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ep.4
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彼女の母親と思われる女性は私に不審な目を向けながら敷居を跨ぐことを許すと、早々に二階の一番奥の部屋へと案内した。鬱蒼とした女性は会釈だけして踵を返し、私は他人の家の薄暗い廊下に一人取り残される。扉の向こうからの音は一切聞こえてこず、近くの工事現場で稼働する重機がコンクリートを砕く深い振動が、壁を介して心を揺さぶった。
彼女は私を知っているらしいがそれは現在一方的なものであって、私は彼女の顔も声も知らないでいる。それを理由に特に往生することもないが、私は彼女を気遣って扉の前でいっとき立ち呆けていた。学校での一件以来同年代の女子の顔を見るのも気の進まないことだろうと想像して、本当に会いに来て良かっただろうかと今更になってぼんやりと考えてしまう。
彼、櫻木クンからは彼女についてのことをほとんど教えて貰っていない。何せ蹂躙された彼女の私物の中にはゴシャゴシャに固められた髪の丸い塊もあって、それが、かつて彼女が毎朝毎晩大切に梳き整えてきた大切なものであったことは、あの時の彼の表情からも察せられる。容姿についても、性格についても、あまり先入観を持って彼女に接したくはなかった。それが、他人の利己主義に付き合う未来を強いられることとなった彼女に対するせめてもの礼儀だと考えた。
「そこに東雲さん、居るんだよね、入っていいよ。え、居るよね?」
突然扉の向こうから響いた明るい声に、一瞬不覚にも心臓が大きく跳ねた。私の心配とは正反対の雰囲気を帯びたその声音にいっとき思考がまごついていると、再び声が聞こえてくる。
「…え、うそ。居るよね、居るんだよね? 気配だけ…? もしかして幽霊…」
やたら抑揚のある、ユーモアに富んだ台詞は、私が中で描いていた像を崩壊させた。拍子抜けな現実に苦笑し、扉の向こうで私の存在を探る彼女に返事をする。
「ああ、いる、いるよ。では入らせてもらうね、花野さん」
気の抜けた歓迎の文言を聞きながらドアノブを捻って扉を押し開く。開けた薄暗い部屋の真ん中には、グレーのラグマットの上に体育座りをして、微笑んでこちらを見つめるショートカットの少女の姿があった。
白い丸首シャツに桃色の薄手パーカーを羽織り、ショートパンツからは白く血管の透けた太ももが露出している。縒れた衿から覗いた水色の下着は肌と密着しておらず、明らかにサイズが大きいように思う。本来支えるべきものを支えられていないことが、私の視点の高さからはよく分かった。初めは外見を盛っているのかと思ったが、こっちにおいでよと手招きされた時に目に飛び込んできた骨ばった指を見て、なるほど彼女は痩せてしまったのだと思い至った。
「一応はじめまして…なのかな、東雲さん」
扉を閉めて彼女のもとまで歩み寄り、対面して正座する。部屋は防音が効いているのか、例の騒音はほとんど籠もったような音に変わった。空気の流れが停止して静まり返った空間に、彼女の妙に元気な声色が不自然に響く。
「うん、私とは初めてだね。花野さんは櫻木クンの幼馴染だと聞いたから、話してみたかったんだ。休日の昼間から都合をつけてくれてありがとうね」
微笑んでそう返すと、彼女は細い指で前髪を弄りながら静かに笑って開口する。
「楓でいいよ。えーと、海莉さん…って、今後の事を思えば下手に名前呼びは良くないか、あはは」
「今後のことって、私が消えた後のことかな。それはブラックジョークも甚だしいことだね」
愉快に放たれた不謹慎に戒めを垂れると、彼女は苦笑しながら二度謝罪した。私も特に気に障ったわけではないから、冗談だよと一言、気前よく付け加えた。
「じゃあ、楓さん。楓さんはもう私のことを知っていると櫻木クンから聞いているけれど、自己紹介は必要ないかな」
私の質問に、楓さんは顔の横に両手でグッドポーズを作って明るく笑う。やはり、学校であんな一件があったのだという事実を私からうっかり忘れさせるようなくらい眩しい表情を浮かべる。今日ここに足を運んだ本来の理由が頭から抜け落ちぬよう我を保たねばと私は強く気を引き締める。
「それでは、以後お見知りおきを」
「うん、よろしく! んーでも、話したいこと色々あるかも。惚気とか惚気とか…あと、惚気とか!」
楓さんは顎に人差し指を当てた後、それを私の方に向けて顔を近づけてきた。
「生憎、楓さんが知る通り私は櫻木クンの恋人の東雲さんではないから、惚気話の一つもしてやれないな。でも彼は面白い人間だ」
楓さんの両肩に手を置いて元の位置まで遠ざけながら呆れ混じりに答え、最後だけ微笑んで話す。そんな私の様子に、楓さんは感心したように目を丸くした。
「面白いの? 凄いね。奏芽はいつも難しい話ばっかするから私ついて行けなくて…昔からずっと、変わってるなあーって、思ってるくらいだよ」
腰の後ろに手をつき、身体を仰け反らせながら天井を見上げて話す楓さんに、普段彼とはどんな話をするのかと尋ねる。楓さんは顔だけこちらに向き直して軽く首を傾げた。
「え、何だろう。高校に入ってからは話す機会減っちゃったけど、昔は数学者の話とかよくしてたよね、文系のくせに」
加えて、何度も飽きるほど聞かされたのだとフェルマーの最終定理の証明に関する流れをある程度完璧にすらすらと述べて、楓さんは、彼が如何に面倒で煩い人間であるかを見事に私に説いてみせた。思わず、楽しくなって笑ってしまう。
「そうなんだね、文系なのに見え張ってたのかな櫻木クンは」
「あはは、そうかも! でも最近はもっと難しくなったんだよ。なんかエネルギーがどうとか、光の粒が波で相互作用して…とか。量子論とか言ってたかな、物理の分野なんだって。ど文系のくせに!」
続けて楓さんは、しかし、彼がそういった内容を学ぶ目的はそれそのものの知識を得ることではなくて、自分の見ている世界や、生きていく上で経験する悩みなど、不具合を様々な角度から見て考える能力を身につけることなのだと話した。問題に対して、科学的、または哲学的な回答を臨機応変に提示できるような人間になりたいと、彼自身が願っているのだと。
ただやはり科学の分野に関心が偏っているように感じるのだと楓さんは微妙な表情をして述べる。粒とか波とか、よく聞く単語がとうとう彼女の口からも転がり出てきたものだから、今度は呆れの混じった笑いが浮かんできた。
「それについては私にも時々話してくれるよ、ど文系のくせに。私はあまり詳しくなかったけれど、そういった類の本を読んで勉強して、少しは彼の言ってることが分かるようになってきたところだよ、最近ね」
彼の蘊蓄話においてはと苦い表情で応えると、楓さんは再び身を乗り出した。
「へえ、凄いね。奏芽は説明が下手くそだから、じゃあいつか東雲さんに教えてもらおっかなあ!」
やはり感心したような眼差しを向け、楓さんは私の左手を自分の両手で包むと意外にも興味深そうに目を光らせた。全く嫌な気はしなかったが、その底抜けに明るい表情に私は少しばかり意地悪な気持ちが湧く。
「私が消える前に、叶えば良いけどね」
冗談っぽく皮肉を吐くと、楓さんは興冷めとばかりに語尾の伸びた謝罪を述べた。くすりと笑って私も謝罪して、不貞腐れた楓さんの背中をさすって宥めながら話を続ける。
「でも彼、大学は哲学科を目指してるらしいね。あれは何だこれはどうしてだと探ってきた彼にとって、まさに理想的な進路なのかもしれない。そういった性格を踏まえたうえで、自己分析の末に彼は量子力学という学問まで辿り着いたのだから。この世で最も小さく、同時に、力場として捉えれば最も大きなものの存在に触れた喜びはどんなものだっただろうか」
あれだけ数学や科学の分野に多大な関心をもっていても、それらを学ぶための能力を上手く育めずに文系に進むことを選択せざるを得なかった櫻木クン。ただ、楓さんの話から彼の関心の本質には思考する行為そのものがあるのだとはっきりした。だから、きっと本人も気付いているのだろうが、彼にとって、心理を探求する知的営みである哲学を学ぶべく進学する選択は適切なものだと思う。
考え耽けていると、楓さんが腕の中でぐりぐりと身を捩ったためそちらに意識を向け直す。
