしばらく沈黙が降りた。彼女の中で、今回の件について俺が介入することの意味は見出されていない。
「私が見つけた物だけれど?」
冷静にそう口にした彼女の声は細く、冷ややかで鋭い刃のように感じる。俺はその首元に添えられた刃に身を裂かれぬよう慎重に発声した。
「それは悪いと思ってる。ただお前には他に、頼みたいことがあるんだ」
続く俺の提案を聞いて、彼女はじっくり思案したあと静かに袋を握る手から力を抜いた。袋は張りをなくしてガサガサとまるでゴミ袋のような音を立てて床にへたり込む。それからしばらくの沈黙を経て、彼女は仕方ないなと溜息を吐いて空いた手を俺に差し出した。何の真似だろうかといっとき呆然としていると、彼女は催促するように主張を繰り返す。
「握り返してくれないのかい櫻木クン、キミは私と協力して花野さんを助けたいと思っているんだろう?」
そう言い切る頃には彼女の表情は柔らかくなっていて、平生の自信に満ちた態度で目を大きく開いていた。それでもなお俺が握り返せないでいると、腰の横で脱力する俺の手を彼女は強引に引っ張って自分の手を握らせる。
その時、とうとう握って触れた彼女の掌に違和感を覚えた。思わずそれを目で見て確かめる。
彼女の手は微かに震えていた。
「お前、どうしてこれ…」
ゆっくりと顔を上げて尋ねると、彼女は自分の手の震えにその時初めて気が付いたみたいに目を見開いた。それから狼狽するみたいにいくらか目を泳がせて、とうとう足元に視線を落とした。ふらっと彼女の肩が揺れて、その動作に連動するみたいに半歩俺に寄ってくる。続いて、自嘲気味に笑う掠れた声が聞こえた。ゆっくりとこちらを向いた彼女は困ったような笑みを浮かべていて、まるで、何かに怯えるみたいに瞼を痙攣させていた。
「おい、大丈夫なのか」
彼女の存在が海莉の身体に芽生えてからもう二ヶ月程になるが、先程までの怒りの滲んだ態度といい即今の憂惧するような表情といい、今日、彼女はとにかく様子がおかしい。普段ならば、彼女がこれほどまでに感情的になることはありえないのだ。何事にも達観した態度で、俺の冷たい対応にすら不平を垂れるだけで直ぐに涼しい顔をする彼女。そこに無理が生じていれば俺が気が付かない筈がない。楓の件を口に出したことで情緒が乱れたとでもいうのだろうか。
回想に耽けていると、突然彼女の握る手の力が弱まる。彼女の腕の重みが右手に掛かったかと思いきや、するりと俺の掌から抜け落ちそうになって、俺は咄嗟に彼女の手を強く握り返した。
二粒、足元に雫が落ちる。
「櫻木クン、きっとこれは、私じゃない」
彼女は肩を小さく震わせた。
「花野さんを助けたいと私の中で叫んでいるのは、だれ?」
彼女らは演技派な生き物だからね、と付け加えて、東雲海莉は小説の紙を捲った。乾いた音が静まり返った教室の中に虚しく反響する。同時に、獣臭若しくは腐敗集のような、ツンとした嫌な臭いが鼻腔を刺激した。
夏の暑さが残る秋の真ん中、グラウンドからは今日も変わらず雄々しい掛け声が響き、一層眩しくなった陽の光は、世界を銀色に輝かせている。対して、照明を点けるようになった部室の景色は無機質で、まるで時間が止まっているように感じた。まさか、いつも通り足を運んだ部室にこんな惨状が広げられているなんて俺は思いもしなかった。
「あ、ぇ……」
尻窄みでか弱い声が漏れる。彼女のと自分の、二つ向かい合わせにくっつけた机の上に広げられている代物を見て感情が掻き乱された。乱雑に破られた教科書やノート、下品に穴の開けられた体操着とユニフォーム、マーカーで黒く塗り潰された上履きや、折られて袋に詰められた文房具、中途半端に口を付けられたままカビの生えた購買のカツサンド。そして、かつての艶や滑らかな流れをすっかり失った髪が、陰毛を思わせるほど縮れて何本もダマになっている。異臭の正体は間違いなくこれだった。
恐る恐る手を伸ばして翻した教科書の裏には『花野楓』の名が綴られていた。字体は間違いなく彼女、楓のものである。
海莉曰く、これらは全て、女子バドミントン部で楓が使っていた個人ロッカーに押し込まれていたものだという。教科書を退けた場所に、一枚のはがきサイズほどの光沢写真が目についた。写っているのは、喫茶店で俯く俺と、俺の手を両手で包む楓の姿だった。
「櫻木クン、キミのせいじゃない。私はキミの味方だよ」