「東雲さん東雲さん、その奏芽みたいになってるよー」
自分に構ってくれと言わんばかりに不満げに訴える様子はまるで仔猫のようだと思った。一呼吸置いて謝ると、楓さんは次に私の胸に顔を埋めた。
「──なんか、二人って似てるね。今だって私、東雲さんと話してるようで奏芽が見えてるよ」
そう寂しそうな声で小さく呟いて、楓さんは私の胸の中でしばらくの間動かなかった。私はそんな楓さんを両腕で優しく包んで、何か出来ることも思い付かずにいた。
「楓さん」
大丈夫かと確認の意図を込めて探るように名前を呼ぶも返事は貰えず、少しばかりの沈黙の後、その代わりみたいに楓さんは一度深呼吸をした。
「ううん、何でもない!」
胸に顔を埋めたまま頭を左右に振ってそう言うと、楓さんは勢いよく身体を起こす。
「それより東雲さん、きっと私のこと心配して来てくれたんでしょ? 適当なこと言ってその気持ちを無下にしたくないし、せっかくだからちゃんと話すよ。聞きたいこと、あるんでしょ?」
乱れた髪を手櫛で梳いて整えながら私に向き直して、改めるように楓さんは苦笑した。それが、私が今日ここへ来た理由を既に見通していた上で、今、それに応えようと覚悟を決めた瞬間であると、私は身勝手にもそう解釈した。
実際、そうしなければ状況は停滞して本来の話が出来ないままここの場所を去らねばならなくなるのだから。
腹をくくると、私も表情を引き締めて、楓さんの覚悟に応えるよう首肯した。そうしてゆっくりと口を開く。
「今日は櫻木クンの提案がきっかけで来たんだ。休み時間にクラスメイトから聞いた話では、楓さんが現状を利用して私――いや東雲さんから櫻木クンを横取りしようとしているということだった。けれど、櫻木クンが言うには、楓さんは自分に寄り添ってくれただけで、喫茶店で二人で話していたところを同じ学校の女子生徒が見てきっと誤解したんだ、と」
楓さんは私の話を聞くと薄く目を閉じて頷いた。それから再びゆっくりと目を開けて、あのね、と語り始める。
「私、自分で言うのもなんだけどバドミントン上手いんだ。部活で出場した大会じゃ負け知らずだし、トロフィーだって沢山持ってるんだよ。進路だって、それで推薦取ろうと思えば間違いなく取れたくらい」
「へえ、凄い」
感心してこっそり部屋を見渡しても、トロフィーは一つも見当たらなかった。リビングにでも飾っているのだろうか。
楓さんは続ける。
「浅野真衣ちゃんって、同じバドミントン部の子。スポーツ推薦でこの高校入ったんだって。真衣ちゃんはスポーツコースで、私は文理進学コースだからかな、大会で私の方が良い成績を残すといつも嫌なこと言ってきたり、あることないこと噂広められたりはずっとあったんだ。これまでは、みんな真衣ちゃんの言うことは話半分って感じだったけど、今回は写真があったでしょ。何枚か撮られてたみたいで、あの日私が奏芽の手を握った瞬間があったんだけど、それもばっちりあったんだよ。それが決め手だったのかは分かんないけど、みんな急に真衣ちゃんの話真剣に聞き始めてさ、これまでの嘘の噂も悪口も、全部本当のことになっちゃったみたい」
話しているうちに楓さんの唇は徐々に震えだして、私に向いていた視線も今や自分の足元の方へと落ちてしまった。ショートパンツの裾はギュッと握り込まれてシワが寄っており、拳と接する太ももの表面は強く圧迫されて赤く変色している。その腕も肩もわなわなと震えているように見えた。
その震えは悲しさ故かそれとも悔しさか、または怒りであろうか。きっと私が想像したどの感情も含まれているのだろう。そしてそれ以上の数の感情も、日本語には存在しないような感情も、楓さんすらも認知し得ない心があるに違いないのだ。思い出されるのは蹂躙された物たちと、楓さんにとってはその全ての日々。
そうだ、あれだけ乱雑に切られてしまっていた髪はどうなったかとふと思い浮かんだ疑問と今の彼女の髪型とが一致する。
ショートカットの訳は、勿論そこにあったのだ。
しかしこれに私が狼狽えてしまっては、その行為は楓さんの覚悟に泥を塗るのと同義である。あくまで私の役目は、楓さんの話を聞いて、櫻木クンにバトンを繋ぐことだ。
楓さんは一層強く拳を握って口を開いた。
「始めはね、ただのダル絡みだったんだよ。お似合いだとか、もっとがっつけだとか言われるのを笑って聞き流してたら、段々と、男については根性無しとか誑かしてるだけとか、何人も手駒にしてるだとか尾ヒレがついてさ、気が付いたら部活以外の女子もみんな敵になってて」
そこまで話して、楓さんは下を向いたまま何か思い出したように小さく声を零した。そして続ける。
「そういえば、私の持ち物も失くなり始めたんだ。最初は教科書とかノートが失くなって、ああこれは隠されたなぁって思ってたんだけど、結局エスカレートして、みんな私にノートがないなら筆記用具も使わないよねとか言って目の前でペンとか折られちゃって。しかもそれを見せつけるみたいに机の上に放り出すんだ。流石に私も怒っちゃってさ、見たくもないから退かしてって、自分たちで持って帰ってって。その後どうなったのかな、まさかみんな持って帰るわけ無いし、どこに捨てたんだろう」
早口で捲し立てると、楓さんはとうとう、両手で自分の髪を押さえた。
「私の髪、どうしちゃったんだろうね。東雲さん、知らない?」
眉をハの字に傾け、力んで痙攣した瞼に見開かれた瞳は揺れていた。眉間に皺も寄っており、その狂気じみた表情で楓さんは私の名を呼び、同時に私を見た。
想像はしていたことだが、狂った人間の形相とは実際に対峙すると心臓が縮むような痛みがするものだ。
「楓さんはバドミントン部を退部したんだってね。そういう一連の仕業があった時、既に部活には顔を出していなかったのかい」
楓さんが既に退部していたならば、自分の個人ロッカーに詰められた私物を見る機会はなくて当然のことだった。切り離され無惨にも押し固められた自分の分身を見る機会も。
楓さんは小さく、首を縦に振る。私は一呼吸を置いた。
「楓さんが探してるものは、全て部活の個人ロッカーにあったよ。丁寧にも、きっと貴女を嬲っただろう本人たちが案内してくれたんだ。不愉快の極みだけれど、報復の代理人面をしてね」
私が淡々と述べると、こちらを見たまま固まっていた楓さんの目からは静かに涙が溢れた。顔は紅く染まり、額には汗が流れ、息も荒い。深呼吸にも見えるが、吐かれる息は震えていた。
震えて掠れて、ほとんど嗚咽みたいな、声にならない声でそれをどうしたのかと尋ねられる。
「袋に詰めて柳先生に突き出すつもりだったけど、櫻木クンが渡せと言うから渡してきたよ」
そう答えた途端、楓さんは勢いよく顔を上げて私の肩を掴んだ。
「どうして奏芽に見せるのよっ! ありえないっ! やめてよっ!」
唾が飛ぶほど激しく叫ばれ身体を揺さぶられ、私は咄嗟に防御姿勢を取る。顔の前で両腕を交差させる私を見て、楓さんはハッとして距離を取った。
「ご、ごめんっ…なさい……」
掴まれて皺の寄ったシャツを直しながら、私は気にしなくていいよと楓さんを宥める。楓さんはベッドに寄り掛かって過呼吸気味になっていた為、そちらへ近づいてゆっくりと謝罪を繰り返しながら楓さんの背中をさすった。
しばらくそのままで、楓さんが落ち着きを取り戻すのを待っていた。十数分くらい楓さんを腕に抱きながらぼんやりと部屋を見渡して、その途中に、机と壁の間に折れ曲がったバドミントンラケットが転がっているのを見つけた。
ガットは切られ、曲がってエッジの立ったフレームはアルミ板が切断されて外側へと反り返っていた。グリップのテープは剥がされて所々引き伸ばされたみたいに縒れており、巻き直しがもう意味を成さないことは一目瞭然だ。テープが剥がされた事によって露呈した木材も、まるで岩に撲り付けたみたいに凸凹している。シャフト部分は折れてはいないが湾曲しており、全体の損傷具合からして、どのみち修復が効かないことなど、私のような素人目にも分かる。
腕の中で、楓さんが涙を拭う。気がつけば先程までの震えも随分と収まり、呼吸も正常に戻っていた。
「ごめん。迷惑かけたよね、東雲さん」
負い目を感じているのか、楓さんはこちらに顔を向けず下を向いたままもごもごとそう口にした。
「大丈夫、大丈夫だよ。辛い思いをさせてしまってごめんね」
何度かそんな感じの言葉を投げかけて、気がつけば楓さんを腕に抱いてから二十分程度が経過していたことに気が付いた。
「奏芽、それ見て怒ってたでしょ」
やはり下を向いたまま、どうせ復讐でも考えたんじゃないかなと付け加えて楓さんは掠れた笑みを零した。
部室で内容を見せた時の櫻木クンの反応を思い出す。怒りは勿論あったが、それよりもあの時の彼の反応は、寧ろ今の彼女に近かったのではなかろうか。悲しみや悔しさとか、まるで自分自身のことのように震えてはいなかっただろうか。私自身も何だか冷静ではなかったから彼の様子を鮮明に覚えているわけではないが、だがきっとそうだった。
「うん、とても怒っていたね。でもそれ以上に、悲しんでいたようにも私には見えたよ。彼はそういった言葉は一言も口にはしなかったけれどね」
楓さんはその言葉を聞いてゆっくりと顔を上げた。こちらを見たわけではない。だがその横顔はどんな言葉で形容すれば良いだろうか、私には分からない。悲しみ、喫驚、悔しさ、嬉しさ、それら全てを含む感情を私は確かに知っている。しかしそれを言い表す為の言葉を知らない。言葉というのは不完全なものだ。当て嵌めてしまえばその言葉が持つ意味それ以外を削ぎ落としてしまい、思考と行動との整合性を失くしてしまうのだから。
そういえば最近読んだ言語的思考に関する本にゲボーゲンハイト──Geborgenheit──というドイツ語が紹介されていた。直訳は出来ず、日本語で解釈するならば「安心」と似た意味を持つ単語なのだそうだ。しかしもっと深く、愛情や穏やかさ、平生や理性的対応とかなんだかそういう、「芯の自分」を掴んだ時の全ての感情が固着した安心感のような概念を指す言葉だそうで、楓さんの表情を無理やり表現しようものなら、そういう言葉を充てようと私は思う。
「あのね東雲さん」
楓さんはこの狭い部屋の中でどこか遠いところを見たまま、私に言葉を向けた。
「奏芽に伝えてくれて、ありがとう。私はきっと言えなかったと思うんだ」
自分の肩に回っている私の手に、楓さんはそっと掌を重ねた。とても熱い掌だった。
そしてやはり、楓さんはずっと不思議な表情をしている。先程述べたように、日本語的思考を行う私からすると理解に苦しむ表情で、だから何と返事をすれば良いか分からない。私は楓さんが何かを話しても、執拗に無言を貫かねばならなかった。
「ねえ東雲さん。貴女には奏芽の世界が見えてるの? 私はずっとそれが見たいと思ってる。だけど遠いんだよ、昔から、ずっと」
独り言ではなしに、きちんと私に語りかけてくる。
私に、とはどっちに対してだろうか。〈東雲海莉〉に対してか、それとも〈私〉に対してか。楓さんは今、視線を向けている先で、誰に話しかけているのだろう。
一度狂気に陥った者の思考言語は母国語を離れがちで、統合失調症とも似た状態となる。脳内意味ネットワークで、代表的なネットワーク指標であるスモーワールド性が減少し健常者よりもネットワーク構造が無秩序化されるためだ。
また、統合失調症と天才思考の間には相関性があると言われている。スイスの心理学者ブロイラーは、統合失調症の基本症状の一つに連合弛緩を挙げた。これは事象と事象との間の連合、つまり結びつきの思考が緩んでしまうことだ。しかしそれによって、逆に、本来結びつかないはずの事象同士に結びつきの思考が発生し、関連付けの思考をしてしまうといった現象が起きることがあるようだ。アイデアの作り方には「物同士の関連付けを行う」という基本的な思考プロセスがあるが、天才はこれを応用させ、微妙に異なる次元の物と物とを関連付けることが多々ある。
私が東雲海莉でないことの証明は出来ないが、私が自己意識を持っていることが確かである以上、私が私自身の存在を否定することも出来ない。これは所謂、デカルトの「我思う、故に我あり」に通づる考え方であり、こういった哲学的思想に像を見出すのもまた天才的思考の結果ではないだろうか。
さて、楓さんの放った〈東雲さん〉が指すのは〈私〉だろうか。それとも、楓さんが見ている遠い景色、その場所にはどこかへと消えてしまった〈東雲海莉〉が見えていて、楓さんが話しかけているのはそこに在る像なのだろうか。
何も見えない私には、やはり、何か返事を声に出すことは出来なかった。
またしばらく楓さんの不思議な雰囲気に見入っていたが、彼女が肩の力を抜くように小さく細く息を吐いて私を見た為、目の前の現実へと強制的に意識を向けさせられる。優しく笑いかける楓さんの表情は、今日私がこの部屋に入って最初に目にした表情と重なった。
そしてこの時、楓さんはこれまで一度だって私を見てはいなかったのだということに、初めて気が付いた。
楓さんはいつか、私を見ているようで櫻木クンを見ているのだと発言した。それがどういう意味なのかは分からないが、楓さんが見ていたのは常に私ではない何か、もしくは何処かであったのだと、私はふと思い至ったのだ。
楓さんは一度唾を飲み込んで、両手で自分の顔を軽く叩いた。それからよしと小さく意気込んで、やはり初めて、私の目を見つめた。そして、捲し立てた。
「私ね、奏芽が東雲さんのことを好きだって知った時は凄く落ち込んで、いっぱい泣いたんだよ。だけどいつからか、楽しそうに東雲さんと過ごす奏芽の背中を遠くから見る度、私も幸せに感じるようになってきたんだ。だからそれでいいやって、ずっと思ってた」
楓さんはかつての失恋を語った。話せば話すほど頬は紅潮し、緊張しているのか声も震えて目尻には涙が浮かんだ。
「なのに! 貴女が現れてから、奏芽は自然に笑わなくなった! 貴女が奏芽を不幸にしてるんじゃないかっていっぱい奏芽のこと心配したの! だけど…」
とうとう楓さんの頬を一筋二筋と雫が伝い、足元のラグマットには涙痕が浮かび上がった。それでも尚、彼女は私から目を離さず、瞬きもせず、大きな瞳を覆った涙で輝かせながら丁寧に言葉を重ねる。
「――だけどね、奏芽は貴女のこと、一番の理解者だと思ってるよ、きっと」
その発言に、私の頭には疑問符が浮かんだ。楓さんは切なそうな表情を浮かべると、私の疑問を汲み取ったのか、苦笑して言葉を述べ始めた。
「どういうことって顔してる、やっぱり。あのね、私さっき、二人は似てるねって言った。それはね、本当にそうなんだよ。奏芽が言ったんだ、精神と肉体の捉え方が貴女と自分は似てるんだって。楓は分かってないだろうから説明するねって。初めて知った考え方だったの。でも貴女はずっと、暗黙のうちから奏芽とそれを共有してた。話題の出し方だって同じだよ。同じ世界を見てるんだよ、きっと二人ともさ。だから今日もずっと、私には奏芽が傍に居てくれてるみたいで、辛いんだよ」
楓さんから吐き出された息は震えていたが、本心を言い切ったわけではなさそうだ。一度涙を拭って、彼女は腫れた目を再び私に向ける。私が見たのは、これまで以上に決意の宿る瞳だった。
「私、奏芽が好き。昔からずっと、そうなんだよ」
その告白にまるで私自身が答えを出さねばならないような空気感が漂って狼狽える。彼女は私が何か言うまで無言を決め込むような強い眼差しで私を捉えて放そうとしなかった。
同時に、私は彼女に対する虐めの空気を作り出したモノの存在を掴んだ気がした。楓さんが櫻木クンに想いを寄せているのだといった雰囲気は、長く時間を共にしていれば何となく伝わるものだったのだろう。浅野真衣という生徒は、そこに付け込んだのではないだろうか。
いっときの沈黙の後、楓さんは溜息を漏らした。
「ごめんね、東雲さんに言っても、仕方ないよね。分かってる、分かってるよ」
枯れた声で楓さんは自嘲気味に笑う。私は何を言うべきでもないのだと何となく察して、ただ楓さんの一連の表情や動作に注目していた。
「──全部、忘れてね」
最後にそう言って一筋涙を流し含羞む彼女。それでいいのかと尋ねるのは野暮だろうと思った。
彼女は立ち上がると、ベッドに膝立ちで上がってカーテンを開けた。窓の外には、丁度残照の淡い夕焼け空が広がっていた。住宅街の奥に構えた山の背は橙色に輝き、白い帯状の後光が刺して街の景色を霞ませている。飛び過ぎ去ってゆく鴉の群れが時々光を遮って、世界を瞬かせた。