小説に目を落としたまま海莉はそう呟いた。
海莉の話によれば、ここ一か月ほどに渡り楓は部活のメンバーを中心に虐めを受けていたようだ。一体どうしてと思ったが、机の上の写真がそのすべてを物語っている。虐めの原動力となった理屈は大方すぐに察しがついたし、海莉の言うところにもそれは同じだった。
すなわち、今回虐めの主犯となった女子生徒は写真を餌に「花野楓が現状を利用して櫻木奏芽を横取りしようとしている」といったような噂を立て、周辺生徒および主犯格は制裁を下す感覚で楓に危害を加えたのだった。
俺の恋人、東雲海莉が記憶喪失になったことは学校でも有名な話で、主犯の生徒は楓がそれを利用しようと図ったのだと誤解したのだろう。もしかすれば、写真のデータをSNSで拡散していた可能性だってあり得る。実際、写真に写っている絵面は主犯格の言ったように見えないでもない。
しかし、楓はあの時、寧ろもとの東雲海莉を取り戻すことは出来ないのか、これからどうして行けば良いのかという件で俺にひたすら協力しようとしてくれたのだ。そこに嘘がなかったのはあの温もりが証明してくれる。
ああ、心が苦しい。真実を知ろうともせず主観による決めつけでその人の良心を蔑ろにするとは何と悪逆無道なことか。どうにか報復してやりたい。主犯格は、この写真を撮ったあの日の女子生徒に違いない。距離も距離だったから顔も思い出せないし、そもそもあの時は直接こんな惨劇に繋がるだなんてリスクは考えていなかったから記憶しようという意志すらなかったから、俺には個人の特定は出来そうにない。同じ部活ということもあって楓は顔見知りのようだったが、現状で本人に聞くのは憚られる。それは彼女の心の傷を抉るに違いないから。ならどうする。何が出来るだろう。
楓のこと、海莉のこと、どっちも割り切れないから、同時に処理しようとすると頭の中でごちゃごちゃにノイズが走る。動機が押し寄せて呼吸も荒くなる。頭に血が上って、毛穴からは汗が吹き出した。視界が揺れているのか、または身体が揺れているのかも分からない。
パタンと、目の前で小説が閉じられる。
「櫻木クン、花野さんはキミの幼馴染なんだってね、小耳に挟んだよ」
いつも通りの口ぶりで彼女がそう述べたのならば、混濁とした意識の中、俺は彼女の言葉に耳を傾けることはなかっただろう。しかしどういうわけか、彼女の放った言葉には怒りが混じっているようだった。
不思議に思って彼女の方へ視線を向けると目が合った。その眼力は重く、俺の中の錯乱をその圧力で上から沈めて押し固めてくれるみたいだった。俺の返事を必要とせず彼女は再び口を開く。
「そこに如何なる理由があろうと、こんな残虐行為は到底許されてはいけない。私は実のところの東雲さんではないし、正直、花野さんにキミを奪われようが奪われまいがどうだっていい。ただ、花野さんの行為が倫理的に良くないことなのだとしても、正しさを諭す手段としてこのような行為を選択するのはそれこそ非倫理的で、それ以上に極悪非道だと私は思うよ」
淡々と述べながら、彼女はポケットから大きなビニール袋を取り出して広げ、机上の全てを乱暴にその中へ流し入れた。袋は、保健室前に配布型で設置されている教室のゴミ箱用のものだろう。
「…どうするんだよ、それ」
激しく音を立てて次々と落下してゆく楓の私物を目で追いながら尋ねると、海莉は袋の中身へと冷酷な眼差しを向けた。
「バドミントン部の顧問に突き出すのさ。己の受け持った環境で起きたことを理解させて対応を煽るよ」
言いながら机上を空にすると、彼女は流れる動作で袋の口を縛った。蹂躙された楓の私物が半透明の袋の表面に霞んで映る。見るに堪えず、俺は机に顔を伏せた。
海莉が見せた意外にも真剣な態度に一瞬精神を立て直したものの、改めてその蛮行の末を見て噎せ返りそうになる。
「俺には、何も出来ないのかな」
ごもと口を動かすと同時に、袋が持ち上げられる音がした。
「キミは下手に行動すべきじゃないでしょ。被害者となるはずだった私が動くことで、当事者同士の間に何の因縁もないことが証明できるし、部外者が首を突っ込む問題ではないという道理の表明にもなって、話は丸く収束する」
ハッとして顔を上げる。海莉の中ではまだ、彼女らの誤解は誤解と認識されていないのだ。
彼女は既に俺に背を向け、右手に袋を下げてもう扉を開かんとしていた。誤解を解かねばと咄嗟に立ち上がる。