突然紅い光が漏れ込むと、冷たく褪せた部屋は思い出したかのように色と温度を取り戻す。私は逆光でほとんどシルエットとなった楓さんの背中を見上げた。
「エンジェル・ラダーっていうんだっけ。綺麗だね、東雲さん」
楓さんが窓から外の景色を眺めて零す。これはただの後光だよと訂正したいが今はよそう。腰の横で脱力した彼女の手。指先は光を透いており、そこからゆっくりと景色に融けて消えてしまいそうな儚さを孕んでいる。それは幻想的で、美しかった。
「そうだね」
それからほんの数十秒の間に光の帯も山の後ろ側へ隠れてしまって、街はとうとう山の影に飲み込まれた。夕焼けの空だけが高い彩度を保ち、その圧倒的な存在感の下に街の空気は押し固められた。コンクリートは重く、人の歩みは遅い。音すら滅多に聞こえはしなかった。そうだ、気が付けば工事の音も完全に止んでいた。
「この後、どうするの?」
楓さんは心機一転した様子でピシャリとカーテンを閉めて私を見下ろした。膝立ちをやめてベッドに腰掛け、私に帰らなくても良いのかと尋ねる。
「勿論、そろそろお暇させてもらうさ。今日はどうもありがとう」
私は立ち上がってそう返事をするが、何だかそう直ぐにはこの場を後にし難いものだなと苦笑する。そんな私の様子を察したのか、彼女は静かに笑ってこちらに手を差し出した。その仕草に既視感を覚える。
「ありがとうはこっちのセリフだよー。またいつ会えるか分からないけど、次会った時も仲良くしてくれたら嬉しいな!」
「会えるか分からないというのは、次に顔を合わせたときには私が消えてしまっているかもしれないからかな」
楓さんの発言にそう誂いを重ねて反応を楽しもうと思ったが、彼女は意外にも大人びた表情を浮かべて腰を上げた。私は一歩後ずさりする。
「それは深読みし過ぎかな」
穏やかな表情で私の手を掴んで両手で握ると、楓さんは再び口を開いた。
「きっとまた会おうね。奏芽にもよろしく!」
そうだ玄関まで送るよと、楓さんは私の返事を待たずして扉を開ける。
どうやら感情の起伏が激しい人物だなと今更ながら私は驚いて、楓さんの後ろに続いて部屋を出た。階段を降りてリビングの前を過ぎる瞬間、最初に私を出迎えてくれた女性と目が合う。ソファに腰掛けたままこちらを凝視した女性は目を大きく見開いて両手で口を抑え、身体を震わせている。
どうかしたのだろうかと心配したが、次の瞬間、私は女性の様子のわけを彼女、楓さんの口から知らされる。
「この扉を開くのが、三歩目だよ!」
自慢げに私に笑いかける楓さんの震えた膝を見て、ああそうか、学校に来なくなってから一ヶ月間、彼女はあの冷たい部屋に籠もっていたのだと察する。同時に、彼女がここ数十分の間に一気に歩数を重ねていたことも。
一歩目は、外の世界を見ること。カーテンを開いて、実際に広がった世界に意識を飛ばすこと。
二歩目は、自室から外へと踏み出すこと。自分以外の存在や目に見えない空間を意識して呼吸する事の恐ろしさを受け入れ、対峙すること。
カチャリと押し開かれた扉の向こうは既に薄暗く、街灯の明かりがぼんやりと周辺の景色を浮かび上がらせている。昼間と比べて随分と冷えた街の空気が肌の表面をじんわりと覆ってゆく。
「…日が沈んだ後で良かった。ちょっと寒いけど、丁度いいや」
空を見上げて零す楓さんの声は抑揚のある可愛らしいものだったけれど、明るさの中に僅かな寂しさが混じっているように聞こえた。
三歩目は、靴を履いて玄関の扉を潜ること。この広い世界の中に己の存在を晒して、生きていることの恐怖に自分自身が混じり合ってゆくこと。
こういった歩数は、彼女が開眼して改めてこの世界に向き合う為に必要な長い旅だった。言うなれば、楓さんにとって部屋に籠もっていた時間は、完全変態する生物の蛹期間のようなものであって、自分の中で世界を再構築するための準備期間だったのだ。それから蛹の皮を破り羽を伸ばして乾燥させる、その過程こそが彼女にとっての歩数だった。
一旦世俗から距離を置き、デカルト的思考体系で生じる世界の中に意識を移して過去と現在を客観視することにより、これまで自が呼吸してきた世界は何者かに与えられるあくまで他人のものであったという意識が芽生える。謂わば精神の独立、自己の創設、既存世界からの離脱。それはフロイトが唱えたエディプス・コンプレックスの克服とも言えようか。この場合、社会的事象を家庭主義的にカテゴライズしていると批判した、フロイトの弟子ラカンの解釈がふさわしい。
父親殺しのオイディプス。その本質は母親に性的欲情を持って父親に強い敵意を示す彼の人生を描いた物語ではなく、それが揶揄する事柄ではないだろうか。すなわち、ラカンの批判に準えば、父親──己よりも上位に位置する人物や権威──から与えられた世界観の中で生きているうちに芽生え始めた自己が、己の中から生じる世界で生きていこうと葛藤し、父親による世界の殻を破ろうと働く。
社会には父親の変わりをする要素がありふれていて、私たちは最初、そういう様々なものから与えられた世界の中で生きることを無自覚に強いられる。しかしある段階でモラトリアム人間となって、その期間、私たちは社会への同化を拒みながら自己の世界を構築し始める。父親殺しならぬ、過去殺し。強要された世界観の破壊と、自分の内側から生じた世界の誇示。それが社会と同化するための必須条件である。
本来、モラトリアム人間は自己の成長に伴って内面から生まれてくるものである。それ故に、人々はゆっくりと、丁寧に世界の再構築に成功してゆく。しかし彼女はそこに他者からの強烈な介入を受け、それを乱雑にかき乱されてしまった。もしかしたら、彼女の世界は再構築の過程でぐちゃぐちゃに破壊されて、もう二度と発現しなかったかもしれない。既存世界も、デカルト的思考体系の上に生じる世界も破壊され、彼女の世界は未来永劫この世から失われてしまっていたかもしれない。
だが、楓さんは世界の再構築に成功した。つまり、エディプス・コンプレックスを克服した。
そして彼女は気付く。引き続き自分が生きてゆかねばならない世界は、ほとんど全体的に、物事の基準が常に変化を続け同時に相対性を生み出すという、不確定要素で構成されているのだということに。
「楓…!」
背後から感極まったような声が轟いて、二人してその声のした方へ振り返ると、今しがたリビングで震えていた女性がそこには立っていた。
「お母さん…」
彼女はその女性を母と呼称して、少しばかり居心地悪そうに視線を泳がせた。娘の顔を見ないで過ごした一ヶ月間を想像して、私は母娘の再会を邪魔するわけにはと思い至る。
「また何らかの形で連絡を寄越すよ、楓さん。私はこれで失礼するね」
玄関を出て、お邪魔しましたと一応彼女の母親にも挨拶してから背を向ける。
こんな、たった数時間の出来事で元の彼女を取り戻せはしない。いや、きっともう二度と以前の彼女が戻ってくることはないだろうと思う。自我の再構築を得て一度感覚に焼き付けた世界は、元の世界とよく似て錯覚することはあれど、それとは似て非なるものであり、崩れはしないものだ。それこそ、記憶喪失にでもならない限り。
しかし新しく見えるようになった悲しく曖昧な世界で生きてゆくのが一概に悪いことだとは言えないと私は思う。曖昧なものであるから、それがその時々の自分にとって良いものであるか悪いものであるかすらもはや自らの手中に収まったことである。楓さんの世界は美しくあるだろうか。
さて、空の色も随分と深まってきた。楓さんはもうほとんど大丈夫だろうが、結局虐めの件はどうしようか。今日聞いた事を櫻木クンに話して、バドミントン部の顧問である柳先生に話を通すという話はしっかりと覚えている。
そうだ、櫻木クンだ。蹂躙された楓さんの私物を目の当たりにしてからというもの、彼の様子はどこか不自然だった。幼馴染があんな状況に陥ってしまったことを知って情緒が乱れるのは自然なことだが、まるで本人の意とは関係のないところで衝動が湧いていたような妙な雰囲気。いつもなら静かに物を言う彼の言葉はあの時は刺々しくて、妙に私の記憶の浅いところに焼き付いていた。
そこまで考えてふと立ち止まる。まだ後ろの方で母娘の話し声が聞こえる距離だった。
「――はて、そんな様子だったのは彼の方だったか」
そう小さく声に出したところで膝の力が抜ける。ガクンと視点が下がって平衡感覚がくるりと一転すると、私は眠りに落ちたように身体の自由を失った。所謂金縛り状態に陥ったのだと認識しながら暗転してゆく景色に意識を落とし込み、とうとう身体が地面にへたり込む寸前、私は堕ちた。
それはきっと、刹那の出来事だった。
彼女は私を知っているらしいがそれは現在一方的なものであって、私は彼女の顔も声も知らないでいる。それを理由に特に往生することもないが、私は彼女を気遣って扉の前でいっとき立ち呆けていた。学校での一件以来同年代の女子の顔を見るのも気の進まないことだろうと想像して、本当に会いに来て良かっただろうかと今更になってぼんやりと考えてしまう。
彼、櫻木クンからは彼女についてのことをほとんど教えて貰っていない。何せ蹂躙された彼女の私物の中にはゴシャゴシャに固められた髪の丸い塊もあって、それが、かつて彼女が毎朝毎晩大切に梳き整えてきた大切なものであったことは、あの時の彼の表情からも察せられる。容姿についても、性格についても、あまり先入観を持って彼女に接したくはなかった。それが、他人の利己主義に付き合う未来を強いられることとなった彼女に対するせめてもの礼儀だと考えた。
「そこに東雲さん、居るんだよね、入っていいよ。え、居るよね?」
突然扉の向こうから響いた明るい声に、一瞬不覚にも心臓が大きく跳ねた。私の心配とは正反対の雰囲気を帯びたその声音にいっとき思考がまごついていると、再び声が聞こえてくる。
「…え、うそ。居るよね、居るんだよね? 気配だけ…? もしかして幽霊…」
やたら抑揚のある、ユーモアに富んだ台詞は、私が中で描いていた像を崩壊させた。拍子抜けな現実に苦笑し、扉の向こうで私の存在を探る彼女に返事をする。
「ああ、いる、いるよ。では入らせてもらうね、花野さん」
気の抜けた歓迎の文言を聞きながらドアノブを捻って扉を押し開く。開けた薄暗い部屋の真ん中には、グレーのラグマットの上に体育座りをして、微笑んでこちらを見つめるショートカットの少女の姿があった。
白い丸首シャツに桃色の薄手パーカーを羽織り、ショートパンツからは白く血管の透けた太ももが露出している。縒れた衿から覗いた水色の下着は肌と密着しておらず、明らかにサイズが大きいように思う。本来支えるべきものを支えられていないことが、私の視点の高さからはよく分かった。初めは外見を盛っているのかと思ったが、こっちにおいでよと手招きされた時に目に飛び込んできた骨ばった指を見て、なるほど彼女は痩せてしまったのだと思い至った。
「一応はじめまして…なのかな、東雲さん」
扉を閉めて彼女のもとまで歩み寄り、対面して正座する。部屋は防音が効いているのか、例の騒音はほとんど籠もったような音に変わった。空気の流れが停止して静まり返った空間に、彼女の妙に元気な声色が不自然に響く。
「うん、私とは初めてだね。花野さんは櫻木クンの幼馴染だと聞いたから、話してみたかったんだ。休日の昼間から都合をつけてくれてありがとうね」
微笑んでそう返すと、彼女は細い指で前髪を弄りながら静かに笑って開口する。
「楓でいいよ。えーと、海莉さん…って、今後の事を思えば下手に名前呼びは良くないか、あはは」
「今後のことって、私が消えた後のことかな。それはブラックジョークも甚だしいことだね」
愉快に放たれた不謹慎に戒めを垂れると、彼女は苦笑しながら二度謝罪した。私も特に気に障ったわけではないから、冗談だよと一言、気前よく付け加えた。
「じゃあ、楓さん。楓さんはもう私のことを知っていると櫻木クンから聞いているけれど、自己紹介は必要ないかな」
私の質問に、楓さんは顔の横に両手でグッドポーズを作って明るく笑う。やはり、学校であんな一件があったのだという事実を私からうっかり忘れさせるようなくらい眩しい表情を浮かべる。今日ここに足を運んだ本来の理由が頭から抜け落ちぬよう我を保たねばと私は強く気を引き締める。
「それでは、以後お見知りおきを」
「うん、よろしく! んーでも、話したいこと色々あるかも。惚気とか惚気とか…あと、惚気とか!」
楓さんは顎に人差し指を当てた後、それを私の方に向けて顔を近づけてきた。
「生憎、楓さんが知る通り私は櫻木クンの恋人の東雲さんではないから、惚気話の一つもしてやれないな。でも彼は面白い人間だ」
楓さんの両肩に手を置いて元の位置まで遠ざけながら呆れ混じりに答え、最後だけ微笑んで話す。そんな私の様子に、楓さんは感心したように目を丸くした。
「面白いの? 凄いね。奏芽はいつも難しい話ばっかするから私ついて行けなくて…昔からずっと、変わってるなあーって、思ってるくらいだよ」
腰の後ろに手をつき、身体を仰け反らせながら天井を見上げて話す楓さんに、普段彼とはどんな話をするのかと尋ねる。楓さんは顔だけこちらに向き直して軽く首を傾げた。
「え、何だろう。高校に入ってからは話す機会減っちゃったけど、昔は数学者の話とかよくしてたよね、文系のくせに」
加えて、何度も飽きるほど聞かされたのだとフェルマーの最終定理の証明に関する流れをある程度完璧にすらすらと述べて、楓さんは、彼が如何に面倒で煩い人間であるかを見事に私に説いてみせた。思わず、楽しくなって笑ってしまう。
「そうなんだね、文系なのに見え張ってたのかな櫻木クンは」
「あはは、そうかも! でも最近はもっと難しくなったんだよ。なんかエネルギーがどうとか、光の粒が波で相互作用して…とか。量子論とか言ってたかな、物理の分野なんだって。ど文系のくせに!」
続けて楓さんは、しかし、彼がそういった内容を学ぶ目的はそれそのものの知識を得ることではなくて、自分の見ている世界や、生きていく上で経験する悩みなど、不具合を様々な角度から見て考える能力を身につけることなのだと話した。問題に対して、科学的、または哲学的な回答を臨機応変に提示できるような人間になりたいと、彼自身が願っているのだと。
ただやはり科学の分野に関心が偏っているように感じるのだと楓さんは微妙な表情をして述べる。粒とか波とか、よく聞く単語がとうとう彼女の口からも転がり出てきたものだから、今度は呆れの混じった笑いが浮かんできた。
「それについては私にも時々話してくれるよ、ど文系のくせに。私はあまり詳しくなかったけれど、そういった類の本を読んで勉強して、少しは彼の言ってることが分かるようになってきたところだよ、最近ね」
彼の蘊蓄話においてはと苦い表情で応えると、楓さんは再び身を乗り出した。
「へえ、凄いね。奏芽は説明が下手くそだから、じゃあいつか東雲さんに教えてもらおっかなあ!」
やはり感心したような眼差しを向け、楓さんは私の左手を自分の両手で包むと意外にも興味深そうに目を光らせた。全く嫌な気はしなかったが、その底抜けに明るい表情に私は少しばかり意地悪な気持ちが湧く。
「私が消える前に、叶えば良いけどね」
冗談っぽく皮肉を吐くと、楓さんは興冷めとばかりに語尾の伸びた謝罪を述べた。くすりと笑って私も謝罪して、不貞腐れた楓さんの背中をさすって宥めながら話を続ける。
「でも彼、大学は哲学科を目指してるらしいね。あれは何だこれはどうしてだと探ってきた彼にとって、まさに理想的な進路なのかもしれない。そういった性格を踏まえたうえで、自己分析の末に彼は量子力学という学問まで辿り着いたのだから。この世で最も小さく、同時に、力場として捉えれば最も大きなものの存在に触れた喜びはどんなものだっただろうか」
あれだけ数学や科学の分野に多大な関心をもっていても、それらを学ぶための能力を上手く育めずに文系に進むことを選択せざるを得なかった櫻木クン。ただ、楓さんの話から彼の関心の本質には思考する行為そのものがあるのだとはっきりした。だから、きっと本人も気付いているのだろうが、彼にとって、心理を探求する知的営みである哲学を学ぶべく進学する選択は適切なものだと思う。
考え耽けていると、楓さんが腕の中でぐりぐりと身を捩ったためそちらに意識を向け直す。
「東雲さん東雲さん、その奏芽みたいになってるよー」
自分に構ってくれと言わんばかりに不満げに訴える様子はまるで仔猫のようだと思った。一呼吸置いて謝ると、楓さんは次に私の胸に顔を埋めた。
「──なんか、二人って似てるね。今だって私、東雲さんと話してるようで奏芽が見えてるよ」