「ま、待ってくれ! 楓は別に俺を横取りしようとなんかしていないんだ」
俺の発言に応えて、彼女は扉に手を掛けたところで静止した。彼女の態度に一呼吸つくと、俺は言葉を続ける。
「楓は、お前が海莉の身体に入り込んだこととか、これからのこととか、解決に向けて協力しようとしてくれて…それで二人で話してるところを見た女子生徒がいたんだよ。きっとそいつが誤解して、こんなことに――」
「――なら尚更糾弾されるべきだね。真実を知ろうともせず主観による決めつけでその人の良心を蔑ろにするとは何と悪逆無道なことか」
食い気味に言って顔だけこちらを振り向いた彼女の目には、明らかにさっきよりも深い怒りが滲んでいた。また、俺は彼女の言葉に心を貫かれるような感覚を覚えた。さきほど自分の中に湧いた怒気を、彼女が、そのまま、まったく同じ言葉で、明言したからだ。
俺は首肯した後、それを確認して扉を開こうと再び持ち上げられた彼女の反対の手、すなわちビニール袋を引っ提げた方の袖を掴んで引き止めた。今度は何かと、彼女は不満げな面持ちで身を翻す。同時に鋭い眼光が俺の心臓を掠めた。そこに自我を現してからこれまで一度も見たことのない覇気に俺は少しばかり慄くも、持ち直して同じく丹心な眼差しで向き合う。
「それは、俺に持って行かせてくれないか」
俺の言葉を聞いた彼女の表情は変わらなかった。見据えた瞳には一切の揺らぎも生じず、頑としてこちらを捉えている。狩り場に現れた虎を牽制する獅子のようなその圧力は、俺の体をその空間に固定させて連続の開口を許さず、二人の間にはしばらく沈黙が降りた。彼女の中で、今回の件について俺が介入することの意味は見出されていない。
「私が見つけた物だけれど?」
冷静にそう口にした彼女の声は細く、冷ややかで鋭い刃のように感じる。俺はその首元に添えられた刃に身を裂かれぬよう慎重に発声した。
「それは悪いと思ってる。ただお前には他に、頼みたいことがあるんだ」
続く俺の提案を聞いて、彼女はじっくり思案したあと静かに袋を握る手から力を抜いた。袋は張りをなくしてガサガサとまるでゴミ袋のような音を立てて床にへたり込む。それからしばらくの沈黙を経て、彼女は仕方ないなと溜息を吐いて空いた手を俺に差し出した。何の真似だろうかといっとき呆然としていると、彼女は催促するように主張を繰り返す。
「握り返してくれないのかい櫻木クン、キミは私と協力して花野さんを助けたいと思っているんだろう?」
そう言い切る頃には彼女の表情は柔らかくなっていて、平生の自信に満ちた態度で目を大きく開いていた。それでもなお俺が握り返せないでいると、腰の横で脱力する俺の手を彼女は強引に引っ張って自分の手を握らせる。
その時、とうとう握って触れた彼女の掌に違和感を覚えた。思わずそれを目で見て確かめる。
彼女の手は微かに震えていた。
「お前、どうしてこれ…」
ゆっくりと顔を上げて尋ねると、彼女は自分の手の震えにその時初めて気が付いたみたいに目を見開いた。それから狼狽するみたいにいくらか目を泳がせて、とうとう足元に視線を落とした。ふらっと彼女の肩が揺れて、その動作に連動するみたいに半歩俺に寄ってくる。続いて、自嘲気味に笑う掠れた声が聞こえた。ゆっくりとこちらを向いた彼女は困ったような笑みを浮かべていて、まるで、何かに怯えるみたいに瞼を痙攣させていた。
「おい、大丈夫なのか」
彼女の存在が海莉の身体に芽生えてからもう二ヶ月程になるが、先程までの怒りの滲んだ態度といい即今の憂惧するような表情といい、今日、彼女はとにかく様子がおかしい。普段ならば、彼女がこれほどまでに感情的になることはありえないのだ。何事にも達観した態度で、俺の冷たい対応にすら不平を垂れるだけで直ぐに涼しい顔をする彼女。そこに無理が生じていれば俺が気が付かない筈がない。楓の件を口に出したことで情緒が乱れたとでもいうのだろうか。
回想に耽けていると、突然彼女の握る手の力が弱まる。彼女の腕の重みが右手に掛かったかと思いきや、するりと俺の掌から抜け落ちそうになって、俺は咄嗟に彼女の手を強く握り返した。
二粒、足元に雫が落ちる。
「櫻木クン、きっとこれは、私じゃない」
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