そう寂しそうな声で小さく呟いて、楓さんは私の胸の中でしばらくの間動かなかった。私はそんな楓さんを両腕で優しく包んで、何か出来ることも思い付かずにいた。
「楓さん」
大丈夫かと確認の意図を込めて探るように名前を呼ぶも返事は貰えず、少しばかりの沈黙の後、その代わりみたいに楓さんは一度深呼吸をした。
「ううん、何でもない!」
胸に顔を埋めたまま頭を左右に振ってそう言うと、楓さんは勢いよく身体を起こす。
「それより東雲さん、きっと私のこと心配して来てくれたんでしょ? 適当なこと言ってその気持ちを無下にしたくないし、せっかくだからちゃんと話すよ。聞きたいこと、あるんでしょ?」
乱れた髪を手櫛で梳いて整えながら私に向き直して、改めるように楓さんは苦笑した。それが、私が今日ここへ来た理由を既に見通していた上で、今、それに応えようと覚悟を決めた瞬間であると、私は身勝手にもそう解釈した。
実際、そうしなければ状況は停滞して本来の話が出来ないままここの場所を去らねばならなくなるのだから。
腹をくくると、私も表情を引き締めて、楓さんの覚悟に応えるよう首肯した。そうしてゆっくりと口を開く。
「今日は櫻木クンの提案がきっかけで来たんだ。休み時間にクラスメイトから聞いた話では、楓さんが現状を利用して私――いや東雲さんから櫻木クンを横取りしようとしているということだった。けれど、櫻木クンが言うには、楓さんは自分に寄り添ってくれただけで、喫茶店で二人で話していたところを同じ学校の女子生徒が見てきっと誤解したんだ、と」
楓さんは私の話を聞くと薄く目を閉じて頷いた。それから再びゆっくりと目を開けて、あのね、と語り始める。
「私、自分で言うのもなんだけどバドミントン上手いんだ。部活で出場した大会じゃ負け知らずだし、トロフィーだって沢山持ってるんだよ。進路だって、それで推薦取ろうと思えば間違いなく取れたくらい」
「へえ、凄い」
感心してこっそり部屋を見渡しても、トロフィーは一つも見当たらなかった。リビングにでも飾っているのだろうか。
楓さんは続ける。
「浅野真衣ちゃんって、同じバドミントン部の子。スポーツ推薦でこの高校入ったんだって。真衣ちゃんはスポーツコースで、私は文理進学コースだからかな、大会で私の方が良い成績を残すといつも嫌なこと言ってきたり、あることないこと噂広められたりはずっとあったんだ。これまでは、みんな真衣ちゃんの言うことは話半分って感じだったけど、今回は写真があったでしょ。何枚か撮られてたみたいで、あの日私が奏芽の手を握った瞬間があったんだけど、それもばっちりあったんだよ。それが決め手だったのかは分かんないけど、みんな急に真衣ちゃんの話真剣に聞き始めてさ、これまでの嘘の噂も悪口も、全部本当のことになっちゃったみたい」
話しているうちに楓さんの唇は徐々に震えだして、私に向いていた視線も今や自分の足元の方へと落ちてしまった。ショートパンツの裾はギュッと握り込まれてシワが寄っており、拳と接する太ももの表面は強く圧迫されて赤く変色している。その腕も肩もわなわなと震えているように見えた。
その震えは悲しさ故かそれとも悔しさか、または怒りであろうか。きっと私が想像したどの感情も含まれているのだろう。そしてそれ以上の数の感情も、日本語には存在しないような感情も、楓さんすらも認知し得ない心があるに違いないのだ。思い出されるのは蹂躙された物たちと、楓さんにとってはその全ての日々。
そうだ、あれだけ乱雑に切られてしまっていた髪はどうなったかとふと思い浮かんだ疑問と今の彼女の髪型とが一致する。
ショートカットの訳は、勿論そこにあったのだ。
しかしこれに私が狼狽えてしまっては、その行為は楓さんの覚悟に泥を塗るのと同義である。あくまで私の役目は、楓さんの話を聞いて、櫻木クンにバトンを繋ぐことだ。
楓さんは一層強く拳を握って口を開いた。
「始めはね、ただのダル絡みだったんだよ。お似合いだとか、もっとがっつけだとか言われるのを笑って聞き流してたら、段々と、男については根性無しとか誑かしてるだけとか、何人も手駒にしてるだとか尾ヒレがついてさ、気が付いたら部活以外の女子もみんな敵になってて」
そこまで話して、楓さんは下を向いたまま何か思い出したように小さく声を零した。そして続ける。
「そういえば、私の持ち物も失くなり始めたんだ。最初は教科書とかノートが失くなって、ああこれは隠されたなぁって思ってたんだけど、結局エスカレートして、みんな私にノートがないなら筆記用具も使わないよねとか言って目の前でペンとか折られちゃって。しかもそれを見せつけるみたいに机の上に放り出すんだ。流石に私も怒っちゃってさ、見たくもないから退かしてって、自分たちで持って帰ってって。その後どうなったのかな、まさかみんな持って帰るわけ無いし、どこに捨てたんだろう」
早口で捲し立てると、楓さんはとうとう、両手で自分の髪を押さえた。
「私の髪、どうしちゃったんだろうね。東雲さん、知らない?」
眉をハの字に傾け、力んで痙攣した瞼に見開かれた瞳は揺れていた。眉間に皺も寄っており、その狂気じみた表情で楓さんは私の名を呼び、同時に私を見た。
想像はしていたことだが、狂った人間の形相とは実際に対峙すると心臓が縮むような痛みがするものだ。
「楓さんはバドミントン部を退部したんだってね。そういう一連の仕業があった時、既に部活には顔を出していなかったのかい」
楓さんが既に退部していたならば、自分の個人ロッカーに詰められた私物を見る機会はなくて当然のことだった。切り離され無惨にも押し固められた自分の分身を見る機会も。
楓さんは小さく、首を縦に振る。私は一呼吸を置いた。
「楓さんが探してるものは、全て部活の個人ロッカーにあったよ。丁寧にも、きっと貴女を嬲っただろう本人たちが案内してくれたんだ。不愉快の極みだけれど、報復の代理人面をしてね」
私が淡々と述べると、こちらを見たまま固まっていた楓さんの目からは静かに涙が溢れた。顔は紅く染まり、額には汗が流れ、息も荒い。深呼吸にも見えるが、吐かれる息は震えていた。
震えて掠れて、ほとんど嗚咽みたいな、声にならない声でそれをどうしたのかと尋ねられる。
「袋に詰めて柳先生に突き出すつもりだったけど、櫻木クンが渡せと言うから渡してきたよ」
そう答えた途端、楓さんは勢いよく顔を上げて私の肩を掴んだ。
「どうして奏芽に見せるのよっ! ありえないっ! やめてよっ!」
唾が飛ぶほど激しく叫ばれ身体を揺さぶられ、私は咄嗟に防御姿勢を取る。顔の前で両腕を交差させる私を見て、楓さんはハッとして距離を取った。
「ご、ごめんっ…なさい……」
掴まれて皺の寄ったシャツを直しながら、私は気にしなくていいよと楓さんを宥める。楓さんはベッドに寄り掛かって過呼吸気味になっていた為、そちらへ近づいてゆっくりと謝罪を繰り返しながら楓さんの背中をさすった。
しばらくそのままで、楓さんが落ち着きを取り戻すのを待っていた。十数分くらい楓さんを腕に抱きながらぼんやりと部屋を見渡して、その途中に、机と壁の間に折れ曲がったバドミントンラケットが転がっているのを見つけた。
ガットは切られ、曲がってエッジの立ったフレームはアルミ板が切断されて外側へと反り返っていた。グリップのテープは剥がされて所々引き伸ばされたみたいに縒れており、巻き直しがもう意味を成さないことは一目瞭然だ。テープが剥がされた事によって露呈した木材も、まるで岩に撲り付けたみたいに凸凹している。シャフト部分は折れてはいないが湾曲しており、全体の損傷具合からして、どのみち修復が効かないことなど、私のような素人目にも分かる。
腕の中で、楓さんが涙を拭う。気がつけば先程までの震えも随分と収まり、呼吸も正常に戻っていた。
「ごめん。迷惑かけたよね、東雲さん」
負い目を感じているのか、楓さんはこちらに顔を向けず下を向いたままもごもごとそう口にした。
「大丈夫、大丈夫だよ。辛い思いをさせてしまってごめんね」
何度かそんな感じの言葉を投げかけて、気がつけば楓さんを腕に抱いてから二十分程度が経過していたことに気が付いた。
「奏芽、それ見て怒ってたでしょ」
やはり下を向いたまま、どうせ復讐でも考えたんじゃないかなと付け加えて楓さんは掠れた笑みを零した。
部室で内容を見せた時の櫻木クンの反応を思い出す。怒りは勿論あったが、それよりもあの時の彼の反応は、寧ろ今の彼女に近かったのではなかろうか。悲しみや悔しさとか、まるで自分自身のことのように震えてはいなかっただろうか。私自身も何だか冷静ではなかったから彼の様子を鮮明に覚えているわけではないが、だがきっとそうだった。
「うん、とても怒っていたね。でもそれ以上に、悲しんでいたようにも私には見えたよ。彼はそういった言葉は一言も口にはしなかったけれどね」
楓さんはその言葉を聞いてゆっくりと顔を上げた。こちらを見たわけではない。だがその横顔はどんな言葉で形容すれば良いだろうか、私には分からない。悲しみ、喫驚、悔しさ、嬉しさ、それら全てを含む感情を私は確かに知っている。しかしそれを言い表す為の言葉を知らない。言葉というのは不完全なものだ。当て嵌めてしまえばその言葉が持つ意味それ以外を削ぎ落としてしまい、思考と行動との整合性を失くしてしまうのだから。
そういえば最近読んだ言語的思考に関する本にゲボーゲンハイト──Geborgenheit──というドイツ語が紹介されていた。直訳は出来ず、日本語で解釈するならば「安心」と似た意味を持つ単語なのだそうだ。しかしもっと深く、愛情や穏やかさ、平生や理性的対応とかなんだかそういう、「芯の自分」を掴んだ時の全ての感情が固着した安心感のような概念を指す言葉だそうで、楓さんの表情を無理やり表現しようものなら、そういう言葉を充てようと私は思う。
「あのね東雲さん」
楓さんはこの狭い部屋の中でどこか遠いところを見たまま、私に言葉を向けた。
「奏芽に伝えてくれて、ありがとう。私はきっと言えなかったと思うんだ」
自分の肩に回っている私の手に、楓さんはそっと掌を重ねた。とても熱い掌だった。
そしてやはり、楓さんはずっと不思議な表情をしている。先程述べたように、日本語的思考を行う私からすると理解に苦しむ表情で、だから何と返事をすれば良いか分からない。私は楓さんが何かを話しても、執拗に無言を貫かねばならなかった。
「ねえ東雲さん。貴女には奏芽の世界が見えてるの? 私はずっとそれが見たいと思ってる。だけど遠いんだよ、昔から、ずっと」
独り言ではなしに、きちんと私に語りかけてくる。
私に、とはどっちに対してだろうか。〈東雲海莉〉に対してか、それとも〈私〉に対してか。楓さんは今、視線を向けている先で、誰に話しかけているのだろう。
一度狂気に陥った者の思考言語は母国語を離れがちで、統合失調症とも似た状態となる。脳内意味ネットワークで、代表的なネットワーク指標であるスモーワールド性が減少し健常者よりもネットワーク構造が無秩序化されるためだ。
また、統合失調症と天才思考の間には相関性があると言われている。スイスの心理学者ブロイラーは、統合失調症の基本症状の一つに連合弛緩を挙げた。これは事象と事象との間の連合、つまり結びつきの思考が緩んでしまうことだ。しかしそれによって、逆に、本来結びつかないはずの事象同士に結びつきの思考が発生し、関連付けの思考をしてしまうといった現象が起きることがあるようだ。アイデアの作り方には「物同士の関連付けを行う」という基本的な思考プロセスがあるが、天才はこれを応用させ、微妙に異なる次元の物と物とを関連付けることが多々ある。
私が東雲海莉でないことの証明は出来ないが、私が自己意識を持っていることが確かである以上、私が私自身の存在を否定することも出来ない。これは所謂、デカルトの「我思う、故に我あり」に通づる考え方であり、こういった哲学的思想に像を見出すのもまた天才的思考の結果ではないだろうか。
さて、楓さんの放った〈東雲さん〉が指すのは〈私〉だろうか。それとも、楓さんが見ている遠い景色、その場所にはどこかへと消えてしまった〈東雲海莉〉が見えていて、楓さんが話しかけているのはそこに在る像なのだろうか。
何も見えない私には、やはり、何か返事を声に出すことは出来なかった。
またしばらく楓さんの不思議な雰囲気に見入っていたが、彼女が肩の力を抜くように小さく細く息を吐いて私を見た為、目の前の現実へと強制的に意識を向けさせられる。優しく笑いかける楓さんの表情は、今日私がこの部屋に入って最初に目にした表情と重なった。
そしてこの時、楓さんはこれまで一度だって私を見てはいなかったのだということに、初めて気が付いた。
楓さんはいつか、私を見ているようで櫻木クンを見ているのだと発言した。それがどういう意味なのかは分からないが、楓さんが見ていたのは常に私ではない何か、もしくは何処かであったのだと、私はふと思い至ったのだ。
楓さんは一度唾を飲み込んで、両手で自分の顔を軽く叩いた。それからよしと小さく意気込んで、やはり初めて、私の目を見つめた。そして、捲し立てた。
「私ね、奏芽が東雲さんのことを好きだって知った時は凄く落ち込んで、いっぱい泣いたんだよ。だけどいつからか、楽しそうに東雲さんと過ごす奏芽の背中を遠くから見る度、私も幸せに感じるようになってきたんだ。だからそれでいいやって、ずっと思ってた」
楓さんはかつての失恋を語った。話せば話すほど頬は紅潮し、緊張しているのか声も震えて目尻には涙が浮かんだ。
「なのに! 貴女が現れてから、奏芽は自然に笑わなくなった! 貴女が奏芽を不幸にしてるんじゃないかっていっぱい奏芽のこと心配したの! だけど…」
とうとう楓さんの頬を一筋二筋と雫が伝い、足元のラグマットには涙痕が浮かび上がった。それでも尚、彼女は私から目を離さず、瞬きもせず、大きな瞳を覆った涙で輝かせながら丁寧に言葉を重ねる。
「――だけどね、奏芽は貴女のこと、一番の理解者だと思ってるよ、きっと」
その発言に、私の頭には疑問符が浮かんだ。楓さんは切なそうな表情を浮かべると、私の疑問を汲み取ったのか、苦笑して言葉を述べ始めた。
「どういうことって顔してる、やっぱり。あのね、私さっき、二人は似てるねって言った。それはね、本当にそうなんだよ。奏芽が言ったんだ、精神と肉体の捉え方が貴女と自分は似てるんだって。楓は分かってないだろうから説明するねって。初めて知った考え方だったの。でも貴女はずっと、暗黙のうちから奏芽とそれを共有してた。話題の出し方だって同じだよ。同じ世界を見てるんだよ、きっと二人ともさ。だから今日もずっと、私には奏芽が傍に居てくれてるみたいで、辛いんだよ」
楓さんから吐き出された息は震えていたが、本心を言い切ったわけではなさそうだ。一度涙を拭って、彼女は腫れた目を再び私に向ける。私が見たのは、これまで以上に決意の宿る瞳だった。
「私、奏芽が好き。昔からずっと、そうなんだよ」
その告白にまるで私自身が答えを出さねばならないような空気感が漂って狼狽える。彼女は私が何か言うまで無言を決め込むような強い眼差しで私を捉えて放そうとしなかった。
同時に、私は彼女に対する虐めの空気を作り出したモノの存在を掴んだ気がした。楓さんが櫻木クンに想いを寄せているのだといった雰囲気は、長く時間を共にしていれば何となく伝わるものだったのだろう。浅野真衣という生徒は、そこに付け込んだのではないだろうか。
いっときの沈黙の後、楓さんは溜息を漏らした。
「ごめんね、東雲さんに言っても、仕方ないよね。分かってる、分かってるよ」
枯れた声で楓さんは自嘲気味に笑う。私は何を言うべきでもないのだと何となく察して、ただ楓さんの一連の表情や動作に注目していた。
「──全部、忘れてね」
最後にそう言って一筋涙を流し含羞む彼女。それでいいのかと尋ねるのは野暮だろうと思った。
彼女は立ち上がると、ベッドに膝立ちで上がってカーテンを開けた。窓の外には、丁度残照の淡い夕焼け空が広がっていた。住宅街の奥に構えた山の背は橙色に輝き、白い帯状の後光が刺して街の景色を霞ませている。飛び過ぎ去ってゆく鴉の群れが時々光を遮って、世界を瞬かせた。
突然紅い光が漏れ込むと、冷たく褪せた部屋は思い出したかのように色と温度を取り戻す。私は逆光でほとんどシルエットとなった楓さんの背中を見上げた。
「エンジェル・ラダーっていうんだっけ。綺麗だね、東雲さん」
楓さんが窓から外の景色を眺めて零す。これはただの後光だよと訂正したいが今はよそう。腰の横で脱力した彼女の手。指先は光を透いており、そこからゆっくりと景色に融けて消えてしまいそうな儚さを孕んでいる。それは幻想的で、美しかった。
「そうだね」
それからほんの数十秒の間に光の帯も山の後ろ側へ隠れてしまって、街はとうとう山の影に飲み込まれた。夕焼けの空だけが高い彩度を保ち、その圧倒的な存在感の下に街の空気は押し固められた。コンクリートは重く、人の歩みは遅い。音すら滅多に聞こえはしなかった。そうだ、気が付けば工事の音も完全に止んでいた。
「この後、どうするの?」
楓さんは心機一転した様子でピシャリとカーテンを閉めて私を見下ろした。膝立ちをやめてベッドに腰掛け、私に帰らなくても良いのかと尋ねる。
「勿論、そろそろお暇させてもらうさ。今日はどうもありがとう」
私は立ち上がってそう返事をするが、何だかそう直ぐにはこの場を後にし難いものだなと苦笑する。そんな私の様子を察したのか、彼女は静かに笑ってこちらに手を差し出した。その仕草に既視感を覚える。
「ありがとうはこっちのセリフだよー。またいつ会えるか分からないけど、次会った時も仲良くしてくれたら嬉しいな!」
「会えるか分からないというのは、次に顔を合わせたときには私が消えてしまっているかもしれないからかな」
楓さんの発言にそう誂いを重ねて反応を楽しもうと思ったが、彼女は意外にも大人びた表情を浮かべて腰を上げた。私は一歩後ずさりする。
「それは深読みし過ぎかな」
穏やかな表情で私の手を掴んで両手で握ると、楓さんは再び口を開いた。
「きっとまた会おうね。奏芽にもよろしく!」
そうだ玄関まで送るよと、楓さんは私の返事を待たずして扉を開ける。
どうやら感情の起伏が激しい人物だなと今更ながら私は驚いて、楓さんの後ろに続いて部屋を出た。階段を降りてリビングの前を過ぎる瞬間、最初に私を出迎えてくれた女性と目が合う。ソファに腰掛けたままこちらを凝視した女性は目を大きく見開いて両手で口を抑え、身体を震わせている。
どうかしたのだろうかと心配したが、次の瞬間、私は女性の様子のわけを彼女、楓さんの口から知らされる。
「この扉を開くのが、三歩目だよ!」
自慢げに私に笑いかける楓さんの震えた膝を見て、ああそうか、学校に来なくなってから一ヶ月間、彼女はあの冷たい部屋に籠もっていたのだと察する。同時に、彼女がここ数十分の間に一気に歩数を重ねていたことも。
一歩目は、外の世界を見ること。カーテンを開いて、実際に広がった世界に意識を飛ばすこと。
二歩目は、自室から外へと踏み出すこと。自分以外の存在や目に見えない空間を意識して呼吸する事の恐ろしさを受け入れ、対峙すること。
カチャリと押し開かれた扉の向こうは既に薄暗く、街灯の明かりがぼんやりと周辺の景色を浮かび上がらせている。昼間と比べて随分と冷えた街の空気が肌の表面をじんわりと覆ってゆく。
「…日が沈んだ後で良かった。ちょっと寒いけど、丁度いいや」
空を見上げて零す楓さんの声は抑揚のある可愛らしいものだったけれど、明るさの中に僅かな寂しさが混じっているように聞こえた。
三歩目は、靴を履いて玄関の扉を潜ること。この広い世界の中に己の存在を晒して、生きていることの恐怖に自分自身が混じり合ってゆくこと。
こういった歩数は、彼女が開眼して改めてこの世界に向き合う為に必要な長い旅だった。言うなれば、楓さんにとって部屋に籠もっていた時間は、完全変態する生物の蛹期間のようなものであって、自分の中で世界を再構築するための準備期間だったのだ。それから蛹の皮を破り羽を伸ばして乾燥させる、その過程こそが彼女にとっての歩数だった。
一旦世俗から距離を置き、デカルト的思考体系で生じる世界の中に意識を移して過去と現在を客観視することにより、これまで自が呼吸してきた世界は何者かに与えられるあくまで他人のものであったという意識が芽生える。謂わば精神の独立、自己の創設、既存世界からの離脱。それはフロイトが唱えたエディプス・コンプレックスの克服とも言えようか。この場合、社会的事象を家庭主義的にカテゴライズしていると批判した、フロイトの弟子ラカンの解釈がふさわしい。
父親殺しのオイディプス。その本質は母親に性的欲情を持って父親に強い敵意を示す彼の人生を描いた物語ではなく、それが揶揄する事柄ではないだろうか。すなわち、ラカンの批判に準えば、父親──己よりも上位に位置する人物や権威──から与えられた世界観の中で生きているうちに芽生え始めた自己が、己の中から生じる世界で生きていこうと葛藤し、父親による世界の殻を破ろうと働く。
社会には父親の変わりをする要素がありふれていて、私たちは最初、そういう様々なものから与えられた世界の中で生きることを無自覚に強いられる。しかしある段階でモラトリアム人間となって、その期間、私たちは社会への同化を拒みながら自己の世界を構築し始める。父親殺しならぬ、過去殺し。強要された世界観の破壊と、自分の内側から生じた世界の誇示。それが社会と同化するための必須条件である。
本来、モラトリアム人間は自己の成長に伴って内面から生まれてくるものである。それ故に、人々はゆっくりと、丁寧に世界の再構築に成功してゆく。しかし彼女はそこに他者からの強烈な介入を受け、それを乱雑にかき乱されてしまった。もしかしたら、彼女の世界は再構築の過程でぐちゃぐちゃに破壊されて、もう二度と発現しなかったかもしれない。既存世界も、デカルト的思考体系の上に生じる世界も破壊され、彼女の世界は未来永劫この世から失われてしまっていたかもしれない。
だが、楓さんは世界の再構築に成功した。つまり、エディプス・コンプレックスを克服した。
そして彼女は気付く。引き続き自分が生きてゆかねばならない世界は、ほとんど全体的に、物事の基準が常に変化を続け同時に相対性を生み出すという、不確定要素で構成されているのだということに。
「楓…!」
背後から感極まったような声が轟いて、二人してその声のした方へ振り返ると、今しがたリビングで震えていた女性がそこには立っていた。
「お母さん…」
彼女はその女性を母と呼称して、少しばかり居心地悪そうに視線を泳がせた。娘の顔を見ないで過ごした一ヶ月間を想像して、私は母娘の再会を邪魔するわけにはと思い至る。
「また何らかの形で連絡を寄越すよ、楓さん。私はこれで失礼するね」
玄関を出て、お邪魔しましたと一応彼女の母親にも挨拶してから背を向ける。
こんな、たった数時間の出来事で元の彼女を取り戻せはしない。いや、きっともう二度と以前の彼女が戻ってくることはないだろうと思う。自我の再構築を得て一度感覚に焼き付けた世界は、元の世界とよく似て錯覚することはあれど、それとは似て非なるものであり、崩れはしないものだ。それこそ、記憶喪失にでもならない限り。
しかし新しく見えるようになった悲しく曖昧な世界で生きてゆくのが一概に悪いことだとは言えないと私は思う。曖昧なものであるから、それがその時々の自分にとって良いものであるか悪いものであるかすらもはや自らの手中に収まったことである。楓さんの世界は美しくあるだろうか。
さて、空の色も随分と深まってきた。楓さんはもうほとんど大丈夫だろうが、結局虐めの件はどうしようか。今日聞いた事を櫻木クンに話して、バドミントン部の顧問である柳先生に話を通すという話はしっかりと覚えている。
そうだ、櫻木クンだ。蹂躙された楓さんの私物を目の当たりにしてからというもの、彼の様子はどこか不自然だった。幼馴染があんな状況に陥ってしまったことを知って情緒が乱れるのは自然なことだが、まるで本人の意とは関係のないところで衝動が湧いていたような妙な雰囲気。いつもなら静かに物を言う彼の言葉はあの時は刺々しくて、妙に私の記憶の浅いところに焼き付いていた。
そこまで考えてふと立ち止まる。まだ後ろの方で母娘の話し声が聞こえる距離だった。
「――はて、そんな様子だったのは彼の方だったか」
そう小さく声に出したところで膝の力が抜ける。ガクンと視点が下がって平衡感覚がくるりと一転すると、私は眠りに落ちたように身体の自由を失った。所謂金縛り状態に陥ったのだと認識しながら暗転してゆく景色に意識を落とし込み、とうとう身体が地面にへたり込む寸前、私は堕ちた。
それはきっと、刹那の出来事だった。
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